”抱っこ”からの卒業(2019年度7月)

 雨上がりの山の輪郭がくっきりしています。遠い山々だけでなく、幼稚園の庭に植わっている木々も雨に洗われて、一枚一枚の葉の緑色が濃く見えてとてもきれいです。今の季節、園庭の中を流れる小川では、毎日、朝から水槽や牛乳パックを持った子供達で賑わっています。小さなエビやザリガニの赤ちゃんを探したり、カエルを捕まえたり、鯉を追いかけたり(ちょっと可哀そうですが……)して、時に靴や着替えた体操服を濡らしたりしながら夢中になって遊んでいます。

 そんな時の事です。年少組の男の子が水を汲むために持って来たバケツを取り合って揉めていました。しばらく様子を見ていましたが、バケツを引っ張り合ってばかりで解決しそうになかったので、「どうしたの?」と近くに行って声を掛けました。「貸してくれない!」と泣き始めました。いろいろと事情を聞きましたが、たくさんの子が集まって来て色々な事を言うので、よくわからないまま、私は、泣いている子の涙が止まるまで黙って抱っこしていました。落ち着いた頃に「“貸して”って言ってみる?」と言うと、その子は私の腕から降りて、再び相手の子の傍に行きました。“貸して”と言うのかと思いきや、何事もなかったように、バケツを使っている子と一緒にスコップを持って水を汲み始めました。あれだけ大きな声で泣いて訴えていたのに、抱っこされている間にその子の中に何が起こったのか、気持ちを持ちなおし、一緒に遊び始めたのです。

 朝、お母さんとすんなり別れられない新入園児がいます。

「ママ!ママ~!」と泣くその子を抱っこで受け入れ、保育室まで連れて行きます。なかなか涙が止まらない時には、ゆっくりゆっくりおしゃべりして寄り道しながら保育室前まで行きます。気を紛らわしたり、“わかるよ”と淋しさを受け入れたりして気持ちに寄り添うのです。落ち着いて来たら、地面に降ろして手をつないで歩いて送ります。すると、ちゃんと自分で靴を脱いで保育室に向かって行きます。抱っこされている間にどんな決心をしたのでしょう?

 また、先日、全園児が集まってお誕生会をしました。大勢で集まると気持ちが落ち着かなくて、うろうろ歩き回ってしまう子がいます。先生が、「おいで」と膝に座らせました。両腕で包み込まれるように、安心した顔をして落ち着いて参加する事が出来ていました。いろいろな場面で先生達も抱っこをします。

抱っこには、不思議な力があるようです。赤ちゃんの間は“抱っこ癖”など気にしないでしっかり抱いてあげましょう…とよく言われます。この時の心地良さが心を安定させて心の成長に大きく関わって来るのだそうです。抱っこによる心のコミュニケーションです。では、子供にとって“抱っこ”は、いつまで…どこまで必要なのでしょうか?勿論、心のコミュニケーションはずっとずっと必要です。抱っこは、成長に合わせて、する側の気の持ち様をほんの少し変えていく必要があるのではないかと思います。子供達にとって、“抱っこ”は、温もりを感じながらできる気持ちのはけ口だったり、反省の場であったり、冷静を取り戻す場であったり、心を決めたり、気持ちを転換できる場所だったりするような気がします。大きくなるにつれて、赤ちゃんの時のまま“甘えたい気持ちを受け入れる”、“愛情を伝える”──の気持ちだけで抱っこするのではなく、この腕の中で、この子がどれだけ『自立』に向かう充電ができるかな?と思いながら抱っこしてあげてください。腕の中でできた充電で心が前向きになる『自立』へのエンジンをかける場所にしてあげてください。そして、少しずつ“抱っこ”に代わる心のコミュニケーションを見つけてみてください。身体の触れ合い、温かい声をかける、じっくり対話する等々、いろいろありそうです。

