ルーツ(平成26年度9月)

今年は雨の多い夏休みでした。特に広島市では20日未明からの集中豪雨により大変な災害が発生しました。あまりにも近い場所での災害に、ニュース等を見ながら心配された方もたくさんおられるのではないでしょうか?幼い子供達を含む多くの命が犠牲になった被害の大きさに胸を締め付けられるような思いがします。心よりお見舞い申し上げ、一日も早く日常の生活が取り戻せますようにお祈り申し上げます。

さて、この長かった夏休み、ご家庭では色々な思い出をつくられた事と思います。子供達から色々な話が聞ける事を楽しみに2学期を迎えました。よく考えてみれば、私が、家族で夏休みを楽しんだ……と思えたのは、子供達が中学生になる前までだったような気がします。その頃は、忙しい中でも、家族旅行に出かけたり、一緒にいる時間の流れをいつもよりゆっくりと感じながら楽しい夏を過ごしていました。でも、子供達が大きくなるにつれて、勉強や部活が忙しくなって来たりそれぞれに予定があったりで、なかなか家族皆が揃う事がなくなってきたのです。長女が大学生になってからは、そんな楽しい夏休みが、増々、遠い昔のような気がしています。

しかし、そんな娘達も、お盆には家にいて親戚を迎えたり、行ったりして賑やかに過ごしました。お墓参りも大切な事だと思ってくれていて、一緒にお墓に線香やろうそくをたむけ手を合わせました。少し前までは、ただ手を合わせてお参りするだけだった娘達も、ここ数年は率先してお参りするまでの準備を手伝ってくれるようになりました。そんな時、墓石を見ながら、「ねえ、この名前の人は誰?」「おじいちゃんにとってどんな関係の人?」また、「どうして、田房って書いてないお墓にもお参りするの?」「どうして亡くなったの?」等と、お墓を見渡しながら色々と質問をして来ました。幼い頃にも何度か教えた事がありました。一生懸命聞いてはいましたが、幼くてよくわかっていなかったのか、あまり覚えていなかったようでした。今年は、今までより真剣だったので、おじいちゃんが丁寧に教えてくれました。「この人は、おじいさんのおじいさん。人を集めて楽しむ事が好きな人だったよ。こっちがおばあさんで百歳まで生きて元気な人だった。優しい優しい人で、かなり年をとってからでもお父さんをおんぶして子守りをしてくださったんだよ。」「この人は……。この人は……。」と、どんな繋がりのある人か、その人がどんな仕事をしていて、どんな人だったのかというおじいちゃんの話に娘達はじっと聞き入っていました。その中には、戦争の話や生きるために必死だった頃の昔の苦労話も含まれていて、感慨深かったようでした。「私達の知らない過去の話だね。仏間の写真を見たら色々と想像するね。この人達がいなかったら、おじいちゃんはおじいちゃんじゃあなかったんだよね。お父さんだって生まれて来なかったし、私達もここにはいないんだね。不思議な気分!!」と姉妹二人で顔を見合わせていました。亡くなった中には、“一才”や“二才”と墓石に刻まれてあるのを見て、昔は、元気で生きていく事がどんなに大変な事だったかという事も話してもらっていました。

そんな話を聞いて、どんな事を感じてくれたでしょうか?普段、私達の知り得ない我が家の歴史を知り、ご先祖に感謝の気持ちを持ってくれたと思います。そんな話を聞いてからのお参りは特別な想いで手を合わせた事でしょう。

人には誰にでも、その人のルーツがあります。幼い子供達にも、その子を取り巻くたくさんの人達の存在をわかるように話し、意識させてあげてください。大切な人の繋がりを感じてくれるでしょう。今月は“敬老の日”もあります。例えば、おじいちゃんやおばあちゃんは自分にとってどんな繋がりの人なのか、お父さんやお母さんとの思い出話。それから、お父さんお母さんが結婚した時の話等をしてあげれば、興味をもって聞いてくれると思います。まだ幼いうちは、その時に聞いても十分には理解できないでしょうし、一時的な感動にしかならないかもしれませんが、その時だけでも、自分が生まれてきた事は素晴らしい事なのだと……、色々な歴史があって今の皆の存在がある……、この“不思議”に何となく嬉しい気持ちになる事は大切な事だと思います。子供達はこれから先、自分の人生を自ら切り拓いて生きて行かなくてはなりません。自分の人生は自分のもの…されど、たくさんの人やその歴史の“おかげ”である──と心のどこかに置いて生きて行って欲しいと思うのです。

