気持ちを伝える(平成27年度2月)平成28年2月

温かい年明けだ!と安心していたところ、先週末には約40年ぶりの猛烈な寒気が流れ込み、幼稚園でも休園の措置をとりました。ご理解とご協力をいただき、ありがとうございました。自然のご機嫌は油断できないものだと痛切に感じています。

そんな寒さにも負けず、子供達は毎日元気に幼稚園で遊んでいます。大人の心配をよそに、この度の寒波による雪では、思う存分に雪遊びを楽しんでいました。そんな中、寒さのせいか?ちょっとした友達とのトラブルからか?登園した姿のまま、保育室に座り込んで泣いている年少組の女の子がいました。わけを聞いても泣きじゃくるばかりでわかりませんでしたが、体調が悪いわけではなさそうです。とにかく誰かに抱っこしてもらっていないと涙が止まりません。気を紛らわせるために、その女の子を抱っこして、園内を散歩していると、少し落ち着いて来たので職員室に連れて行き、涙が止まったご褒美に私が持って来ていたリンゴを一かけ口の中に入れてあげました。

翌朝、その女の子がテラスにいる私を見つけ、遠くから「ようこせんせ~い!」と呼んでくれました。髪を振り乱して泣いていた昨日とは違って、三つ編みのおさげ髪で可愛い笑顔でした。「おはよ~う!」と言うと、何かを手に走って来てくれました。「これ!」と言って私にビニールの手さげ袋をくれました。中には、お弁当箱が……そのふたを開けてみると、いろいろな種類のおやつが入っていました。そして、手紙も…。その手紙には、絵と、たどたどしい文字が書いてありました。「ようこせんせい だいすき」「ありがとう」と……。3歳児ですから一生懸命に書いてくれたのでしょう。やっと読めるくらいの字でしたが、それだけに私は嬉しくてたまりませんでした。後からお母さんに聞くと、「夜、葉子先生にあげるんだと、クリスマスの時にもらったおやつの箱の中から一生懸命選んでいました。字も、お手本を書いてあげたら、それを見ながら一生懸命に書いてたんです。」と言われていました。さらに「手紙を書いたのも初めてだったんです。」…と。私は、その子がその時にどんな気持ちで、慣れない鉛筆を握ってどの位時間をかけて書いてくれたかを想像すると、本当に愛おしく思えました。『ありがとう』の気持ちがひしひしと伝わってきました。私はそれから返事を書きました。彼女がどんな気持ちで読んでくれるのかを想像しながら…。

この時期になると、お正月の年賀状のやりとりがきっかけとなり、お手紙ごっこが流行ります。職員室にも、園長先生や私に郵便屋さんに扮するお当番さんが配達してくれます。はがきにクイズ問題を書いて送ってくれる子や、“ようこせんせい、がんばっておしごとしていますか?”と書いて様子を伺ってくれる子、お弁当を一緒に食べていろいろな話をした子からは“ようこせんせい、またいろんなおしゃべりがしたいです。”という手紙が届いたりして、それを読むととても楽しいです。その手紙に対して、私は、また返事を書きます。そして、お互いに自分の気持ちを相手に伝えたい一心で、文字を使い気持ちを表現するのです。

年長組には、日々の生活の中で、心に残った事や思っている事、感じた事を日記や作文にして、家でノートに書き、園長先生や担任の先生に持って来る子がいます。それを読むだけで、その子がどんな事を感じているのか、どんな楽しい気持ちや嬉しい気持ち、悔しい気持ち悲しい気持ちだったのかが伺えるのです。園長先生は、その子のノートに返事を書きます。こんなやりとりがずっと続いているようです。

子供達は、文章・言葉・絵・音楽…等いろいろな方法で、自分の気持ちを相手に伝えようとします。そして、自分の気持ちが相手にちゃんと伝わる事の気持ちよさや嬉しさを感じます。人に伝えたり自分に伝わったりするその間にはいい関係が生まれます。心が通い合うのです。親子の間でも子供達がいろいろな方法で、気持ちを表現しているのを感じる事がありませんか?まだ動けない話せない赤ちゃんの頃には泣く事で気持ちを伝えようとします。少し大きくなると、わがままを言ったり身体全部を使ったりして訴えてきます。大人に近づくにつれて、相手の気持ちを伺ったり理解したりしながら、文章や言葉でわかるように伝えるようになります。

