遊びの天才は、片づけの天才!(平成24年度7月)

6月になり、衣替えと同時にプールあそびが始まりました。いよいよ夏到来です!天気の良い日は朝から外あそびが盛んで、保育室の中には、ほとんど子供がいません。靴を濡らしながら小川のアメンボを捕まえようとする子、さっき着替えたばかりの体操服や手足を泥だらけにしながら泥だんごを作っている子、汗をいっぱいかきながらサッカーをして遊ぶ子等、春の頃の子供達のあそび方やその様子とは随分違ってダイナミックに遊べるようになってきたのがよくわかります。子供同士の繋がりが深まってきたせいでしょうが、やはり夏は子供達にとって魅力あふれるあそびが思いっきりできる季節だからでしょう。水・土・空・生きもの……これらの全てが、子供達のあそびの味方になってくれます。そして、開放感を味わい心を解きほぐします。思いっきり遊ぶので、帰りの園バスの中やお家の方のお迎えを待つ保育室では、コックンコックンと眠ってしまう子が増えるのもこの頃です。いっぱい遊んでいっぱい笑って……そして居眠りしている子供達の姿がとても無邪気で可愛いです。

プールも天気の良い日は毎日入ります。それまでは静かに控えていたプールが一気に夏の主役に躍り出た感じです。水着の入ったプール袋を持って来た子は、得意そうに、「今日はプールに入れるんだよ!」と見せてくれます。しかし、その日体調が悪い子達は、水着も持って来ないので、プールには入りません。ですが、その子達もプールの時間は園庭でたっぷり遊びます。担任の先生は、プールあそびに行きますが、そんな子供達は他の先生や友達と遊びます。それはそれで楽しそうです。私もその子達と遊ぶ事があります。

年長組のプールあそびの時の事です。何人かが集まって、砂場で何やら必死に穴を掘ったり、水を入れたりしていました。「何をしているの?」と聞くと「温泉を造ってるんだ!」と言いました。「葉子先生もしていいよ。」と誘ってくれたので、一緒に遊ぶ事にしました。どうやら、山のてっぺんから温泉が湧き出て、山の尾根を流れ下の大きな池の中に熱い湯が溜まるという設定らしく、山を作る子と穴を掘る子とに分かれていました。その中には、現場監督らしき子もいて、「おーい!水が足りない!汲んできて!」「そこじゃあないよ!ここに水を流して!」と指示を出します。「じゃあ、俺は、こっちをするよ」「もっと深く掘ろうや」「しっかり固めないと!」とスコップやバケツを持って、それはそれは、工事現場さながらの様子でした。その威勢の良さと子供達の目の輝きに誘われるように、私も毎日砂場で遊びました。しかし、砂場は、その子達だけが遊んでいるわけではないので、いい感じに出来て来ても、次の日に行ってみると壊れている事もあるのです。それを修理(?)しながら、毎日その温泉づくりは続きました。掘っていく内には、埋まっていた砂場の道具が出てきたり、頭上の藤棚の葉っぱや枝が埋まっていて、それを見つけるたびに「あっ!!宝が出てきたぞ~」と盛り上がります。

そんな様子を見ていくうちに、自然に、子供達の中で役割分担ができているのに気がつきました。“山造りチーム”の中でも、現場監督さんをはじめ、砂を高く盛りあげていく子・スコップの背で叩いて固める子・尾根を作る子…がいました、“温泉造りチーム”の中では穴を掘る子・その穴の壁を固める子・さら粉を集めて山や池にまぶす子・水を運ぶ子…等、いろいろな係ができていました。山の尾根から流れる水が温泉の穴まで、勢いよく流れないと、「もっとこの道のこっち側を深くしないと流れないよ。」と気づき、傾斜を作りました。山が崩れないようにとさら粉を砂山にまぶし、しっかり固め、その上に水をかけてまたさら粉をまぶす…これを繰り返したら山がカチンカチンに固まる事に気づきました。子供達はいろいろな発見をしながら遊んでいます。どうしたらもっと楽しくなるか、こうしたらいいかな?これではどうだろう…と。子供達が「いいこと考えた!」と言う度に「それは、いい考えだ!天才だね。」と共感してやりました。子供達は「天才」という言葉に弱いようで、認めてもらうと益々がんばろうかなと思います。こんなやり取りが子供達をたくましく粘りのある子供に育てると思います。