入園してからずっと車から中門まで抱っこされ、お母さんと中門で離れる時に涙が出たり、お母さんに連れて行ってもらったり、長い長い時間お母さんと話をしてからでないと幼稚園に入っていけなかったある女の子がいました。年中組が終わる頃だったと思います、「ねえ、○○ちゃん、明日は、お母さんとタッチ1回ムギュ~1回で、パッ!と歩いてテラスまで行ってみたら?絶対にお母さんをビックリさせようよ!」と、その子と一緒に“ビックリ作戦”を企んだ感じで言ってみました。その子は少しニンマリして「うん」と言ってくれました。「そう?!じゃあ、葉子先生明日、双眼鏡(両手で双眼鏡ポーズ)で見てるね。お母さん何て言うかな?」と冗談っぽく話しました。次の日、その瞬間を逃さないように、中門で待ち構えていると、約束通り、タッチとムギュ~を1回してパッ!と歩いて保育室に向かって行ったのです。“抱っこ”からの卒業の瞬間でした。年長組になった今ではお母さんと笑顔で「行ってきます」と言えています。そんな自分の事が気に入っているみたいで嬉しそうです。お母さんは今ではいつもその女の子を笑顔で「今日も楽しんでおいで」と声をかけ、求められればギュギュ~っと抱きしめて見送ってくださいます。“抱っこ”はなくても、違う心のコミュニケーションで、『自立』する我が子の背中を見つめておられるのです。抱っこをする親の気持ちをどう成長に合わせて変えて行くのか……急ぐ必要はありません。私達大人の方も“赤ちゃん抱っこ”から“大人に向かう抱っこ”にいつか変えて行くその準備をする必要があるのかもしれませんね。

ありがとう!(2019年6月)

今年のゴールデンウイークは、10連休というこれまでにない長さで、「長すぎて…」と「長いおかげで…」と良くも悪くも、いろいろと取り沙汰されました。私は、こんな事はそうそうあるわけではないのだから……と、手付かずになっていた、家の片付けに精を出しました。この春、ひとり暮らしを終え就職をした娘ふたりの家財道具一式が一度に引っ越し業者から届けられ、3月から今までずっと倉庫に入れ込んだままになっていたのです。10連休のほとんどをその時間に費やしました。

そんな中、幸せのおすそ分けをもらった一日がありました。23年前に担任した女の子の結婚式に招待を受け出席させていただいたのです。卒園してからも会う事が多く、結婚の報告も直接してくれて嬉しさもひとしおでした。楽しくて優しくて芯が強くて可愛い女の子が幸せな花嫁さんになる姿をお祝いしたい気持ちでいっぱいになりました。当日、式場に着くと、すぐにご両親に会えました。安心と喜びと花嫁の父母だけが感じる寂しさが入り混じった表情に、「本日はおめでとうございます。」と言いながら胸に込み上げるものがありました。式が始まり、お父さんと腕を組んでチャペルに現れた花嫁は実に可愛く綺麗で可憐で…、そしてバージンロードの入り口で、お母さんに真っ白なベールを下してもらうその母子の姿に涙が溢れてきました。披露宴では、終始笑顔で楽しいひと時を過ごさせてもらいました。そして、最後、新婦がご両親に宛てた手紙を読みました。幼かった頃の思い出やこれまでの感謝の気持ち、これから彼と幸せになる誓い等が書かれた手紙でした。『お父さんには、一度も怒られた事がない。反抗期だった頃も学校から帰る車中で会話のない中、くしゃみを一つした私を気遣って、黙って何も言わず冷房を切ってくれた──そんな優しいお父さん。仕事で活躍する姿をいつも尊敬していた。同じ女性として輝ける生き様をその背中を見せて教えてくれた。いろいろな話を聞いてくれた──そんなお母さん…………今まで本当にありがとうございました。お父さんとお母さんの娘で幸せでした。』

