『孫は来て良し、来て良し……』(平成29年度9月)

今日から2学期。今年は、猛暑と長雨のニュースが毎日繰り返し流れてきた夏休みでした。そんな夏休みを子供達はどのように過ごしたのでしょうか?しばらくの間、楽しかった夏の思い出を嬉しそうに話してくれる事でしょう。

さて、夏休みには、お父さんやお母さんの故郷に行って過ごされたご家族もたくさんおられるのではないでしょうか?夏休みの間も元気に通っていた預かり保育(プレイルーム)の子供達も、お盆前には「今日からおじいちゃんとおばあちゃん家に行くんだよ~。」「泊まるんだよ。」と言う子がたくさんいました。「そうなの?じゃあ、おじいちゃんもおばあちゃんも楽しみに待ってくださっているだろうね。」と言うと、ある子は「うん!大ご馳走作ってくれるって。花火もするよ。」と、嬉しそうに話してくれました。その話を聞いただけで、子供達が大好きなおじいちゃんやおばあちゃんに会う事を……また、おじいちゃんおばあちゃんも、あれこれ迎える支度をしながら可愛い孫に久々に会えるのを楽しみにされている事が分かりました。

私の義姉夫婦には孫がいます。普段はふたりきりの家ですが、今年のお盆は次男の家族がその孫達を連れて帰って来ました。孫は2歳と5歳の男の子です。お盆前に、義兄が「これから竹を切りに行って、お盆にはそうめん流しをしてやろうと思っているんだ。」と話していました。次男家族が帰省する日には、料理の買い出しに行ったり、切って来た竹を割って節を削ったりして……。猛暑の中、考えただけでも大変そうに思えました。しかし、義姉も義兄も、大変!と言いながらもあれこれと楽しませる準備をして嬉しそうでした。きっと、孫達は大喜びでお盆の数日をおじいちゃんとおばあちゃんと過ごしたでしょう。次の日、その次男家族が、我が家にも来てくれました。義父にとってその家族は孫とひ孫になります。87歳の義父は、できる限りの事をして迎えてやろうと孫夫婦とひ孫用のジュースやお菓子やコップ等を年老いた身体をゆっくり動かしながら準備していました。

「こんにちは~!!」とやって来た孫夫婦とひ孫を迎える義父は、いつもより元気で嬉しそうで、ゴクゴクとジュースを飲むひ孫を見ているその目は、とても柔らかく優しい目でした。庭に出ていろいろな物を触って洋服を汚したり濡らしたりしているのを気にかけながらも、ひ孫が遊ぶ姿を喜んで見ていました。帰る時には車が見えなくなるまで手を振って見送っていました。

孫というものは本当に可愛いのでしょう。自分の子供とは違う可愛さがあるとよく言います。育てる責任がないから……とも言われますが、おじいちゃんやおばあちゃんは、育てる責任はなくても“見守る責任”を感じておられるように思います。ただ可愛いだけではなく、孫の幸せに直接口を出したり手を出したりできない分、見守る気持ちはもしかすると親より大きいかもしれません。“育てる責任”を持つ親と“見守る責任”を感じながら接してくださるおじいちゃんおばあちゃんが子供達についていれば、子育ても百人力です。子供達はどちらの愛情もちゃんと感じています。子供達にはどちらの愛情も必要なのです。厳しさも優しさも、叱られる事も甘える事も、心と身体を抱きしめてもらう事も……。これを全部誰かひとりが担うのは大変です。時々おじいちゃんおばあちゃんの温かさに触れさせてあげる時間をもつ事は、誰にとっても良い事だと思います。お父さんお母さんとおじいちゃんおばあちゃんの愛情をバランスよく受けた子供は幸せです。おじいちゃんやおばあちゃんでないとできない事がきっとあるのです。

次男家族が帰った後、義兄が「あの子達がこっちに帰って来たら、まぁ大変!そこら中走り回ってひっちゃかめっちゃか。いろんな事をしてくれるからねぇ。」と笑いながら言っていました。『孫は来て良し帰って良し』と言いますが、その大変さでさえ嬉しくて可愛くてたまらなさそうでした。むしろ寂し気に見えました。

