今年の9月は、3連休が2度ありました。暑かった夏に疲れた身体をいたわるのにも、大雨のために少々遅れ気味だった稲刈り等の農作業にも、ありがたい連休だったのではないでしょうか?
前半の3連休は、敬老の日を含んでいました。我が家にも、83歳になるおじいちゃんがいます。今や恒例となった三次中央幼稚園の年長組の行事である田植えや稲刈りをいつも手伝ってくれます。稲刈りの一連の作業が全て終わり、ホッと安心するのも毎年この頃です。いつも、“敬老の日”には、おじいちゃんを囲んでちょっとしたご馳走を用意します。今年は、娘も料理を手伝ってくれました。その時、パンの屑ができたので、娘が池の鯉にあげに行くとしばらくして、キャーキャーと騒がしく戻ってきました。「お母さん!凄いものを見てしまった!パンをあげようとしたら、チョウチョが水面をひらひら飛んで来て、そのチョウチョを……、鯉が…パクッと食べたぁ!!ひどい!ひどい!かわいそう!」と興奮していたのです。私も、その光景を思い浮かべて「かわいそう!」と二人で騒いでいました。そこへ、畑から帰って来たおじいちゃんに娘がその話を興奮して話すと、いたって冷静に「仕方がないねぇ、それが自然の中で生きるありがたさと悲しさなんよ。人間が魚や肉を食べるのも同じ事、野菜も同じ事。みんなありがたいと思ってそれを頂戴しながら生きて行くんよ。“いただきます”って言ってね。」──以前にも、家の前の道路で、車のタイヤに踏まれたツバメを娘が「かわいそう」と見ていると、おじいちゃんが、そのツバメを素手ですくって、「あんたが、こんな所に迷って遊びに出て来たからこんな目に遭ったんよ。お母さんと一緒におればよかったのに…。可哀そうだったねぇ。こっちにおりんさい。また踏まれるよ。」と言って畑の中に隠してくれました。その優しい言葉に私も娘もそれ以上の言葉が出て来ませんでした。
おじいちゃんは、いつも、興奮した気持ちをふっと冷静にし、温かい気持ちに変えてくれたり、ス~っと気持ちが収まる言葉を言ってくれます。お年寄りの言葉には、不思議な力があるような気がします。親の私達にはできない事や言えない言葉をたくさん持っておられるのです。人生の大先輩です。この世の中をこれまで支えていてくださった方々です。色んな事をたくさん経験して人生を悟ったゆえの強い心を持っておられるからかもしれません。私達の世代よりずっとずっと考え方や物の見方が深いのです。そんなお年寄りを敬わずにはいられません。
幼稚園におじいちゃんやおばあちゃんが、「迎えに来たよ。さあ、帰ろうや。」とお迎えに来られる事があります。その中には、できるだけ孫が重くてしんどい思いをしないように、子供が持っているカバンや荷物をすぐに受け取られるおじいちゃんおばあちゃんがおられます。お父さんやお母さんのお迎えの時には、先生達は「自分の荷物は自分で持ちましょう!」と自立の一端としても再々言い聞かせます。しかし、私は、孫の荷物を持ってやる事で、嬉しそうにしておられるおじいちゃんやおばあちゃんには、むげにその指導ができないのです。……というのも、子供達とおじいちゃんおばあちゃんの関係は、お互いが心の拠り所であり、親子とは違う関係の中で、違う教育が成されていると思えるからです。そんな時には、「おじいちゃん、重たいのに、ありがとうね。」と子供達に聞こえるように声をかけています。
おじいちゃんやおばあちゃんは、孫に甘えてもらったり、頼ってもらったりする事に喜びを感じてくださるありがたい存在なのです。お父さんやお母さんに叱られた時の逃げ場となり、冷静な声と言葉でなだめる役に回ってくださいます。そんな時、子供達は行き場をなくしたり孤独にならなくてすむのです。「もぉ!!甘やかさないで!」と親の方針に合わない事をされるような気がしてしまうかもしれません。実は私も、子育てに必死だった若い頃はそう思う時もありました。しかし、おじいちゃんやおばあちゃんの愛情は、親とは違う角度からアプローチされる愛情なのです。幼稚園の子供達のおじいちゃんおばあちゃんはまだまだお若いです。おじいちゃんおばあちゃんが、いつまでも元気で明るく笑って、たくさんの事を教えてくださったり、温かいまなざしを向けて守ってくださる事で、子供達の中に、穏やかで優しい心がはぐくまれるような気がします。