昔があって今があるという事を知り、その事を良い力にし、今自分が生きている意味やありがたさを感じながら、家族を大切にする事や、自分自身の事も大切にして生きて行こうと思ってくれたなら嬉しいと思います。

私も、実家の本家のお墓参りをした時に、娘の質問に答えながら、祖父母・曾祖父母の事を思い出していました。私もまた父から、父が幼かった頃の事や、父が祖父から聞かされていた昔の話を聞かせてもらいました。懐かしさと共に、忘れかけていた感謝の気持ちが起こったり、これからも一生懸命に生きて行かないといけないな…とあらためて思ったりしました。

自分の『ルーツ』をたどっていけば“自分”が見えてくるようです。

自分の事は自分で(平成26年度8月)

今日で一学期が終わりました。この一学期、たくさんの事を経験した子供達にはどんな成長がみられたでしょうか?たった3ヵ月の間ですが、この3ヵ月はそれまでとは違く環境の中で新しい生活を送るため、親も子も心身ともに一生懸命だったかもしれません。そして、先生達にとっても、新しいクラスづくり…仲間意識をつくりお互いの信頼関係を築いていくためにも最も切な3ヵ月でした。

その大切な時期を有意義に過ごした子供達は、みんなとてもいい顔で毎朝登園して来ます。朝一番の「おはようございます」の声と笑顔に、幼稚園の楽しさを見出す事が出来ているのを感じられるようになりました。中門から、お母さんと一緒でなければ行くことができなかった子が、やっとお母さんと「バイバイ」をして、先生の所にまっすぐ一人で行けるようになったり、幼稚園バスから降りてとぼとぼとと歩いて行っていた子が、仲良しになった友達とはしゃぎながら競争するように走って園庭に向かって行くようになったり、登園しても、ずっと先生の後ろをくっついて何をしていいかわからないで不安そうにしていた子が、早々に体操服に着替えて友達を待ち構えているようになったり……と、みんなそれぞれに朝の様子にも嬉しい変化が見られるようになりました。 

さて、ここまでの成長は、親子の辛抱や忍耐の伴う事もたくさんあっての成長だったと思います。次のステップとしては、子供達が、幼稚園という集団生活を十分に受け入れ、自主的に環境や人と関わり生活を作り上げていくという事です。そのためには、先ず、基本的な生活習慣を確立していく努力が必要になってきます。“自らが生活して行く”という意識を持つ事です。人の手によってやっと生活させられているのと、そこで生活するために…と自分で何かをするのとでは、その過程と結果に大きな違いが出てきます。

ある朝の事です。いつものように私は、幼稚園の中門でお家の人と一緒に登園して来る子供達を迎えていました。お姉ちゃんと弟二人がお母さんと一緒にいい顔でやって来ました。荷物をそれぞれに持った時に、その子達のお母さんが「アッ!」と言われその場にいた先生に申し訳なさそうに、「先生、カバンを忘れちゃったんです。ごめんなさい。」と言われました。「はい。わかりました。今日は大丈夫ですよ。」と答えると「うち、基本、自分の荷物は自分で準備するようにしているもんで…。ねっ、自分で忘れたんだから仕方ないね。」と、その子を見ながら笑顔で言われたのです。そんなやりとりの中、忘れてしまった弟の顔を見ると、しまった!と思いながらも笑って「行ってきます!」とお姉ちゃんと保育室に向かって行きました。自分でした失敗だから、お母さんを責めたりくよくよしたりしないのです。その家庭では、いつもそういう生活をしているから、“今度は忘れないようにしなくっちゃ、そのためはどうしたら良いか”という解決策が子供ながらにも明らかにできて前向きに受け止められるのでしょう。

