経験が育てるもの(平成25年度11月)

気がつけば、今年のカレンダーはあと2枚……。もうすでに、来年の年賀状の注文受付も始まっているようです。なんて一年の早い事!時の流れを早く感じるのは、年をとった証拠とよく言われますが……(笑)。毎年の事ですが、“忙しい、忙しい”と過ごしているうちに、この月まで来てしまったような気がして、いつもここら辺で、ふと立ち止まってこれからの一日一日を大切に過ごさなければ!としみじみ思います。

子供達は今年度が始まってからこれまでに幼稚園で様々な日々を過ごしてきました。お子様の成長を色々な場面で感じてくださっているのではないでしょうか?幼稚園での経験の一つひとつが、子供達を確実に成長させています。それは、目に見えるものから気がつかないくらいの小さなものまで……。成長の大きさやスピードは様々です。

9月に開催された秋季大運動会では、みんなそれぞれに頼もしい姿を見せてくれました。保護者の皆様からも、その後、しばらくは、運動会の感想や我が子の成長を喜んでいただいている気持ちを連絡帳に書いて寄せていただきました。本番当日の一日を観ただけでも、感動してもらえた事を喜んでいるのは、何より子供達だと思います。お家で、お父さんやお母さんそして運動会を観に来てくださったおじいちゃんおばあちゃんからもいっぱい褒めてもらえた事は、大きな自信となったことでしょう。

私達は本番は勿論の事、それまでの子供達の頑張りや努力、そしてその都度得られる子供達の心の成長を毎日一番近くで見てきました。何かができるようになったとか、集団の中でみんなとちゃんと一緒にやっているとかという部分だけではなく、できない事や勝ち負けを繰り返しながらの自分との戦いをしていた子、初めての経験で慣れない事への不安や辛さを感じていた子、そんな子供達も、日を追うごとに楽しさや頑張る事への快感を得て行きました。その過程をずっと見てきた先生達には、一言では、言い表せない感動がありました。運動会が終わってから、子供達の成長はいろんな所に表れています。どことなく自信なさそうだった子の表情に明るさが出てきたり、友達関係に広がりが出てきて仲間意識が高まったり、一人でできなかった事を頑張ってみようという気持ちが強くなってきたり……。いろいろなシーンで、運動会の経験が子供達を育ててくれている事を実感しています。

年長組では、その後、運動会の絵を描きました。子供達の絵は表現が色々で、いつも感動させられます。見るのも楽しく微笑ましい作品がいっぱいです。しかし、子供達の中には、見た物や感じた事を画用紙に表現する事を苦手に感じる子もいます。担任の先生が、ある子の絵を「この子、前は、なかなか悩んで描き始められなかったのに、このリレーの絵は、ささっと描けたんです。運動会からすごく変わったと思うんです。」と言って見せてくれました。また、ある男の子の絵を見ながら「この子、今回、絵に向き合う姿が今までと違っていたんです。すごく根気よく最後まで描けていました。」と話してくれました。なるほど、絵を見てもそれが伝わって来ました。

心が揺さぶられるほどの経験は、子供達を大きく変えるということがよくわかります。楽しかった、悔しかった、面白かった、嬉しかった、悲しかった…色んな事があった。そして、僕も私も頑張った!!その自信が、表現する事に躊躇しない、戸惑わない…むしろ積極的に表現しようとする意欲につながるのです。また、そうできた事で更に自信を持ち、その他の様々な事に対しても挑戦意欲が芽生えてきます。そうなると、子供は生き生きしてきます。しかし、そこで、大切なのはその経験をする子供が置かれた環境です。例えば、運動会は集団の中での経験です。集団の中で友達の力を見ながらそれに憧れたり自信を持てたりもっと自分も頑張ろうと思えたりするのです。「もっと…もっと…」と思えるのは、一人じゃないからです。そして、その姿をわかって応援してくれる家族や先生、友達が近くで見てくれている事、さらに、それを褒めてくれたり、認めてくれて評価してくれる人がいる事です。そこで、子供達は、経験した事を「頑張ってよかった」「僕にもできた!」「私って凄い!」と、自分の力を確信します。ただ経験させるだけではなく、その経験を子供の確かな成長に導くのは、その周りの環境のあり方も手伝うのではないかと思います。