幼稚園の先生の中にも、すでにお孫さんをもつ先生がいます。やっと歩くか歩かないかの小さな孫を大事そうに抱っこしながら保育園に送迎される姿は、本当に微笑ましく思えます。「孫には、我が子を育てていた時の気持ちとは違う可愛さや愛おしさを感じるのよ」と目を細めて言います。この、“我が子とは違う愛情”が子供達にとってはありがたく大切なのです。たとえ傍におられなくても、きっといつも孫の事を思い出し、“健康であってほしい。良い子に育ってほしい。”と心から願っておられるはずです。時々は顔を見せてあげたり声を聞かせてあげてください。子供達にも、おじいちゃんおばあちゃんの事を幼いながらも敬えるきっかけをつくってやってほしいと思います。
『孫は来て良し、帰って良し』そんな言葉でも、笑って言える器の大きなおじいちゃんおばあちゃん……いつもありがとう!…これからもありがとう!どうかいつまでもお元気で。
2013年9月26日 4:17 PM |
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長い夏休みが終わりました。……でも、今年の夏は、これまでになく暑い暑い夏で、その勢いはまだしばらく続きそうです。どうやら、暑さを残したまま秋に向かいそうです。
皆さん、どんな夏休みを過ごされたでしょうか?子供達はそれぞれにたくさんの思い出をつくりこの2学期を楽しみに迎えた事でしょう。特にお盆休みには、お家の方も日頃より子供達と過ごす時間もとれて、それまでに気付かなかった我が子の成長や変化にも気づき、色んな事を感じられたのではないかと思います。
成長と言えば……お盆には、普段なかなか会えない人にも会うことができます。幼稚園がお盆休みに入る前日の事でした。23年前の卒園児である一人の男の子から「久しぶりに三次に帰って来ました。」とメールが届きました。その男の子は、28歳になっています。私が、年中組の時に担任したやんちゃ坊主でした。私は、どうしても会いたくて「今日、幼稚園においでよ!」とメールを返しました。それから、少ししてその子が来てくれました。私より数段身長が伸びていて(あたりまえですが…)とても“男の子”ではありません。立派な“青年”になっていました。岐阜県で中学校の数学の教師をしているそうです。私は、どうしても、彼が教壇に立って生徒に教えている姿が想像できませんでした。幼稚園の頃は、本当にやんちゃで、個性ぞろいのクラスの中にいて、よく遊び…本当に!よく遊び、よく食べよく喧嘩し、よく泣きよく笑いよくすねる…何度二人っきりの時間をつくり叱った事か…。今でも、その子を叱る時に彼の名を呼ぶ私の声を自分でも覚えています。教師になるなんて思ってもいませんでした。「担任もってるの?」と聞くと「もってるよ。大変だけど面白いよね。」と言いました。「中学生だと、色んな子がいるでしょう。」と私が尋ねると、徐々に自分の教育論を語り始めました。「そうだね。生活面でも、勉強面でも大変な子がいるよ。でも、そんな子にこそいい思いをさせてやらんと、伸びないんだよね。その子自身もだけどクラス全体も…。」ときっぱり言い切るのです。そして、「先生!僕が授業してるのが信じられないでしょ。これ見せてあげるよ。」とスマートフォンで撮った授業風景の動画を見せてくれました。それは、彼が教壇に立って教えているのではなく、生徒同士で一つの問題について、解き方を考えたり、説明や質問をしあっている授業でした。結論が出たところで彼が「よーし!