小さな紙に書いた先生への手紙、ほんの少しの言葉だけれど、これが大きなコミュニケーション能力の育ちやきっかけになります。「どうしたの?」と聞いた時に表現する力がある子は、その理由やどうしてほしいのかを伝える事ができるでしょう。嬉しい時には“嬉しい”と、悲しい時には“悲しい”と、はっきり意思表示ができる子になるでしょう。そのためにも、心に残る経験やその時に感じた事を表現して伝える事ができる環境をつくってあげてほしいと思います。子供が、「おかあさん、あのね…」と話す時、文字にしたり絵を描こうとしたりする時、歌を口ずさんでいる時、その時々の子供の気持ちを受け止めたり返してあげる事で、増々子供達は気持ちを伝える楽しさを感じるはずです。

そうは言っても、気持ちを上手に伝えるという事は、大人になってもなかなか難しいものですよね…。

愛情の連鎖は世代を超えて(平成27年度1月)平成28年1月

新年明けましておめでとうございます。今年は、例年にはない穏やかで暖かい…暖かすぎる年初めとなりました。日本列島あちらこちらで、この異常さがニュースになっていましたが、寒がりの私にとっては、身体の緊張と共に心までほぐれる気がしてありがたく思えました。寒いと家の中に籠りがちになってしまいますが、その暖かさに誘われて、何かをしたい気分にもなって来ます。今年も子供達のパワーに負けないように一生懸命に身体と頭を使って頑張れそうな気がしています。皆さんはどのような気持ちで新年を迎えられたでしょうか?今年一年が幸せな年になりますように……。

さて、お正月は、親戚やお客様の出入りがあって、楽しくもあり忙しくもあるものです。特に本家である我が家には、お正月を過ぎてからも年始の挨拶に来られるお客様もあり、怠慢な嫁としては油断ができません(笑)。都合でお正月に来る事ができない方は、年末にご挨拶に来られます。ずっと昔から我が家はこうした親戚付き合いを大切にしている家のようです。大変ではありますが、その時の義父の嬉しそうな顔を見ると、今年も元気な顔を見せに来てくださって良かったと思えます。

そんな中、私達にとって一番近い関係でもあり一番近くに住んで私達をいつも助けてくれる義姉夫婦が、孫達もでき大人数になって身動きが大変なのとお正月に全員が揃うのも難しいという事で、この度は、私達家族を年末に招待してくれました。そこには、義姉夫婦と帰省したその息子二人とそれぞれの家族が9人、そして招待を受けた私達夫婦と娘二人と義父の総勢14人が集まりました。4世代の集まりです。久しぶりに会ったのと、下は11カ月の子供から上は85歳のおじいちゃんという幅広い年齢層という事もあり、それはそれは賑やかでした。みんながご馳走を囲んで落ち着いて座ったのは、それからしばらくしてからでした。義父が上座に座り、義兄が乾杯の挨拶をしてくれました。「今年も、本当にたくさんお世話になりました。みんながこんな風に元気に顔を合わせる事ができた事に感謝し嬉しい限りです。特にお義父さんには、いつまでも元気でいてもらって、これからもお義父さんを中心にして、お互いに協力し合ってみんなで仲良く幸せに過ごしましょう。新しい年もよろしくお願いします。今日はしっかり食べて賑やかに楽しい時間を過ごしてください。」と……。『お義父さんを中心に……』とても温かい言葉でした。それを横で聞いていた義父は終始笑顔でした。義兄の言葉にあらためて今の幸せの核には義父があるという事を感じました。幼いながらに苦労し、戦後の家族を支えてきた団塊世代の義父の背中をその子供である主人や義姉が見て育ち、知らず知らずのうちにその精神は引き継がれ、他人だったそれぞれの連れ添いに染み込み、またその子らが私達の背中を見て育ち、そのまた子らが育とうとしている……これを繰り返し、重ねて行く…。今ある幸せは、今作られたものではない事を実感したのです。

それから食も進み、色々な話をしました。世代を超え混じり合っての話は新鮮で楽しいものでした。昔話、仕事の話、恋愛の話、結婚観、子育て、今後の生き方、夢や人生設計等…、笑い話をしながら私の娘達にも色々な立場からの話を聞かせてもらいました。何でもない話でも、そこには義父の優しさや強さや厳しさを受けて生きているそれぞれの人の愛情が感じられ、義父の生き様は私達を学ばせてくれているような気がしました。大切なのは、『家族』『命』、そしてそう思える『家族』や『命』が増えていくことが幸せを大きくしていく事なのだとたくさんの話から娘達は思ったのでしょう。帰る車の中で、娘達が「あの家族やうちの家族を裏切れんわぁ~。親戚の人達にも私達は大切にされている事を感じたよ。」「うん。ホントそうだね。」とつぶやきました