我が子の事は勿論、他の子供達の事まで、お迎えの時間に「○○君、運動会、かっこよかったよ!」「走るの速かったね」「○○ちゃん、お遊戯が可愛かったよ。」と保護者同士でお互いに声をかけ合っておられる様子をたくさん見ました。その成長を我が子の事のように認め褒めて喜んでくださるこのやり取りもまた、子供達の成長を大きくしてくれる環境の一つです。本当にありがたい事だと感謝しました。

 これからも、子供達は幼稚園でたくさんの友達と色々な経験をします。楽しかった、難しかった、しんどかった、面白かった、頑張った、嬉しかった、悔しかった、悲しかった──この全ての心の動きを与えてくれる経験こそが、子供達を確かな成長に導いて行く事を感じていただけると思います。子供達のその一瞬一瞬を目の当たりにする事が私達のやりがいと楽しみです。

おじいちゃん おばあちゃんの愛(平成25年10月)

今年の9月は、3連休が2度ありました。暑かった夏に疲れた身体をいたわるのにも、大雨のために少々遅れ気味だった稲刈り等の農作業にも、ありがたい連休だったのではないでしょうか?

前半の3連休は、敬老の日を含んでいました。我が家にも、83歳になるおじいちゃんがいます。今や恒例となった三次中央幼稚園の年長組の行事である田植えや稲刈りをいつも手伝ってくれます。稲刈りの一連の作業が全て終わり、ホッと安心するのも毎年この頃です。いつも、“敬老の日”には、おじいちゃんを囲んでちょっとしたご馳走を用意します。今年は、娘も料理を手伝ってくれました。その時、パンの屑ができたので、娘が池の鯉にあげに行くとしばらくして、キャーキャーと騒がしく戻ってきました。「お母さん!凄いものを見てしまった!パンをあげようとしたら、チョウチョが水面をひらひら飛んで来て、そのチョウチョを……、鯉が…パクッと食べたぁ!!ひどい!ひどい!かわいそう!」と興奮していたのです。私も、その光景を思い浮かべて「かわいそう!」と二人で騒いでいました。そこへ、畑から帰って来たおじいちゃんに娘がその話を興奮して話すと、いたって冷静に「仕方がないねぇ、それが自然の中で生きるありがたさと悲しさなんよ。人間が魚や肉を食べるのも同じ事、野菜も同じ事。みんなありがたいと思ってそれを頂戴しながら生きて行くんよ。“いただきます”って言ってね。」──以前にも、家の前の道路で、車のタイヤに踏まれたツバメを娘が「かわいそう」と見ていると、おじいちゃんが、そのツバメを素手ですくって、「あんたが、こんな所に迷って遊びに出て来たからこんな目に遭ったんよ。お母さんと一緒におればよかったのに…。可哀そうだったねぇ。こっちにおりんさい。また踏まれるよ。」と言って畑の中に隠してくれました。その優しい言葉に私も娘もそれ以上の言葉が出て来ませんでした。

おじいちゃんは、いつも、興奮した気持ちをふっと冷静にし、温かい気持ちに変えてくれたり、ス~っと気持ちが収まる言葉を言ってくれます。お年寄りの言葉には、不思議な力があるような気がします。親の私達にはできない事や言えない言葉をたくさん持っておられるのです。人生の大先輩です。この世の中をこれまで支えていてくださった方々です。色んな事をたくさん経験して人生を悟ったゆえの強い心を持っておられるからかもしれません。私達の世代よりずっとずっと考え方や物の見方が深いのです。そんなお年寄りを敬わずにはいられません。

幼稚園におじいちゃんやおばあちゃんが、「迎えに来たよ。さあ、帰ろうや。」とお迎えに来られる事があります。その中には、できるだけ孫が重くてしんどい思いをしないように、子供が持っているカバンや荷物をすぐに受け取られるおじいちゃんおばあちゃんがおられます。お父さんやお母さんのお迎えの時には、先生達は「自分の荷物は自分で持ちましょう!」と自立の一端としても再々言い聞かせます。しかし、私は、孫の荷物を持ってやる事で、嬉しそうにしておられるおじいちゃんやおばあちゃんには、むげにその指導ができないのです。……というのも、子供達とおじいちゃんおばあちゃんの関係は、お互いが心の拠り所であり、親子とは違う関係の中で、違う教育が成されていると思えるからです。そんな時には、「おじいちゃん、重たいのに、ありがとうね。」と子供達に聞こえるように声をかけています。