 親子の間では「ありがとう」とわざわざ言葉にしない時もたくさんあると思います。お父さんもお母さんも、「ありがとう」と言って欲しいなど思わないまま過ごしています。言葉はなくてもその関係が崩れない“信頼”で結ばれているからです。お母さんがご飯を作る、洗濯をする、掃除をする──お父さんと一緒に遊ぶ、お父さんが壊れた物を直す、毎日仕事に行く等々、いつもその姿は目にしていても、毎日の事であまりにも日常過ぎて、実は、そのほとんどが、自分達のためにしてくれている事で、それはとてもありがたい事なのだと意識しないまま日々過ごしているのです。また、親の方も、大切な我が子のためだから、家族のためだから、当たり前にそうしているのです。しかし、子供達はちゃんと“山より高い父への恩と海より深い母への恩”を潜在意識としてもっています。

 年長組の女の子二人が、可愛い小さなお花を集めていました。「これ、お母さんに持って帰ってあげるの」「プレゼントしようかな~って思って…」と見せてくれました。そこには、こんなメッセージが書かれていました。『いつもごはんをつくってくれてありがとう』──可愛い花をみつけたらお母さんが思い浮かび“ありがとう”の気持ちをお花を添えて伝えたかったのだと思います。幼い子が、「お母さんがいい!お母さんの所へ帰る!」と泣くのも、お母さんのありがたみを感じているからこそ離れたら恋しいのです。お母さんはありがたい人だとわかっているからです。

 娘がくしゃみ一つして、車の冷房を切る父──親としては当たり前の事にでも、大人になるまでずっとあの日の事に心の中で「ありがとう」を言っていたのです。家の事も大変なのに仕事をしながら、自分達に女性として大切な事を教えてくれた母に、毎日「ありがとう」と思っていたのです。涙ながらに、ご両親への手紙を読む花嫁の姿に、素敵な親子像を見たような気がしました。時として、子育てに行き詰まり、「ありがとう」の言葉を期待してしまう事があります。「ありがたいと思って欲しいわ!!」とか「“ありがとう”くらい言いなさいよ!」と思ってしまう事もあるでしょう。それは、はたして、感謝してもらえているのだろうかという不安な気持ちの裏返しかもしれません。でも、大丈夫。子供達はお父さんお母さんが自分の方を一生懸命に見てくれている事を感じていればちゃんとわかっているはずです。自信を持っていいのではないでしょうか? だって、“信頼”で固く結ばれていますから……。

 でも、お父さんお母さんの方からは、子供達にたくさん「ありがとう」と言ってあげてください。何かをした事で、お父さんやお母さんが喜んでくれているとわかり、その時の心地良さを感じれば、ちゃんと「ありがとう」と言える子になるのではないかと思います。社会の中では、感謝の気持ちはきちんと言葉にして伝えないと、分かり合えず関係が築けなかったり壊れてしまったりする事があります。その間にいくら“信頼”があったとしても、親子ほど強いものではないからです。ありがたい場面に出くわした時は、一緒に「ありがたいね。嬉しいね。」と“ありがとう”の言葉を誘い出してあげてください。社会の中で、幸せに生きるために“人の人たる道”を学ばせる事も大切です。

アッ!ご夫婦の間でも、「ありがとう」の言葉が必要です。それが夫婦円満の秘訣でもある……のだそうですよ。あぁ、耳が痛い(笑)

ものは言い様 捉え様(2019年度5月)

 新年度が始まりました。暖かい春の日差しに誘われて早咲きだったチューリップが、新入園児達を明るく迎えてくれました。進級児達も新しい保育室で先生に迎えられ、少し緊張しながらも新鮮なスタートを切る事ができました。

 そんな中、年長組と年中組は、進級して間もなく桜がたくさん咲いている公園や土手に園外保育に出かけました。きれいに咲く桜を見たり匂いを嗅いだり、風に舞った花びらを集めたりして春を感じていたようでした。年長組の引率をした時の事です。その日の朝、お母さんとの離れ際に、必死で涙をこらえながら保育室に向かって行った年長組の男の子が、友達と手をつないで、公園の桜を楽しそうに見て回っているのを見つけ「○○君、今日、幼稚園に来て良かったね。楽しい?」と聞くと「うん。楽しい!」と笑って答えました。「朝、幼稚園に行くか行かないかを迷ってたら時間がもったいないよね。楽しい事をする時間が少なくなるから、さ~っとおいで。楽しい時間がもったいない。もったいない。」と笑いながらさり気なく…を装いその子に言うと「うん!わかった!もったいないね。」と言って笑ってくれました。「時間がもったいない」と言われ、楽しい事に気持ちを向ける事ができたようでした。

