しきたり…って?(平成23年度1月)平成24年1月

新年明けましておめでとうございます。昨年末に清水寺で行われた「今年の漢字」はご存知の通り『絆』でした。東日本大震災や台風被害によりあらためて感じる事ができた“家族の絆”、支援する“人の心と心の絆”、また、昨年の国内10大ニュース3位にあげられた女子サッカーWカップで優勝に導いた「なでしこジャパン」の“チームワークの絆”等、誰もが納得する理由が挙げられました。これは、昨年限りではなくいついつまでも忘れる事なく、今年…またその次の年…そしてまたその次の年へと繋いでいくべき素晴らしい一文字だと思います。そんな事を思いながら、昨年末から新しく始まるこの一年を心静かに迎えました。今年一年もどうぞ宜しくお願いします。

さて、皆さんは初詣に出かけられましたか?我が家は必ず毎年元旦に家族揃ってお参りします。境内に上がり家内安全の御祈祷をしていただいた時の事です。畳を歩く娘達の足元に目が行きました。畳の縁を踏み、さらに、並べてある座布団を何気なく踏んで座ったのです。きっと娘達は知らず知らずのうちにそうしたのでしょう。お恥ずかしい話、今まで私もそんな事にも気付いてやれなかったのですが、そろそろ“大人”になったなという我が子を見る目が変わって来たせいでしょうか、最近いろんな場面でいわゆる“マナー”について話してやる事が増えてきたのです。そんな事もあって、境内での娘達の振る舞いには物申したくなりました。小さな声で「畳の縁は踏まないんだよ。」「座布団も踏まないの!」と伝えましたが、「どうして?」ときょとんとしていました。「いろんな人がどうしているかを見ていてごらん。」と言って、しばらく一緒にたくさんの参拝客の足元をさりげなく見ていました。すると、年配の方は殆んどが畳の縁を踏まずに歩いておられましたし、座布団を踏む等もありませんでした。その逆で、若い人の多くは悪気もなく踏んでいました。

畳の縁も座布団も踏まないという日本人特有のしきたり(マナー)には、それぞれに意味や理由があるのです。床下に隠れた忍びの者が畳の縁の隙間から漏れる明かりで、刀を床下から刺し命を取られる事がないようにという戒めだったり、畳の縁には、模様として家紋を入れることもあるので、それを踏むという事は無礼になるという事もあるようで、この理由を聞かせてやると、娘達は「なるほど」と納得しました。また、座布団には客を大切にもてなすという意味があり、それを踏むということは、もてなしの心を踏みにじることにもなるからです。日本の住宅事情も変わり、畳の生活からフローリングの生活に変わってきた現代、実際なかなかそんな事を話してやる機会がなくなってきたのかもしれません。もう“古臭いしきたり”なのかもしれません。しかし、人は皆いろんな形で共同生活を送っています。お互いに良い関係を保つために必要な気持ちを形に表したものが“しきたり”や“マナー”なのです。面倒臭いと思われがちですが、そもそもの意味を知れば、相手への心配りとして当然の事だと納得できます。しきたりに縛られる事はないと思いますが、その年齢にあったマナーはあると思います。例えば、人の家に遊びに行った時に靴をきちんと脱いで揃えるとか、食事の食べ方、挨拶の仕方等、これは、いつの時代になっても変わる事のない当たり前の“マナー”で、そのマナーの裏にある「心」を子供達には教えてやらなければいけないのだと思います。色々な事が簡略化・合理化されてきている世の中でこういった事までそうしてしまうのは、「心」が置き去りになりそこに生まれるはずの人と人との良い関係が築かれなくなってしまう危険があるような気がします。しかし、私達世代の大人も、もう一世代前の方にとっては、無知で無作法な事をたくさんしているのでしょう。私自身も昔から言い継がれているしきたりの意味をもう一度学び、子供達に伝えてやりたいと思います。 

幼稚園では年長組が、毎月一度お茶のお稽古をしています。ある年長組のお父さんが、「うちの息子と、あるお茶会に行ったら、懐紙を上手に使って口を覆ってお菓子を食べて、茶碗もくるっと向きを変えて(正面を避けて)飲んでいたのにびっくりしました。」と話してくださいました。お茶のお稽古は、ただ単にお菓子やお茶の頂き方を習っているのではなく、お茶碗を大切にする事や口を覆ってお菓子を頂く意味やそこでの一つひとつの挨拶等、その作法の中に見え隠れする「相手を思いやる心」や「大切に思う心」を学ぶ一つの入口にもなっているような気がします。