おじいちゃんやおばあちゃんは、孫に甘えてもらったり、頼ってもらったりする事に喜びを感じてくださるありがたい存在なのです。お父さんやお母さんに叱られた時の逃げ場となり、冷静な声と言葉でなだめる役に回ってくださいます。そんな時、子供達は行き場をなくしたり孤独にならなくてすむのです。「もぉ!!甘やかさないで!」と親の方針に合わない事をされるような気がしてしまうかもしれません。実は私も、子育てに必死だった若い頃はそう思う時もありました。しかし、おじいちゃんやおばあちゃんの愛情は、親とは違う角度からアプローチされる愛情なのです。幼稚園の子供達のおじいちゃんおばあちゃんはまだまだお若いです。おじいちゃんおばあちゃんが、いつまでも元気で明るく笑って、たくさんの事を教えてくださったり、温かいまなざしを向けて守ってくださる事で、子供達の中に、穏やかで優しい心がはぐくまれるような気がします。

幼稚園の先生の中にも、すでにお孫さんをもつ先生がいます。やっと歩くか歩かないかの小さな孫を大事そうに抱っこしながら保育園に送迎される姿は、本当に微笑ましく思えます。「孫には、我が子を育てていた時の気持ちとは違う可愛さや愛おしさを感じるのよ」と目を細めて言います。この、“我が子とは違う愛情”が子供達にとってはありがたく大切なのです。たとえ傍におられなくても、きっといつも孫の事を思い出し、“健康であってほしい。良い子に育ってほしい。”と心から願っておられるはずです。時々は顔を見せてあげたり声を聞かせてあげてください。子供達にも、おじいちゃんおばあちゃんの事を幼いながらも敬えるきっかけをつくってやってほしいと思います。

『孫は来て良し、帰って良し』そんな言葉でも、笑って言える器の大きなおじいちゃんおばあちゃん……いつもありがとう!…これからもありがとう!どうかいつまでもお元気で。

再会(平成25年度9月)

長い夏休みが終わりました。……でも、今年の夏は、これまでになく暑い暑い夏で、その勢いはまだしばらく続きそうです。どうやら、暑さを残したまま秋に向かいそうです。

皆さん、どんな夏休みを過ごされたでしょうか?子供達はそれぞれにたくさんの思い出をつくりこの2学期を楽しみに迎えた事でしょう。特にお盆休みには、お家の方も日頃より子供達と過ごす時間もとれて、それまでに気付かなかった我が子の成長や変化にも気づき、色んな事を感じられたのではないかと思います。

成長と言えば……お盆には、普段なかなか会えない人にも会うことができます。幼稚園がお盆休みに入る前日の事でした。23年前の卒園児である一人の男の子から「久しぶりに三次に帰って来ました。」とメールが届きました。その男の子は、28歳になっています。私が、年中組の時に担任したやんちゃ坊主でした。私は、どうしても会いたくて「今日、幼稚園においでよ!」とメールを返しました。それから、少ししてその子が来てくれました。私より数段身長が伸びていて(あたりまえですが…)とても“男の子”ではありません。立派な“青年”になっていました。岐阜県で中学校の数学の教師をしているそうです。私は、どうしても、彼が教壇に立って生徒に教えている姿が想像できませんでした。幼稚園の頃は、本当にやんちゃで、個性ぞろいのクラスの中にいて、よく遊び…本当に!よく遊び、よく食べよく喧嘩し、よく泣きよく笑いよくすねる…何度二人っきりの時間をつくり叱った事か…。今でも、その子を叱る時に彼の名を呼ぶ私の声を自分でも覚えています。教師になるなんて思ってもいませんでした。「担任もってるの?」と聞くと「もってるよ。大変だけど面白いよね。」と言いました。「中学生だと、色んな子がいるでしょう。」と私が尋ねると、徐々に自分の教育論を語り始めました。「そうだね。生活面でも、勉強面でも大変な子がいるよ。でも、そんな子にこそいい思いをさせてやらんと、伸びないんだよね。その子自身もだけどクラス全体も…。」ときっぱり言い切るのです。そして、「先生!僕が授業してるのが信じられないでしょ。これ見せてあげるよ。」とスマートフォンで撮った授業風景の動画を見せてくれました。それは、彼が教壇に立って教えているのではなく、生徒同士で一つの問題について、解き方を考えたり、説明や質問をしあっている授業でした。結論が出たところで彼が「よーし!これで理解できたね。みんなで拍手!」と拍手し合って喜ぶ生徒の様子が見られました。「先生が生徒の中心にいるんじゃあなくて、生徒が生徒を囲んで先生はその周りでサポートする。そのほうが、自分の意見や想いをしっかりぶつけ合えるでしょ。」と言うのです。「クラス作りに対するあなたの方針なんだね。」と聞き返すと、彼はしばらく黙って考え「うん。そうだね。そうしたいと思ってるよ。課題を抱えた子こそ、いつか楽しいと思えるようになる生活や授業をしてやりたいよね。」と自分に確認をしたように答えました。そして、「葉子先生もそうだったでしょ。」と言ってくれました。「僕は結構好きな事して、思う事を何でも言って、友達ともそうしながら遊んで、叱られて反省して…。そうやって成長した。」と、あの頃の自分を思い出して話してくれました。「そっか、あの頃があって今のあなたがあるんだ!」と私がおどけていうと、昔と変わらないやんちゃな笑顔で、「そういう事だね。」と二人で笑いました。

