目標を持つ、夢を抱く(平成26年度3月)平成27年3月

今シーズンは、あちらこちらで豪雪や雪による被害のニュースが聞かれ、冬が少しばかり長かったような気がします。しかし、約束通り、春はやって来ます。新しい命が春の訪れを静かに待っているからです。梅の木には可愛い蕾が、川の土手にはつくしやふきのとうが顔をのぞかせているのをみつけました。「暖かい春は、もう少しですよ」と思わずそっとささやきたくなりました。

春は、何もかもを新しく塗り替えてくれるような気がします。色んな事があっても、ここでまた新たに希望を持ってスタートしよう!という気持ちになります。

先日、今年度最後の保育参観を行いました。この一年間を通して子供達は本当に色んな形で成長を見せてくれました。幼稚園では、一年間に5回ほどの参観日を設けています。今回の参観では、各クラスで劇を観ていただきました。つい、劇の出来栄えに目が行きがちですが、そういう所だけではなく、それを演じるクラス全体の雰囲気や子供同士の関係、子供達と先生の関係、一人ひとりの表情や言動の色んな所に成長を感じていただけたでしょうか?。今回は、先生と子供達とが、頑張って自分達の劇をお家の人達に観てもらおう!という一つの目標がありました。その目標を達成させるために、一生懸命話し合ったり練習をしたりしていました。その間の子供達は、生き生きとしていました。参観日後に寄せていただいた保護者の皆様からの感想にも、“家でも劇の話をよくしてくれていました。”とか“友達の役についても話してくれていました”等、書いてあり、子供達の気の入れ方もかなりのものだった事がうかがえました。学年毎に、目指すものは違いますが、それぞれに目標を掲げて取り組みました。

この『目標』というものが、生きて行く上でどんなに必要なものかという事を子供達と一緒にいるとよくわかります。子供達にとってのそれは、『自分開拓』──強い自分をつくって行くエネルギーになるのです。

先日園庭で遊んでいると、“わんぱくやま”の高い岩からジャンプして、地面に飛び降りようとしている子がいました。初めは、それだけを楽しんでいたようでしたが、私が「じゃあ、この線までそこ

から跳んで!」と、地面に線を描くと、高い所からその線を目指して一生懸命に跳ぼうと顔つきが変わりました。さっきまで、キャッキャキャッキャと騒がしかったのが、真剣な雰囲気になったのです。その線を目がけて跳ぶ子に、「惜しい!」「あと少し!」「跳べた!」「ヤッター!」等と声をかけていると、いつの間にか、岩の上に列ができていました。着地に失敗して手や膝にキズを負った子もいましたが、何回も挑戦していました。線に届いた子は、「もう少し遠くへ線を描いて!」と私に要求してくるほどでした。年中や年長の子供達は、縄跳びで跳べる回数の自己ベストを更新して行きます。保育室の中では、先生に教わる“指編みマフラー作り”で可愛いマフラーを仕上げようと粘り強く頑張ります。

色々な挑戦の中には、それぞれに『目標』があるのです。目標を持った人は皆、それに対するモチベーションが上がります。その意気込みで物事に取り組む事が出来ます。その目標に向けて少しでも近づこうと努力したり工夫したりして、いつも以上に力をだそうとします。もう少し、もう少し…と、それに向かって行く自分の頑張りや力に気付き、自分をどんどん開拓していくのです。

今、“夢”を持てない、夢を見つけられない子供達が増えてきたと言われます。自分が将来何をしたいのか、人生の選択肢を持てないのだそうです。いつも、自分で目標を持つて生活をしていれば、生きて行く目標を…“夢”を抱く事に繋げていけるのではないかと思うのです。生きて行く焦点が定まらないと、道がぼんやりとしか見えず、どこをどのように進んで行けばいいのかわからないのです。ずっと不安で…不安で本気になれないのです。自分に目標ができると、そこに向かって行こう!と、どんな障害があってもはねのけ、乗り越え前を向いて力強く進んで行けます。

これから、幼稚園の子供達は、新しいスタートラインに立ちます。特に幼稚園を卒園していく年長組の子供達は、全く新しい環境を受け入れ受け入れられたりしながら一歩前に進みます。卒園を前に、それぞれに自分の夢を語ってくれています。その夢が人生の目標になって、生き生きと生きて行ける子供達になって欲しいと思います。

