ちょっとした門には福来たる(2024年1月)

年末、一年を振り返るといつも「あっという間だった」と思います。これは、大人の感じ方であって、どうやら大人と子どもの時間の感じ方は違うらしいです。子ども達にとっては出会う事全てが刺激的で新鮮に受け止めます。その度にときめきながら印象深く心に残る一日一日を過ごすのです。時間を濃く感じるのだそうです。私達大人も子ども達と同じ目線で立ち止まり、ときめきながらじっくりゆっくり一年の流れを味わって行きたいものです。

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

「ちょっとした一文」

昨年末の事、私が仕事から帰宅すると家の裏口に折箱に入った干し柿が置いてありました。義理の叔母からでした。そこにはメッセージが添えられていました、「いつもいろいろとありがとう。お墓参りをしたので寄らせてもらいました。どうぞよいお年をお迎えください。」と……。留守だったので、急遽書いてくださったのでしょう。手帳の一枚をちぎって書かれた物でした。直接会えなかったのは残念でしたが、美味しい干し柿とそのメッセージで叔母からの温かい思いが心に沁みました。“ありがとう”と言ってもらえる事に恐縮し、私達家族の事をいつも思ってくださっている事に幸せを感じました。

また、近所には、野菜を作っている方がたくさんおられ時々頂きます。ある時、留守中に玄関先に白菜が置いてありました。そこにも、「出来過ぎてしまったので、手伝って食べてね。押し売りです。」というメモ書きが……。相手が気兼ねや気を使わずに済むようにという思いやりのあるこの優しい言葉に学ぶところがありました。

「ちょっとした気遣い」

幼稚園の職員出勤口の靴箱の上が、季節折々の花や置物で飾られています。12月は雪景色のトールペイントボードだったのが、年末にはお正月仕様のボードに変わっていました。これは、当番制でもなくその場所を装飾する決まりがあるわけでもなく、ある先生がいつもしてくれている気遣いです。出勤した時「今日も頑張りましょう」と先生達を迎え、退勤する時には「お疲れ様でした」と労うちょっとした気遣いです。いつの間にか、そ~っと変えてくれているのです。毎日、気持ちよく職員皆で頑張れているのも、こうしたちょっとした(大変かもしれませんが……)行いの裏に隠れた優しい言葉があるからなのです。

先日、娘が、大学時代の友達の出産祝いに行きました。6年ぶりの友達と赤ちゃんに会えるのを楽しみに出かけました。車での長旅を終えて夜遅く帰って来たのですが、楽しかった話をたくさん聞かせてくれた後、「それとね、嬉しかった事があってね。家に着いたらお茶を出してくれたんだけど、“あなたは、コーヒー飲めないからココアね”って、私が苦手な事を覚えていてくれたの。なんだか嬉しかった。その上、帰る時には旦那さんが“良かったら車の中でどうぞ…”って、紅茶を渡してくださったよ。凄い気遣いだよね。」特別な事ではなくても、何年たっても自分の事を大切な友達として思ってくれている事をその気遣いから感じ取る事が出来たのでしょう。

「ちょっとした一言」

夕方、職員室に預かり保育の年長組の子どもが大きなやかんを持ってやって来ます。夕方まで過ごす中で飲むお茶が入っていたやかんです。一日の終わりに毎日職員室まで返しに来るのです。「失礼します。」「美味しいお茶をありがとうございました。」と先生に渡してくれます。私はいつもその言葉に感心しています。きっと預かり保育の先生がそう言えるように促してくれているのでしょう。「やかんを返しに来ました。」とか「ありがとうございました。」だけでも良いのですが、「美味しいお茶を」と一言加えるだけで、感謝の気持ちの伝わり方が違うのです。先生が「美味しいお茶を……って言うんだよ」と促してくれるだけで、(本当に美味しかったなぁ。ありがたいなぁ。)とその言葉に立ち止まって考え、感謝する気持ちを持ちます。こうして子ども達は自らの思いを言葉にするようになって行きます。