家庭から受け継がれていくマナーやしきたり…それは、一生涯人とコミュニケーションを取らずには生きられない子供達の最低学ぶべき最高の教育ではないかと思います。

特にお正月には、このような日本人特有のものにたくさん出会えます。お節料理やお年玉の意味、お客様への心配り、逆に訪問する時のマナー等、堅苦しい様ですが色んなしきたりのその行為と心を知れば結構おもしろいのです。なかなかそうできなくても、(何となくそうしてはいけないような気がする)(何となくこうした方が良いような気がする)(この方が気持ちよかったり喜んでもらえるような気がする)…こんな気持ちになるだけでも素晴らしい事だと思います。そう思えることが、相手を大切に思うことに繋がっているのですから。

神聖なる場所(平成23年度12月)

暑い夏に木陰をつくり子供達の身体を優しく包んでくれた園庭の木々の葉が冷たい風に舞い落ちる季節になりました。イチョウの木の下は黄色い絨毯(じゅうたん)のようにも見えるほどです。葉が落ちた木々を見上げると少し寂しくなりますが、春の準備を始めているのだと思うと、この趣もなかなかいいものです。

そう思いながら、朝の園庭にいると年長組の保育室から、鍵盤ハーモニカの音が聴こえてきました。よく聴いてみると12月に行われる“フロアーコンサート(音楽発表会)”で年長組が演奏する曲でした。出来ないから練習しているのでも、先生からしなさいと言われたからでもなく、何人かの友達で集まって弾いて遊んでいるのです。これまでにしてきた楽器別・パート別の練習があそびになっていました。きっかけは、“フロアーコンサート”に向けての、先生の指導だったけれど、それから自分達でどんどんモチベーションをあげ、自然に「もっと上手になりたい」「もっと弾いて楽しみたい」と思うようになってきます。そうしながら、子供達はどんどん技術を磨き挑戦する事を楽しみながら上達していきます。そんな何日かを過ごし、いよいよ先日からホールで合奏の練習を始めました。年中組・年長組は合奏、年少組はお遊戯を発表します。これまでに、フロアーコンサートを経験している子供達も、今年初めて経験する子供達も、ホールのステージでの練習はとても楽しみにしていたようです。それもそのはず、先生達が、ホールに行って練習する事をもったいぶって話すからです。「キラキラステージで踊れるよ」とか「ホールで大きな楽器を使って合わせてみるのが楽しみだね」等と、毎日の練習が楽しみになるように話します。また、「頑張って練習して、ステージで演奏しようね。」と話す事によって“ホールに行くこと”が目標になるのです。それからは、子供達の意識の中で“いつものホール”が“憧れのホール”に変わります。早くホールのステージで踊りたい!演奏したい!とウズウズしてくるのです。

ある年少組の男の子が、ホールでの練習を明日に控えた日、降園前に、先生から「明日は、いよいよホールのキラキラステージで踊るから楽しみに幼稚園に来てね」と言われ、家に帰ってからもその事を嬉しそうに母親に話し、翌朝も楽しみに幼稚園に来たそうです。その子は、やっと行く事ができた“憧れのホール”のステージで笑顔いっぱい嬉しそうに踊っていました。年中組・年長組もまた、ホールに入って来る時の顔つきがいつもと違っていました。普段は、お誕生会でにぎやかに楽しく過ごすホールが、“憧れのホール”で、“神聖な場所”になっているのです。だから、そのつもりでホールに集まる子供達は、いつもと少し違い、整然と並び、静かに歩いてやってきます。そして、練習のスタンバイをします。

ホールに行く時の心構えや、挑戦しようとするいい緊張感が子供達の心に宿ります。子供達はこの空気を楽しみます。私は、たとえ幼い子供であっても、今この場所はどんな場所か、自分がどうしないといけない場所なのかが分かり、そのように振る舞えるようになってほしいと思います。いつもいつも同じ空気、同じ気持ち、同じ自分ではなくて、その場に応じて自分の気持ちを切り替えられる子になってほしいと思うのです。その空気の中だからこそ味わえる喜びや楽しみや感動があるのです。この空気こそが子供達にとって“神聖な場所”なのです。そんな場所をつくってやることは大切です。