幼い子供達が抱く“夢”は、まだ現実味を帯びていないかもしれないけれど、その時その時に自分でやりたい事、憧れるものを見て、それを目標にできればいいと思います。そうしながら、もつと…もつと…と『目標』に近づこうと目を輝かせるでしょう。人生に迷い自分を見失ったりする事のないように、『目標』『夢』を持つ事の喜びや楽しさを知っている子供達になって欲しいと思います。どうか、未来ある子供達が未来に希望を持ちながら、どんな壁にも、立ち向かって行けるように…。そのエネルギー源は、誰かに与えてもらうものではなく、自分自身で作り生み出すものだという事を伝えてやってほしいと思います。

それこそが、『目標』『夢』である事を……。

なぜ? どうして? どういう事?(平成26年度2月)平成27年2月

新しい年を迎えて、もう1カ月が経ちました。ついこの前、壁にかけたカレンダーはまだ始まったばかりですが、幼稚園の年度カレンダーはあとわずかになりました。子供達が入園・進級したばかりの頃からこれまでの成長した軌跡を振り返ってみています。

今は、毎日笑顔で、登園してくるあの子…そう言えば、毎朝中門で「ママがいい~!」と泣いていたなぁ。たくさんの友達と遊んでいるあの子…そう言えば、担任の先生から片時も離れられなかったなぁ。園庭で、友達と集まって相談しながら遊んでいる…そう言えば、以前は自分の思うようにならなかったら、一人で拗ねていてなかなか仲良く遊べなかったなぁ──等と、子供達の様々な成長に心から喜びを感じています。残り2枚のこのカレンダーにたくさんの想いを込めてこれからの日々を過ごしたいと思います。

子供達の成長は、子供達がどんな事にどんな風に興味や関心を持ってその事に関わっていくかで、大きく違ってくると思います。新年度では、子供達もまだまだ落ち着かなくて周りを見回す余裕がありません。面白い事にも楽しい事にも気付かないで、先生が与えてくれる事を一緒にしながら、徐々に自分で興味ある物を見つける喜びを感じるようになります。そして、与えられる事より自分で見つけたり探ったりする事の方が楽しいという事にも気付いていきます。自分で見つけた事の結論や結果を出そうと、努力や苦労をする中でグーンと成長するのです。結果・結論が成長なのではなく、プロセスを踏んでいるその時間の中にこそ成長があるのです。

先日、保育参観日の振替休日の日、プレイルーム(預かり保育)に、朝送って来られたある男の子のお母さんが、「葉子先生!うちの子に、“わびさび”について意味を教えてやってください。」とおっしゃったのです。どういう事かと聞いてみれば、どうやら、彼は歴史物にはまっているようで、NHKの番組を観ている時に番組で流れる歌の歌詞の中に“千利休”の事が歌われていて、そこで、“わびさび”という言葉が出るらしいのです。お母さんに「ねえ、“わびさび”ってどういう事?」と聞くのだけれど、お母さんはわかりやすく教えてやれないと言われました。私も、ほんの少しだけ日本の歴史上の人物や物の考え方を知る事が好きで、幼稚園でもお茶のお稽古を年長組の子供達と経験させてもらっている事もあり“わびさび”の言葉にある、日本の豊かな美意識や感性に誇りを感じていました。そこで、一緒に学ぶつもりで私なりに調べて、その子にその意味を伝えました。バシッとはまる言葉が見つからなくて、なかなかの難題でした。“わびさび”を説明しろといわれても、何となく…はわかるのですが言葉で上手く言い表せません。だけど、せっかく興味を持ったのだから、何かは教えてあげたくなりました。一生懸命説明していると、その子は、「ちょっと、待って!お話が長くてわからないから…」と言って私が持っていた紙とマジックを取って、説明をまとめ始めました。私の話に当たらずとも遠からずのまとめ方でした。「うん。わかった!」と、スッキリした表情で、その紙を折り畳みました。後日お母さんに聞くと、家に持って帰ったその紙を、彼は部屋の壁に貼っているそうです。

また、小川を何人かの男の子達がのぞき込んで何やら話をしていました。聞いてみると「ザリガニやエビやメダカがいない。前は、カエルもいたのに何もいない」と言うのです。いなくなった事情は色々だとは思いますが、その中の一人の男の子が、「寒い時には、あったかい所に隠れてるんよ。」「あったかい所ってどこ?」と聞くと、「今日は、けむり(多分、湯気の事だと思います)が出てないけど、小川がお湯になる時があるんよ。その時に出てくるんじゃない?」──すると、「お湯ぅぅ~!?そんなわけない!」と言う子「水のもっと下の土の中にもぐってるんじゃない?」「え~~ッ!エビがぁ~~!?どうやって?」と、色々な言葉が飛び交っていました。石を持ち上げてみたり、小川の端から端までを探してみたり、あったかい水の所はないかと手をつけてみたりしていました。その答えを見出し結論を出すために子供達の中で議論が交わされます。