また、お祝いにお花を送ったある女の子にその後会った時「あの時は、きれいなお花をどうもありがとうございました。」とお礼を言ってくれました。人にしてもらった事の何に…どこに心動かされたのかを感謝の言葉に添えて素直に言えるって素敵だなと思うと同時に、「きれいな」という一言に、その子のイメージに合う花を選んだ私の気持ちがちゃんと届いた事に、私もまた喜びを感じました。

「する側とされる側」

私達大人は、いろいろな人とコミュニケーションをとりながら円滑に社会を回しています。子どもは、そんな大人の姿を見ています。こうした「ちょっとした言動」で、周りの人を幸せな気持ちにできる事を感じさせて欲しいと思います。大人の姿を見て聞いて真似をして相手が喜んでくれたり、一緒に仲良くできたり、楽しく過ごせたりする事を子ども自身が実感していくうちに、小さいなりに心配りができる子どもになっていくような気がします。

心配りは相手を大切に思う事、気持ちを向ける事なのです。また、そうしてもらった側もその思いに気付く事が大切です。お互いに思いを寄せ合う事─────この関係性で幸せは成り立っているのかもしれません。

能登半島地震により被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。今もなお悲しみと不安な日々を過ごされている事を思い、一日も早い復旧・復興と心落ち着ける安心な暮らしが取り戻せますようにと祈るばかりです。

メロディーチャレンジ(2023年度12月)

「まっかだな♪まっかだな♪つたのはっぱがまっかだな モミジのはっぱもまっかだな~♪………」─────子供達が歩きながら歌っていました。赤や黄に色づいた園庭のモミジやイチョウの木を見て、”秋”という季節を童 謡を通しても感じさせてもらっている子供達の様子になんと幸せな事かと思いながら見ていました。

子供達は好奇心の塊だと言います。見る物聞く物全てが新鮮で、身体や心の中に染み込み易いのです。五感を通して自分の周りの環境に興味や関心を持てる生活をさせて行きたいものです。

毎日のそんな生活の中、今、子供達は「音楽」に親しんでいます。子供は、耳に入る音や音楽を鋭くキャッチします。音楽に合わせて自然に身体が動き、ウキウキしたりしんみりしたりして心も動いています。日々、いろいろな歌をうたったり、曲を聴いたりしていますが、10月に行なった「わんぱくチャレンジ」では、曲に合わせて鼓隊演奏をしたり、走ったり、踊ったりしました。今度は、子供達の好きな「音楽」を楽器演奏とステージでの踊りでチャレンジしようとしています。「メロディーチャレンジデー」目前です。

「重たすぎてできないの」

クラスでの練習の様子を見ているといろいろな場面に出会います。数カ月前から子供達はいろいろな楽器に触れ、自分がその楽器を使って演奏できる事を夢見ながら練習に取り組んでいます。それは、意外にも難しかったり逆に思ったほどでもなく簡単にできたり………子供達の様子は様々です。ある日、朝、大泣きをして登園して来た年中組の男の子がいました。いつもと様子が違ったので驚きました。なんとか、抱き留めながらじっくりその子と話してみると「アコーデオンが重た過ぎてどうしてもできないの。」と言うのです。なるほど、その子は小さくてきゃしゃな体格でした。その他にもいろいろ理由を話してくれましたが、詰まるところはそこだったようでした。「じゃあ、先生にその事を話してみよう」と一緒に担任の先生の所に行って話しました。彼の気持ちが落ち着くまでしばらく一緒にいましたが、いろいろな楽器を練習している友達の様子をチラチラ見ている彼に「どの楽器が楽しそうかな?どれがしてみたいかな?」と聞くと「重たくなかったらできるかも……」とボソボソっと言いました。合奏はやりたい気持ちでいっぱいなのでした。

それから、しばらくしてその子の様子が気になり、保育室に行ってみると朝の沈んだ気持ちはどこへやら……すっきりした顔で遊んでいました。そして、練習を覗くと違う楽器を持って、実に楽しそうに演奏していたのです。先生が、いろいろ考えて彼のチカラと気持ちに合った楽器に変えていたのでした。彼のチャレンジの土俵を少し変えてあげたのです。

きっとできるよ!