私は、その様子を見ていてすごくいい気持ちになりました。それは、その子達にとって実にありがたい事だと感心もしました。幼い子供達が、幼いながらも“自らこの環境の中で生活をしている”という実感を味わうためには、“自分の事は自分で…”という心掛けからスタートするのだと思います。何のかもお父さんやお母さんが手をかけてやっていると、そうしてもらうのが当たり前になってきて、上手くいかなかったり失敗したりした時には、親を責めたり人のせいにしてしまって、自分を振り返る事をしなくなってしまうのです。逆に言うと、どうする事が成功につながるのか、どうしたから良かったのかを考える事をしないまま生活する事になります。人の手により生活させられていくのではなく、自らが生活するという意識を持たせてやってほしいと思います。誰かがどうにかしてくれるのではなく、自分がやらないと始まらない!くらいの勢いのある子供達になってほしいと思うのです。例えば、お風呂から上がってタオルで拭いてもらうのを立ったまま待つのではなくて、タオルを自分で持ってなんとか拭いてみようとしたり、前後ろが反対でも自分で着替えようとしたり、毎日必要なハンカチは自分で制服のポケットの中に入れたり…etc.小さな子供達でも自分でできる事はたくさんあります。自分でしようという意識が大切なのです。そうすれば、自分でした事に対して責任を持つようになります。自分で考える事が当たり前になってきます。そして、得られた結果を自分の事として悲しめたり喜べたりします。人はそれを幾度も経験しながら社会をつくる一員として成長していくのではないでしょうか?

今日まで、新しい環境の中で、お子さんの様子に心配しておられたお父さんやお母さん、幼稚園のお子さんへの対応や焦らずそっと見守っていただきたいという幼稚園からのお願いを受け入れてくださり、本当にありがとうござました。この良い状態で、引き続き2学期を迎える準備をして行きたいと思います。

明日から長い夏休み。お家にいる時間も少し増えてくると思います。“自分でできる・自分でする”は自分で生活している実感を得る事になります。そして“自分”を生き生きと目覚めさせる事になると思います。子供達がみんなそんな気持ちで生活を送れるようになれば、どんなに素晴らしいだろうと、2学期を想像してウキウキします。この夏、“自分開拓”のチャンスにしてみてはいかがでしょうか?

親子で夢中(平成26年度7月)

さくら組の子供達が5月に植えた苗が、田んぼでしっかり根を張り少し背丈も伸びたようです。サツマイモの畑では、畑の畝に横たわっていた苗がむっくり起き上がって生き生きとしています。秋には美味しいお米とサツマイモを実らせるために、その日その日の環境を養分にし、一生懸命に生長しています。


毎年この頃になると、子供達が小さな飼育箱に色々な生き物を持って来てくれます。オタマジャクシ・カタツムリ・ホタル・カブトムシ・メダカ等、その飼育箱にたくさんの子供達が集まって来ます。誰かが一人こんな風に持って来てくれると、ちょっとしたブームになり、たくさんの子供達がぼくも私も…と飼育箱を抱えて来ます。いつも当たり前に生きているオタマジャクシやカタツムリ達は一躍スターにのし上げられるのです。そして、子供達は、小さな生き物に興味や関心を示します。クラスで毎日観察をし、オタマジャクシはカエルの子である事や、カタツムリがどんなふうに歩いて何を食べてどんなウンチをするのかを知ります。


この時期に毎年、いろんな生き物を持って来てくれる男の子が…というか家族があります。男の子3兄弟のお兄ちゃんの頃から、末っ子の男の子まで、私が知る限りでは、3兄弟みんな毎年何かしら生き物の入った飼育箱を抱えて幼稚園に持って来てくれていると思います。今年は、見た事もないような大きなオタマジャクシを持って来てくれました。このままだととても大きなカエルになるでしょう。そして、持って来ては持って帰り、大切に大切に家でも育てているのです。ある日、その男の子のお母さんが、朝、中門にいる私に「葉子先生!ちょっと見てみてください。」と声をかけてくださいました。そして、携帯電話の動画を見せてくださいました。見てみると、大きな卵パックに小分けした土の中から何やらモソモソと動く物がいました。それは、カブトムシのさなぎでした。聞けば、昨年の幼稚園のリサイクルバザーで購入されたカブトムシの子供達だそうです。そして、それより前に、ツバメの巣から落ちたヒナを今育てているんだという話もお母さんから聞いていました。エサやその食べさせ方、飼い方を色々と調べて何とか命をつないであげようと大切に家族で育てているという事でした。それから、なついて肩に乗るようになった事や割り箸でエサを上手に食べるようになった事等を時々私に聞かせてくださっていました。それから数週間後、「葉子先生!ついに飛び立って行ったんですよ。」と本当に嬉しそうに話してくださいました。携帯電話の動画には、そのツバメのヒナに男の子がエサを与えている様子や肩に乗っている様子も映っていました。