そして片づけの時間になった時です。「よし!お片づけをするぞ~!」と現場監督さんが声をかけると、他の子供達は作業をやめて、砂場の道具を片づけ始めました。それから「明日もこれ使うから一番上に片づける方がいいぞ。」とか、「こっちに山を作る人の道具で、反対側は温泉を作る人の道具…、っていうのはどう?」という声があがりました。私は、思わず「あそびの天才は片づけの天才!」と言いました。“明日また遊ぶため”の“今日の片づけ”をしていたのです。いかに効率よく温泉造りができるか、そのためには、片づけでさえ工夫が必要だという事を感じたのでしょう。すごい!!と思いました。あそびに集中していると、先を見通してまで考えることができるのかと感心しました。そして、その片づけでさえ楽しげなのです。その次の日もまた温泉造りをしていました。前の日に遊びやすく片づけていたので、すぐに温泉造りにとりかかる事ができたでしょう。あそびや生活を工夫することは、遊びやすく生活しやすくするという事なのです。それを考える事だって子供にとっては『あそび』なのです。

『あそびの天才は、片づけの天才』──子供達の頭と心はいつも働いています。

お父さん!お母さん!ありがとう(平成24年度6月)

年長組が田んぼに植えた苗が、水の中で元気に風に揺れています。

田植えを済ませた子供達が苗にかけた「おいしいお米になりますように!」というおまじないの言葉に応えようと、苗も一生懸命なのかもしれません。きっと、秋には格別美味しいお米が実ることでしょう。

我が家の田植えも、年長組の子供達が手伝って植えてくれたおかげで、今年も早々に全ての田んぼを植え終えました。毎年、田植えが終わると、私は、「農業を見た事もした事もないあなたが、ちゃんと家の役にたつのか」とお嫁に行く私を心配していた今は亡き実家の母の仏壇にその報告をしています。その時の事です。

仏壇に手を合わせ母の遺影に眼を向けると、一枚の封筒と手紙がその前に置いてある事に気がつきました。それは、甥っ子…つまり私の弟の長男が、家族に宛てて書いたものでした。甥っ子は、大阪の学校を卒業後今年の春、大阪のホテルに就職が決まり働き始めたばかりです。家業である商売の道に進むかどうか悩んでいましたが、結局、親とは違う世界で自分を試したいという気持ちもあり、その道に進んだようです。彼の両親は息子の意志を尊重し、自分の選ぶ道を頑張って欲しいと祈るような気持ちで送り出したのです。その旅立ちを喜びながらも寂しがっているのは実は私の父…つまり彼のおじいちゃんです。4年前に母が他界して、父は随分力を落としました。4年経った今でも、母の思い出話をするたびに目頭を熱くします。そんな中、孫達の存在は、父にとって寂しさを忘れさせてくれるかけがえのないものでした。そんな孫達も長男が就職、今年の春には、二男までが進学で二人とも家からいなくなって、少し寂しくなっていたのです。そんな日々を送っていた時のこの手紙でした。そこには、このように書いてありました。

『社会人初のお給料をいただきました!父さん、母さん、じいちゃん、ばあちゃんにほんの少しだけど、今までの感謝の気持ちを込めて初めての家族孝行をします。もっともっと頑張って、みんなにフレンチのフルコースをご馳走できるようになりたいです。20年間見守ってくれてありがとう!父さん、仕事も大切ですが健康第一だよ。母さん、無理せず笑顔で…。じいちゃん、寂しい想いをさせてごめんね。また帰るよ。じいじは長生きするよ。そして最後に…ばあちゃん、(天国から)みんなをよろしく!』そして、一万円札が一枚…母の遺影に見えるように封筒から覗かせてありました。