人は皆、昔の自分の生き方を振り返って、納得できる部分と反省する部分を認めながら、どこかしら次のステージに活かそうとするのだと思います。自分自身だったり次世代を担う人への教育だったり、様々な場面で心に宿っているものを活かそうと一生懸命に生きていくのだと思います。皆さんも、両親や先生から教えてもらった事や失敗して反省した事を自分の財産にして、我が子に伝えようと子育てされていませんか?ふと(アッ!私が昔、お母さんから言われていた事と同じ事を子供に言ってる)とか、(お父さんがあの時叱ったのは、こんな気持ちだったんだな)と感じることがありませんか?本気で教えられた事は、その後の人生において自分自身の財産になっているのです。生き方そのものになっていくのです。

子供達は今、その財産を少しづつ増やしていっています。家族の存在や自分の周りの環境、そして、関わる人と交わす言動の一つひとつが、子供達の未来の生き方に関わってくるのだと思います。

彼はそれからもいろんな話をしてくれました。楽しい話だけでなく、悩みも打ち明けてくれました。彼は、一人の教育者としても、尊敬できる人になっていました。教育や自分の想いを語る彼の真剣な顔はとても眩しかったです。私も背筋が伸びたような気がしました。彼の生き方の原点にほんのわずかでも、携われていたとしたら、こんなに嬉しくまた、これからの彼の人生への責任を感じずにはいられません。親の教えにも教師の教えにも、人を人として育てる事の責任があるという事を感じさせられた再会でした。

彼は教師として、きっとこれからも立派に一生懸命生きていくと思いますが、そんな子ばかりではないかもしれません……。私達が幼稚園から送り出した子供達が、どこで、どんな人生を歩んでいるのだろうか、みんな心の財産を活かして、どうか一生懸命に生きてくれていますように…。

───いつも、そう願っています。

おばあちゃんの知恵袋(平成25年度8月)

1学期が終わりました。4月、子供達は新しい世界を歩き始め、あれから3ヶ月……。私たち大人にとっての3ヶ月は、ほんの一瞬のような時間かもしれませんが、わずか3歳から5歳の幼い子供達にとっては、長く、その一分一秒が大きな成長に繋がる時間だったはずです。きっとそれは、ご家族の皆さんが一番よく感じておられるのではないでしょうか?できなかった事ができるようになった…こんな事を言うようになったんだ、思うようになったんだ──。色々な場面でその成長に気付かれている事と思います。幼稚園でも、この1学期の間に先生達は、集団の中の個を見ながら、子供達一人ひとりの成長をたくさん見つける事ができました。きっと子供達のこの成長の勢いは2学期にも続くことでしょう。

さて、明日から夏休みです。どんな夏休みを過ごされるのでしょうか?色々と計画を立てておられる事でしょう。遠出をするも良し!遠出はしなくても近場に家族で出かけるも良し!夏休みには、日頃できない事をしっかり経験させてやって欲しいと思います。その一つとして、家族でしっかり会話をする時間をつくってみましょう。お父さんお母さん、そして、おじいちゃんやおばあちゃんとも、近くにいてたくさん関わり合ってみるのです。

先日、あるお母さんからの“れんらくちょう”にこんな微笑ましい事が書いてありました。お兄ちゃんの学校の先生が家に来られた時の事、弟である年長組の男の子が、先生とお話しされているお母さんに、「ねえねえ、お茶飲んでいい?」とか「お水しかないんだけど」と言って来たそうです。お母さんは自分が飲みたいから聞きに来ているのだろうと思っていたら、しばらくして、その男の子は子供用のコップに水を入れ、お盆にのせて「どうぞ!」と先生に出してくれたのだそうです。お母さんは、お客様にお茶を出す事など特に教えたことがなかったのに……とお盆にのせて来てくれた姿に涙が出そうになったそうです。きっと、我が子の成長や気をきかせたそのけなげな気持ちが嬉しかったのだと思います。小学校の先生も、氷も入っていない水道水を喜んで飲みほしてくださったそうです。お母さんが教えていない事でも、子供達は、そばにいるだけで、いろんな事を学びます。このお母さんは、お客様が来られたら、こうして、お茶を出しておられるのでしょう。それをそばでちゃんと見ていたのです。