これで理解できたね。みんなで拍手!」と拍手し合って喜ぶ生徒の様子が見られました。「先生が生徒の中心にいるんじゃあなくて、生徒が生徒を囲んで先生はその周りでサポートする。そのほうが、自分の意見や想いをしっかりぶつけ合えるでしょ。」と言うのです。「クラス作りに対するあなたの方針なんだね。」と聞き返すと、彼はしばらく黙って考え「うん。そうだね。そうしたいと思ってるよ。課題を抱えた子こそ、いつか楽しいと思えるようになる生活や授業をしてやりたいよね。」と自分に確認をしたように答えました。そして、「葉子先生もそうだったでしょ。」と言ってくれました。「僕は結構好きな事して、思う事を何でも言って、友達ともそうしながら遊んで、叱られて反省して…。そうやって成長した。」と、あの頃の自分を思い出して話してくれました。「そっか、あの頃があって今のあなたがあるんだ!」と私がおどけていうと、昔と変わらないやんちゃな笑顔で、「そういう事だね。」と二人で笑いました。
人は皆、昔の自分の生き方を振り返って、納得できる部分と反省する部分を認めながら、どこかしら次のステージに活かそうとするのだと思います。自分自身だったり次世代を担う人への教育だったり、様々な場面で心に宿っているものを活かそうと一生懸命に生きていくのだと思います。皆さんも、両親や先生から教えてもらった事や失敗して反省した事を自分の財産にして、我が子に伝えようと子育てされていませんか?ふと(アッ!私が昔、お母さんから言われていた事と同じ事を子供に言ってる)とか、(お父さんがあの時叱ったのは、こんな気持ちだったんだな)と感じることがありませんか?本気で教えられた事は、その後の人生において自分自身の財産になっているのです。生き方そのものになっていくのです。
子供達は今、その財産を少しづつ増やしていっています。家族の存在や自分の周りの環境、そして、関わる人と交わす言動の一つひとつが、子供達の未来の生き方に関わってくるのだと思います。
彼はそれからもいろんな話をしてくれました。楽しい話だけでなく、悩みも打ち明けてくれました。彼は、一人の教育者としても、尊敬できる人になっていました。教育や自分の想いを語る彼の真剣な顔はとても眩しかったです。私も背筋が伸びたような気がしました。彼の生き方の原点にほんのわずかでも、携われていたとしたら、こんなに嬉しくまた、これからの彼の人生への責任を感じずにはいられません。親の教えにも教師の教えにも、人を人として育てる事の責任があるという事を感じさせられた再会でした。
彼は教師として、きっとこれからも立派に一生懸命生きていくと思いますが、そんな子ばかりではないかもしれません……。私達が幼稚園から送り出した子供達が、どこで、どんな人生を歩んでいるのだろうか、みんな心の財産を活かして、どうか一生懸命に生きてくれていますように…。
───いつも、そう願っています。
2013年9月2日 4:06 PM |
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1学期が終わりました。4月、子供達は新しい世界を歩き始め、あれから3ヶ月……。私たち大人にとっての3ヶ月は、ほんの一瞬のような時間かもしれませんが、わずか3歳から5歳の幼い子供達にとっては、長く、その一分一秒が大きな成長に繋がる時間だったはずです。きっとそれは、ご家族の皆さんが一番よく感じておられるのではないでしょうか?できなかった事ができるようになった…こんな事を言うようになったんだ、思うようになったんだ──。色々な場面でその成長に気付かれている事と思います。幼稚園でも、この1学期の間に先生達は、集団の中の個を見ながら、子供達一人ひとりの成長をたくさん見つける事ができました。きっと子供達のこの成長の勢いは2学期にも続くことでしょう。