元日の朝、お節を囲んで、義父が孫娘達に話をしていました。  「二人共、今年も一生懸命がんばりんさいよ。だけど、心と身体が壊れる程がんばらんでいいんよ。どうしても、しんどくなった時には、お父さんやお母さんが必ずいてくれるんだから、お父さんしんどいよ~。お母さん助けて~って言わんといけんよ。一人でその気持ちを抱えたらいけんよ。壊れちゃあいけんよ。絶対壊れちゃあいけん。一番大事なのは“命”……わかっとるよね。おじいさんは、二人に“命”があるだけで嬉しい……。」と。

私達は、つい「頑張れ!がんばれ!」とシャカリキに言ってしまいます。甘えるんじゃない!と思ってしまいますが、おじいちゃんは大切なものは何かを教えてくれます。長く生きて来てこの世で何が一番大切なものであったかを示してくれるのです。私達親とは違う愛ある言葉を子供達や孫達の心の中にまいてくれます。

こんな言葉やあんな言葉、こんな考えやあんな考え……色々な人と話をして言葉を聞いて、自分でその中から選んだり真似たりしながら自分の生き方を見つけてほしいと思います。世代を超えて家族や親戚が集まるこの機会に、私達親だけではできない事をしてもらえたような気がしました。

おじいちゃんの話にはまだ続きがありました。「おじいちゃんのお父さん(曾祖父)は、優しい人でね、裕福でない家の子供が家計を助けるんだと毎朝新聞配達に来ていたんだが、ひい爺さんは、お正月には外でその子が来るのを待って、お年玉を毎年あげていたんよ。そんな人だった…。」───義父もまた、そのお父さんの背中を見て精神を受け継いだ人なのでした。

頑張るって楽しい(平成27年度12月)

幼稚園のイチョウやモミジやアメリカンフーの木が紅葉し、色とりどりの落ち葉の絨毯が子供達のあそび心をくすぐります。幼稚園の中で“紅葉狩り”さながらの気分を味わえるとは、なんと贅沢な事だろうと毎年思います。

そして毎年この時季には、もうすぐ行われる“音楽発表会”に向けての取り組みの様子や音が見聴きされるのです。毎朝、園庭の掃除をしていると、早く登園してきた子供達が、鍵盤ハーモニカをロッカーから取り出して、自分のクラスの曲を練習する音が聞こえてきます。曲に合わせて何人かの友達と踊ってはしゃいでいる姿が見えます。取り組み始めたばかりの頃には、それが何の曲なのかいったいどんなものに仕上がるのかと予想がつかないくらいのたどたどしい音が、日に日に、しっかりした音やメロディーになって聴こえてくるようになります。年中・年長組の保育室からは、自分達でハードディスクのスイッチを入れて、曲を流しながらパート別に練習をしているのです。その演奏は、正確ではないけれど、遠くから聴こえてくる子供達だけの練習の音は、とても自信あり気で楽しそうでした。

そんな中、私も練習の様子を見るために、クラスを回っていると、ある年中組のクラスで、たった1回の練習で、「もうしない」とその場からどこかへ行ってしまう男の子がいました。先生が、「上手だよ。もう1回だけやってみようよ!」と言っても、「ううん」と首を横に振ります。その楽器が嫌なわけでも、練習が嫌いなわけでもなさそうなのですが、何度でも頑張ってみるという気持ちになれないようでした。しかし、パート練習から全ての楽器を合わせて練習をするようになったある日、練習場所であるホールにやって来る子供達を待っていると、その男の子が、ニコニコと嬉しそうに入ってきました。自分のポジションに立ち、準備をしているその子は、以前の顔つきではなくなっていました。「じゃあ!始めるよ!用意!」と先生が指揮の手を上げると、全員の顔が真剣になりました。彼も先生の顔をじっと見ています。演奏が始まり、自分のパートを一生懸命に頑張っているようでした。先生の指揮と自分の演奏がバッチリ呼吸が合って演奏できた事で、きっと彼にも“できた!”という実感があったのだと思いました。1曲の演奏が終わると、先生が「すご~い!みんなで合わせるとこんな風になるんだね。気持ちよかったね!」とたくさん褒めていました。きっと、ここに至るまでのクラスでの練習期間のうちに先生と一緒に頑張りながら少しずつ自分なりに手ごたえを感じ、自分の音が、この演奏の中でどう生きているのか、自分の音があることがどんなにその1曲を素敵にしているのかを感じることができたのでしょう。

