ずっと応援団(平成28年度3月)平成29年3月

幼稚園の花壇から、チューリップが小さな芽をのぞかせています。土の中にかくれていた生き物達は、園庭で遊ぶ子供達の元気な声や保育室から聞こえてくる可愛い歌声を耳にしながら、長い冬の間、この時季を待っていたのでしょう。春ですよ~。もういいかい?そろそろ目を覚まそうかな?と……。

今月の初め、幼稚園に嬉しいニュースが届きました。休日に、卒園児が結婚の報告に来てくれたのです。新郎となる子も新婦となる子も20年ほど前に卒園したふたりです。理事長先生(当時の園長先生)にだけ報告に来るつもりのふたりを、その子達の事を知る先生みんなで迎えよう!と園長先生が声をかけ、完全サプライズで「結婚おめでとう!!」とみんなで出迎えました。そんな事を知らなかったふたりはとても驚いていました。「なんで?なんで先生達までいてくださってるんですか?」「嬉しい!ありがとうございます!」と涙を流して喜んでくれているふたりを見ながら、私達もここで過ごしていた当時のふたりの事を思い出し、私達の知らないこの十数年の間の、どこでどうなってこうなったのか、その不思議なめぐり合わせに何とも言えない幸せを感じました。

それから、数日後、ある親子が平田美穂先生を訪ねて来られました。美穂先生が年長組の時に担任した現在小学校6年生の男の子とそのお母さんでした。その男の子は、幼稚園の頃ずっと声を発する事なく過ごした子でした。歌う時も話す時も、みんなの中では決して声を出さないのです。家では普通に喋れて大声で歌ったり笑ったりできるのですが、集団の中では頑なに口を閉ざしていました。美穂先生はいろいろな方法やきっかけを作って声を誘おうとしましたが、小声も出してくれませんでした。でも幼稚園は好き!先生の事も好き!当たり前に園生活を友達に囲まれて過ごしました。美穂先生は彼のペースを守っていこうと、無理させないようにみんなと同じように接し、彼なりのプランで経験させていたように覚えています。お家の方ともよく話をしながら、どうしてあげたらいいかと模索していました。でも、決して悲観的ではありませんでした。周りの者も楽な気持ちで見守る姿勢でいようと家庭と連携をとっていました。しかし、彼は最後まで声を発する事なく卒園して行ったのです。小学生になってもずっと同じような状態だと聞いていました。そんな親子と美穂先生が久々に会い園庭で長い間話し込んでいました。そして、しばらくして職員室に戻って来た美穂先生は涙で目を真っ赤にしていました。「もう!どうしよう!幸せすぎて怖いくらい!嬉しい!!」と泣いていました。話を聞くと、卒園して6年経ってやって来たその男の子が、「美穂先生に報告があるんでしょ?」というお母さんの誘いに促され、「……喋れるようになりました。…」と声を発してくれたというのです。美穂先生はどんなに驚いたでしょう。どんなに嬉しかったでしょう。これまでずっと心の中に彼の事があったはずです。気にかけていた子が自分の声を聞いて欲しくて…話せるようになった自分を見てほしくて幼稚園に来てくれた事…“幸せすぎて怖いくらい”と思わず言った美穂先生の気持ちが伝わって来て、私も胸が熱くなりました。美穂先生は「声を聞いた時、涙が溢れそうだったけど、グッと我慢しました。」と言いました。それを聞いて、幼稚園にいた頃の彼に対する美穂先生の見守り方が、今なおブレていない事を感じました。“声を出せないあなたも他のみんなと何も変わらない。待っているから…話せるようになった時でいいよ。その時にあなたの持っている声を聞かせてくれたらいいよ。”“彼のペースを守りたい”という想い、(あなたはみんなと何も違っていないんだよ)という気持ちで接し続けたかったのだと思います。彼はそんな美穂先生の想いを受け、今まで、口は閉ざしていても心は閉ざしていなかったのです。しばらく話して別れ際に、美穂先生が「じゃあね。さようなら。」と言うと、「さようなら」と静かに答えてくれたそうです。ずっと聞きたかった彼の声でした。その親子が帰ってから美穂先生はこらえていた涙が一気に溢れたのだと言いました。小学校の卒業式で、名前を呼ばれ「はい!」と返事をして卒業証書を受け取る彼の姿をその当日思い浮かべ、遠くから拍手を送る事にします。