さて、明日から夏休みです。どんな夏休みを過ごされるのでしょうか?色々と計画を立てておられる事でしょう。遠出をするも良し!遠出はしなくても近場に家族で出かけるも良し!夏休みには、日頃できない事をしっかり経験させてやって欲しいと思います。その一つとして、家族でしっかり会話をする時間をつくってみましょう。お父さんお母さん、そして、おじいちゃんやおばあちゃんとも、近くにいてたくさん関わり合ってみるのです。
先日、あるお母さんからの“れんらくちょう”にこんな微笑ましい事が書いてありました。お兄ちゃんの学校の先生が家に来られた時の事、弟である年長組の男の子が、先生とお話しされているお母さんに、「ねえねえ、お茶飲んでいい?」とか「お水しかないんだけど」と言って来たそうです。お母さんは自分が飲みたいから聞きに来ているのだろうと思っていたら、しばらくして、その男の子は子供用のコップに水を入れ、お盆にのせて「どうぞ!」と先生に出してくれたのだそうです。お母さんは、お客様にお茶を出す事など特に教えたことがなかったのに……とお盆にのせて来てくれた姿に涙が出そうになったそうです。きっと、我が子の成長や気をきかせたそのけなげな気持ちが嬉しかったのだと思います。小学校の先生も、氷も入っていない水道水を喜んで飲みほしてくださったそうです。お母さんが教えていない事でも、子供達は、そばにいるだけで、いろんな事を学びます。このお母さんは、お客様が来られたら、こうして、お茶を出しておられるのでしょう。それをそばでちゃんと見ていたのです。
また、こんなこともありました。年長組のお茶のお稽古の時の事です。その日の掛け軸は『滝』でした。お茶の先生が、「昔の人はクーラーや扇風機がなくても、こんな涼し気なお軸を見て涼しい気持ちになっていたんだよ。」と言われると、その男の子が、「涼しくするために、道に水をまいたりもしよったんよ」と言ったのです。わたしは、驚いて「えーっ、よく知っているね」と言うと「おばあちゃんに教えてもらった」と言うのです。その子のおばあちゃんは、お店をされていて、暑い時には店先に打ち水をされているのでしょう。その男の子は、おばあちゃんのそんな姿を見ていたのだと思います。こんなふうに、何でもない家族の関わりや時間が、子供達の心に印象深く残り、知識となり自分の生活を潤わせる力になるのです。
子供達は、いつも興味津々で世の中を見ています。どんな事にでも(なぜ?)(どうして?)(なるほど!)(すごい!)と眼を輝かせています。この興味に応えてあげたり、刺激を与えたりするには、この夏休みは持って来い!の時だと思います。スペシャルな事を計画しなくても、ただ、そばにいて色んな話をしてやったり一緒に良い時間を過ごすだけで、普段は感じる事が出来ない事を子供達は感じます。おじいちゃんやおばあちゃんと花や野菜を一緒に育てたり、夏の空を見上げて雲を見たり、夕食の支度をお母さんと一緒にしたり、お父さんの日曜大工を手伝ったりする……それだけの事だけれど、そこで、色んな体験や会話の中から…あるいは、見ているだけでも学べる事や感動する事にたくさん出会わせてやれるはずなのです。
小学校の先生に、水道水を運んだ男の子は、お母さんのそばでお客様をもてなす気持ちや方法を見て学びました。お母さんのする事は、絶対的に正しいと信じているからです。おばあちゃんが、道路に打ち水をされる姿を見て、なるほど!と感動しました。おばあちゃんを尊敬しているからです。この夏休みは、お母さんやお父さん、おじいちゃんやおばあちゃんのものしりの引き出しに触れるいいチャンスだと思います。