何事も、やり始めは、これがどうなるのか先が見えず、不安なものです。手ごたえや成果が感じられなかったら、このままでいいのだろうか?と気持ちを100%それに向けるのがしんどくなります。いつでも、引き返せるように自分で片足を後ろに残しておきたくなるのです。でも、その時期を乗り越えないと、その手ごたえは求められない……ここが、正念場です。迷いも努力も必要としない楽しい事ばかりが世の中で自分を待ってくれているのではありません。自分に課せられた責任や目標に向かって行く強い力をもって挑んでこそ初めて得られる“楽しさ”もある事に気付いて欲しいと思います。

実は先生達も、新年度が始まってからすぐに、この取り組みの策を静かに練っていました。先生や友達との練習は、上手くいく時といかない時といろいろあります。でも、きっと子供達の心の中にどんな形でも成長に繋がるという確信をもって取り組んできました。迷う子供達を…不安でいる子供達を「大丈夫!きっとできるよ!きっと楽しいよ!」と安心して挑める気持ちに導いていきます。

先生の指揮と自分の演奏する音がピッタリ合った時、先生が「そうだよ!できてるよ!」と目で言ってくれたら、とても楽しくなって来て自分でも心の中でガッツポーズ!!そんなみんなの心が集まって、ステージがつくられます。いい演奏をするために練習をするのではなくて、それまでの取り組みの様々な経験や心の葛藤の中で見つけていく楽しさを表現した結果、素晴らしい演奏になるのです。

頑張る楽しさを見つけた彼のお母さんがお迎えに来られたある日、「すごくやる気で練習が楽しそうですよ。」と伝えると「家でも、よく話してくれるんです。本当に頑張っているんですね。朝も早く行くんだ!と張り切っていて……。」と言って喜んでおられました。その男の子の生活の中にも楽しいリズムができたのです。 

音楽発表会に向けて取り組んで来たこれまでには、どの学年のクラスにも様々なドラマがあったようです。“頑張るって楽しい!”という事を知った子供達は、きっとこれからずっと、心の中にいろいろな形で力となり宿り続ける事でしょう。

12月3日と4日の二日間は、そんな子供達の自信に満ちた姿、先生と子供達のこれまでに積み上げてきた素敵な空気を観て感じていただける事と思います。踊ったり、演奏をしたりする数分のステージだけでなくこれまでの取り組みの中に様々な出来事があり、それを経てきたこの全ての時間に、温かい拍手のご褒美をたくさん送ってやっていただきたいと思います。

ちょっとした時間…されど大切な時間(平成27年度11月)

明後日から11月……今年のカレンダーがあと2枚となりました。新しいカレンダーを壁にかけたのがついこの前のような気がします。しかし、その頃の事から、一つひとつ丁寧に思い返してみると、いろいろな事があって、長くもあったようにも感じます。新年度を迎えた春、幼稚園には新しく可愛い仲間が増えました。新しい生活になり、その中で出会う先生や仲間達と、共に過ごしながら段々打ち解け合えるようになった頃夏が訪れました。水や土に触れながら心も身体も開放感に満ち溢れ、友達とは喧嘩もできるくらい深いつながりもできました。日々の生活の出来事は勿論ですが、様々な行事では、仲間意識を積み上げ、それぞれの子供達が“責任”と“自信”を持つ事ができました。そして、現在、秋を迎えここまで来ています。また、この間に、同じ場所で共に生活する人への愛情や信頼する心が育つことによって、人間形成の基礎が培われている事を感じる事ができます。

先日、あるクラスで製作をしている所に入って様子を見ていると、数人ずつで一つのセロテープやマジックを使いながら活動をしていました。一つの物をみんなで使い合う場合、その間、待ったり待たせたりします。「早く貸して!」「代わりばんこよ!」「そればっかり使わないで!」という言い合いにもなります。そう言われてしょんぼりする子、それに負けずに「ちょっとぐらい待ってくれたっていいじゃないの!」と張り合おうとする子「じゃあ、僕はこの色を先に使うから…使っていいよ。」といろいろと友達と言いあいながらも製作活動をしていました。たったこれだけの事ですが、こうしたやり取りの繰り返しが子供達のコミュニケーション能力を育てます。譲ったり譲ってもらったり、我慢したり自分の意見を主張したりしながら、その場が気持ち良くいく方法を編み出していけるようになるのです。