うちの娘達も、お盆には帰省して数日間一緒に過ごしました。義父に「子供達がお盆には帰って来ますよ。」と教えてあげると、高齢のせいか、病院通いが多くなり気弱になっていた義父が笑って、「そうか、じゃあ、トマトはギリギリまで採らずに置いといてやろう。よく熟れるまで…。」とすぐ言っていました。孫達に美味しいトマトを食べさせてやりたかったからでしょう。おじいちゃんにできる最高のご馳走です。娘達を駅まで迎えに行き、家に帰ると玄関先に真っ赤に熟れたトマトがたくさん置いてありました。おじいちゃんの「おかえり」の気持ちが娘達にも伝わりました。おじいちゃんとたっぷり過ごした数日後、下宿先に戻って行く娘達が「おじいちゃん、また帰ってくるからね。元気にしててよ。」と声をかけると、義父は涙をこぼして「はい。ありがとう。また帰っておいでや。頑張り過ぎないように……丁度いいくらいに頑張って…。元気で…。」と返していました。“丁度いいくらいに……”このおじいちゃんの言葉に子供達はどんなに救われる思いがしたでしょう。頑張っている子供達をホッと一息つかせてくれる──これが、おじいちゃんおばあちゃんの“見守る愛情”だと感じます。

娘達が帰った後、おじいちゃんは「何べんでも…何べんでも帰っておいで……」と静かにつぶやいていました。

『孫は来て良し、来て良し……』なのです。

本当の”子供のために”…を考える(平成29年度8月)

7月に入り、しばらくの間は天気予報から目が離せない日々が続きました。日本列島のあちらこちらで、豪雨による災害が起こり、私達の住む町でも避難を余儀なくされた方々もおられました。様々な被害をお受けになった皆様には心よりお見舞い申し上げます。

さて、7月7日の七夕──、今年はこうした天候の中でしたので、雨こそ降ってはいませんでしたが、雲に覆われた夜空に天の川は見えませんでした。しかし、幼稚園では、それまでに子供達が様々な願い事を短冊にしたためていました。七夕の願い事は、努力したり頑張ったり心がけたりすれば叶う事を書くそうです。その事を先生達は子供達に話してやるので、みんな一生懸命に考えます。“鉄棒が上手になれますように”“頑張り屋さんになりますように”“足が速くなりますように”……等と子供達の中にある願い事が書かれ、笹で揺れるきれいな五色の短冊を見ると心がなごみました。この願い事を考え文字にする事により、あらためて自分を振り返り目標とするものを自分自身に確認するきっかけになるのかもしれません。誰にも変える事の出来ない天体に夢と願いを込めたこの日本の伝統行事に、素晴らしさと美しさを感じます。

その七夕を前に、年長組ではお茶会を経験しました。掛け軸は、涼を感じさせる『滝と青楓』、花は『トラノオ』、お茶の先生がそれぞれ説明をしてくださいました。その後で、花入れについて話をしてくださった時の事です。花入れは竹で編まれた籠でした。先生が「籠は何で出来ていると思いますか?」と聞かれると、子供達は色々と思ったままを発言していました。「木!」「わら!」「枝!」……なかなか「竹」が出て来ません。昔は台所で使っていた水切り籠も外掃除で使うちり取りも、削いだ竹で編まれた物を使っていましたが、今はステンレスやプラスチック製の物が主流となり、それらを見る事も少なくなりました。だから、子供達には「竹」の籠が思いつかないのです。それから、香合(香を入れる容器)の話になりました。その日は「糸巻き」を模(かたど)った物でした。「みんなのボタンを見てごらん。ボタンは何でつけてある?」と聞かれると、子供達は自分の制服に付いているボタンを見て、しばらくして、何と!「ひも!」と答えたのです。また、織姫様をイメージさせる「糸巻き」から、先生は子供達に織姫様の仕事の話をされました。「織姫様の仕事はなあに?」と聞かれ「機織り!」と子供達は答えました。その次に「何を織っているんでしょう?」と、先生からの質問に「服!」と答えていました。今の子供達を考えたら、“糸”を“紐”と…機織りで何を作っているかと聞かれて“布”を“服”と答える気持ちは、少しわかるような気がします。特に、着ている洋服の元々は一枚の布で、その布が元々は糸が織り合わさってできているという事を知るためには、その工程全てを見たり聞いたりしなければ、想像できるはずがありません。

お母さんの中には、服を手作りされる方もおられると思います。その姿を見ている子は、織姫の話をしてもピンとくるでしょう。一枚の布をハサミで裁断して糸と針を使って服が出来上がるというこの工程を知っていれば、世の中の服や布製品はだいたいこのようにして作られるという事がわかって過ごしているでしょう。

