「伸びしろ」は「目標」をつくる(2019年度12月)

先月から、更に幼稚園が秋色に染められました。色づいた葉が落ち始め、子供達はいろいろに楽しんでいます。落ち葉を見たり集めたり踏みしめたりしながら五感を通して秋を感じさせたいと、先生達の提案で毎朝していた掃き掃除をやめて、そのまま残しておくようにしています。木枯らしに落ち葉が吹かれていく様や踏みしめた時の枯れ葉の音を見たり聞いたりしながら、子供達は秋にどんなイメージをもって大きくなっていくのでしょうか?

10月に行った十三夜のお茶会──。お月見は秋の豊作を願い、収穫に感謝して美しい月を眺める日本古来の行事ですが、この十三夜の月は、満月の時より欠けています。日本人は昔から、満月も美しいがまんまるに少し足りない姿もまた美しい──と、不完全なものに“はかなさ”や“健気さ”という“美”を見出してきました。

今、子供達は、12月に行われる音楽発表会に向けて毎日一生懸命に練習をしています。最初は、自分達が踊ったり演奏したりする曲を聴いて、そのリズムを感じとり、身体や楽器を使ってその曲をダンスや合奏で表現します。子供達は、これ何の曲だろう?という興味からみるみるうちに、踊りたい!演奏したい!という意欲に変わります。クラス全員で演じるまでには、先生達の秘策(?)があり、いろいろなドラマがありました。それを全て語りきる事は難しいのですが、練習をずっと見ていると、子供達と先生が真剣にその一曲に向き合って挑んでいる事をひしひしと感じます。まだ先が見えてこない早い時期に子供達の中には、「できない」「やりたくない」「もうやめたい」という気持ちになる事もあったかもしれません。特に合奏となると、これまでした事もない楽器を使い、その技術だけではなく曲に仕上げるために、そこにはみんなで気持ちを揃えて調和する事が求められます。一人ひとりがしている演奏は、そのパートだけでは、完成された一曲にはなりません。不完全です。その部分を完全なものにするために、別の不完全なパートが担う……それでもまだ足りない部分をまた違うパートが担う……この重なり合いが完全なものに仕上げるのです。不完全なものを完全なものにしようと努力する“健気さ”にこそ力強さや美しさや眩しさを感じるのです。しかも、そこに至るまでにも、個々に子供達は自分なりに努力をしていました。園庭に保育室から響いてくる太鼓や木琴、鉄琴の音……子供達が、苦手な所を自分で練習していたり、できるようになって嬉しくて何度も一人で音を出してみたりしていたのです。できていなかった部分を練習で埋めて完全なものにしようとするその一生懸命な姿は本当に眩しかったです。自分達の“伸びしろ”に挑戦している姿でした。自分ならもっとできるはず!と、自分の可能性を信じているのです。「もうできない」と諦めていない姿です。それには『先生とクラスのみんなで、一つの曲を自分達の力で頑張って完成させよう!きっと、素敵な演奏になるし、そうなっていく事が楽しい!と思えるから…!』という事を目標の一つにして頑張る日々を送ってきているからだと思います。「あなたならもっとできるかもしれない。もっと出せる力があなたにはあるかもしれないよ。」と一人ひとりの潜在している力を先生達が引き出していく事で、子供達は自分の力に気づかされ、「そうか!僕、もっと頑張れる自分になれるかも!」とその時の自分の姿を夢見て目標にします。早い時期に完成したと満足してしまったら、それ以上の努力も必要もなく、完成に向ける伸びしろもありません。「このくらいでいいや」ではなく、先生達は「もっと、この部分をこうしてみよう!」と、楽器の音色やリズムにこだわります。合奏だけではなく、合唱や踊りでもそうです。それは、「あなたはできるよ!」と、一人ひとりに伸びしろを作ってあげているのです。それは子供達が完成に向ける更なる目標をつくるという事なのではないかと思うのです。

“伸びしろ”の類語のひとつに“期待値”という言葉があげられます。周りから受ける“今よりもっと良くなる可能性”を込めた言葉ですが、誰かから期待をされて嬉しい気持ちを持たない人はいないのではないかと思います。過分な期待は逆効果ですが、その子にどんな力がどれだけあるかを見極め、伸びしろの幅を大きくしたり小さくしたりしながら、子供達の意欲を引き出していくのです。これも、先生達の秘策のひとつです。

音楽発表会では、そうして作り上げてきたステージを温かく応援しながらご覧いただきたいと思います。ステージの上で、踊ったり歌ったり合奏したりする子供達一人ひとりが“伸びしろ”を持ち、完成に近づける事を目標に頑張ってきた事を感じ取っていただけたら嬉しいです。一曲に込める目標、クラスとしての目標、それらが幼稚園としての大きな目標を成し遂げる──そこには、不完全をみんなで完全なものにしようと努力しその部分をそれぞれの力で補い合いまた担い合い、こうして出来たものこそ、素晴らしい完成作品だと言えるのではないかと思います。我が子を観る時、一人ひとりの中に完成に近づくために目標をもち、頑張ってきた今までの事を想像しながら、一人ひとりにそれぞれ完成の形が違う事にも気が付いてあげてください。その姿に、大きな拍手をおくってあげてほしいと思います。「大丈夫!あなたはできるよ!」と指揮をする先生達と「うん!そうだね。がんばるよ!」と、その一曲に向き合おうとする子供達との間に漂う空気感をどうぞお楽しみください。

子供達には、まだまだ伸びしろがあります。頼もしい限りです。

あそびは学び(2019年度11月)