私は、一人でそれを読んで涙が流れました。男の子だからか、何をどう考えているのかをあまり態度に表わしてくれなかったのですが、こんな事を考えていたのか、こんな想いを抱いていたのか…子供ってちゃんと愛情を感じながら育っていくものなんだなと思ったのです。一緒に居ると気がつかなかったり気づく間がなかったりで、離れたり失ってみたりして初めて気がつくのです。それまでの長年の家族の在り方が微笑ましく映し出された手紙に思えました。

私達大人も、子供を育てる親になって初めて自分を育ててくれた親の偉大さや親への感謝の気持ちが溢れます。幼稚園でも、毎年、新任の先生には園長先生が、「この初めてのお給料日…、お父さんやお母さんに何かをしてあげてね。」と言われます。何かを買ってあげて!という意味ではなく、ここまでにしてくださった事への感謝の気持ちを何かの形で伝えてね、という意味だと思って聞いています。親が子供を一人前に育てるのは、本当に大変な事だと思うのです。それでも、その長い年月があっという間に経つように感じるほど、必死で我が子を育てます。愛するが故です。

3~5歳の子供達は、嬉しい時も悲しい時もいつもお父さんやお母さんがそばにいてくれて、ご飯を作ってくれたり、一緒に遊んでくれたり、時には叱ってくれたりする事が、今は、当たり前の事のように思っているかもしれません。でも、そのありがたさを感じていないわけではなく、ただ実感していないだけなのです。母の日、父の日、敬老の日、お誕生日……こんな特別な日にはどうか、「あなたは、幸せなんだよ。あなたの周りのたくさんの深い愛に包まれて、大きくしてもらっているんだよ。」と、“幸せ”を確認させてやってください。そうしながら大きくしてもらった事や自分に関わってくれたたくさんの人達に感謝できる子になってくれると思うのです。

それが、今は、たとえ“ありがとう!”という言葉にならなくても、「お母さんだいすき!」「お父さん!あそぼうよ!」「お父さん、お母さん、ごめんなさい」──子供達がお父さんやお母さんに言ってくれる言葉全てが、感謝の気持ちの現れです。だって、子供達にとっては、自分のそばにいてくれて、わがままが言えたり、思っている事がそのまま言えたりする事そのものがありがたい事なのですから……。何十年か先には、それはとてもありがたかった事で、この上ない愛情に包まれて育ててもらえていたのだという事を実感するでしょう。そういう時が必ず来るのです。その時に言ってくれる「ありがとう!お母さん」「ありがとう!お父さん!」──それは、子供達がいっぱいの感謝の気持ちを温めて温めてやっと伝えてくれる素晴らしいプレゼントになるのです。そう思ってどうか今は、子供達との一分一秒の時間や何気ない言葉や気持ちのやり取りに幸せをかみしめながら、悪戦苦闘してください。それが子育ての醍醐味ですから。

はじまりはここから(平成24年度5月)

例年より、少し遅めだった桜の開花…。満開の桜は私達に春を感じさせてくれた後、散ってもなお薄ピンク色の花びらの絨毯(じゅうたん)が道行く人を楽しませてくれました。次は、春の空が少しずつ夏に向けて様子を変えていくのを見るのが楽しみです。

さて、新年度が始まり1ヵ月が経とうとしています。新入園児にとっては勿論の事、進級児達にとってもこれまでとは違う新しい環境に全員が慣れるまでには、もう少し時間が必要なようです。朝、バスに乗る時や中門でお母さんと離れる時に涙がたくさん出てしまう子がいたり、元気に登園できたのに途中で急に寂しくなって「帰る!帰る!」と泣き始める子がいたり、逆に、もうすっかり慣れて半日保育では物足りなさそうにしている子がいたり…と、子供達の様子は様々です。まだまだ始まったばかり、これからこの子達がどんなドラマを展開しながら成長して行くのかがとても楽しみです。