思い起こせば、そのお母さんは、お兄ちゃんの時に幼稚園でコウモリを見つけられ「これ、息子たちが喜ぶのでもらっていいですか?」と言って持って帰られた事がありました。すごいお母さんだなぁ…と思った事を覚えています。「飼い方も何もわからないけれど調べてみます」と言われました。そのご家族は、子供達だけ、とかお母さんお父さんだけではなく、いつも家族がみんな一緒に、生き物の命を大切に育てようとされます。子供は珍しいものがあれば、とりあえず欲しい!と言うでしょう。飼いたい!と言うでしょう。子供だけで本気で飼って育てるのはなかなか難しい事です。そのうち手に負えなくなったり飽きてきたりする事も少なくありません。でも、親子で一緒に夢中になってみると、飼っていた生き物が卵を産んだり大きくなって巣立って行くのを見届ける事もでき、その間には、興味が深まり生体の観察もするでしょうし、


愛情も育ちます。何より、お母さんもお父さんも夢中になってくださる事は、子供達にとって本当に幸せな事だと思います。


子供に好きな事を思う存分させてやるためには、家庭であれば、お父さんやお母さんが…幼稚園や学校であれば、先生が…子供と一緒に夢中になるという事、それはつまり、子供の心に寄り添い共感する事だと思います。自分に共感してくれる人がいてくれれば、安心して思いっきりのめり込む事ができます。それが、スポーツであってもいいし、趣味であってもいいと思います。何か発見があれば、家族みんなで驚いたり、わからない事や疑問が出てくれば一緒に悩んだり試行錯誤してみたり、嬉しい事があれば一緒に喜べて、悔しかったり悲しかったりに出くわせば、みんなで同じ気持ちになったりするでしょう。その度に、何倍もの感動を得る事になります。


こんな風に、家族でいつも何かしら一緒にできる事がある生活をしていると、何でも、家族に話してくれるようになったり、相談してきてくれるようになると思います。共感してもらえるという事で、気持ちを分かってもらえているという事を実感するのです。そうなるためには、子供と心を共に生活して子供達の心の動きやときめき…どんな事に瞳を輝かせているかに気づいてあげる事が大切になってきます。家族の関係も深まります。


親子で一緒に夢中になれるもの…なれる時間がある事は幸せです。そうして過ごしたその時間の事は子供達にとっても、家族にとっても一生の思い出にもなってくると思います。


夏休みも近いです。夢中になれるものが見つかるかもしれませんね

最後の運動会(平成26年度6月)

来月から衣がえ──月曜日から子供達は、爽やかな夏用の制服を着て登園します。新入園児達は、少し長めの丈で初々しく、進級児達は、着慣れた夏服に余裕を感じます。年長組ともなると、随分丈が短くなっていて、入園してからこれまでどんなに大きくなったかをうかがい知る事ができます。日々の生活の中では、その成長になかなか気が付かないものですが、こんな事からも、変わり行く季節と共に、心も身体も確実に成長している事を実感し、思わず感慨深く目を細めてしまいます。

さて、5月下旬の土曜日・日曜日には、あちらこちらで運動会が行われたようです。幼稚園にも、進学予定先の各小学校から年長組の子供達に、運動会の案内が届き、参加できることをとても楽しみにしていたようです。運動会に参加した翌日には、小学校の広い校庭で、かけっこをした事を担任の先生に一生懸命報告していました。

来年の4月になって、それぞれにその小学校に入学することを楽しみにできたらいいなと思うと同時に、すでに小学校に通っている卒園児達も、きっと頑張ったのだろうなと、その姿を想像していました。

娘が通う高校も、日曜日に体育祭が行われました。娘は、運動が大好きで、多分、“体育祭”は、数ある中で最も好きな行事だと思います。実に生き生きとどの競技も手を抜くことなく頑張るので、その姿が観たくて、親の私達も毎年体育祭を楽しみにしています。高校生ともなると親とは別に教室で昼食を食べる生徒が多いようですが、我が家は必ず行楽弁当をみんなで囲み午前の部の話をしながら昼食を一緒に食べます。友達の家族も一緒ににぎやかにいただきます。毎年そうしてきましたが、その娘も高校3年生ですので、今年が最後になりました。