同じ日、ある小学校の先生が幼稚園との連携のために来園されました。その先生は、美穂先生が年長組で担任した卒園児でした。立派になった卒園児に目を細めました。きっと優しい先生なのでしょう。あの頃とちっとも変わらない笑顔が印象的でした。

結婚する報告に来てくれた卒園児も年は違うけど、ふたり共、美穂先生が担任した子供達です。不思議なほど嬉しい訪問者が続き、「本当に幸せな事が最近たくさんあって…怖いくらい」と…涙する美穂先生を見て思ったのです。子供達の長い人生のスタートにしか携わる事のできない私達は、見えないゴールに向けて、素晴らしい人生を切り開いてくれるようにと祈り続けたり、心で応援したりするしかできない。幸せになる事を信じてエールを送り続ける応援団でいたいと……。

間もなく、年長組の子供達は、幼稚園を巣立って行きます。ここに、あなた達の人生が素晴らしいものであるようにとずっと願っている先生達がいます。あなた達の幸せを自分の幸せのように涙を流して喜んでくれる人、あなた達の苦しみを和らげてあげる事が出来ればと待っている人がここにいます。忘れないでいてくださいね。

なぜ?どうして?(平成28年度2月)平成29年2月

3学期の始業式に、園長先生が挨拶の中で、今年度も残すところあとわずか、みんなで過ごせる毎日を大切に過ごしましょうという意味を込めて、これからの3カ月の短さや忙しさを表わした“1月は行く、2月は逃げる、3月は去る”という言葉を子供達に教えてくださいました。大人の感じ方から生まれた言葉なのかもしれませんが、子供達にとっても、信頼関係が深まった友達や先生と過ごす3学期はこれまで以上に楽しく充実したもので、きっと時間の流れを早く感じるのではないかと思います。私達はこの3学期を今年度の締めくくりとして、また、来年度に繋がる良い時間にしていきたいと思っています。

さて、なかなか降らなかった雪が、先日記録的な寒気の中、幼稚園の庭にもたくさん積もりました。参観日の翌日、幼稚園は振替休日でしたが、預かり保育(プレイルーム)の子供達はスキーウエアを着て雪遊びを楽しみました。そんな時の事です。ある年中組の女の子が、手袋を外して手のひらに雪を乗せてじーっと見ていました。「何してるの?」と聞くと「雪がね、溶けるの。ほら!お水になるよ」と言って見せてくれました。雪が溶ける現象は分かってはいたものの、じっくり見てみたら面白かったのでしょう。それを見ていた年少組の女の子が「私の雪は溶けないよ」と同じように乗せて見ていました。その子は毛糸の手袋をはめていたのです。年中組の女の子は「当り前よ!だってそっち、手袋の上だもん」と言うのです。年少組の子は「どうして手袋をしていたら溶けないの?」と聞き返しました。少し私の顔を見ながら考えていましたが、年中組の女の子の答えは「手袋はフワフワしてるからよ」……でした。私は、年少組の子がどう反応するかな?と見ていると「手袋の方があったかいのに…手は冷たいのに…」と腑に落ちない様子でつぶやくように言いました。なるほど、何となく言いたい事はわかる!おもしろい!と思いました。毛糸の手袋は手が冷たくないようにはめる物で、あったかい物だから…という事だ。毛糸の手袋をはめていた私は「どうしてなんだろうね」と言って、片方を外して両方の手のひらの上に雪を乗せました。わざと雪の量を違えて乗せると、年中組の子が「ダメよ~同じくらいにしないと!」と言いました。調べたい事以外の条件は同じにしないと比較できないというのが感覚的にわかっているという事が凄い!と思いました。重い物を持って走るのと軽い物を持って走るのとでは「よーいドン!」で競走した時、勝負にならなかったり、サッカーをする時にメンバーの人数を揃えないと公平ではなかったりする事と同じです。このようなあそびや経験の積み重ねから得たものなのです。それから、もう一度今度は同じくらい乗せてその子達と見ていました。手のひらの雪がジワ~ッと溶けていく様子に「アッ!手袋をしていない方が早く溶けた!」と大きな声で言いました。それから何回も「やってみせて!」とせがまれましたし、子供同士でも試していました。