“神聖な場所”を楽しめるのは素敵な事だと思います。

戸外あそびで大はしゃぎをした気持ちのままがどこでも通用するかといえば、そうではありません。小さな子供だから仕方がない…ではないのです。年長組の子供達が毎月一回行っているお茶会でも、5歳6歳の子が席入りをする顔つきは、いつもと違い神妙な面持ちです。それだからと言って苦痛なのではなく、みんなその神聖な空気を楽しんでいます。そこに身を置く気持ちをどのように切り替えればいいのかを分かっているからです。ここはどんな所か、ここではどんな事がありどう行動するべきなのか、どうする事が周りの人にとっても自分にとっても良いのかということを話してやれば、ちゃんと分かって行動できるのです。それは、その子にとって賢い人になる一歩につながると思います。

これまで、保育室で練習してきた事をこの”神聖なるホール“で、力いっぱい出し切る事を夢見て頑張ろうとすることができる子供達はすごいと思います。”神聖なる“…なんて大げさかもしれませんが、小さな子供達にとっては、幼稚園のホールでさえ、やり方や考え方次第では、大切な場所としてひとつの目標にする事ができるのです。

本番のフロアーコンサートでは、ステージに立つ子供達がそんな気持ちで臨む姿を、きっと頼もしく思っていただけるのではないかと思います。どうぞ、楽しみにしていてください。

やるときゃやる!!そんな子供達を応援してやってください。

“神聖なるホール”に響き渡る大喝采は、子供達をまた一回り成長させてくれる事でしょう。

気持ちに気付く(平成23年度11月)

この10月は、私達の周りで様々な秋の行事がありました。町のあちらこちらでも、華やかな神輿(みこし)をかつぐ声や鐘の音が賑やかな秋祭り、学校や町の人達による文化祭、そして幼稚園でも秋季大運動会から始まり、イモ掘りや秋の遠足、また、先日は保育参観「ちゅうおう祭」を行いました。実りの秋・芸術の秋・~の秋…と色々な事を言いますが、それらの楽しみや喜びを味わうには大変良い時節です。

幼稚園の遠足には私も全学年の引率をしました。春の遠足の事を思い出しこの半年間の子供達の成長を実感しました。子供達にとって集団生活の中での半年はとても大きな時間である事がわかります。密に関わりを持ちながら生活をして行きますから、楽しい事も悲しい事も経験します。友達との関わりでも色々な事が起こります。それらを通して、子供達は少しずつ大人になる準備をして行くのです。

先日、こんな場面に出会いました。年長組での昼食時、子供達と一緒に食べようと保育室に行った時の事です。お当番の子二人が自分の昼食の準備をした後、前に出て「いただきます」の挨拶をしていました。他の子供達はお当番の号令に合わせて食べる準備を進めます。その間、お当番の子のお弁当やコップや椅子を隣の子がきちんと整えたり、席に戻った時にすぐに食べられるように、準備をしてあげたりしていました。それはとても自然な優しさに見えました。クラスの中でそうしてあげる事がルールになっているわけでもなさそうでした。私はその後もお当番の子とその隣の席の子を見ていました。挨拶を終えて、席に戻ったお当番の子は、自分が準備した時よりもお弁当やコップがきれいに整えてあるのに気付き、「わー、誰がしてくれた?ありがとうね」と周りの子を見ました。すると、隣の女の子が「うん」と一言言い、にっこり微笑みを交わしたのです。特にそれが大きな話題にもなるわけでもなく、そこには、柔らかな空気がほんの一瞬漂っただけでした。私もあえて「ちいちゃん優しいんだね」と声をかけませんでした。二人の間では、ちいちゃんの気持ちは十分に伝わっていたのですから…。また、その子にとっても、その行為は極々自然な気持ちのままだったからです。「やってあげた」という得意な意識を持っていた訳ではなさそうでした。多分、いつか誰かにそうしてもらった事があって、その時に嬉しかったりありがたかったりした経験がその子の心を動かしているのでしょう。相手の子の「ありがとうね」と喜んで言ってくれた一言でまた二人のいい関係が繋がっていくのです。