お母さんが料理をする姿を見ながら、素材がご馳走になる工程の中から、子供達は様々な事を知り、姿を変えて食卓に並ぶ料理が何でどうやって出来上がったものかを想像できるようになります。

6月の『葉子せんせいの部屋』に続く話になりますが、本当に子供のために…と考えるなら、ぜひ、洋服のボタンがとれてしまったのなら、子供が寝静まってから付けるのではなく、目の前で付けてやってください。壊れた電気製品を直す姿を見せてやってください。夕飯支度を一緒に…野菜作りや収穫を…修理や日曜大工を…何でもない事のようですが、子供達はその様子を見て聞いて触れて“なるほど”と学びます。子供が知らない間に、いろいろな準備を整えたり、作ったりする事は決して真の“子供のため”ではないのかもしれません。「しておいたよ。」…では、何がどうしてこうなったのかを見ていないので想像する事もできません。「ありがとう。」の気持ちも、どんなにそのためにお父さんやお母さんが頑張ってくれたのかまでを考えての「ありがとう。」ではないような気がします。

明日から夏休みです。どうか、お父さんやお母さん、またはおじいちゃんやおばあちゃんのお手伝いをしっかりさせてください。家族のために…子供達のために、忙しくされている姿や頑張っている姿をそばで見せる事や手伝いながら一緒に過ごす事で、子供達は物知りにもなれます。いろんな知識が得られたり、心も成長したりします。“子供のために…”“子供に大変な思いをさせないように”とか“子供と一緒に楽しい時間を過ごすために”と、子供の知らない時に大変な事をしてしまっておこうと考えるのは、むしろ、もったいないです。ぜひ、一緒に手伝ってもらってください。それが、長い目でみた時“子供のため”なのです。家庭では学べない事を幼稚園で…そして、幼稚園ではなく家庭でこそ学べる事や教えてやれる事がある。さあ!ここは、お父さんお母さんの出番です!

伝えたいもの(平成29年度7月)

梅雨入りしてからしばらくは夏を思わせる天気が続きましたが、ここに来てやっと梅雨らしくなってきました。今月から始まったプールあそびでは子供達の歓声が上がっています。プールあそびだけでなく、小川や砂場や園庭では水や砂や泥まみれになって、開放感を十分に味わっているようです。これから夏に向けて、この時季ならではのあそびをたくさん経験しています。

三次中央幼稚園では、毎週木曜日に“なかよしタイム”といって、園児全員が園庭に出て、園長先生の話を聴いたり、みんなで体操をしたりする日があります。園長先生が『梅雨』について日本には四季に加えてこのような季節がある事を分かりやすく話してくださいました。初めて耳にする子もいたでしょう。それを受けて、先生達も子供達に更にわかりやすく説明します。「みんなで植えたアサガオやヒマワリやサツマイモやお米も、雨が降ってくれないと、美味しく育たないんだよ。雨がたくさん降る“梅雨”は、自然にはとっても大切な季節なんだよ。」と、子供達が経験した活動と絡めながら話していました。

満3歳児クラスでは、雨降りの日にバケツを置いて雨だれを受けて響く音を聞きながら雨を感じていました。年少組では、窓の外で鳴くカエルの声に耳を傾けて聞き入っています。あるクラスではカタツムリを飼ったり、オタマジャクシの観察をしたりもしています。このように、何となく日々を過ごすのではなく、その時季にはその時季の楽しみ方や感じ方がある事を、私達大人は教え伝えないといけないと思います。その時に伝える事で、子供達は色々な経験や物の存在を結び付けて知識にしていきます。

幼稚園では、あそびも歌も活動も全てが季節と隣り合わせの生活です。この時季になると、保育室から『茶摘み』の歌が聴こえて来ます。子供達は伝承遊びで♪せっせっせーのヨイヨイヨイ、夏も近づく八十八夜、トントン♪と二人組になって歌っていますが、先生達はきちんと“唱歌”としても教えます。しかし、歌詞を教える時、茶摘みをした事もないし見た事もない──あかねだすき?すげのかさ?──。昔から歌い継がれてきた歌を子供達に伝え、またずっと受け継いでもらいたいし、意味も分からず歌うのではなく、その情景を思い浮かべながら歌ってほしい──そんな想いもあって、私は恥も外聞も捨て茶摘み娘(?)に扮し、園長先生と一緒に子供達に茶摘みの話をしました。家に帰って、この茶摘み娘(?)の話をした子もいたのではないでしょうか?正体は私です(笑)。それで全てが理解できなくても、イメージしながら歌えたりこの時季の歌として茶摘みの事を結び付けて知ってくれたらいいなと思っています。