練習には、担任以外にも先生達が関わりアドバイスをし合います。「もっと、木琴のここのメロディーをこうしたらきれいなんじゃないかなぁ?」とか「打楽器のここのリズムをもっと正確に叩けるといいね。」等と、練りながら皆でよりステキな演奏を目指します。

そうなると、それまで練習していた事が変わるのですから、子供にとっては一大事です。木琴を担当しているある子供達は、必死で覚えた部分の変更に一生懸命できるようになるまで練習を重ねました。どうしても、これまでの事が混ざってしまってなかなか上手くいきません。自分でもバチを動かし何度もさぐり弾きをしていました。すると、「園長先生、来て来て、こう?私できてる?」と私を静かに呼んでその部分を叩いてくれました。できていました。「そうそう!!できたね!」と言うと、すごく嬉しそうに、繰り返していました。実に満足そうでした。先生達は、挑戦するチャンスを作りその子の持つ力を引き上げてくれるのです。

ある打楽器の子も、自分の頭ではわかっていても、なかなか先生の楽譜通りのリズムで叩けないのが悔しそうでした。「こう?」「これは?」と確かめながら自主練習をしていました。5回に1回くらいは正確に叩けるのですが、完璧ではありませんでした。でも、いろいろな先生が「○○君ならきっとできるよ!すごくいい音で叩けてるもん」と声をかけてくれるのが、励みと自信になって頑張れているようでした。

子供達は、先生達の様々な手腕でチャレンジする気持ちに誘われます。僕ならできる!私なら頑張れる!と信じさせてくれる──まるで魔法の技です。

新しい自分に出会えるチャンス 

チャレンジは上手くいく事ばかりではありません。挫折や試練はつきものです。チャレンジするという事は、”今の自分を超え、頑張る素敵な自分に出会える。”という事です。それまで潜在していた自分の力を発掘します。「自分ってなかなかやるじゃん」と新しい自分に出会うのです。そこにチャレンジの意味や成果があるのだと思います。大きな事でなくても、何かに向かって頑張る事を日常的に繰り返す事で、くじけない強い心や踏ん張る力が育ちます。

「メロディーチャレンジ」で、仲間とひとつの目標に向かって踊りや合奏をみんなで頑張るという事には更に大きな意味があります。友達が頑張っている姿を見て応援したり触発されたりしてできた時には一緒に喜び合う、チャレンジにくじけそうになっても励まし合えばまたチャレンジの気持ちをチャージできる─────。仲間と一緒なら乗り越える力が何十倍にもなります。頑張った先の達成感も何十倍です。クラスの友達と先生と一緒に、頑張った者にだけ見える景色を味わうでしょう。

子供達のチャレンジをどうか応援してあげてください。

真剣に…真剣に(2023年度11月)

先日、子供達が持ち帰ったサツマイモは、お家でどんな料理になって心とお腹を満たしてくれたでしょうか?すっかり秋めいて来た中、芋畑には子供達の歓声が響き渡りました。また、幼稚園内のブドウ棚では、立派な「紅三尺」という品種のブドウが実り、年長組の子供達が丁寧に収穫して皆で食べました。まさに実りの秋を実感しています。


収穫と言えば、5月に我が家の田んぼに年長組の子供達が田植えをし、黄金色に実った9月の終わりに稲刈りを経験しました。幼稚園の子供達の稲刈りは18年前から行っています。毎年、稲刈りをする度に思い出す事があります。