また、こんなこともありました。年長組のお茶のお稽古の時の事です。その日の掛け軸は『滝』でした。お茶の先生が、「昔の人はクーラーや扇風機がなくても、こんな涼し気なお軸を見て涼しい気持ちになっていたんだよ。」と言われると、その男の子が、「涼しくするために、道に水をまいたりもしよったんよ」と言ったのです。わたしは、驚いて「えーっ、よく知っているね」と言うと「おばあちゃんに教えてもらった」と言うのです。その子のおばあちゃんは、お店をされていて、暑い時には店先に打ち水をされているのでしょう。その男の子は、おばあちゃんのそんな姿を見ていたのだと思います。こんなふうに、何でもない家族の関わりや時間が、子供達の心に印象深く残り、知識となり自分の生活を潤わせる力になるのです。


子供達は、いつも興味津々で世の中を見ています。どんな事にでも(なぜ?)(どうして?)(なるほど!)(すごい!)と眼を輝かせています。この興味に応えてあげたり、刺激を与えたりするには、この夏休みは持って来い!の時だと思います。スペシャルな事を計画しなくても、ただ、そばにいて色んな話をしてやったり一緒に良い時間を過ごすだけで、普段は感じる事が出来ない事を子供達は感じます。おじいちゃんやおばあちゃんと花や野菜を一緒に育てたり、夏の空を見上げて雲を見たり、夕食の支度をお母さんと一緒にしたり、お父さんの日曜大工を手伝ったりする……それだけの事だけれど、そこで、色んな体験や会話の中から…あるいは、見ているだけでも学べる事や感動する事にたくさん出会わせてやれるはずなのです。

小学校の先生に、水道水を運んだ男の子は、お母さんのそばでお客様をもてなす気持ちや方法を見て学びました。お母さんのする事は、絶対的に正しいと信じているからです。おばあちゃんが、道路に打ち水をされる姿を見て、なるほど!と感動しました。おばあちゃんを尊敬しているからです。この夏休みは、お母さんやお父さん、おじいちゃんやおばあちゃんのものしりの引き出しに触れるいいチャンスだと思います。

「日本に住んでいるからには、日にちも、いちにち・ににち・さんにち・よんにち…ではなくて、一日(ついたち)・二日(ふつか)・三日(みっか)・四日(よっか)・五日(いつか)・六日(むいか)・七日(なのか)・八日(ようか)・九日(ここのか)・十日(とおか)と言ってほしいな。」と、お茶の先生が言われました。その言い方を知っている子と知らない子といましたが、言えない子のほうが多かったようです。そんな中、十日(とおか)まで、全部言えた女の子がいました。その子に、「すごいね、どうして知ってたの?」と聞いてみると、「おばあちゃんはそんなふうに言うよ」と答えてくれました。一緒に過ごすだけでたくさんの知恵を分けてくれる家族の存在は素敵ですよね。私もそんなおばあちゃんになりた…い……アッ…まだ少し早いか…。ん?そうでもないか…(苦笑)

あそびの天才は片づけの天才!(平成25年度7月)

6月になり、衣替えと同時にプールあそびが始まりました。いよいよ夏到来です!天気の良い日は朝から外あそびが盛んで、保育室の中には、ほとんど子供がいません。靴を濡らしながら小川のアメンボを捕まえようとする子、さっき着替えたばかりの体操服や手足を泥だらけにしながら泥だんごを作っている子、汗をいっぱいかきながらサッカーをして遊ぶ子等、春の頃の子供達のあそび方やその様子とは随分違ってダイナミックに遊べるようになってきたのがよくわかります。子供同士の繋がりが深まってきたせいでしょうが、やはり夏は子供達にとって魅力あふれるあそびが思いっきりできる季節だからでしょう。水・土・空・生きもの……これらの全てが、子供達のあそびの味方になってくれます。そして、開放感を味わい心を解きほぐします。思いっきり遊ぶので、帰りの園バスの中やお家の方のお迎えを待つ保育室では、コックンコックンと眠ってしまう子が増えるのもこの頃です。いっぱい遊んでいっぱい笑って……そして居眠りしている子供達の姿がとても無邪気で可愛いです。