先月『こいのぼり』の歌を歌っていました。♪やねよりたかいこいのぼり♪ という歌は皆さんご存知でしょう。そんな中、年長組のある女の子が ♪いらかのなみとくものなみ~♪ と歌っていました。

これも『こいのぼり』という歌です。少し難しい歌詞ですが、“いらかの波”というのは家の屋根瓦を波に見立て、波のように見える空の雲との間に泳ぐこいのぼりがいかにも勇ましく、このような子供になれという願いが込められた歌のようです。最近では、“屋根より高いこいのぼり”もあまり見なくなりました。波打つように見える家の瓦屋根も様変わりしているようです。今や昔の歌をイメージしにくい世の中になっています。

歌だけではありません。昔話『ももたろう』のフレーズ「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ“しばかり”に、おばあさんは川へ洗濯に行きました。」ここで出てくる“しばかり”は“芝刈り”ではなく“柴刈り”です。今の子供達に聞くと、きっと庭の芝生の手入れのイメージでしょうか。“川へ洗濯”?洗濯を川でするお母さんを見た事のある子はいないでしょう。このフレーズだけを耳にして、果たして子供達はどんな情景を思い浮かべているのでしょうか?

イメージしにくいからとか、もう古くて今の時代に合わないからと、歌わなくなったり読まなくなったり、話して聞かせてやらなくなったり…でいいのでしょうか?昔の歌や物語には、その時季折々の美しい言葉、感情、戒めや教えがあります。その歌を歌うだけで…その昔話を読むだけで、子供達はその情景を思い浮かべ自分なりにそこに想いをはせます。新しい歌や流行り歌は、いろいろなメディアを通して目や耳にする事は多いのですが、童謡やわらべ歌は身近なものとして感じにくくなってきています。しかし、イメージできれば、子供達の中にある様々な感情を呼び起こし、そこに身を置きその世界を楽しむ事ができるのです。昔、おばあちゃんが…お母さんがそうしてくれたように、私達大人はこれからもずっと引き継ぐ担い手となり、日本の宝を子供達の心に残してやりたいと思うのです。

勿論、現代の歌にも、これから残し子供達に伝えたい歌が沢山あります。童謡だけでなく、アニメソングにもJ-POP(最近ではこう呼ぶらしい)にも…。新しい歌!これが私にとってはなかなか入りにくい……(泣)。ついて行かなくては!!

正体を知る(平成29年度6月)

新年度を迎えて2カ月が経ちました。周りの様子を少しずつ受け入れながら、新しい環境に徐々に慣れていこうとする子供達の姿が頼もしくもあり愛おしくもあります。先生達も子供達一人ひとりの“その子らしさ”を見つけながら、クラスづくりをしていく楽しさをいよいよ感じているようです。

さて、少し前の事になりますが、ゴールデンウィークはどのように過ごされましたか?農繁期という事もあり、我が家の周りでは朝から農機具の音が響く毎日でした。我が家も親戚の手を借りながら田植えに精を出しました。親戚の0歳から6歳になる男の子4人もやって来て、ヌルヌルの田んぼの中に入り苗を植えて(?)くれたりサワガニを捕まえたり、ヘビを見つけてその様子を楽しんだりしていました。田植え機にも乗せてもらってご満悦だったようです。我が家の娘ふたりも帰省して、こちらは少しだけ田仕事の手助けをしてくれていたようです。そんな可愛い助っ人達のおかげもあり、田植えが予定通りできたので、ゴールデンウィークの一日くらいは出かけようと、娘達のリクエストもあり、急遽、下関の方へドライブをする事になりました。魚市場で買ったさばきたてのネタで握られたお寿司を関門海峡を眺めながら食べました。お寿司のネタをみて「これはヒラメだね。これはフグ、これはアジでこれはタイ、これは……」と自分の好きなものを食べていた娘達でした。満腹になったところで、隣接された水族館に行き、水槽のなかで泳ぐたくさんの魚を見ながら歩き、「えっ?!これヒラメ?カレイ?どこがどう違うの?」と見分け方について話したり、泳ぐアジを見て「アッ!さっき食べた!」とか、群衆で泳ぐイワシを見て「ワァ~!節分のイワシだぁ~」と盛り上がったりしていました。寿司のネタをみて、それが何なのかは分かっても、その元々の姿を見た時に分からなかったり、そこで初めて結びついたりピンときたりするのです。調理しやすくさばいてあったり、小さくしてあったりする物ばかりを買うとその魚の本当の姿を知らない…という事になってしまいます。私もそうしていたのかもしれません。反省しました。さすがに娘達も、アジとイワシくらいは分かるのですが、姿が似ているヒラメやカレイの説明書きを読んで、あらためてそれらの習性や私達の口に入るまでの生態を知り、その形や色には海の中で生き抜くための意味を持つ事を理解します。美味しい握り寿司のネタの正体が明かされるのです。