こうした時間が子供達を成長させるのだと思います。話をしてくれる人、聞いてくれる人、一緒に考えてくれる人、一緒に行動してくれる人、共感してくれる人がいる事、そんな環境が子供達を成長させるのだと思います。『なぜ? どうして? どういう事?』と『?』にたくさん気付き“知りたい”と思う気持ちがその子をたくましく生き生きとさせてくれるのです。そのためには、感動のある生活をたくさん経験させる事が大切だと思います。まだまだ、子供達は、ほんの3~5年分しか、世の中を見ていないのですから、知識もわずかです。それだからこそ、『?』が溢れています。たくさんの経験ができる生活、心が揺す振られる生活があれば、子供達は『なぜ? どうして? どういう事?』と成長の種をまきます。「ホントだ!よく気が付いたね。どうしてだろうね。」と『?』を共有してくれる友達や上手に導いてくれる人がいたら、まいた種から小さな芽が出て、大きく育てる事ができると思います。今、ちょうど、『なぜ? どうして? どういう事?』と聞いてくる時期ではないですか?自分で気付いた疑問を自分で解決する道を探す事に面白さを感じる子供達になって欲しいと思います。わからない事がたくさんある程、これから世の中を生き抜く子供達にとっては面白いのです

乗らない自転車(平成26年度1月)平成27年1月

新年、明けましておめでとうございます。昨年の事を振り返りつつ、新たな希望や夢を抱いて新年を迎えられた事でしょう。今年も子供達とご家族の皆さんが笑顔で日々過ごせますように…。

さて、我が家には大学受験生がいます。頑張るのは本人ですが、受験生を抱える家族は、何かで協力してやりたいと、一生懸命に応援します…と言っても実際には何もできずに、ただただ気持ちが落ち着かないでいるものです。今や、正念場、年末からはクリスマスもお正月も返上で頑張る受験生です。本人も親も、目の前の事をやりこなすだけで精一杯です。そんな中、こんな事がありました。

我が家には、中学校の頃に買った娘達の自転車があります。塾や習い事をしていた頃に、二人がいつも乗っていた自転車です。中学校・高校と広島市内の学校に通い、朝早く学校に行き、夜は遅くなってから帰宅するという生活の中、その習い事の時間もとれなくなりやめてしまったため、ここ数年自転車にも乗る事がなく、置きっぱなしになっていました。私は、その自転車の事もすっかり忘れてしまっていたのですが、ある休日の夕方の事、珍しく家にいた娘が、庭にいたおじいちゃんの所に、『今晩は鍋をするから楽しみにしておいてね』と、話に行くと、おじいちゃんがその自転車のタイヤに空気を入れてくれていたそうです。しばらく、二人はそこで話し込んでいたようでした。それから、娘が家の中に入って来て、私に「あのね、おじいちゃんがね…」と二人の間で交わされた話を聞かせてくれました。

「おじいちゃん、空気を入れてくれてるの?もう最近乗ってないのに……」と娘が言うと、「そうじゃね。でも、おじいさんは、時々、こうして空気を入れてるんよ。里奈子ちゃんか夕奈ちゃんが、大学を卒業して…就職をして、“おじいちゃん、今日は天気がいいから自転車で行くね”ゆうて、この自転車に乗る日が来ればいいと思うてね。最近の事じゃけぇ、遠くの大学に行くのは仕方ないんかもしれんけど、おじいさんは…寂しいよ。」と、涙声で一生懸命に笑顔をつくって話してくれたそうです。そして、おじいちゃんは自分の服の裾で、自転車のホコリを拭いてくれたそうです。

おじいちゃんは、私達の子育てについて、決して自分の意見を押し付けたり反対したりする人ではなく、いつも影でどんな結果になっても見守ってひたすら孫の事を祈ってくれる人です。きっと、娘が二人共…と言えば無理かもしれないけど、どちらか一人でも、三次に戻って来てくれたらいいなぁと思っているのでしょう。しかし、直接その思いを孫に話すと、余計なプレッシャーや孫の意欲や意志を邪魔する事になるから、そう一人で願いながら時々自転車に空気を入れて願ってくれていたのだろうと思います。