プールも天気の良い日は毎日入ります。それまでは静かに控えていたプールが一気に夏の主役に躍り出た感じです。水着の入ったプール袋を持って来た子は、得意そうに、「今日はプールに入れるんだよ!」と見せてくれます。しかし、その日体調が悪い子達は、水着も持って来ないので、プールには入りません。ですが、その子達もプールの時間は園庭でたっぷり遊びます。担任の先生は、プールあそびに行きますが、そんな子供達は他の先生や友達と遊びます。それはそれで楽しそうです。私もその子達と遊ぶ事があります。

年長組のプールあそびの時の事です。何人かが集まって、砂場で何やら必死に穴を掘ったり、水を入れたりしていました。「何をしているの?」と聞くと「温泉を造ってるんだ!」と言いました。「葉子先生もしていいよ。」と誘ってくれたので、一緒に遊ぶ事にしました。どうやら、山のてっぺんから温泉が湧き出て、山の尾根を流れ下の大きな池の中に熱い湯が溜まるという設定らしく、山を作る子と穴を掘る子とに分かれていました。その中には、現場監督らしき子もいて、「おーい!水が足りない!汲んできて!」「そこじゃあないよ!ここに水を流して!」と指示を出します。「じゃあ、俺は、こっちをするよ」「もっと深く掘ろうや」「しっかり固めないと!」とスコップやバケツを持って、それはそれは、工事現場さながらの様子でした。その威勢の良さと子供達の目の輝きに誘われるように、私も毎日砂場で遊びました。しかし、砂場は、その子達だけが遊んでいるわけではないので、いい感じに出来て来ても、次の日に行ってみると壊れている事もあるのです。それを修理(?)しながら、毎日その温泉づくりは続きました。掘っていく内には、埋まっていた砂場の道具が出てきたり、頭上の藤棚の葉っぱや枝が埋まっていて、それを見つけるたびに「あっ!!宝が出てきたぞ~」と盛り上がります。

そんな様子を見ていくうちに、自然に、子供達の中で役割分担ができているのに気がつきました。“山造りチーム”の中でも、現場監督さんをはじめ、砂を高く盛りあげていく子・スコップの背で叩いて固める子・尾根を作る子…がいました、“温泉造りチーム”の中では穴を掘る子・その穴の壁を固める子・さら粉を集めて山や池にまぶす子・水を運ぶ子…等、いろいろな係ができていました。山の尾根から流れる水が温泉の穴まで、勢いよく流れないと、「もっとこの道のこっち側を深くしないと流れないよ。」と気づき、傾斜を作りました。山が崩れないようにとさら粉を砂山にまぶし、しっかり固め、その上に水をかけてまたさら粉をまぶす…これを繰り返したら山がカチンカチンに固まる事に気づきました。子供達はいろいろな発見をしながら遊んでいます。どうしたらもっと楽しくなるか、こうしたらいいかな?これではどうだろう…と。子供達が「いいこと考えた!」と言う度に「それは、いい考えだ!天才だね。」と共感してやりました。子供達は「天才」という言葉に弱いようで、認めてもらうと益々がんばろうかなと思います。こんなやり取りが子供達をたくましく粘りのある子供に育てると思います。

そして片づけの時間になった時です。「よし!お片づけをするぞ~!」と現場監督さんが声をかけると、他の子供達は作業をやめて、砂場の道具を片づけ始めました。それから「明日もこれ使うから一番上に片づける方がいいぞ。」とか、「こっちに山を作る人の道具で、反対側は温泉を作る人の道具…、っていうのはどう?」という声があがりました。私は、思わず「あそびの天才は片づけの天才!」と言いました。“明日また遊ぶため”の“今日の片づけ”をしていたのです。いかに効率よく温泉造りができるか、そのためには、片づけでさえ工夫が必要だという事を感じたのでしょう。すごい!!と思いました。あそびに集中していると、先を見通してまで考えることができるのかと感心しました。そして、その片づけでさえ楽しげなのです。その次の日もまた温泉造りをしていました。前の日に遊びやすく片づけていたので、すぐに温泉造りにとりかかる事ができたでしょう。あそびや生活を工夫することは、遊びやすく生活しやすくするという事なのです。それを考える事だって子供にとっては『あそび』なのです。

『あそびの天才は、片づけの天才』──子供達の頭と心はいつも働いています。