この約1ヵ月、“始まったばかり”を実感した事がたくさんありました。毎日子供達は登園すると、先ず、おたより帳に自分で選んだシールを貼ります。そして、ロッカーに荷物を片づけ、制服からスモックに着替えます。先生は必要に応じて手伝ったり励ましたりしながら朝のこんな時間を丁寧に子供達と関わります。この受け入れの時間は子供達の一日のスタートを決める、先生にとっても子供達にとってもちょっとした緊張の時間でもあります。この時に子供達をいかに安心させてやれるかで一日のご機嫌が随分違ってくるからです。子供達は安心しながら自分の事を済ませると、園庭に遊びに行きます。その遊んでいる様子は、実に初々しくてつい笑ってしまう程です。

新入園児にとっては、集団生活は初めてなので、生活の流れやルール、人との関わり等気にするはずも術もありません。人が使っていた砂場のスコップを「貸して」も言わずに横取りしてしまう。そのまましゃがんでそのスコップで遊び始める。取られた子は何が起きたのかわからないような顔をして、「取っちゃったぁ~」と言わんばかりに私の顔を見る。きっとどうしてなのかどうしたらいいのか自分ではわからないのでしょう。だって、入園するまでは、例えば自分のスコップは自分だけの物で、誰にも邪魔される事なく遊べていたはずですから。スコップを取ってしまった子も悪気はないのです。使いたかったから取ってでも自分の物にしたかった……。その子にとっては、ただそれだけの事だったのです。

それから、朝の会をするために保育室に入ります。「おはいりだよ」と園庭を歩きながら子供達に先生達が声をかけますが、なかなか入ってくれません。『おはいり』の意味がわからないし、その先に何があるのか、何のために『おはいり』をしなくてはならないのかがわからないからです。まだまだ遊んでいたいから途中でやめたくないのです。こちらの子が入ってくれたかと思えば、あちらの子がまた出て来て遊び始める。そこに行って「お部屋に入ってみんなでお歌を歌おうか。」とおはいりを促すけれど、またあちらの子が遊び始める。この繰り返しです。水道で手を洗う時も、先生が「順番に並んで洗うんだよ。順番が来るまで待っててね。」と言っていても、順番抜かしで割り込んで手を洗う、追い越されても順番抜かしをしても、何て事ない顔をしています。素のままの子供達のこんな様子には、思わず笑ってしまいます。だって、ほとんどの事が自分中心に回っていた入園までの生活から、自分の思い通りにならない事も発生してくる集団生活に変わったばかりですから。

集団で生活する中には、ある程度の時間の制限があったり、ルールがあるという事も知らないのです。だから、これらは極々当たり前の事なのです。自分と同じような年の子や同じような考えを持っている子がたくさんいて気持ちがぶつかったり、思うようにできない事があったりというを経験する事で社会性が育ちます。相手の気持ちに気付いたり、人と関わることで喜怒哀楽を経験しながら協調性を学びます。いろんなあそびを通して、感動したり発見したり解決したりしながら生きる力や術を得てきます。

新入園児の自由奔放なこれらの様子を見る先輩の在園児達は、少し前までは、自分達もそうだったのですが、そんな事はもう記憶にはないらしく「あらあら」と言わんばかりに「人のを取っちゃあダメなんだよ!」「おはいりするんだよ!」「順番だよ!」と、いわゆる“世話のやける後輩達”に言い聞かせようとしてくれます。昨年まで満3歳児クラスだった子も今は同じクラスになった新入園児の友達に「そんなのいけないんだよ!」と言っています。この1年の経験の大きさを感じます。家庭では、家庭でできるしつけや教育が…幼稚園では集団だからこそできる教育があります。子供達にとっては、集団の中の友達や時間、環境や経験あらゆる事が生きた教材になるはずです。