「日本に住んでいるからには、日にちも、いちにち・ににち・さんにち・よんにち…ではなくて、一日(ついたち)・二日(ふつか)・三日(みっか)・四日(よっか)・五日(いつか)・六日(むいか)・七日(なのか)・八日(ようか)・九日(ここのか)・十日(とおか)と言ってほしいな。」と、お茶の先生が言われました。その言い方を知っている子と知らない子といましたが、言えない子のほうが多かったようです。そんな中、十日(とおか)まで、全部言えた女の子がいました。その子に、「すごいね、どうして知ってたの?」と聞いてみると、「おばあちゃんはそんなふうに言うよ」と答えてくれました。一緒に過ごすだけでたくさんの知恵を分けてくれる家族の存在は素敵ですよね。私もそんなおばあちゃんになりた…い……アッ…まだ少し早いか…。ん?そうでもないか…(苦笑)
2013年7月18日 3:54 PM |
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6月になり、衣替えと同時にプールあそびが始まりました。いよいよ夏到来です!天気の良い日は朝から外あそびが盛んで、保育室の中には、ほとんど子供がいません。靴を濡らしながら小川のアメンボを捕まえようとする子、さっき着替えたばかりの体操服や手足を泥だらけにしながら泥だんごを作っている子、汗をいっぱいかきながらサッカーをして遊ぶ子等、春の頃の子供達のあそび方やその様子とは随分違ってダイナミックに遊べるようになってきたのがよくわかります。子供同士の繋がりが深まってきたせいでしょうが、やはり夏は子供達にとって魅力あふれるあそびが思いっきりできる季節だからでしょう。水・土・空・生きもの……これらの全てが、子供達のあそびの味方になってくれます。そして、開放感を味わい心を解きほぐします。思いっきり遊ぶので、帰りの園バスの中やお家の方のお迎えを待つ保育室では、コックンコックンと眠ってしまう子が増えるのもこの頃です。いっぱい遊んでいっぱい笑って……そして居眠りしている子供達の姿がとても無邪気で可愛いです。
プールも天気の良い日は毎日入ります。それまでは静かに控えていたプールが一気に夏の主役に躍り出た感じです。水着の入ったプール袋を持って来た子は、得意そうに、「今日はプールに入れるんだよ!」と見せてくれます。しかし、その日体調が悪い子達は、水着も持って来ないので、プールには入りません。ですが、その子達もプールの時間は園庭でたっぷり遊びます。担任の先生は、プールあそびに行きますが、そんな子供達は他の先生や友達と遊びます。それはそれで楽しそうです。私もその子達と遊ぶ事があります。
年長組のプールあそびの時の事です。何人かが集まって、砂場で何やら必死に穴を掘ったり、水を入れたりしていました。「何をしているの?」と聞くと「温泉を造ってるんだ!」と言いました。「葉子先生もしていいよ。」と誘ってくれたので、一緒に遊ぶ事にしました。どうやら、山のてっぺんから温泉が湧き出て、山の尾根を流れ下の大きな池の中に熱い湯が溜まるという設定らしく、山を作る子と穴を掘る子とに分かれていました。その中には、現場監督らしき子もいて、「おーい!水が足りない!汲んできて!」「そこじゃあないよ!ここに水を流して!」と指示を出します。「じゃあ、俺は、こっちをするよ」「もっと深く掘ろうや」「しっかり固めないと!」とスコップやバケツを持って、それはそれは、工事現場さながらの様子でした。その威勢の良さと子供達の目の輝きに誘われるように、私も毎日砂場で遊びました。しかし、砂場は、その子達だけが遊んでいるわけではないので、いい感じに出来て来ても、次の日に行ってみると壊れている事もあるのです。それを修理(?)しながら、毎日その温泉づくりは続きました。掘っていく内には、埋まっていた砂場の道具が出てきたり、頭上の藤棚の葉っぱや枝が埋まっていて、それを見つけるたびに「あっ!!宝が出てきたぞ~」と盛り上がります。