「真剣な時は大きな怪我はしないよ」

幼稚園の田植えは、それより数年前から経験させていましたが、稲刈りは鎌を使わせる事が危険だろうと毎年断念していました。そんな時、当時の理事長に「稲刈りを子供達に経験させてあげたいんですけど……。無理です…か…ね。」と恐る恐る相談しました。すると「やったらいいよ。」とあっさり返ってきました。「エッ、鎌で…ですか?」と問い返すと「人は、真剣にすると大きな怪我はしないんだよ。子供は初めての事だからこそ真剣にするでしょ。経験に慣れて油断する大人よりも怪我はしないよ。ひとりでやらせてごらん。大丈夫だよ。」──その言葉に、私も先生達も強く背中を押してもらいました。


そして稲刈りの日、子供達には入念に鎌の使い方を話しました。子供達は真剣に聞き入っていました。その後、一人ずつ自分で刈る子供達の顔は真剣そのもの。ふざけたりお調子に乗ったりする子はいませんでした。そして、一株刈った稲を持ち上げる子供の表情は一変して満面の笑顔でした。


あの時の「真剣にすれば大きな怪我はしない」という当時の理事長の言葉は、いろいろな場面でも思い出します。子供達は、チャレンジャーです。好奇心をもって環境と関わろうとします。アスレチックを駆け上る時、鉄棒の前回りを頑張っている時、一生懸命走る時等、ちょっと見たら危なっかしいと思われる事でも、挑戦する時の子供達は真剣な顔をしています。


なるほど、そんな時は手にも足にも気持ちにもグッと力が入っていて、大きな怪我に繋がる事は少ないようです。

真剣になれるのは「小さな危険」を経験した事があるから

では、どうして子供達は、鎌での稲刈りに真剣に向き合ったのでしょうか?─────それは、これまでに小さな危険な目に会ったり、怪我をした実体験があるからです。転んだら痛かった。血が出た。ドキッとした。怖かった。そんな痛い思いや、辛い気持ちを何かの機会に経験できているからです。可愛い手に余る程の太く硬い稲束を鎌で刈るのは、ただ事ではない……と、それまでの、いろいろな経験からわかるからです。鎌の間違った使い方をすると、どんな事になるのかが想像できるから真剣だったのです。

「小さな危険」は、この先を安全に生きるために必要な経験

子供達は好奇心をもって世の中の様々な事を知ろうとします。その中で、小さな危険をも体験しながら成長する事が必要だと思います。危ない事や物を先回りして排除し、子供達の生活の場全てに念入りな安全策を講じていたら、危険に出会わないまま大きくなります。「危ない事」の本当の意味や痛みや辛さが体験できていないため、大きな危険が予測できなかったり、危険からどう回避すれば良いか、どう対応すれば良いかを考える経験がないまま大人になるでしょう。また、他者に対してもこれ以上は人を怪我させてしまうからやめておこうとか、辛い思いをさせたらかわいそうだから……という加減ができない、自ら身を守る事も他者を大切にする事もできない人になってしまいかねないのです。それは、もっと危険な事です。

チャレンジが「何処から何処までが危険?」────を分かる子にしてくれる

チャレンジと危険は隣り合わせです。例えば、小川の向こう岸に跳び越えようとチャレンジします。跳び方によっては……または、自分のその時の力に見合わない程向う岸までの幅が広すぎては、跳び越えられず水の中に落ちてしまう事があります。そんな事はわかっていても、成功する策を考えながら何度も挑戦するうちに、危険範囲と安全な方法を探っていくのです。チャレンジの賜物です。そんな経験をたくさんして危険な事や困難な事に上手く対応して生きて行く力が育ちます。


「小さな危険」に出会った経験が未知の経験に真剣に向かわせてくれる……そして真剣にチャレンジする事で新たな自信を生む……その自信は、また次のチャレンジに真剣に取組む気持ちに繋がる。危ない事がわかっているからこそ、真剣に根気よく様々な事に挑戦できる子になるのです。


幼い内に経験しておかないと…「あぶない!あぶない!」は、もっと危ないのかもしれません。

フェアプレーでノーサイド(2023年度10月)