我が家の娘が小学校の時の事です。私はいつも、学校から帰る娘のスリッパをすぐはけるように玄関に並べて仕事に出かけていました。すると、ある日の夕食の時、「玄関のドアを開けた時、自分のスリッパが自分の方に並べて置いてあったら、お母さんがいなくても、おかえり!って言ってくれてるような気がして嬉しい。」と言いました。そんなふうに思ってくれていたんだと知って嬉しかったし、そうしてやっていて良かったなぁと思いました。なんでもない事ですが、私の気持ちは伝わっていたのです。

人は皆、相手の気持ちに気付いたり気付かれたりしながら、いい関係をつくっていきます。「ありがとう」はそのための美しい言葉だと思います。気付いて欲しくて優しくしている訳ではないのですが、だけど、された側はその気持ちに気付かないと…、当たり前の事として通り過ぎてしまい、次は自分もそうしてあげようと思う子にならないのではないでしょうか。

親子の間には、親から子へ向ける「優しさ」があります。手を差し伸べたり、言葉をかけたりする「優しさ」がいつの間にか、子供にとって無感動な“当たり前の事”になっているかもしれません。特に、幼い時にはなかなかそれを親から自分への「優しさ」だと気付く事はできません。親子とはそんなものなのかもしれませんが、何かの時に「お父さんって…お母さんって優しいね」と気付かせてやる事はお父さんやお母さんの愛情に気付く事になります。

また、逆に子供達からの「優しさ」にも、気が付いてやって欲しいと思います。「ありがとう。嬉しいよ。」「ありがとう。気持ちいいね。」と、どんな気持ちがしたかを伝えてやってほしいのです。自分がしてあげた行為で、相手がどんな気持ちになったのかを知る事で、喜びを感じさせてやってください。子供がしてくれる事は、ほんのささやかな事かもしれません。しかし、ちょっとした事でも人を嬉しくさせたり、楽しくさせたり、元気にさせたりするものなのだという事を小さな頃から実感させてやって欲しいと思います。それは、そのまま子供の世界でも、したりされたり…気付いたり気付かれたりのやりとりができるようになれば、集団の中でもみんなといい関係をつくっていける子供になってくれるような気がします。「ありがとう」の言葉や気持ちが飛び交うような世界ができるといいなと思います。

これは、子供と子供、親子の間の事だけではなく、夫婦の間でも言える事かも……ですね。

ドキッ!…それが、なかなか難しい…。

一瞬の経験の行方(平成23年度10月)

すっかり秋らしくなってきました。空の色、風の匂い、鳥や虫の声…色々な変化がこれまでと違う空気を感じさせてくれます。

黄金色の稲穂は秋の風にゆっくりと揺れ、毎年忘れずに私達の目を楽しませてくれるコスモスの花が道端に咲き始めました。私の大好きな季節です。

今月の初めに年長組が稲刈りを経験しました。5月に自分達で植えた苗が見事な黄金色の稲に姿を変えました。年長組の田植えは今年で9回、稲刈りは7回目です。2回は稲刈りを見送りました。幼稚園の子供達に慣れない刃物を持たせて稲刈りをさせる勇気が私達になかったからです。最後の収穫までを経験させたいのにさせてやれないジレンマや、なぜその後経験させる事になったかという経緯は、幼稚園のホームページ『葉子先生の部屋』平成18年の10月版「あぶないあぶないがもっと危ない」を読んでみてください。

私は、子供達が稲を刈る時の嬉しそうな顔を見ると、させてやれなかった数年間の事をいつも残念に思います。鎌は普段使う事のない刃物で、もしかしたらその時初めて見る子もいたでしょう。子供達は、その鎌の使い方や刈り方の説明にじっと聞き入っていました。子供達の中には、「やりたくない」とか「できない」と尻込みをする子は一人もいませんでした。した事のない経験には興味があるからです。ましてや、自分が植えて育った苗ですから、ぜひ自分の手で刈りたいと思うでしょう。ひとり3株の稲穂を刈りました。初めの1株は、傍で付き添う先生も子供も緊張した面持ちでした。だけど、その“緊張”も危険な物を扱う時にはとても必要な時間なのです。そして、2株3株と刈って行くうちに、子供達はいかに安全に刃物を使って刈る事ができるか…と思案し要領をつかんできます。子供達はひょっとすると大人より飲み込みが早いのかもしれません。刈り取った稲を持ちあげる子供達の顔は喜びと自信で溢れていました。毎日食べるご飯の正体を知った事にも大きな意味があったでしょう。