そんな様子を見ていくうちに、自然に、子供達の中で役割分担ができているのに気がつきました。“山造りチーム”の中でも、現場監督さんをはじめ、砂を高く盛りあげていく子・スコップの背で叩いて固める子・尾根を作る子…がいました、“温泉造りチーム”の中では穴を掘る子・その穴の壁を固める子・さら粉を集めて山や池にまぶす子・水を運ぶ子…等、いろいろな係ができていました。山の尾根から流れる水が温泉の穴まで、勢いよく流れないと、「もっとこの道のこっち側を深くしないと流れないよ。」と気づき、傾斜を作りました。山が崩れないようにとさら粉を砂山にまぶし、しっかり固め、その上に水をかけてまたさら粉をまぶす…これを繰り返したら山がカチンカチンに固まる事に気づきました。子供達はいろいろな発見をしながら遊んでいます。どうしたらもっと楽しくなるか、こうしたらいいかな?これではどうだろう…と。子供達が「いいこと考えた!」と言う度に「それは、いい考えだ!天才だね。」と共感してやりました。子供達は「天才」という言葉に弱いようで、認めてもらうと益々がんばろうかなと思います。こんなやり取りが子供達をたくましく粘りのある子供に育てると思います。
そして片づけの時間になった時です。「よし!お片づけをするぞ~!」と現場監督さんが声をかけると、他の子供達は作業をやめて、砂場の道具を片づけ始めました。それから「明日もこれ使うから一番上に片づける方がいいぞ。」とか、「こっちに山を作る人の道具で、反対側は温泉を作る人の道具…、っていうのはどう?」という声があがりました。私は、思わず「あそびの天才は片づけの天才!」と言いました。“明日また遊ぶため”の“今日の片づけ”をしていたのです。いかに効率よく温泉造りができるか、そのためには、片づけでさえ工夫が必要だという事を感じたのでしょう。すごい!!と思いました。あそびに集中していると、先を見通してまで考えることができるのかと感心しました。そして、その片づけでさえ楽しげなのです。その次の日もまた温泉造りをしていました。前の日に遊びやすく片づけていたので、すぐに温泉造りにとりかかる事ができたでしょう。あそびや生活を工夫することは、遊びやすく生活しやすくするという事なのです。それを考える事だって子供にとっては『あそび』なのです。
『あそびの天才は、片づけの天才』──子供達の頭と心はいつも働いています。
2013年6月29日 3:46 PM |
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新年度を迎えて早2ヶ月が経とうとしています。幼稚園の子供達も新生活に少しずつ慣れて来て、それぞれに個性を見せてくれるようになりました。そんな子供達の様子を毎日楽しく見ています。
我が家にも、新生活のスタートを切った娘がいます。この春、大学に進学し、初めてのひとり暮らしをしています。娘が家を出てから同じく2ヶ月、親として様々な事を考えさせられています。
この18年間ずっと傍にいて、どんな変化にも気付き、必要とあらばいつでも手を差しのべてやれていたのに、急に、そうする事ができなくなった寂しさ、そして、何もかもが見えていたのに、今何をしているのかもわからないという現実に、周りの人達が「寂しくなったでしょ」と声をかけてくださる意味がこういう事だったのかと思い知らされています。
引っ越しの日、娘を置いて帰る別れ際に、やはり心細くなったのか、娘が急に抱きついて「おかあさん」と泣きました。私は、泣きじゃくる娘の背中をさすりながら、「大丈夫よ!あなたには、色んな事を乗り越えてこの新しい生活を手にした力があるんだから、これからもきっと頑張れるし、楽しく過ごせるはずよ!」と言って笑顔で別れました。けれど、私も帰りの車中、別れ際の娘の顔を思い出し、こらえきれず涙が溢れ出て止まりませんでした。それから、1週間くらいは、毎日電話をかけたりメールをしたりしていましたが、あの別れの涙がウソだったかように、段々と娘から連絡してくる事がなくなってきました。連絡がないので、心配して電話をかけると「なあに?」と、あっさりした反応…。期待していた反応と違っていて特に用事があったわけでもなかった私は、咄嗟に「何してるかなあって思って」と言うと、「特に」……実にいまどきの若者の台詞…。一瞬、(なによ!心配してやったのに!)とイラッとしましたが、主人から「用事もないのにいちいち電話するな。よっぽど困った時や我慢できなくなった時には、自分から連絡してくるから。」と言われ、実は自分が子離れしていない事に気が付いたのです。