体育祭前日、お弁当の下ごしらえをしていると、「お母さん、これ、プログラムよ。私の出場する種目に順番や位置を書いておいたからきっと探してね。だってね、お母さん、これがお母さん達に観てもらえる人生最後の体育祭よ。絶対!来てね。」と言って来ました。きっと、彼女なりに今年の体育祭には思い入れがあったのでしょう。高校生にもなって、そう言ってくれる娘が可愛くて、大好物のおかず作りにも力が入りました。

そして、当日。言っていただけあって、なるほど彼女はとてもいい顔で頑張っていました。先生やクラスやクラブの仲間たちと大声を出し合って競技する姿を見て何だか込み上げてくるものがありました。そして、閉会式で校歌を歌う姿を見ながら、幼稚園の時からこれまでの運動会と体育祭を思い出していました。その時その時の娘達の緊張した顔や喜ぶ顔、感動etc.…それらがたくさんたくさん頭の中を廻りました。

親はいつも、我が子が一生懸命頑張っている姿や楽しそうな笑顔が観たいものです。持てる力を無心に発揮しようとする我が子の姿、そんな生き生きとした姿に安心したり、元気をもらったり、順調な成長に喜びを感じたりするのです。運動会に限らず、親が子供達と一緒に笑い一緒に泣き、共通の思い出をつくる事ができるのも、その子の長い人生の内のほんのわずかな時期だけです。この間にしか得ることができない感動や喜びの一瞬一瞬をどうか大切にしてください。私も、これまで毎日毎日の生活の忙しさで毎年繰り返される我が子達の様々な学校行事にこんな思いをはせる事もなかったのですが、娘から言われた『お母さん達に観てもらえる人生最後の体育祭』という言葉にハッとしたのです。いつまでも一緒にいられるわけではないのです。いつかは、親とは違う場所でそれぞれに生活することになり、同じ感動を一緒に味わい共有するという事がなかなかできなくなって来ることを実感しました。そう思うと少し寂しくなってきました。

私達親は、子供達を通して、世界を広げてもらえています。子供がいなかったらできなかったママ友、行くこともなかっただろう場所、味わうこともなかった喜びや悲しみ、感動──。こんなふうに子供達は、私達大人の人生に“潤い”と“幸せ”を与えてくれている事にあらためて気付かされました。

年少組の時、可愛いミニーちゃんに扮してお遊戯をして可愛かった事、運動会の朝、熱が出て坐薬を入れて頑張った時の事、孫達の運動会には必ずおばあちゃんが応援に来てくれていた小学校の運動会、そして、勝負を賭けて真剣に走りきった中学・高校の体育祭──その一瞬一瞬の感動が一度に思い起こされた体育祭でした。

幼稚園では、これからたくさんの楽しい園生活、幼稚園行事が待っています。先日も、保育参観日でお子さんの様子を観ていただいたばかりです。こんな行事もお子さんと一緒に楽しみながら、その時その時の感動を共有し、思い出を大切に重ねて行って欲しいと思います。

体育祭が終わった夜、学校から帰宅した娘が、洗い物をしていた私に「お母さん、今までおいしいお弁当を持って応援に来てくれてありがとう。」と言ってくれました。こうして、“人生最後の運動会”は、娘からの感謝の言葉で締めくくられました。

めざすはお兄ちゃん(平成26年度5月)

新年度がスタートし1ヵ月が経とうとしています。新入園児達を迎えた時には、かわいいチューリップが花壇で咲き誇っていましたが、今は、幼稚園にも少し慣れて園庭で遊び始めた子供達を“リキュウウメ”や“ヤエザクラ”のきれいな花が見守ってくれています。しかし、慣れてきたとは言え、新入園児達は、幼稚園が楽しみな気持ちとお家の人と離れて過ごす不安な気持ちが入り混じり、緊張した顔で登園している様子がまだまだ見受けられます。この新生活を受け入れ“楽しさ”に出合うために一生懸命です。登園時間には、先生に預けた後で子供が泣いて後追いしないように……と、心配する気持ちを押し殺し、振り返らず帰って行かれるお母さんの背中に愛情と、お母さんもまた一生懸命なのだという事を感じます。そんな中でも、早くも幼稚園に慣れ、何をしてもどこ行っても、楽しそうに過ごせている子供達もいます。子供達のどんな様子も微笑ましく思えます。