また、何人かの男の子がブーツの裏を見比べていました。滑り止めの金具がついているのといないのと、そして、それがどう違うのかを話していました。「雨の日と雪の日の長靴は違うんだよ。」「雪は滑りやすいからこれ(金具)が付いてるんだよ。」「雨ならいらないの?」と聞いてみると「うん。だってザックザックって歩かないでしょ」「ぴちゃぴちゃ歩くだけだから…」──。何となく言わんとする事がわかりました。“ザックザック”と雪を掻くように手の指を曲げて爪を立てるように……“ぴちゃぴちゃ”と雨の中ベタ足で歩くように手の指を伸ばして動かしながらそれを説明してくれました。

雪あそびや滑りやすい所を滑らないように考えて遊ぶ経験が、その時の“なぜ?どうして?”を解決させてくれるのです。

子供達の周りには、“どうしてだろう?”という事がたくさんあります。大人にとってわかりきっている事でも、子供達にとっては、不思議でたまらない事や、おもしろくてたまらない事がたくさんあります。「ん?」と思っている時や質問して来た時、その時が子供達の育ちのチャンスです。幼児期の“あそび”の中にたくさんの教材がある事に気付かされます。どうして雪は溶けるんだろう?どんな時にどんなところで?と疑問を持ち、じゃあ、こうしてみたらどうなんだろうと試してみようとします。何度も何度も試しては失敗したり、答えが見つからなかったりします。その過程で、いろんな知識や方法を学びます。あれこれと考える力が身に付きます。それが面白くなって、もっと知りたい学びたいと意欲的に取り組む力が育ちます。知識だけではなく、試してみようとする時に周りにいる友達と一緒に考え合い、意見をぶつかり合わせながら一人の人格者として友達に関わる力も育ってきます。

あそびを通して子供達のそんな力を引き出すのです。子供達が、「なぜだろう?」と心くすぐられる経験をたくさんさせてやりたいものです。幼児期が終わると児童期になり大人になっていきます。

幼児期にしかできない学びがあります。そう言えばあの時に手のひらで雪が溶けて水になったなぁ。それが、これか!と経験と知識が一致する時がいつか来るのです。経験との一致がないと知識は本当の力にはならないのです。あそびの中から生まれる“なぜ?どうして?”を大切にしてあげてください。

家族で過ごす時間(平成28年度1月)平成29年1月

新年明けましておめでとうございます。

2017年の年明けを皆様どのようにお過ごしになられたでしょうか?この一年も皆様が健康でたくさん笑って過ごせますようお祈り申し上げます。今年もどうぞよろしくお願い致します。

昨年暮れの新聞に、2016年の10大(重大)ニュースが挙げられていました。一つひとつの記事を読みながら、昨年一年を思い返してみました。その時その時で考えさせられたり心を傷めたり、憤慨したり喜んだり、そして、希望を見つけたりしながら一年が終わりました。ところで自分自身の10大(重大)ニュースは何だったかな?と自分の一年も振り返ってみました。いろいろとそれなりにありました。大きなニュースや小さなニュース…我が家では、いつも年越しそばを食べながら、我が家の一年のニュースをいくつか挙げます。そして、何はともあれ家族揃って一年を締めくくる事が出来る事に感謝し、また新しい年を元気に頑張ろう!と話し合うのです。昨年までは、家族がみんな揃ってそんな時間を過ごしていたのですが、今年初めて、家族全員が揃わない年越しとなりました。毎年、娘達がクリスマスあたりには帰省するので、楽しいクリスマスにしてやろうと、ケーキやチキンを奮発して予約をしていたのですが、「今年は年明けの2日にしか帰れないから…ごめんね。」と娘からの連絡が……。届いた予約品が虚しく感じられました。年末の大掃除やお節料理作りも一緒にして、大変な仕事でも娘達がいてくれるおかげで忙しさもしんどさも楽しさに変えられていたのに……そんな事を思いながら年越し準備をしました。