主人と一緒に野菜の苗を買いに行ったときの事です。野菜作りは父に任せっきりの私達ですが、今年初めて夏野菜の苗を買って来てほしいと頼まれ、二人で買いに行きました。私はまだ幼稚園の子供達と育てた事があるので分かるのですが、そのつもりで畑を見た事のない主人──さすがに生長してそれらしく育った頃には分かりますが、苗からはなかなか判別できず、たくさんの種類の中から全く違う苗を手にとって見ながら「これは?…違うか…」と言って探しているので、笑ってしまいました。

連休明けには、年長組の子供達が田植えを経験しました。初めて経験する子供達がほとんどでした。米作りの事なら野菜作りよりは分かる主人が(笑)、子供達にいろいろと分かりやすく説明をしてくれました。苗が稲になりその穂先になる実がお米で、それがご飯になるという…よく考えたらややこしい話です。お茶碗の中のご飯の正体はお米で、その前の正体がこの緑の苗なのです。この苗がご飯に?主人が「この苗一株でお茶碗一杯くらいのご飯ができるよ。小さなおにぎりが二つくらい作れるね」と……。子供達は「へ~ェ」と声をあげていました。そして、裸足で田んぼに入り楽しそうに植えていました。その後で、ある女の子が私に「今日は楽しかった。」と言ってくれたので、「おにぎり作ろうね。あの苗からどうなっておにぎりになるんだろう。不思議ね!」と言うと「ずんずん伸びて、お花みたいに先っぽに…おにぎり?…ご飯?…ん?」とそれを想像して首をかしげながら答えました。秋には稲刈りも経験します。知らなかったらそのまま素通りしてしまう知識ですが、その収穫までずっと自分達が植えた苗がどのように生長していくのかを気にしながら観ていくという事はおにぎりの正体を暴いていく事になります。

幼稚園で飼っていたヒツジ……昨年度末に老衰で亡くなってしまいましたが、毎年年長児達が毛刈りをしていました。その時も、みんなが冬に着るセーターの正体が実はこのヒツジの毛である事を知ります。

私達大人でも、商品のその正体を知って、だからそうなのか…こうなっているのか…と改めて理解する事があります。それが、食べ物であっても物であっても何でも、『正体』があるのです。正体を知ると、今まで、何気なく手にしたり目にしたり口に入れたりしていた物に、納得しながら触れる事ができ、そのルーツにも関心をもち、より深い感じ方や味わい方楽しみ方ができるようになります。こうした物の見方ができるようになる事が、学ぶ姿勢につながっていくのだと思うのです。イメージが具体化できる体験をたくさんする事が、幼児期の子供達にとっては大切なのではないかと思います。『正体』に触れる経験をたくさんさせてあげてください。それを知った上で積み上げられた知識は確かな学びになります。

新しい環境は踏切板(平成29年度5月)

満開に花を咲かせた桜の木も葉桜になり、黄緑の柔らかい優しい色に変わりました。あちらこちらの家の軒先には、安住の地を求めてツバメの親がせっせと巣作りをしています。生き物達は皆ありったけの生命力を使って季節折々の自然と共存しています。私達も、そんな様子を見て季節を感じとるのです。“あぁ、またこの季節がやってきたなぁ”……と。

幼稚園では、今年もまた新入園児達が仲間入りをして、賑やかな新年度を過ごしています。私は、登園して来る子供達を毎朝中門で迎えますが、まだまだ赤ちゃんぽさが残っているようにみえていた入園当初の新入園児達が、日に日に“幼稚園児”の顔つきになっていくから本当に不思議です。こうして少しずつみんな成長していきます。これからどんな成長を見せてくれるのか楽しみです。