長女は、2年前に家を離れ、この春には次女も家を離れる事になりそうです。おじいちゃんは、これまで、できる孫の世話を一生懸命にしてくれていたので、娘達もおじいちゃんの事は大好きです。長女に続き次女までが、家からいなくなる事が、おじいちゃんにとっては大変寂しい事なのでしょう。いつか、戻って来てくれたら…と願うおじいちゃんの気持ちが、本当にありがたくその気持ちに私は胸が熱くなりながら聞いていました。古い考えなのかもしれませんが、85歳のおじいちゃんにとって、家族がみんな近くにいてくれる事が何よりの幸せなのだと思います。困った事があったり辛い事があったりしても、そばにいれば何か力になってやれるし守ってやれる…そう思ってくれているのです。こういう愛情表現もあるんだなぁと思いました。“見守る”とはこういう事なのかもしれません。今まで、おじいちゃんがそんな事をしてくれていたなんて、一緒に住んでいても知りませんでした。娘にとって、おじいちゃんと久しぶりに話したこの短い時間は、どんなに心に響いたでしょうか。大切に…大切に思ってもらえている事に大きな幸せと、おじいちゃんを悲しませないように自分達も幸せにならなければ…という気持ちになったのではないでしょうか?今の時代ですから、娘達が必ずそうするとは限らないでしょうが、“帰っておいで”と願うおじいちゃんの胸の奥にある想いを十分に理解し、感謝して欲しいと思いました。それが、生涯、自分自身を大切に思いながら過ごしてくれる事に繋がるのでしょう。

受験勉強を頑張っている娘におじいちゃんが、「何かおやつを買ってあげよう。要る物はないか?」と聞くと「おじいちゃん、私…今、要る物は何もないの。ただ、学力が欲しいだけ…」とジョーク混じりに娘が答えたそうで、その事を愛おしく思って苦しかったと、おじいちゃんが私に話してくれた事があります。家族は皆、辛い想いや苦しい想いをしている我が子から、どうにかしてそれを取り除いてやりたいと思います。でも、その苦しみがその子のためであり、自分で乗り越えないとならない事であれば、じっと見守るしかありません。静かに見守る事が最高の応援なのかもしれません。これは、幼児期でも一緒だと思います。直接手を差し伸べるのではなく、その子の意地や頑張りが最大限に発揮できるよう、2歩も3歩も後ろで見ていてやる事は、子供達自身が自分の持っている力に気づき、自尊心を高める事に繋がっていくような気がします。そうして得た力は生涯のエネルギーとなるはずです。

我が家の“乗らない自転車”がいつもきれいだったのは、おじいちゃんの静かで大きな愛によるものだったのです。きっと離れていても、娘とおじいちゃんの間には、いつでも春のように穏やかで温かい風が吹き続けるでしょう。

日本の贅沢(平成26年度12月)

年賀状の予約、クリスマスケーキ、お節料理の情報…等と、街は年末ムードで賑わい始めました。この一年の間にいろいろな事がたくさんあったのに、時間だけはあっと言う間に過ぎて行ったような気がします。新しい年を迎える前に、“今年もいい年だった”と思えるように、健康で年末に向かいたいものです。

さて、先日、用があって尾関山公園のあたりを通りかかりました。濃いもみじの紅葉がパーッと目に入り、思わず車を止めてその見事な景色にしばらく一人で見入っていました。前日の雨で濡れて光る落ち葉も私の目を楽しませてくれました。もう少ししたら、この紅葉の景色が雪景色になるのだろうと…そして、そのうちに春になりこの場所には桜が咲き誇り、また違う楽しみを与えてくれるのだろうと思いながらその様を想像していました。

日本には、春夏秋冬の四季があります。どの季節にもその時らしさがあって楽しいものです。目に映る楽しさだけではなく、味覚での楽しみもあります。大根や白菜の料理が食卓に頻繁に並ぶようになってきたら「おっ!.大根の美味しい季節になって来たね」と、家族が言います。今、畑を見れば、大根・白菜・ブロッコリー・ネギ等がたくさん植わっています。先日、娘と畑に行き、大根を抜いて冷たい水で土を落としていると「この景色やこの寒さと、大根や白菜の収穫はセットだね」と遠くの山の色や畑を見ながら娘が言いました。「夏休みには、セミの声を聞きながらトマトをもぎ取ったり、キュウリやナスを料理して食べるのがセット…って感じがする」と言うのです。なるほど、毎年、季節を繰り返しながら五感で四季を味わって生活をしているのだという事を感じます。