朝の時間の事です。全員が登園して来るまでの時間は、自分の荷物を片づけ、スモックに着替え、あそびを選んで思い思いに過ごします。この時間は、クラスや学年を越え、異年齢で関われる有意義な時間でもあります。年長組の子供達が、年少組の保育室に行き、出席シールを貼ったり着替えたりする手助けをしてくれる事もあります。園庭に出れば、あそびに誘い合ったり遊具の貸し借りをしたりしながら関わりを持ちます。ある年少組の男の子が年長組の男の子二人について遊んでいました。もう何日もその光景は見られました。最初は、年長組の子が「せんせーい!この子がずっとついて来る!」と困ったように言って来ましたが、「一緒に遊んで欲しいんじゃないのかな?」と言うと、まんざらでもないような顔になり、それからは、一緒に走り回って遊ぶようになりました。特に誘い合うでもなく、年少組のその男の子は、スモックに着替えて外に出ると、二人のお兄ちゃんの姿を探しては、勝手に合流して一緒に居るといった感じなのです。その様子をよく見ると、お兄ちゃん達がする事を一生懸命に真似しているのです。年長組二人の男の子は、軽くひょいひょいと小川を飛び越えたり、アスレチックに登ったり、わんぱく小山からジャンプして降りたりして遊んでいます。きっと、その姿がかっこよく見え、そんなお兄ちゃん達に憧れているのでしょう。でも、同じ事ができるはずがありません。お兄ちゃん達がしている事より簡単な場所を選んで真似ていました。ひとつ出来た(つもり)ら、走って追いつき、また同じ事をしようとしていました。その顔は終始ニコニコでした。そんな時、気持ちが大きくなったのでしょうアスレチックの高い所に同じように登って、降りられなくなってしまったのです。それに気が付かず、お兄ちゃん達はそのまま走って行ってしまいました。年少組の子は、ついに限界を感じ泣いてしまいました。とっさに私が助けに行こうとした時、その泣き声を聞いて、お兄ちゃん達が戻って来てくれたのです。近くまで登って行き、一人は、「足をずらしてごらんよ。そしたらお尻をずらして……チョットずつでいいから…こうして…。」と声をかけ、もう一人は実際にやって見せていました。そのうち、三人ともアスレチックから降り、また、何もなかったように再び走り、遊び始めたのです。こんな風に、大きなお兄ちゃんが、カッコいい姿を見せてくれたり、困った時に助けてくれたりしたら、尊敬できる先輩としてずっと憧れの存在になるでしょう。そして、きっと年少組のその子も、いつか自分にしてもらった事を他の子にしてあげられる子になるでしょう。

これから、子供達は幼稚園で色々な経験を積んでいきます。各年齢に合った活動をしながら、子供達は、自分の力を見い出したり、先輩の凄い力に憧れたり、後輩をいたわったり慈しんだりする場面にたくさん出会う事ができます。今、後輩達に憧れてもらえるようになったその子達にも、去年までは憧れる先輩がいたのです。「いつかは、僕達もあのお兄ちゃん達のようになりたい!」「私達もお姉ちゃん達みたいになりたいな」という気持ちでいたのです。“憧れ”は“尊敬”になり、“目標”になります。自分の方向性を定めるきっかけになります。尊敬できる人との出会いは、大きく言えば、人生に影響を与えてくれるのです。子供の世界の中で生活する上で、子供同士色んな影響を与え合います。同年齢の友達とは、意見や気持ちのぶつかり合いを経験しながら相手の気持ちに気付いたり、ある時には喧嘩をしながら、我慢したり主張したりして、気持ちよく生活する方法を知って学んで行きます。一緒に考えたり協力したりしながら、みんなの存在の大きさや必要性を感じ尊重しあう事を知ります。異年齢では、前に述べたように、同年齢の友達とは少し違う経験から得るもの与えるものがあります。家庭ではできない教育──、これこそ、幼稚園教育の意味あるところだと思うのです。

幼稚園での生活が子供達の成長になくてはならない経験である事を感じていただきながら、保護者の方との連携プレーで、今年度も過ごしていけたらと思っています。

子供達全員が、“三次中央幼稚園っ子”として、生き生きと頼もしく成長していく姿を思い浮かべると、今からとても楽しみです。