 また、年中組の引率をした時の事、走って転んでしまった女の子が、みんなに注目をされた事と痛かった事で、泣きそうになっていたところ「わぁ~、○○ちゃん、今のは早かったねぇ~。○○ちゃんは走るの早いんだね。そりゃ、転んじゃうよね。でも、転び方もカッコよかったよ。」と言うと、泣きそうだった顔が得意顔に変わり、ムクッと起きあがったのです。痛かった!恥ずかしかった!という気持ちが、ほめられた事でヒーロー気分に一転したのです。

そして園庭では、砂場のスコップを使って小川の傍の水たまりで「工事だ!工事だ!」と遊んでいた年中組の男の子、それを見ていた新入園児の男の子がスコップが欲しくなって「それ欲しい!」と、もぎ取ろうとしました。年中組の男の子は、平気で横取りしようとする新入園児さんに驚き、思わず「だめよ!これ僕が使ってたんだから!取らないで!」と怖い顔をして大声で言いました。新入園児の男の子は泣き出してしまいました。私は、年中組の子に、「○○君、ごめんね。この子、そのスコップだったら、○○君のように上手に工事ができる気がしたんだと思うよ。同じように上手にできるスコップがある場所を教えてあげてくれる?どれがいいか選んであげてくれる?」と言うと、「うん!わかった!おいで!」と砂場の道具入れに連れて行ってくれたのです。それからは、先輩気分でいろいろと教えてあげながら先輩後輩でふたりが仲良く遊びました。「そんなに言わないで、貸してあげてよ。」と言うより、優越感を与えられた事で逆に優しい気持ちになれたでしょうし、「それは、人が使っている物だから我慢しなさい」と言うより、優しくしてもらえた事で、先輩を尊敬したでしょう。NOの気持ちで言うのではなく、YESの目で子供達を捉えてあげる事が子供の心を救ってあげる事になるのではないかと思います。

 我が家では、二人の娘が就職をしたのをきっかけに、家族皆で携帯電話の機種変更をしました。私はよくわからないので何でも良かったのですが、娘達はそれぞれに欲しい機種があったらしく、これからは自分で支払うのだから…と高いスマートフォンにしました。特に下の娘はずっと前から研究して決めていたようで、家族の中で一番高い物を選びました。「そんなに高くなくていいんじゃないの?本当に払っていけるの?」とグチグチ言う私の言葉も聞き流し決めてしまいました。その日の夕食時の事です。下の娘が祖父に「おじいちゃん写真を撮ろう!新しい携帯電話を買ったんだよ」と言ってみんなで写真を撮ってくれました。祖父が「自分で買ったのかい?」と娘に聞くと「そうよ。前からこれに決めてたの。家族の中で一番高いのを買っちゃった。」と話していました。それを聞いて祖父は苦言を呈すどころか、娘の頭を何度もなでながら「でかした。でかした。」とほめてくれていました。これまで頑張って勉強をして就職をし、やっと高価なものでも自分で買えるようになったという事を娘と一緒に喜んでくれたのです。グチグチ言っていた私とは違う見方で娘を認めてくれたのです。娘は、「これから頑張って働くね。おじいちゃん、ずっと元気で応援していてよ。」と、意欲満々に語っていました。ものは捉え様です。子供達の突っ込まれたくない部分をNOの捉え方や言い方をすると、気持ちが前に向かなくなってしまうのです。ほんの少し角度をずらしてYESに近づいた捉え方や言い方をしたら、子供は違う角度から前向きになる力を出せるのです。