新年を迎え、家族全員が揃ったのは2日の夜でした。お節や用意しておいた年越しそばを食べさせてやりながら、恒例の“私の10大(重大)ニュース”を語り合いました。それを聞き合いながらふと気が付きました。これまではそれぞれのニュースを聞いても、(ああ、そうだったね。あの時はこうだったよね。)と家族の共通の思い出になっていて“私のニュース”はそのまま“家族のニュース”でもあったのですが、こうして少しずつ子供達が成長してそれぞれに違った生活をするようになると、それを聞いて(ああ、そうだったんだ。そんな事があったんだ。)と初めて知る事があったりします。その時その時で自分で周りの人と関わり、時にはその人達の力を借りながら過ごしていたんだろうなと、あらためて自分の決めた道を歩こうとしている子供達の頼もしい成長を感じたのです。いつまでも私達親の手の届く所にいるわけではなく、親の知らないところで知らない人達と生きている事を感じました。一緒に住んでいた頃は、いつどこで誰と何を…がほとんど分かって何でも理解できていたのに……そう思うと、頼もしく思える反面どこか寂しい気持ちにもなります。

そして、よく考えてみれば、子供と暮らせる時間はそんなに長くない事を実感します。高校生まで一緒に過ごせたとしても長い人生のうちのわずか18年間です。それから社会人になったり大学生になったりして家を出て生活をすると、それからは自分の人生を自分の足で歩き始めるのです。もう、親の手や目の届かないところへ行きます。まだまだ子供だからと思っていても、なかなか親の思い通りにならない心の成長も見せてくれます。大人になっていくのです。今までそんなに思わなかったのですが、子供達が成長するという事はこういう事なのですね。今となっては、もっと家族みんなで過ごせていた時間を大切にしておけばよかったのかな?とも思います。その頃は大切にしていたつもりでしたが、もっとあんな事もしたら良かったかな?もっとこんなふうに過ごせば良かったかな?と……どんなにその時その時が、家族の時間として大切だったのかを実感します。そう思うときりがないのかも知れませんが…。

皆さん、どうか、今の時間を大切に過ごしてください。楽しい事をたくさんしてくださいという事ではなく、家族で過ごすごく当たり前の時間が、実はこの上ない幸せであるという事を噛みしめながら、親子、兄弟姉妹で笑ったり泣いたり、喧嘩したり楽しんだりして欲しいと思います。そして、家族の共通の思い出をたくさんつくってください。その思い出は、いずれ家族がそれぞれに違う道を歩み始め、自分の世界を築いたとしても、きっと、家族との思い出や、その家庭の習慣や教えと学びは、その子が生きる力の基となるはずです。いえ、そうなる事を信じましょう。

新年にはたくさんの年賀状をいただきました。懐かしい幼なじみから、子育ても終わりのんびり生活しているが、同時に寂しさも感じる──というような一筆が書かれてありました。まさしくその通りだと思いました。私の同級生には、既に我が子も結婚し、孫がいる人もいます。子育ては卒業でホッとしても、どこか何もしなくてもいい状況を寂しく思えるのでしょう。子育て真っ最中のお父さんお母さん達は、忙しさでそう思う事もないかもしれませんが、必ずそう思う時が来るはずです。どうか「今が一番いい。今が一番楽しい。」と思いながら、可愛いお子さんの子育てに奮闘してください。

あなたが大切だから(平成28年度12月)

今月の初め、18年前に卒園した教え子達が同窓会をしてくれました。24歳になるもう立派な大人です。その年の子供達を担任した先生は、年少・年中・年長の3年間全6クラスを通して一人退職しているだけで、全員現役でいます。(これは、これで凄い事?)その先生達みんなで招待を受けて出席しました。