また、一人の女の子が製作しているパーツの一部が見当たらなくなって必死で「ないない!」と騒いでいました。私も一緒に彼女の周りを探したり、周りの子に聞いてみたり机の上や下を見てみましたが見つかりません。そうしていると探していた女の子が向かい側の子に「アッ!!それ私のよ!」とキツイ口調で言っていました。自分のパーツだと間違って使おうとしていたのです。言われた子は、その声に少し戸惑ってい

ましたが、即座に「ごめん!間違えてた!」とそのパーツを返しました。それに対し、初めは少しムッとした顔でとがめていた女の子は、あまりにも普通に謝られ拍子抜けしたのか「ううん、いいよ」と、自分も素直に言えたようでした。そして、それからは、テープやマジック等をお互いに譲り合いながら「ありがとう」「はい、どうぞ」の言葉のやりとりも聞かれました。こういう言葉が自然に出てくる関係が、このちょっとした時間にでも築かれていくのを微笑ましく見ていました。

このような場面を集団生活の中ではいろんな所で見る事ができます。クラスの中だけでなく、それはクラスや学年を越えて作られる事もあります。朝の送迎バスの中での事です。ある男の子が隣の座席に座るクラスの違う女の子に何やら相談をしていました。「僕、○○ちゃんと遊びたくて、いつもあそぼう!って誘うんだけど、いや!って逃げて行っちゃうんだ。遊んでくれないんだよ」と…。「ふーんそうなんだ。その時は、遊びたくなかったんじゃない?でも、そうだったら“今は遊びたくないよ”って言ってくれたらいいのにねぇ。今日は遊んでくれるかもしれないよ。もう一度言ってみたらいいよ。」と提案してあげていました。その日の帰りのバスの中、「ねえ、今日は遊んでくれた?」と相談を持ち掛けられた女の子が男の子に聞いていました。一日気にしてくれていたのでしょう。男の子は、「今日も遊んでくれなかった」と思い出したように答えていました。「じゃあ、明日もまた次の明日も“あそぼう!”って言ってみたらいいんじゃない?そうしたらいつかは、遊んでくれると思うよ。だめだったら、あきらめて他の事をして遊べばいいじゃん?」と……その答えに少し笑ってしまいましたが、そこにも、友達の事を気にしたり思いやったり、周りの友達の気持ちを探ったりしながら、子供達なりに最良の解決策をみつけようとしている姿がありました。

新年度からこの半年の間に、上手くいく事やいかない事、嬉しい事や嬉しくない事等を繰り返し体験する事で、心地よく生活するために何が必要かどうしたら良いのかを自然に学んできたのでしょう。コミュニケーション能力の基盤がつくられてきているのだと思います。それを体験するための『経験』が幼稚園の生活の中にはたくさんある事を実感します。よそよそしい関係から、幼稚園生活の中でどんどん周りの友達に興味をもってお互いに知り合い、何でも言える関係を築き、その上でさらに共同生活を営んでいく……。いずれ子供達は、この社会の一員として、いろいろな事を考え判断し、自分の足で人生を歩んで行かなくてはならないのです。そのためにも、そんな逞しくかつ柔軟な心をもつ自分を作ってくれる様々な経験と様々な人達との触れ合いや関係が必要である事を微笑ましい子供達のやりとりの中で感じるのです。

こんな事を思うと、アッという間のように思える今日までの日々の一日一日がどんなに大切な時間であったか…、そして、これからの日々も子供達が成長するための時間としてどう過ごすかをじっくりと考えていきたいと思うのです。

”ごめんなさい”が言いたくて

それは、夏休み…。幼稚園は休園ですが、預かり保育(プレイルーム)では、毎日子供達がやって来て一日中元気に過ごしていました。そんなある日の事です。プールあそびを終えて着替えた子供達が順番にプレイルームの部屋に戻って行きました。プールの片付けを終えて、私もプレイルームに戻ると、数人の男の子が何かを取り囲んでざわついていました。「どうしたの?」と覗き込むと、そこには、淵が壊れた掛け時計が床に落ちていたのです。少し壊れただけだったのですが、きっと、その場に居合わせた男の子達は、かなり“どうしよう……”と焦った事でしょう。覗き込んだ私に数人の子が原因と思われる事を口々に話してくれました。泣きそうな顔をした子もいました。私は、その子達の話をよく聞き、状況やその時計を見て、誰か一人の責任…という事ではなく、みんなでプールのバッグを振り回したり飛び跳ねたりして騒いだ結果そうなってしまったという事だと判断したので、子供達が全員入室して落ち着いたところで、全体に向けて子供達に室内にいるときの注意や入室したらどうしないといけなかったのかという話をして、時計が壊れただけでなく、他の危険もあるという事をみんなで話し合いました。子供達は、静かに私の話を聞いてくれました。「じゃあ、葉子先生が、後でこの時計を修理しておくね。」と言って、そのちょっとした事件をおさめました。