その日、稲を何本か新聞紙にくるんで、一人ひとりに持ち帰らせました。お迎えに来られたお母さんに「これ!」と見せる時の得意気な顔はとても可愛く思えました。それから、何人ものお母さん方に、「先生、これはどうしたらいいんでしょう?」と尋ねられました。たった数本の稲ですから、お家でも思案された事でしょう。その翌日のお昼、職員室にある男の子が、「失礼します!」とやって来ました。その子の手には、一つのおにぎりがありました。「これ、昨日のお米でお母さんが作ってくれたんよ」と言うのです。「えーっ!!どうやってお米にしたの?」と聞くと、「お母さんが剥いてくれた。」と言うのです。そして、また翌日にその子のお母さんに直接聞いてみると、「夜なべをして剥いたんです。折角子供が喜んで刈ってきてくれたんだから…と思って。」とニコニコと笑いながら話してくださいました。一粒一粒手で剥くなんて、そう簡単な事ではありません。大量ですと、昔の米つきの方法で、一升瓶と棒を使ってもみ殻をとる事もできますが、少量だとそれもできません。さぞかし、時間をかけられた事だろうと思いました。しかし、その時のお母さんの中には、我が子がとびきりいい顔で刈った様子を想像したり、得意気に持って帰ってくれた気持ちに応えたいという想いがあったりして、きっとそれは、我が子との居合わせずともできる共通体験をされたのではないかと思います。

また、数日後ある年長組の保護者の方から手紙をいただきました。そこには、稲刈りを経験して持って帰った稲穂からもみ殻を子供達と一緒に剥き、玄米で姉弟と分けて食べた事、玄米に魅せられて家でのご飯も玄米にして欲しいとリクエストが出た事、食べられる事のありがたさや食べ物や作ってくださった方々への感謝の気持ちを育てていきたいと思った……等々が書かれてありました。

なんて素敵なお母さん方でしょう。その他にも、子供達が持ち帰った稲穂を飾り、稲刈りの一日の話を家族で聞いたり、稲穂が揺れる田んぼを見ながら思い出し色んな話をしてくださったりした事でしょう。そうしてもらえた子供達はなんて幸せだろうかと嬉しくなりました。子供達がした楽しい経験を共に喜んだり感激したり考え合ったりしてやって欲しいのです。共感しながら、その時の喜びや感動を確かなものにしてやって欲しいのです。子供達が経験するその時は一瞬です。一瞬の感動が一瞬のうちに消えてしまうか、その感動を更に深く確かなものに、そして、その一瞬の感動がその子にとって生きる土台となる大きなきっかけになるかは、子供達がした経験をいかに大切に育ててやれるかだと思います。子供達が経験した事がそれっきりにならないように……、やりっぱなしではなく、経験を繋いでやってほしいと思うのです。そうすれば、子供達はもっと生活の中で色んな経験をする事を楽しみにしてくれるでしょう。好奇心も育つでしょう。子供達は好奇心のかたまりです。まだまだ子供達はいろんな事に興味を持って挑戦して生きていきます。私達大人は、その気持ちの高ぶりをいつも応援してやりたいものです。

それからしばらくして、子供達が刈ったお米を精米し幼稚園に届けました。そのお米でおにぎり作りをしました。自分達で握って作ったおにぎりは最高の味だったに違いありません。

笑顔

長い夏休みが終わりました。こんがりと陽に焼けた顔と背中の水着の跡で、楽しかった夏の思い出がうかがえます。今年の夏は格別に暑く、熱中症のニュースが毎日聞かれました。

そんな中、ずっと心から離れなかった事…東日本大震災の被災地と被災された方々の事です。あの大地震から6ヶ月が経とうとしています。当時は不安と寒さに震える被災者の事を思い胸を痛めましたが、今は真逆です。原発事故により節電を余儀なくされ、仮設住宅で暑さに耐えておられる多くの方々の姿が報道されます。私達が想像するに余りある大変な生活を送っておられます。しかし、今は被災地の人達は、一生懸命前を見て復興に向けて頑張っておられます。「もう振り返ってはいられない!前を向いて!前を向いて!」という底力を感じさせられます。この震災により、各地での様々なイベントが自粛ムードになりました。しかし、今は、自分達が出来る事は何だろう?とそれぞれの人が考え、被災地を励ます活動がいろいろと行われています。お盆前には、うつむいてばかりではなくみんなで上を見上げて生きて行こう!と花火が打ち上げられたそうです。「心傷ついた人の一瞬の笑顔のために…」という主催者の言葉が聞かれました。各地からたくさんの人達がその地を訪れ、同じように、「笑顔になってもらえるように…」「その時の笑顔が明日への一歩になれば…」という気持ちで支援活動をされているのです。