今年も春休みに、たくさんの卒園児達が訪ねてきてくれました。電話をかけて元気な声を聞かせてくれた子もいました。みんな、人生の節目節目に幼稚園を思い出してくれるのです。その度に「幸せになれ!幸せになれ!」と祈ります。

その子達もかつては皆そうでした──全てはここから始まります。

子供の心に寄り添う(平成23年度3月)平成24年3月

先日は、今年度最後の参観日でした。幼稚園では、一年の間に何度か参観日を行い、毎回その時期の子供達の成長を観ていただけるように内容も様々にしています。今回の最後の参観日では、各クラスで考え友達と協力し合いながら演じる劇あそびを観ていただきました。幼稚園という小さな社会で色々な経験を積んできた一人ひとりの様子や、深まった集団の関わりには、一年の集大成とも言える大きな成長がみられます。いかがだったでしょうか?各クラス共、笑いあり感動の涙ありの“劇あそび”で、盛り上がったのではないでしょうか。そんな中、年少うめA組の『ももたろう』の劇あそびの裏側に、こんな温かいエピソードがありました。劇あそびに向けて、先生に絵本を読んでもらったり話をしてもらったりして少しずつ劇を組み立てていた頃だったと思います。私が保育室の前を通ると、元気な歌声が聞こえてきました。その歌声に誘われるように行ってみると、うめA組の子供達がとても張り切って歌いながら踊っていました。どの子もどの子も活き活きとしていました。これは、うめA組に限らずどのクラスでも、子供達をその気にさせる先生の指導力にも感心させられますが、その時の子供達の満足気な顔つきにもまた驚かされました。みんな得意顔なのです。新年度が始まった頃には見られなかった顔でした。それから数日後、担任の平田美穂先生が「いとうはやと君のお家からこれをいただいたんです。」と何やら持って来ました。そして、添えられていたお母さんからのお手紙にはこう書かれていました。『はやとも、(家で)ももたろうの話をしてくれています。「ママ、今元気がなくなって休んでいるお友達がいるんよ。きびだんごを食べれば元気になるはずよ」とずーっと言っています。風邪で休んでいる子や咳をしている子が心配なのでしょう。きびだんごの代わりになるかどうか分かりませんが、うめAキッズの皆で食べてください。』──見てみると、それは“乳団子”でした。はやと君のお父さんとおじいさんは“乳団子”を製造販売しておられます。お母さんは、我が子が今一番に心寄せているものが“ももたろう”の劇あそびと欠席している友達の事だという事をしっかりと受け止めておられたのです。園長先生も、その手紙を読んで、すぐに「そう。ありがたいねぇ。子供達に食べさせてやってね。」と共感していました。そして、美穂先生は、子供達にその話をして“乳団子”を食べさせました。それからは、いぬさん、さるさん、きじさん、そして何よりお休みや咳をしていた子もみんなみんな元気になった事でしょう。

子供は、いつも現実と空想の中をさまよい楽しんでいます。ノンフィクションの物語の中にでも自分を登場させて、また想像して考えたり楽しんだりします。はやと君も“きびだんご”には、鬼ヶ島の鬼を退治できるくらい強くなれるパワーがあるのなら、お休みしている友達も食べたら早く元気になれるんじゃないかな?と真剣に思ってお母さんに話したのでしょう。その話を聞いて、お母さんははやと君の純粋な気持ちに寄り添ってあげられたのです。「じゃあ、きびだんごではないけど、お父さんとおじいちゃんの乳団子を持っていこうか!」というその時になされた母子の会話にとても温かいものを感じます。はやと君はどんなに嬉しかったでしょう。“ももたろう”の物語の中に母子一緒に入り楽しんだのです。それから、“ももたろう”の挿入歌は、♪♪も~もたろうさん、ももたろうさん、おこしにつけたちちだんご、ひとつわたしにくださいな♪♪ という歌に変わっていました。そして、美穂先生は、ちゃっかり乳団子の包装用の袋までもらって小道具を作りました。そして参観日…、ももたろう役の子供達の腰にはその“乳団子”がついていました。可愛い可愛い“ももたろう”の劇に、クラスの保護者の方の顔もほころびっぱなしでした。