そして、次の日、プレイルームにお迎えに来られたある年中組の男の子のお母さんがプレイルームに向かう前に、たまたま出会った私を、「葉子先生、すみません。少しお話があるんですが……」と呼び止めてくださいました。「何でしょう」と話を聞くと「昨日、プレイルームの時計が壊れたんですか?」と聞かれたのです。「はい。そうなんです。」と答えたところで、「実は、どうやらうちのK君が当たって落としてしまったみたいなんです。○○くんと一緒に当たったんだとか……。葉子先生が直してくださったんだ…って言っていました。夜、寝つかせている時に、おかあちゃん、今日ね…ボソボソと話してくれたんです。明日“ごめんなさい”って言おうか。おかあちゃんも一緒に言ってあげるから……って話したんです。本当にごめんなさい。“ごめんなさい”って言うって言っていたので…。先生、私もこれからプレイルームに迎えに行くので、一緒に聞いてやってくださいませんか?」と言われたのです。それは、昨日の騒ぎの中にいた男の子の事でした。私は、お母さんの話から、昨夜どんな気持ちでK君がお母さんに打ち明けたのかを想像すると愛おしく思えました。私は、お母さんと一緒ではなくても自分から自分の言葉で「ごめんなさい」が言えたら、その子はもっと気持ちよくこの事件を自分の中で解決する事ができるような気がしたので、「お母さん、これから私が先にプレイルームに行って、K君にお話し聞いてみますから、お迎えに行くのを少し遅らせて来てあげてください。」とお願いして、K君の所へ行きました。プレイルームにはたくさんの子供達がいて、集まって来てしまうので、K君と二人だけになれる場所に行き、二人で座り込んで話を切り出しました。「K君、昨日、プレイルームの時計が落ちて壊れたでしょう。どうしてそうなったのか何か知ってる?」と聞き出してあげようとすると、しばらくは、「ん?」「ん?」と言いにくそうにしていましたが、「ぼくと○○君が当たったんだ」と言ってくれました。まだ幼いので、細かくその時の状況を説明するのは難しそうでしたが、よく分かってくれたようで「騒いでたから…」と、小さな声で言ってくれました。もうそれだけで十分でした。「よく話してくれたね。どうして壊れたのかなぁって不思議だったの。これでよくわかったよ。悪かったなぁって思ったら、今度はその時に話してね。」と言うと顔を上げて、「うん。……ごめんなさい」と小さな声で言ってくれました。小さな声でしたが、私には心に響く大きな大きな声に思えました。

夜、寝る前にもきっと、「今日は楽しかったぁ~」と心から思えない何か引っかかるものがK君の中にあったのでしょう。それを思い出してお母さんに打ち明ける時にどんな勇気がいったでしょうか?私が、ガムテープを使ってなんとか直した時計をその日一日見ながらどんな気持ちがしていたのでしょうか?きっと、いい気分で過ごしていたわけではなかったと思います。その時にそのままではいけないような……だけどどうしたらいいのか……。自分で解決策を探せないままどこかスッキリしないまま過ごしていたのだと…。また、お母さんもとても上手にK君の気持ちを聞いてあげられたのでしょう。「あのね…」と話した時、「一緒にごめんねって言おうか。」と一緒になってK君のしんどい気持ちを背負ってもらえて、K君は少し楽な気持ちになって眠れたでしょう。自分からお母さんに話せた…それだけで、十分反省の気持ちを持っている事や、黙っていられなかった気持ちを上手に汲み取ってあげられたのでしょう。

“ごめんなさい”っていう言葉は、なかなか自分からは言いにくいものです。大人だってそうです。でも、世の中の人間関係や社会を平和に円滑に、そして何より、自分がその後も胸を張って生きて行くためにも大切な言葉です。みんな、本当は“ごめんなさい”と言いたいのです。そのままじゃあいけないという事はわかっているのです。こういう事、よくありませんか?

自分から言えた“ごめんなさい”だからこそ、本当の“ごめんなさい”の意味をもち、自尊心を失わず生きて行く事ができるのではないかと思うのです。