卒園児達が集まっている部屋に行くと、名乗ってもらわなければわからない程大人になっていて驚きましたが、すぐに当時の顔と重なり一瞬にしてあの頃のそれぞれの子供達の思い出が甦り、先生達と卒園児達の会話は弾みました。そして、一人ひとりの近況報告と幼稚園の思い出を語ってくれました。みんなそれぞれに、ちゃんとした社会人として立派に生活している事に先ず安心をしました。そして、「発表会で太鼓がしたかったのにできなくて残念だった」とか「太鼓橋にブルーシートをかけて水のすべり台を作った事が楽しかった」とか「○○マークだった」等、いろいろな思い出を語ってくれ、(あぁ、そんな事もあったなぁ。)と先生達はみんな当時を懐かしみました。そんな中、年長の時に私が担任をした男の子“こうちゃん”が「僕の中のイメージではあまり怒らない葉子先生に、友達の足をひっかけたか何か意地悪をしてめちゃめちゃ叱られた事があった。」と思い出して言ってくれました。“あまり怒らない葉子先生”だったのでは決してなく、その子を叱る必要が全くないとても良い子だったのです。その時の事は、私もとてもよく覚えています。

それは、卒園を3週間後に控えた頃でした。そんな事をする子ではないと思っていた彼の行動に驚き、私は、すぐに彼を呼んで話を聞きました。しばらくは何も言わずに下を向いたままでしたが、「先生は、今、びっくりしてる。こうちゃんが、あんな事をするなんてショックだよ。訳を話して!」──。私自身もどう叱っていいのかと探りながらの時間だったように思います。すると、涙をグッとこらえながら「○○君がやれと言ったから……。」と正直に言いました。私は、それを言った子にも勿論叱り、クラス全体の問題として考え合いましたが、こうちゃんには違った意味で叱りました。「こうちゃんはそれが良い事だと思ってしたの?それで、みんなが楽しくなると思ってしたの?」と聞くと、首を横に振りました。私は、(じゃあ、何故、その時に自分で考えて正しい行動に移せなかったのか?!何故、それはいけない事だと言えなかったのか?)と正義の心が勝てなかった彼の事を見逃す事はできず、今ここで、正さなければ!と思いながら本気で叱りました。その時、私は、これまでに積み上げてきたつもりの“仲間意識”の指導不足だったのだろうか?と、悲しさと悔しさと情けなさで涙が出ました。ちょっとしたいたずらだったのかもしれないけれど、悪事を断れず自分の立場を守り人を傷つける…そんな人になって欲しくない!自分の考えや行動に自信や責任の持てない大人になって欲しくない!という一心で真剣に叱ったのを覚えています。こうちゃんも、クラスの子供達も、必ずわかってくれると信じて一生懸命話しました。その後で、しばらくしてこうちゃんに指示した子が「先生…俺、いけなかった。こうちゃんにあやまらなきゃいけない。」と私の所に来て言いました。私は、二人を呼んでお互いに反省した気持ちを聞きました。涙を浮かべて話す二人を思わず抱きしめてまた泣いてしまいました。

翌日、こうちゃんのお母さんが、連絡ノートに、こう書いて持たせてくださいました。『今日は大変お世話になりました。………………………先生が愛情いっぱいに叱ってくださったんだなと嬉しく思いました。ありがとうございました。』こうちゃんが、迎えに来られたお母さんに、家までの車の中で自分から、叱られた事とその時何故だか少し嬉しい気持ちになったと話した様子が書かれてありました。私は、それを読んでまた涙…。私の気持ちをこうちゃんがちゃんと受け入れてくれた安心感と、お母さんが叱られた我が子をしっかりサポートしてくださった事に感謝しました。その後、ある子が、「僕、こうちゃんの事信じてたよ。今日も元気で幼稚園に来るってね。」と私に言いました。こうちゃんが、叱られたせいで幼稚園に来たくないとか言うんじゃないかと、子供達の中では心配していたようでした。私は、クラスの一人ひとりの子供達にとって、そして私にとってあの時間はとても大切な時間だった事を感じ、忘れられない思い出になっています。その時の連絡ノートは、私の先生としての道標の一つとしてコピーをとらせていただき今でも大切にしています。