そして、そんな可愛い新入園児達を先生と一緒にサポートしてくれているのが進級児達です。「この子をうめ組のお部屋まで連れて行ってあげてくれる?」と頼むと「わかった!」と手を繋いでくれたり、優しく肩に手を添えて連れて行ってくれたりします。「先生!小川の所で、女の子が泣いてるよ。転んだんだって。」と教えに来てくれます。小さいけれど大きな助っ人です。進級児の中でも、特に年長組になった子供達の助っ人振りは凄いです。それは、入園式の翌日でした。ある男の子が、入園式で使ったたくさんの園児椅子を一人で片付けている担任の先生をみつけ、「先生!何してるん?」と声をかけていました。先生は「昨日の入園式で、新しいお友達が座った椅子を片付けるために運んでるの。」と答えると、「そうなんだ。手伝ってあげようか?!」と言ってくれたのです。担任の先生が重そうに運んでいるのを黙って見ていられなかったのでしょう。実に自然に口から出た言葉に聞こえました。「ホント?嬉しい!一人でどうしようかと思っていたの。」と先生が言うと「いいよ!これをどこに持っていけばいい?」……その二人のやり取りが、とても微笑ましく思えました。ちょっと前までの年中組の時の顔つきとは違って、どこから見ても幼稚園の最高学年のお兄ちゃんでした。それからも、その男の子が、担任の先生をいろいろな場面で助けてあげたり、協力してあげたりしている姿を見かけるようになりました。朝、園庭の掃き掃除も積極的に先生達と一緒にしてくれます。その上手な事!保育室に入る前に園庭に落ちている砂場の道具を見つけては片付けてくれる。その頼もしい事!

こうして新入園児も進級児も、顔つきが皆それぞれにお兄さんお姉さんらしくなっていくのはどうしてでしょう。そうなるきっかけは、環境が新しくなった事だと思います。子供達は一年の間にその子独自のカラーを築き自分らしく輝きます。でも、子供達はいつでも潜在的に“もっとあんなふうになりたい!もっと…もっと…”と憧れの人を見て自分が思い描くカッコイイ自分になりたいという願望を抱いていると思うのです。今のままの自分に満足しっぱなしではないのです。自分の今ある能力を高めたり、場合によっては自分のカラーを塗り直して新しいカラーを作りたいと思っているのです。人はいくつになっても脱皮し続けると私は思っています。これが『成長』だと思うのです。環境がずっと変わらなかったり、関わる周りの人がずっと同じ人だったりしたら、気持ちも変わりにくいと思います。長い人生には、何度かいろいろな節目があり、自分を変えるきっかけがあると思います。子供達にとっては、それがまさに今の新年度です。新しい先生、新しい友達、環境…これらの全てが新しい自分になれる…成長できるきっかけです。

跳び箱の前に置かれた踏切板──少し勇気がいるかもしれませんが、踏切板をしっかり踏んで跳び箱を越えて行きます。人生の中に何度かある踏切板を避けていては、跳び箱の向こうにある世界に出会えないままです。新しい自分に出会え自分を発見できたら、それまでとは違う世界の中で生きて行けます。

それまでは、お母さんと一緒でないと保育室まで行けなかった女の子が、年中組になった途端にお母さんの手から離れ一人で行けるようになったり、自分から「おはよう」がなかなか言えなかったのにひとつお姉さんクラスになったからと「おはようございます!」と言えるようになったり…と「今日からの私は今までの私とはちょっと違うのよ!見ていてね!」と言わんばかりに変わって行きます。

新しい未知の環境は、不安でいっぱいだと思います。大好きだった友達と同じクラスになれなかったから…昨年までの様子と違ってきたから…馴染めてないのでは?と心配されていると思いますが、子供達には自分が脱皮できそうな予感はあるはず。今はそのための踏切板に向かって行こうかどうしようかとチャンスを窺っているだけなのです。すぐに向かって行ける子もいれば、ゆっくりと向かう子もいます。どうか、これから、いろいろに変わって行く子供達を楽しみにしていてください。

今年度も、皆様に『葉子せんせいの部屋』を読んでいただく事で、子育ての難しさも楽しさも共有し、どんな小さな成長でも大きな喜びとして感じてもらえたらと思っています。感想などお寄せいただけると嬉しいです。一年間どうぞよろしくお願い致します。