笑顔は当たり前にできるものだと思っているけれど、どんなに尊くありがたいものかを幸せであればある程私達は忘れがちです。実は悲しかったり苦しかったりする時こそ、笑顔が必要なのかもしれません。そう思えば、子供達の笑顔は宝です。子供達は、楽しい時や嬉しい時に自然と笑顔を見せてくれます。気持ちが沈んでいる時に子供達のそんな笑顔に救われたり励まされたり元気をもらったりする事がありませんか?何があっても子供達が傍で笑ってくれていると、この笑顔を失いたくないし、失わせたくない!と力が湧いてきます。

甲子園球場では、全国高校野球選手権大会が行われました。高校球児達の雄姿には毎年心を打たれます。苦しい場面でこそ、選手の気持ちが沈まないようにと声を出し合ったり、笑顔で励まし合ったりする姿がたくさん見られ、とても爽やかな気持ちになりました。特に、東北勢の選手達が笑顔で頑張るその姿は被災地の人にとって、大きな力となりました。その笑顔によって周りの誰にも、前向きな気持ちが湧いてくるのです。「元気をもらいました。ありがとう!くよくよしていても始まらない。私達も頑張ります。」「前向きな気持ちになれそうです。」という言葉がたくさん報道の中で聞かれました。

日々の生活においても、「この子の笑顔のためなら!」と親は一生懸命子育てをしています。「笑顔が見たいから」と子供達と向き合います。その事によって、みんなが幸せになるのです。そして、子供達もまた、お父さんやお母さんからの笑顔を期待している事も忘れないでください。子供は自分に向けられた笑顔によって安心したり喜んだりします。「お母さん!見て!見て!」と嬉しい事があったり、感動した事があったりすると、共感してほしくて大人を呼ぶ事があります。そんな時に笑顔で応えてやるのと無表情で見るのとでは、子供のその後の反応が大きく違ってきます。笑顔で応えてやると、もっともっと積極的にその事に取り組めたり探求したりしようとします。逆に期待通りの反応がもらえなかったら、子供はそれから次に踏み出す気持ちになれなくなってしまうのです。反応に表情がなかったり、険しい顔だったりすると、この人が何を考えどのように思っているのかが伝わって来ませんが、それが『笑顔』であれば、そこには嬉しい・楽しい・共感・受容等のプラスの感情が伝わって来ます。『笑顔』には、言葉では伝えきれない“感情の伝達力”があるような気がします。笑顔になると、自分も相手も楽しくなります。そして、周りの空気も明るくなります。そして、そこから前に踏み出す元気や勇気や意欲を与えられるのです。


この夏休みには、東日本大震災の特集や終戦66年の報道がたくさん見られました、この国や町そして人の気持ちの復興を支えているものは、“『笑顔』を再び!”と思う強い願いだという事を痛烈に感じました。全国高校野球選手権大会では、ピンチになる度にピッチャーを取り囲む球児らの顔には必ず『笑顔』が見られました。苦しいはずのその場面で共に励まし合うのです。そこには、壊れそうな崩れそうな気持ちを奮起させてくれるエネルギーが起こります。また、固まりそうな気持ちをほぐしリラックスさせてくれる優しいエネルギーがその場を包んでくれます。『笑顔』は楽しかったり嬉しかったりする時に自然に出る表情だけれど、逆に元気になるために…周りの『笑顔』を誘うために『笑顔』を見せる事も大切なのだという事を感じたのです。私達大人も毎日元気で優しい笑顔を子供達に向けていく事が、将来の子供達の豊かな心を育てていくのです。

さて、この2学期もたくさんの子供達がいろいろな『笑顔』を見せてくれる事でしょう。その『笑顔』に感謝しながら皆が心も身体も元気でいたいものです。