 子供達のやる気をどう引き出してあげるか、どういう言葉を選びどのタイミングでその言葉をかけてあげるかで、子供達の前向きになる気持ちが大きく変わってくるような気がします。“ものは言い様捉え様”──いい意味で、ちょっと焦点をずらして見てあげる…物事を正当化して捉えてみる……これも一つの大人の作戦?かもしれませんね(笑)。失礼、『手腕』と言わせていただきましょう。

さて、今年度も子供達とのバラエティーに富んだ生活を私も楽しみながら、子供達の世界の素晴らしさをここでお伝えできればと思っています。今年度も『葉子せんせいの部屋』にお付き合いいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。

学ぶおもしろさ(平成30年度3月)2019年3月

気が付けばもう3月…。例年なら、節分から立春を迎え、春が訪れる…と思いきや、2月の終わりに寒の戻りのなごり雪──。寒さ嫌いの私でも、毎年、その情景に風情を感じていましたが、今年はそのなごり雪も見ずにこのまま春に向かうのかもしれません。この現象が良いのか悪いのか、時代の変化に合わせていろいろな事が変わって行くように、自然のサイクルまでが変わって良いものなのか?と少し心配しながらも、芽吹く春を待ち望んでいます。

 先日、凄く寒い朝、年長組の豊川祐美子先生が「葉子先生!氷ができていたんです!子供達が喜んでいます!見てやってください!」と嬉しそうに私に教えてくれました。どうやら子供達と寒さの中で氷ができるかどうかを確かめたくて、外に水を張った入れ物を置いて実験(?)していたようでした。見てみると、確かに薄い氷が張っていました。数人の子供達がそれを囲んでいろいろと話していました。「寒かったら氷ができるんだよ。」「だけど、毎日寒かったのに、今まではできてなかったじゃん。」「すご~く寒い日しかできないんだよ。」「すご~くってどんなに?」「すごく…って……すごくよ」「でも、もうすぐ溶けるよ」「どうして?」「段々あったかくなって来るから。」「でも寒いよ。」「太陽が出たら溶けるよ。」「太陽が出たら溶ける?」「あ~、出ないでほしい。溶けてほしくないよ~。」「触ったらだめよ。溶けるから。」「手があったかかったら溶けるよ。」「太陽はまだ出てないけど?」……と長い間話をしていました。どう納得してその“氷談義”が終わったのかは、わかりませんでしたが、その時の子供達はみんなのいろいろな話に耳を傾けながら“氷”が出来たり溶けたりする現象の不思議を 自分なりに想像を膨らませて考えていたのだと思います。

 昨年の秋に京都大学の本庶 佑特別教授が、ノーベル医学生理学賞を受賞されたニュースで賑わいました。がんの新治療薬の元となる分子発見(難しい事はよくわからないのでこの辺で…)の功績が世界的に認められた素晴らしいニュースでした。私は、わからないなりにも、一生懸命にそのニュースに関心を寄せて観ていました。(世の中にはとてつもなく頭の良い人がいるものだ。人並はずれた知能知識の持ち主──。いったいどんな人なんだろう?)と興味津々でした。受賞後の記者会見で、本庶特別教授は、おもしろい事を言われました。「私は、学生には“教科書を信じてはいけない”と伝えている」と…。私は、それは、一般人には通じない言葉だ。元々頭の良い人だけが言える言葉だな~と思って聞いていました。でも、そう言い切れる人ってかっこいい!そして、まぎれもなく新薬の開発の貢献者!どんなにその新薬を待ち望む人が世界中にいるだろうか…とありがたい雲の上の人の言葉を聞くように、ただただ凄い!凄い!と思っていました。しかし、その後、本庶特別教授の“教科書を信じてはいけない”という言葉をiPS細胞でノーベル医学生理学賞を受賞された山中 伸弥教授がわかりやすく話しておられるニュース番組を観た時、(これって、私達だってそういう気持ちを持っていれば、子供達に楽しく学ばせる事ができるんじゃないかな?学問の入り口はここなんじゃないかな?)とストンと落ちるものがありました。