 今日は、中秋の名月、十五夜です。先日、年長組はお月見のお茶会を経験しました。お月見は、様々な農作物の収穫をきれいな月を見ながら感謝する古来伝わる行事です。月の影を見て「月でうさぎがお餅つきをしていると思う人!」とお茶の先生が聞かれ、ほとんどの子供達が「はーい!」と手をあげていました。そんな昔から伝わるロマンも子供達ならではの楽しみ方かもしれませんね。

私には、週一回とても楽しみにしている事があります。日曜日の夜、「大河ドラマ」を観る事です。あまり、お気に入りのテレビ番組を持つ方ではないのですが、これだけは、欠かさず観る事を楽しみにしています。しかし、ある週の事、ラグビーワールドカップ戦のため放送が中止になっていました。残念がっていると、主人が「今日、それを残念がっているのは、日本でキミくらいじゃないか?」と冗談っぽく言いました。日本代表の初戦だったからです。テレビ観戦している主人は「よっしゃー!」「すごっ!」と言いながら楽しんでいました。その主人の様子につられて、つい私も見入ってしまいました。その試合はみごと快勝、「ノーサイド~!!」というアナウンサーの声と同時に歓声が聞こえ盛り上がっていました。そして、両チームの選手が抱き合ったり硬い握手をしたり言葉を交わしたりしていました。敵も味方も関係なくお互いに讃え合っていました。スポーツ観戦をすると、こうしたシーンをよく見ます。真剣勝負までの道のりの大変さや強い志に共感し合える物があるからこそ、勝者敗者や敵味方関係なく、お互いの健闘をたたえ合えるのだと思います。そんな姿を見ると、どちらかを応援していたとしても、両者に惜しみなく拍手を送りたくなります。スポーツマン精神の素晴らしさに胸を熱くさせられるのです。

ある朝、年長組の子供達が、数人でリレーをして遊んでいました。チーム分けやバトンの準備をし、園庭に描かれたトラックのラインを使って走っていました。しばらくすると、何やら皆で集まって言い合いが始まり、聞いてみるとどうやら、トラックのラインを外れて内側を走った子がいたようで、「それはルール違反だ!」と厳しく言っていたのです。一生懸命に走っていて本人はそのつもりがなかったようですが……。ルールを巡っての言い合いでした。子供達にはありがちな事です。年長組くらいになると、リレーやかけっこのルールがよく分かっていて、厳しい判定をし合いながら遊びます。楽しく遊ぶためには大切な事です。ルールは、単に競技の方法ではなく、公平かつ安全の中で力を出し合うためのステージをつくってくれるものです。

ルールがなければ、それぞれが各々に持つ自分勝手な価値観で勝負をする事になります。無秩序の中では、勝っても負けてもお互いに認め合えない達成感の得られないものになります。何より危険も伴います。結果に喜びや悔しい思いをした後に自分の中でそれを受け入れ、次は頑張ろうと再び努力をしたり、戦った仲間と共に讃え合ったり、次なる目標を掲げたり等、前向きな強い気持ちが育ちます。お互いにルールを守りながら正々堂々と勝負に挑むからこそ得られるものです。

しかし、これが、小さな学年になると、そのルールに基づいて競技するという意識は年長組ほどまだありません。どんなふうに走っても、人の走りに物言いもしません。トラックを走る事の楽しみ方が年長児とは少し違うからです。小さな学年の子供達にとっては、大きなトラックを自分の足で頑張って友達と一緒に最後まで走るその事が楽しいのです。「がんばれ~」の声に力をもらいながらドキドキワクワクしながら気持ち良く走るのです。少しくらい、フライングしたってラインの内側を走ったって、お互いに気にしないのです。それでも何度か走っているうちに、トラックラインに置かれたコーンを意識できるようになり、それがルールだと気が付くようになります。先ずは、ゴールに向かって最後まで頑張って走りきろう──────これも大切なルールです。その中で達成感や楽しさを感じられれば素晴らしい事だと思います。