彼は、今、立派な社会人として頑張っています。大切な子だったからこそ真剣に叱った事、どんな想いで叱ったか、そしてこうちゃんがどれだけ家族の人や友達から大切な人として愛されていたかを18年経った今、あらためて感じてくれていたら嬉しいです。

ある先生が、部屋に男の子と二人きりで顔を見合わせて話し込んでいるのを見ました。先生は泣いていました。涙が出る程、その子に良い子になって欲しいと願っているのです。大好きな先生が涙を流しながら“良い子になって!”と言ってくれる姿に男の子は何かを感じていたでしょう。また、ある先生が、遊具の取り合いになり喧嘩をしている二人を同時に抱きしめながら膝の上でゆっくりと優しく言い聞かせていました。どちらにも言い分があり、どちらの気持ちにも寄り添いながら、友達の声に耳を傾ける事の大切さを教え、それができる子になって欲しい!と願っているのです。

あなたが大切だから、真剣なのです。

あなたが大切だから、叱る時もほめる時も、一生懸命なのです。

そんな気持ちで向き合えば、きっと子供達にも伝わります。だって、子供達にとっても、お父さんやお母さん、そして友達や先生はきっと大切な人ですから。

もうすぐ、幼稚園では『大切なもの』をテーマに掲げ、音楽発表会が行われます。先日お渡ししたプログラム裏の歌詞を読み、子供達と先生がこれまでに築いた信頼関係のもと、クラスのみんなで…そして、幼稚園全体で頑張って来た様子を感じとりながら応援していただきたいと思っています。

♪大切なもの
作詞・作曲 山崎 明子

1、空にひかる星を 君とかぞえた夜
あの日も 今日のような風が吹いていた

あれから いくつもの季節をこえて 時を過ごし
それでも あの想いを ずっと忘れることはない

大切なものに 気づかないぼくがいた
今 胸の中にある あたたかい この気持ち

2、くじけそうな時は 涙をこらえて
あの日 歌っていた歌を思い出す

がんばれ 負けないで そんな声が聞こえてくる
ほんとに 強い気持ち やさしさを教えてくれた

いつか会えたなら ありがとうって言いたい
遠く離れてる君に がんばる ぼくがいると

大切なものに 気づかないぼくがいた
ひとりきりじゃないこと 君が教えてくれた
大切なものを・・・・

僕のした事が誰かのためになる(平成28年度11月)

うろこ雲が浮かぶ空、園庭に落ちているどんぐり、ほんの少し赤や黄色に色付く木の葉、そして、少し前とは違う風……いろいろな所に秋を感じています。移り行く季節のおもしろさや美しさを子供達と一緒に楽しみたいと思っています。

さて、気が付けばもう11月……。これまでに、たくさんの事を経験して来た子供達は、その間、心も身体も随分大きくなりました。

降園支度をしている年少組のあるクラスに、様子を見に行った時の事です。みんなの前で、お当番活動をしている男の子がいました。名前とマークを読み上げながら、一人ずつにおたより帳を配っていたのです。「○○マークの○○くん!」と呼び、「はいどうぞ」とカバンに入れてあげていました。「ありがとう」と言われ得意そうでした。1学期には、自分の事でさえも「ひとりでできないよ~、いっしょにしてよ~」と泣いて先生に頼って来ていた子でした。しかし、お当番をしているその顔つきは、あの頃とは打って変わってキリッとして見えました。年中組や年長組は、1学期から昼食のお茶を運んだり、みんなの前に出て「いただきます」の挨拶をしたりしてその日一日、責任をもっていろいろな“仕事”をしてくれます。“お当番”という名の下、子供達は俄然張り切るのです。