たとえ本当の“ももたろう”の話と違っていたとしても、そんな事は問題ではないのです。幼稚園の経験に心動かされた我が子と共に同じ鼓動を打つ事に喜びを感じる事は、お母さんにとっても子供にとっても幸せだと思います。誰でも、自分の心に寄り添ってもらえたら、その時覚えた感動はさらに展開したり深まったりします。ちょっとした、心の動きが本物の感動になり、その時に感じた事がその子の心を育てていく事になるのです。たまたま、岡山に行った園長先生もうめA組の子供達にきびだんごを買って来てくださり、ますますうめA組の子供達の“ももたろう”に向ける気持ちは盛り上がりました。うめA組の子供達にとって“ももたろう”の物語は特別なものになったでしょう。何よりはやと君にとっても……。

そう言えば、昔、年中組を担任していた時、クラスでサッカーが大流行し、保護者がサポーターになってくださり、サッカー大会で盛り上がった事──。年長組の時、牛乳パックでそうめん流し台を作ってそうめんを流したい!という子供達の願望をクラスの保護者に知らせたら、「お手伝いしますよ」と言って、たくさんのお母さん方が手伝いに来てくださった事──。こうして、子供達の突拍子もない夢が何度か叶った事を思い出しました。

幼稚園では、子供達はもうすぐクラスの先生や友達との別れを控えています。この一年の間に、子供達同士でも先生とでも、お互いの小さな心の動きを大切に受けとめ、寄り添って過ごせるようになりました。そんな関係になれるクラス、仲間、家族は、本当に宝物ですね。

♪♪も~もたろうさん、ももたろうさん、おこしにつけた
   ちちだんご、ひとつわたしにくださいな♪♪

……これも、また、なかなかいいじゃあないですか。
ももたろうさん、すみませんねぇ。ここはひとつ大目にみてやってくださいな。

学べるチャンス(平成23年度2月)平成24年2月

新しい年を迎え、あちらこちらに新年の挨拶をしていたら、いつの間にかもう2月…。まだまだ、年明けの余韻を残したまま、時が経っていきます。幼稚園では、年長組の保護者懇談会も行われ、幼稚園を巣立つ準備が始まっています。他の学年にとっても、3月までのこの数カ月は大切な時間となります。ゆっくり時間が経ってくれればいいのに…と物悲しくもあります。

最近年長組のお母さんとこんな会話をする事がよくあります。「もうすぐ卒園…。入園式をしたのが、ついこの前のような気がします。3年間なんてアッという間ですね。」──そうですよね、保護者にとっても子供達が“こども”でいてくれるのは、長い人生の内の一瞬の時間なのです。でも、この短い時間が子供の将来の人生の土台になるのです。人として、生き抜く力はこの時期にこそ育つと思います。たくさんのいろんな経験をすることこそが、この時期にしか出来ない学びだとつくづく思います。

では、“色々な経験から学ぶ”とはいったいどんな事なのでしょうか?たくさんの手習いをし、知識や技術をマスターする事?いろんな所へ、おでかけして楽しい思い出をつくる事?……こんな経験も確かに必要なのかもしれません。でも、与えられた経験ではなく、流れゆく時間の中でじっくりと自らの興味で瞳を輝かせ、時間を忘れるほど遊び込む経験こそが一番の学びであり土台作りに必要な事なのではないかと思います。「あらっ?」「どうして?」「なるほど」という経験がたいせつなのです。