ぽかぽか暖かい柔らかな日差しを感じる春には、それまでどこかしら緊張して見えた冬の景色も緩み始め、冬眠から目覚めた動物達が動き出し、その内、花々も咲き、虫たちが集まって来ます。何もかもが新しく動きだし、人々の新生活も始まります。身にまとう服を一枚…また一枚と脱ぎ汗ばむ夏、口にするものも冷たい喉越しの良いものを欲し、緑で生い茂った木陰に涼を求めます。そこで鳴くセミの声は一層暑さを感じさせます。秋の楽しみはまさしく五感に訴えます。食欲の秋・読書の秋・スポーツの秋等と言われるように…。そして、またこれから向かう冬には、厳しい季節を受け入れながら寒さを楽しむ食べ物や生活があります。このように、春夏秋冬で様子を変える中、それぞれに生活のスタイルを合わせながらも私達日本人は、季節を楽しむ事を知ってきました。

また、それぞれの様子に優しさ・勢い・はかなさ・厳しさ・強さ・哀しみ・喜び等、色々な感情も抱きます。感じ方は様々で自由ですが、日本の四季折々の景色を見て、一年中同じ感情でいる人はあまりいないのではないでしょうか?普段は日々の生活に追われ、季節による自分の心の動きや感情の変化になかなか気が付かないでしょう。ですが、そのつもりで、山やその木々を眺めて見たり、花畑や野菜畑の植物の匂いを嗅いでみたり、目を閉じて音や声に耳を傾けたり、風や空気を肌で感じてみたりしたら、四季によって抱く感情の違いに気がつくと思います。春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の…それぞれに抱く想いを楽しむのです。そうして、感情豊かな自分になっていくのにも気づくでしょう。

このように、日本には『四季』があります。それだけに自然災害にも苦しめられますが、『四季』の移り変わりに逆らわず、受け入れ共存する気持ちで無茶や無理をせず生活をする事によって、それは、この上ない『贅沢』になるのです。

子供達にも、この“日本の贅沢”を味わわせてあげてほしいのです。綺麗な花をみたら「きれいだね。○○の気持ちになるよね。」と話してみたり、熱い太陽の日差しを浴びながら自然のエネルギーの恩恵について感じさせてやったり、落ち葉を見たり集めたりしながら、そのはかなさやもの悲しさ…そして、雪の下にある新しい季節を待つ生命力のたくましさ等を一緒に話したりしながら、“感じる事”を意識させてあげるのです。そうする事を繰り返しながら、子供達の感性は育つのだと思います。「夏は暑い、冬は寒い」というだけではなく、そこに自分なりに抱くイメージや感情や思い出等をオーバーラップさせながら、四季を味わい、楽しめるようになるでしょう。

また、日本にはその四季に合わせて行われる伝統行事もたくさんあります。それらの全てが、四季の流れに逆らわず、自然を尊ぶ日本の美意識からきているもののような気がします。この贅沢は、頑張って働いて…とか、運が回って来て…とかで得られるものではなく、宇宙のエネルギーや神様からの贈り物なのです。たまたま日本に生まれここで生活できている私は、この『日本の贅沢』をたっぷり味あわせていただきながら、人間らしい心を何歳になっても育んでいきたいと思っています。子供達にも、五感の全てで春夏秋冬を感じ、幼い時期から感じる心が自分の中にある事を知り、更に、感性豊かな人になって欲しいと願うのです。

幼稚園での経験が確かな学びに(平成26年度11月)

園庭に、落ち葉がだんだん増えてきました。早い時間に登園して来た子供達が、先生を真似て長い竹ぼうきを難しそうに使い毎朝の掃き掃除を手伝ってくれます。先生達と一緒に掃除をしながら、きれいな落ち葉を見つけたりかわいいドングリを集めたり…。こんな時間も子供達にとっては、楽しい時間のようです。