幼稚園では、間もなく『わんぱくチャレンジ』を開催します。その日を目標に、様々な種目に挑戦する経験を通し、心や身体にたくさんの学びを培ってきました。かけっこやリレー等の競技種目に心を燃やしたり、年長組は、鼓隊パレードで努力の成果をたくさんの人に観て貰ったりします。

友達と一緒に曲に合わせて踊るダンスも、気持ちを合わせ演技する鼓隊パレードも、根気よく何度も繰り返し練習を積み重ねて行きながら仲間の存在を意識し、認め合い、協調し合う事の意味が分かって来たと思います。”みんなで一生懸命頑張ろう!”──────この大きなルールの中で子供達は皆楽しさや達成感に出会います。苦手意識を克服したり、自分の好きな事や得意な事が見つける事ができたり、友達と一緒に生活する楽しさが増したりします。一つひとつの経験に皆と一生懸命取り組んで来たからこそ味わえる事です。

『わんぱくチャレンジ』当日には、お家の人達の応援を受け拍手をいただく事で、その頑張りを自信に繋げていく事でしょう。どうか、惜しみないエールを送ってあげてください。そして最後には、頑張った者同士お互いの健闘を讃え合える「ノーサイド精神」が宿ったとしたら、この『わんぱくチャレンジ』の経験が、これからたくさんの人達と生きて行く上で子供達を支えてくれる素晴らしい力になると思うのです。


今年度のプログラムには、親子競技を組んでいます。保護者の皆様もどうか、「ノーサイド精神」で素敵な一日にしてくださいね。

親子でクッキング(平成23年度9月)

年々夏の暑さが増し、ついに「地球温暖化」にとどまらず「地球沸騰化」という言葉が聞かれるようになりました。地球に異常事態が起こっている事を感じます。暑さ指数を気にしながらの夏はまだもう少し続きそうです。

そんな暑さの中の夏休みは、皆さん、どのように過ごされたでしょうか?普段よりは、家族で過ごす時間も多くあり、楽しい夏の思い出ができたのではないでしょうか? 2学期が始まり、子供達から夏の思い出話が聞ける事が楽しみです。


何年か前の事になりますが、お盆休みに入る少し前に、広島市内に住む娘から電話がかかってきました。「肉じゃがを作ったんだけど、何だかお母さんの味とは違うんだよね~。美味しくない訳じゃあないよ!それはそれで、前にお母さんから教えてもらったように作ったから、美味しいのができたんだけど、何か違うんだよね~。」「調味料の分量をもう一回教えて欲しい。」と言うのです。ありがたい事に、娘は、昔からいつも私が作る料理を「やったー!お母さんの定番の味!」と言って喜んで食べてくれます。大学生から一人暮らしを始め、社会人になって自分で料理をして食べたり人に食べてもらったりする機会が増えたのでしょう。何を作ろうかと考える時にお母さんの料理を思い出して作るのだと言ってくれます。しかし、「調味料の分量は?」と聞かれても、計りながら作っているわけではないのでなかなか電話では伝えられず、お盆に帰って来た時に一緒に作ろうという事になりました。

それから、お盆になり、娘達と一緒にお盆のご馳走を作りました。我が家はお盆やお正月にはお客様が来られるので、そういう時は一日中台所に立って何種類かのおかずを作ります。それを娘達が手伝ってくれるようになったのは、やはり一人暮らしを始めた頃からだと思います。それまで食べる専門だった娘達が、お母さんの味を自分でも作ってみたいと思うようになってからは本気で手伝ってくれるようになりました。