 山中教授は、「我々研究者は、いつも“型破り”な事に挑戦しようと思っている。そのためには先ず“型”を知らなければならない。それを知った上でその“型”を破るべく挑戦して行くんです。その“型”こそが基礎知識となる“教科書”なんです。この基礎知識なくして何かをしようとするのは“型破り”ではなく“形無し”です。」と……。それを聞いたら、なんとなく、勉強をする意味や知識を増やす意味がわかるような気がしました。年長組の子供達が、氷を囲んで話している事が、答え無き答えでそのまま終わった話が、これから小学校に行き、教科書で基礎知識を得て、さらに、(それって本当?)とか(もっと違った事があるかも)と“型”を疑ってみたり、それだけが正解だとは限らない…と逆らってみたりしながらどんどん違うものの見方や考え方を増やして行き、それが、新しい世界を見出す力に繋がり得るかもしれません。学者レベルでの話ではなく、どこかでその力が活かされるはずです。私もこれまで生きて来て、勉強しながら、「何のためにこんな勉強をしなきゃいけないんだ?この勉強って将来何の役にたつの?」と何度思った事でしょう。

 日本の歴史も、どんどん塗り替えられています。そう信じられて来た事が、いろいろな新たな発見や疑わしき事が出て来て、教科書の歴史用語や歴史上の人物の名前の表記が変わったり、消えたりしています。この事でも、教科書に書いてある事がずっと神話の如く正解ではなくて、これが本当に正しい事なのかな?と、それを立証するために調べ、歴史が塗り替えられて行くことにとても興味が湧きます。“型”を学び、そこに食いついてみる事は、面白い事なのかもしれません。
 年長組の子供達は、4月から“勉強”をしながら大きくなります。これから先、どれ程たくさんの“勉強”をしないといけないか。少し気が遠くなりますが、先ずは“型”を得るために、一生懸命に楽しく勉強をして欲しいと思います。新しいランドセル、新しい制服……そして、友達や先生、全てが新しい。その環境はきっと子供達の学びの基礎になる場所のはずです。それをベースにしながら、進化する事を楽しめるようになるのでしょう。そして、子供達にとって、これまで過ごして来た幼稚園での生活はまさに“型”を学べたり興味をもてたりする材料の宝庫だった………いつか、そう感じて欲しいと願いながら、もうすぐ巣立つ日を迎えます──。

○か×か 白か黒か(平成30年度2月)2019年2月

 先日、年長組の子供達が卒園写真を撮りました。大騒ぎの中、入園写真を撮ったのがついこの前のように思い出されます。「じっとしててね。こっちを向いててね。」と、言っても言ってもみんなが揃っていい顔をしてくれず、撮影がなかなか大変だった事を思い出しながら、卒園写真撮影の様子を見ていました。撮影のためにパリッと制服を着て、お家の方に髪を綺麗に整えてもらって登園して来る年長組の子供達は、これも一年生になる準備だという事がよくわかっているようで、顔つきがいつもと違って見えました。園長先生と担任の先生の間で、背筋をしっかり伸ばしてカメラをまっすぐ見る子供達に目を細めました。