また、降園時間の事、年少組の男の子が私に「葉子先生、あそこに砂場の道具が残ってる。」と教えてくれました。園庭に片付け忘れられていた物でした。「よく気が付いてくれたね。片付けてくれる?葉子先生も一緒にするから…。」と言うと「うん、いいよ。」と出しっぱなしになっていた砂場の道具を拾い集めて運んでくれました。その子は、保育室でさようならをして預かり保育の部屋へ行く途中でした。そこへ、後から来た別の男の子が「僕、先に行くよ~、僕の方が速い~。」と速さを競うように挑発的に言って来ました。すると、片付けてくれている男の子は、普段なら「ダメ!僕の方が先!」とムキになって向かって行きそうなところですが、その時は「うん。いいよ。僕、これ片付けて行くから。」と抱えた幾つかの砂場の道具を落とさないように、真剣にゆっくりゆっくり運んで片付けてくれました。「ありがとうね。○○くんが気付いてくれなかったら、夜に雨でも降ったら、この砂場の道具はドロドロになっていたところだったね。ありがとうね。ほら、お庭がきれいになったね。また、見つけたら片付けてね。」と言うと、増々、得意顔になり、それから預かり保育へ向かう道々、他に落ちていないかと探すように地面ばかり見ながら歩いて行きました。

園庭で遊んでいる子供達に、「ちょっと手伝って欲しい事があるんだけど、来てくれないかな~。」と声をかけると、「ちょっとタイム!」とあそびを中断してまでたくさんの子が「わかった!」と手伝いに来てくれます。しかし、時々、「もぉ~」とか「え~っ」とか言って、しぶしぶ手伝ってくれる事があります。(自分だってしたい事があるんだから、そう易々請け負うわけにはいかないんだよ。)という気持ちがポロッと出るのでしょう。自分がやりたい事があるのを中断してまで…優先順位を変えてまで手伝うか?…そりゃそうだ。人のために自分の時間を快く割くという事は、実は“大変素晴らしい事”なのです。大人だって、例えば、子供会の当番や地域の役割の順番が廻ってくると、思わず「あ~あ、しんどい」とか「面倒くさい」とかつぶやきたくなってしまいます。でも、そこは大人として、社会的秩序や理性により、正しく行動に移し平和的に解決する事ができます。

 報酬や形になって見える評価に結びつかない事になぜ、子供達はあんなに得意そうに達成感に満ち溢れた顔で臨めるのでしょうか? 


まだ、幼い子供達がそのような気持ちになってくれるのは、手伝うという事や“お当番”のように責任を持たされるという事を素直に自分の喜びや自分のエネルギー源にできるからだと思います。それには、「ありがとう」「助かったよ」「またお願いね」という感謝の言葉をかけてもらったり、それによって友達との関係が深まったり繋がったりして、楽しい気持ちや嬉しい気持ちを味わえる事、そして、その時キラッときらめく自分の心の変化を感じる事で、子供達の“誰かのために”とか、“助ける”とか、“喜んでもらいたいから”という意識の芽生えに繋がっていくように思います。

人は皆、人の中で生きていきます。人は人の中で成長します。自分が存在する意味を幼い頃から実感させてやると、子供達は、自信をもって安心して生きていくのではないでしょうか。誰かが喜んでくれたり、誰かから感謝されたり、誰かが幸せになったりする事で気持ち良さを感じ、自分がした事は間違っていなかったと信じる事ができます。それを何度も繰り返しながら、人として成長し、『徳』を得ていくのです。“人のために役立つ人”としての“人間づくり”ができていきます。そのきっかけがお当番活動やお手伝いであったり、責任ある役割であったりします。小さな事かもしれませんが、手伝ってくれる事を当たり前の事だと思わず、その度に、「お疲れ様」「ありがとう」「助かったよ」「あなたのおかげだ」という気持ちを言葉にして伝え、形でないご褒美にしてあげてほしいと思います。

園庭の砂場の道具を片付けてくれた男の子は、次の日、私を見つけて「今日は、砂場の道具、落ちてなかったよ。」と自分から言ってくれました。降園前の園庭の最後の確認をしてくれたのです。どうやら、頼もしい園庭の管理人さん(?)になってくれそうです。