先日、三次市内のある小学校1年生の2クラスが、動物との触れ合いを求め『生活』の時間を使って、三次中央幼稚園の“なかよし動物園”を見学に来ました。ご存知の通り、三次中央幼稚園では生命の輪廻(りんね)を身近に感じながらその尊さに気付いたり、生き物を慈しむ経験を通し優しく豊かな心が育ったりする事を願い、たくさんの動物を飼っています。ヒツジ・ヤギ・ウサギ・クジャク・カモ・カメ・コイ等、子供達にはどれも大人気の動物達です。その小学校1年生の児童の中には、何人かの卒園児がいて、他の児童達がエサやりに苦労していると「こうやってあげればクジャクは食べるよ」とか、カモが野菜をあまり食べてくれない事を残念そうにしている友達に向けて「カモは、この小川の苔が大好物だからこれをあげたらいいよ」とせっせと小川の石に生えている苔を木の枝でこすり取って集めてはカモにあげていました。友達に教えてあげているその姿は、ひいき目か、頼もしく思えました。何人かの児童も同じようにやり始めました。

1年生達が一番感心を示していたのはヒツジでした。こんなに間近に見ることはあまりなく、自分でエサをあげて食べてくれる大きな動物に触れる機会もないでしょうから…。ヒツジの周りは児童達が持って来て与えた野菜だらけになっていました。そんな時、一人の女の子が「フワフワの毛だね」とヒツジの頭を触りました。それをきっかけにたくさんの子供達が触り始めました。私は、これは良いチャンスだと思い、昔から幼稚園で大切に保管してあるヒツジの毛を刈って紡いだ毛糸を出してその子達に見せてあげました。「これは何でしょう!」と問いかけると「毛糸!!」と答えてくれました。「そう!これは、ヒツジの毛を刈って紡いだ物で、この毛糸が寒くなったらみんながよく着るセーターや手袋やマフラーになるんだよ」と話をすると、「アッそうかぁ」と歓声をあげました。セーターやマフラーが毛糸でできている事は知っていても、また、毛糸がヒツジの毛からできている事は知っていても、全てが結びついていなかったようでした。実際にそのヒツジを目の前にし、フワフワの毛を触ってみて、自分たちが着るセーターとヒツジの関係が頭の知識の中でピタッと結びつき感動したのだと思います。

また、3羽のクジャクを見て、「どれが雄でどれが雌かわかる?」と問うと「白いのが(三次中央幼稚園には突然変異で生まれた白いクジャクがいます)雌!」と言ったり「綺麗なのが雌!」と言ったりする児童がいました。すると、卒園児の女の子が「違うよ!しっぽの羽が長いのが雄よ。」更に「あの羽を大きく広げて、雌に好きです?って告白するんよ」と説明してくれていました。「うん!ブルブルって雌に近づくところを見た事あるもん」と、またもう一人の卒園児が付け加えました。幼稚園にいた時に経験した事が記憶に残り知識になっていたのです。「雄は雌にプロポーズするために、きれいな羽や姿を持っているんだよ。そう思って向うの池にいるカモたちを見てごらん。雄と雌がわかるよ」と言うと、皆がカモの池に向かって走って行きました。そちらの池では「アッ!わかった!こっちが雄だ!!」という声がたくさん聞こえて来ました。

それまでに実際その経験をしていた子供とそうでない子供の知識はこんな風に違ってくるのだと実感しました。多分、この子達は、いずれ学校の授業の中で、動物や植物の雌と雄の区別の仕方を習うでしょう。そこで初めて知る子もいると思います。あるいは、もうすでに何かでその知識を得ているかもしれません。しかし、その前に実際にその成り立ちや姿や様子を目の当たりにしてその時に得た知識は、リアルに子供達の頭の中に刻み込まれます。その上に教科的に学べば、(あぁ、そうそう!!そうだった!)(なるほど、そう言えば、見た事あるぞ)と学んだ事と経験した事が一致して、確かな知識となるのです。

この秋も幼稚園の子供達は色々な経験をしています。年長組は、春に植えたお米の苗が生長し、本物の鎌を手に稲刈りをしました。収穫したお米を炊いておにぎりを作って食べました。また、6月に苗を植え、全園児でサツマイモの芋掘りを経験しました。芋畑で食べたふかし芋の味は格別でした。このように、自分の口に入るまでの様々な過程に携わる事で、興味や関心の深さが増してくるのです。おにぎりやふかし芋の元々の正体やそれになるまでの一過程一過程に感動したり感心したりしながら、本物の知識を自分のものにしていくのです。

こんな経験ができたり、本物の動物や生き物に直に触れることができたりするこの環境の中にいる事を…、それを提供できる事を幸せだと思います。私達は、このありがたい環境を十分に生かして、未来ある子供達の学びに結び付けていく責任を感じています。

子供達が経験する一つひとつを一緒に感動して“生きた学び”に繋げていきたいと思っています。確かな学びの第一歩は、もう始まっているのです。