一緒に作りながら、娘達は、私の手元を見て野菜の切り方を知ったり、美味しくなるためのひと手間を知ったり、効率よく作るための順序等にも関心を持って見たり、よくわからない事には「どうして?そうするの?」と聞いて来たりもしました。味付けの調味料を入れる時は一段と興味津々です。でも、私が、計量カップやスプーンを使わず、おおざっぱにボトルや調味料ケースから適当に入れるのを見て、娘達は「どのくらいかちゃんと教えてよ~」と聞いてきます。「どのくらいって、このくらい。見て覚えて!お母さんも計って作った事ないんだよね~。」と言うと、笑いながら「じゃあ、調味料を合わせた煮汁の味見をしてみよう。」と鍋からすくってなめたり飲んだりしていました。そして「うんうん、これこれ!」と目指す“お母さんの味”を色具合や味や香りで確かめていたようでした。そうしてできた料理が美味しいかどうかはさておき、親子で料理をするという経験の中では、いろいろな事が育つような気がします。

例えば、料理をする時、キッチンが親子でのちょっとしたコミュニケーションの場になります。料理についてだけではなく、「あのね、お母さん、この前こんな事があったよ。」とか、「アパートの近くのスーパーに面白いレジのおばさんがいて、仲良くなったんだよ。」等、同じ時間を過ごしながら会話が弾みます。たまに、恋バナ等聞く事があり、それはそれは楽しいひと時です。

次に、一緒に料理をしていると、自然と役割分担ができます。具材を切る人、調理する人、使った鍋や容器を洗う人……と段取りを考えながら自分は今何をしたら良いか、次に何が必要かを見極め動こうとします。初めは、「これして。あれして。」と指示しないと動けなかったのが、自分で考えてその時の状況に対応しようとアンテナを張る事ができるようになるのです。我が家の娘達はいまだに指示を要しますが……(笑)

また、美味しくいただくまでの、具材の色、手触り、グツグツ煮える音、香り、味等を五感で覚えて行きます。自分で作る時にその時の事を思い出しながら、あの味に近づこうと試みるのです。私も、子供だった頃、夕飯支度をする母親の隣で手元を見たり味見をさせてもらったりしながら、母の味を受け継いできたような気がします。

そして、それを食卓に並べ家族でいただく時、「どうやって作ったの?」「おいしいね」「大変だった」「楽しかった」「難しかった」等と家族の会話が広がるのです。家族皆のコミュニケーションが深まります。

更に、いろいろな食材を作ってくださっている方々への感謝、肉や魚など命ある物を食する事に対し手を合わせて「いただきます。ごちそうさま。」の気持ちを持つ大切さも味わいます。

娘達は、「おいしい」と言ってくれますが、私は決して料理が得意なわけではないし、家族の者の口に合っているだけで、自慢できるものでもありません。でも、“お母さんの味”を目標にしてくれているのは嬉しい事です。一緒に料理をする時間そのものも貴重な時間である事をすごく実感します。料理を覚えるという事以外に、その時間を通したくさんの事が得られる気がします。親は皆、子供達には自立した大人になってもらいたいと思っています。自立して生きて行くためには、生活力を身に付けて欲しいと思うでしょう。ご飯支度でもお菓子作りでもいいのです。親子でのクッキングを通し、ぜひ楽しみながら家庭でないとできない学びの場を作ってみてください。

料理をするという事は、とても頭を使う事だと言われます。“何を作ろうか”と考えそれに合わせて買い物をしたり、何がどれだけ必要かと考え準備したり、手先を使って調理する……。何品かの料理が出来上がるまでには様々な工程を効率良くこなし、五感を働かせながら完成させていく……。頭はフル回転です。これを毎日毎日繰り返しているのですから凄いものです。

しかし最近、我が家の冷蔵庫の中に時々あるべきものではない物が入っている事があります。先日は食品包装用ラップが入っていました。きっと無意識にした私の仕業です。「これはまずい!」と少し焦りました(汗)。今や、この年になると、娘達と一緒に台所へ立つ事は子供のためだけではなくなって来ました。私自身の脳トレのためにも、家族が喜んでくれる手料理を頑張って作りたいと……そうしなくっちゃいけない!と思っています(苦笑)。