少し前の事です。満3歳児さつき組のある男の子が、「ねえ、ちょっとちょっと!葉子先生!来て来て」と朝の園庭で私を忙しそうに誘いました。「なになに?」と傍に寄ってみると、一本の木の皮の窪んだ部分に見事に作られたクモの巣を覗きこんでいました。そのクモの巣に朝露がかかり青白くきれいに見えていました。

「これは何?」と聞くのです。見れば、園庭の木のあちらこちらに同じものができていました。その子が言うまで、気が付きませんでした。きれいだなあ、不思議だなあなんて思いもしませんでした。その子は、一日中でも外で遊び、色んな事を発見出来る子です。だんご虫、カマキリ、ドングリ、水たまり…入園してから今まで、色んな事に興味を持っている彼の掌には、いつも何かが握られています。「なんだろう?」と真剣に観て考えるのです。また、先日、ある年少組の保護者のれんらくノートにちょっとした母子の会話が綴られていました。その子のおじいちゃんは、漁師さんだそうです。海で獲れた魚を三次の孫に送ってくださる優しいおじいちゃんです。その子は食通でタイの目が好きらしく、「愛媛のおじいちゃんにタイを送ってねって電話しようや」とお母さんにお願いしました。そしてしばらくして、「ねえ!タイは海のなかで泳いでいるでしょ?じゃあ、おさしみも海で泳いでるん?」と聞いたそうです。そのお母さんは、なんてとんでもない事を聞くんだと、さしみがひらひらと海を泳ぐ姿を想像して苦笑いしたそうです。「…はてさて?どうして?」「ん?これは?」「…ということは?」と思うこの興味は、必ず将来の彼の探究心を育てると思うのです。知っていると思っていた事が意外にも知らなかったり、勘違いのままその子の知識になっていたりする事がたくさんあるのです。大きくなって、今の今まで知らなかったの?と驚く事も結構あるような気がします。それは、それまで興味や関心を示さないまま大きくなったからです。また、そういうチャンスがなかったからです。早期教育等により、子供達が自ら身体を動かし心の目で物事をじっくりと観る時間や気持ちの余裕を失くしてしまう事も要因の一つになるのかも知れません。私達大人は、そのありのままの姿や様子、または本物に触れさせてやる事、そうできるチャンスを奪わない事が大切だと思います。

料理をするお母さんの傍で、その様子を見ているだけで、「そうか!」といろんな事に気付きます。仕事をしているお父さんの手伝いをするだけで、「なるほど!」といった事にも出合えます。畑仕事をするおじいちゃんの傍で土と戯れ遊ぶ時に、季節の野菜の正体や生命力を目の当たりにします。針仕事や洗濯物を干すおばあちゃんの手元を見るだけで、昔ながらの知恵を教わります。昔はこんな光景が当たり前だったそうです。「どうして?」「これはなぁに?」と尋ねた時にゆっくりと教えてくれる人が周りにはたくさんいたのです。だからいつでも、もっと知りたいとか教えてもらいたいと思いながら、色んな事に興味をもちながら経験できていたのだと思います。

今の時代、スーパーに行けば、魚を捌(さば)かなくても良いように、パックに切り身で売っていて、本当の姿がどんな物かを知るチャンスがありません。季節に関係なく野菜が並び、寒い時期でもトマトやキュウリが食べられます。夏野菜という言葉を聞いてもピンときません。すぐに調理しやすいように、皮を剥いてあく抜きがしてあるサトイモやゴボウの笹がき…手を加えていないそれらを見て、同じ物だとは思えないでしょう。 “便利に”とか“能率良く”と、生活をするために省きたい『無駄な時間・無駄な事』は実は子供にとっては大切な時間であり貴重な事なのかもしれません。子供達が思う存分興味深く経験できる時間や気持ちを大切にしてやる事、チャンスを奪わない事が、幼児期の本当の教育だと思うのです。