それからは、諦めもあり、私からもあまり連絡をしなくなりました。たまにしてくる娘からのメールや電話では、毎日自炊を頑張っている事やアルバイトやクラブの事等を話してくれたり相談してきたりします。少し前に、新しい生活の緊張や疲れからか、体調を崩したようで、病院に行って検査をしてもらったという電話がかかった時には、知らない土地でさぞ心細かっただろうと思う反面、しっかり自立しようと頑張っている事に安心したりもしました。最近では、電話で話しても、「自分で考えてみる」とか、「調べてみるわ」とか「やってみようと思ってる」と、自分で自分で…と生き生きと過ごしているのを感じられるようになりました。
たった3歳~5歳の幼い子供でも、自立願望はあります。着替えを手伝ってあげようと思ったら「自分でする!」と拒む事がありませんか?危なっかしい事に挑戦しようとしたり、親が言う事に反抗したり、なかなか親の思うようにならなくなってきたのを感じることがないですか?これは、自立の始まりです。でも、それに気がつかなくて…というか心配が先に立ち、つい手伝ったり口を出す事で、“私は心配しているの”という気持ちを押しつけてしまうのです。少し、子供を信頼してやらなくてはいけないのかもしれません。それは、ある意味、自立させるための『親の我慢』だと思います。手をかしてやったり、先に結論を出してやったりする方が安心ですが、育とうとしている力を足止めさせてしまっているという事に気が付かないといけないのです。親子の間に信頼関係があれば、困った時には、必ず頼ってくるでしょうし、なんらかのSOSを出してくるでしょう。
親として、すべき事は、安易に手を差し伸べる事ではなく、いざという時に、自分で考え解決できる『選択肢』をたくさん持った子供に育てる事、そのためには、いつも、親子でいろんな事を考え意見を出し合い認め合う生活をして行く事だと思います。幼児でも、お父さんやお母さんが言ったりしたりする事を見たり聞いたりしながら、生きて行く方法をいくつも引き出しにしまっておき、時期が来た時に自分の生き方のお手本として、引っ張り出してくるのです。
親にとっては、子供はいくつになっても子供です。心配で心配で、それはそれは可愛くて可愛くて、大切で大切で…。幼い頃は、「お母さん大好き!」「お父さん、遊んで!」と言葉や態度で自分の事を求めていてくれる事を実感できますが、少し大きくなってくると、そんな事も言ってくれなくなります。そうなると、親は、少し寂しくなってくるのです。親離れの時期を素直に喜べず、必要以上に干渉したくなってくるのです。だけど、心配しなくても、子供達は、お父さんやお母さんに感謝しながら生きていきます。愛を充分に感じてくれている事に私達親は自信を持って、年齢や時期にあった子離れを上手にしていく事が大切ではないでしょうか?危なっかしくても、自分の考えで行動しようとする子供を先回りして助けたい気持ちをグッと我慢して見守る、応援していてやることが、長い目でみる『愛情』だと思います。もしかすると、親離れより子離れの方が難しいのかもしれませんね。
わかっているのに、娘に送る荷物の中に頼まれてもいない物まで買って荷造りをしている私。ホント、親ってバカですね。私の両親もあの頃、今の私と同じ事を思っていたのかな?あぁ、ありがたい。
2013年5月31日 3:34 PM |
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