 そんな年長組の子供達も、そうは言ってもまだまだいろいろ経験中(?)です。ある日、男の子ふたりが新聞紙を細長く丸めて作った一本の剣をめぐって言い争っていました。「僕の(剣)だったんだ!」「違う!僕が拾ったんだ!」と言い合っているのです。そして、剣を手にしている男の子は「無理やり取り返そうとして押された!痛かった!」と悔しそうに泣いています。その反対に「僕が、話そうとしても、笑って走って逃げるばっかりで嫌だった」と両者譲らずの言い争いをしていました。話をよく聞くと、A君の言い分は、作った剣が捨てられていて、持って遊んでいたら、急に「僕のだった!」と無理やり押して取り返そうとして来た!B君の言い分は、剣は捨てたのではなく置いていた。「僕のだったから返して!」と言ったのに走って逃げられた。笑っていたから腹が立った。と……。一見、腕を押さえながら泣いているA君が可愛そうで、B君をとがめてしまいそうですが、よくよく聞いてみると、どっちも悪くてどっちも悪くない…どっちの気持ちにもうなずく事ができる。私がずっとフムフムと二人のやり取りを聞いているうちに、さすがに、「どうでもいいや」と思ったのか「こんな事に時間をかけても仕方がない」と思ったのか、そもそも、その剣にはさほど執着していたわけでもなかったのか、いつの間にかふたりの気持ちも熱も冷めて、はっきりしないままこのもめ事は終わってしまったようでした。──こういったもめ事は、子供達の中にはよくある事です。これをどっちが悪くてどっちが悪くないか、どっちが〇でどっちが×かと問われたら少し困ってしまいます。全てをこの二つに一つという答えの求め方をするのは、子供達の育ちの中では危険なような気がします。特にまだ考え方や経験に未熟な部分をたくさん持っている子供達は、自分の思ったままを発言し行動に移します。そういった事を何度も何度も繰り返しながら相手の様子を感じ取り、その時の自分の気持ちに折り合いをつけていく方法を見出します。それを習得するには、きっと長い時間が必要で、この時間が子供達の成長には大切なのではないかと思います。一つのもめ事でも、「あなたの方が悪かったんだよ」「あなたの方が間違ってるよ」と〇か×かで解決を急ぐと、子供は考える時間を奪われてしまいます。相手の気持ちと自分の気持ち、相手にされた事と自分がした事、いろいろな状況……このもめ事の裏にある全ての事を考えてみる時間と力を奪われる事になるのです。〇と×の中間△…白と黒の間のグレー…曖昧でどっちつかずの部分は、自由に捉えて自由に解釈でき、知恵を働かせる事のできる大切な部分のような気がします。そこから、許し合ったり、認め合ったりしながら、子供達の中にルールを見出していきます。たくさんたくさん考える事ができたら、そう外れた答えは出さないでしょう。そうしながら大人になって行けばいいと思います。世の中には、YESかNOか、〇か×か、白か黒か、良いか悪いかの二つに一つの答えを求められる事はたくさんあります。しかし、そうばかりではなく、人生には曖昧な部分も必要だと思うのです。“そんな事もあるさ”“まあそれもいいんじゃないか”というどっちつかずの考えを答えとして導き出す事も必要です。そうやって折り合いをつけながら上手く人と関わっていく──これも一つの答えだと思います。

 A君のここはどうだったかな?B君のそこはどうだったかな?と一つひとつに〇か×かは明らかでも、最終的にはどちらが〇でどちらが×!とは決めかねる…そこは決められなくても、一つひとつの〇×には、「ごめんね」「僕こそごめんね」……これが心から言えれば、相手の事を知りながら、学んで行けるような気がします。全員が全員、右向け右!ではなくて、人は皆、いろいろな考え方があって、ものの見方は人によって違っていていいはずです。子供達には、何らかの答えを導き出すために、その気持ちや考えに耳を傾ける事が出来たり、自分の考えを持って話せたりできる人になって欲しいと思います。そのために私達大人も、答えを急がず、しっかり時間をかけて子供達を見守り対応していく柔軟な気持ちを持っておく必要があるのかも知れません。


 幼稚園に入園して卒園するまでのこの時間は、私達教師にとって、子供達の心と身体の成長を見守り、導き、支援する大切な時間です。そして、子供達の中に育てておきたい大切な養分を土に染み込ませ、子供達自らの根っこで吸い上げてくれる事を願いながら、子供達と共に話し、触れ合い、過ごしています。それが、子供達が生きて行くための大切な学びの時間である事を思い、感慨深く卒園写真の光景を見つめていました。制服の袖が短くなったね。背が高くなったね。泣かなくなったね。椅子に座って足がブラブラしてないね。入園式のあの日から……大きくなったね。