 「せんせーい!見て!」と、広げた小さな手の平からかわいいドングリが。「せんせーい!あげる。」と、差し出してくれた手には赤く色づいたアメリカンフーの木の葉。──子供達は毎年この時季になると、園庭で秋の宝物を探して遊びます。これから秋が深まるにつれて、これらの宝物が園庭中に落ちて来ます。子供達にとって魅力いっぱいの季節がやってきました。

 土曜日のプレイルームでの出来事です。幼稚園の小川の周りには実のなる木が幾つか植えてあります。今は、かりんが実をつけ、時々熟して落ちています。子供達は、いい香りのするこの実に興味津々で、これをめぐって取り合いになる程です。その日も、ある男の子が木に登ったり枝を引っ張ったりして、この実を採ろうとしていました。一人がそうすると、それを見ていた子供達が真似をして無茶苦茶な事をし始めます。そこにいた先生が「木に登らなくても、あの実を採る方法があるんだよ。」と声をかけました。そして、その先生は幼稚園にあった廃材の壁クロスの巻き芯を持って来ました。120㎝程ある長さの芯の先を5㎝程カッターナイフで切り込みを入れてくれていました。それを差し出された男の子は、初めて見たので“こんなものでどうやって?”と先生がやって見せてくれる様子を真剣に見つめます。カッターナイフで切り込んだ所に実のついた枝を刺し込み、棒をグルっとひねってもぎ取るのです。「本当はもっと長い竹でするんだけどね。これでも採れるんだよ。やってごらん。」と男の子に渡しました。長いといっても120㎝位の物ですから、高い所に生っている実には届きません。そこで、棒を持って高さ1m程の添え木に登り、先生から教えてもらったようにその実を採り始めました。切り込みになかなか上手く枝が差し込めませんでしたが、何度も何度もやっていくうちにコツを覚え何個かをもぎ取ったり落としたりする事ができました。それでも、そう簡単にはいかなくて真剣でした。真剣になる程、男の子は無口になり、登った添え木を踏ん張る靴の先にも力が入っていました。長い棒を持って高い所でもっと高い所の実を採るのはなかなかのものです。先生が「バランスをとるのが上手だね。難しいでしょ。」と声をかけると、男の子は棒を横に持ち、「バランスって簡単よ。あのね、こっちに物がある時には棒の真ん中よりこっちを短く持つんだよ。そうしたらバランスがとれるよ。」と言うのです。先生はその言葉にびっくりしていました。「葉子先生、これって、まさしく天秤の理屈ですよね。」と。男の子は、物理学として学んだ事を活用しているのではなくて、遊びながら上手くバランスをとる方法を模索しているうちに感覚的にあみ出した学びなのです。学ぶつもりだったわけではなく、あそびの中から発見した事が学びになっただけなのです。

 その男の子は、普段から身体をいっぱい使って遊びます。そして、いつも真剣です。遊ぶ時も、頑張る時も、そして……喧嘩をする時も…常に一生懸命です。身体をいっぱい使って遊ぶので、擦り傷もたくさんあります。だけど、大怪我にはなりません。真剣だからです。そんな彼を見ている先生も「危ないよ。」とか「気を付けて。」とブレーキになる言葉をかけず、真剣に見守ります。きっと、彼ならできると信じているからです。その見守りが彼を真剣なあそびに向かわせる安心感となっているのです。この見守ってくれる先生や、目の前にある木々がこの男の子にとって恵まれた環境だったのです。

 三次中央幼稚園の理事長は語ります、『子供達はあそびの天才だ』と。『子供達はあそびを通して色々な事を学び身につけていく。これを直接体験と言い、この直接体験の豊富さが子供の発達に大きく関わって来る。友達と仲良く遊びながら仲良くする楽しさを知ったり、喧嘩をしながら相手の気持ちを考え、怪我をしながら安全に生活する方法を身につけて行く。子供が興味を持って遊んでいる時に子供自ら知らず知らずのうちに学ぶのだ。』…と。私達は、この理事長の理念が幼稚園の環境に映し出されている事を子供達を通して実感するのです。

 最近言わなくなりましたが、“ガキ大将”こそ、たくさんの実体験の中から学びの元となる物を学んでいるのです。それは、机上で学んだものより心と頭に残る確実な学びになっています。そして、その学びは更なる学びに応用を効かせて深めていく事が出来るはずです。テキストを与えるのではなく、幼児期には『あそび』を…『あそびの環境』を与えてあげてください。幼稚園の環境には、理事長のこれからの時代を生きて行く子供達を想う “願い”があるのです。

 好奇心をくすぐられる環境の中で夢中で遊びながら、チャレンジする勇気と試行錯誤を繰り返し工夫する力と探求心が育ちます。そして、なるほど!そうだったのか!と発見したり確認したりし、考える事やわかる事が楽しくなってきます。こうして学ぶためのベースが出来ます。子供達にとってはただ遊んでいるだけでも、その中に“学び”がたくさんあるのです。ここで、“あそび”が“学び”になるかどうかは、そこに素敵な環境が用意されているかどうかとそれを見守る大人達がどのような意識でいるかが大きな決め手になります。

 先日、来年度用の幼稚園案内のパンフレットをお渡ししました。ここには、私達が三次中央幼稚園で育つ子供達への想いが書かれています。ぜひ、あらためてページをめくってみてください。

お先にどうぞ(2019年度10月)

「実る程、頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」──春に年長組の子供達が植えた苗が稲穂を実らせ田んぼ一面黄金色に広がりました。今月の初めには子供達の手で一生懸命稲刈りをして、収穫の喜びを味わいました。広い黄金色の田んぼと稲を刈った後のわらの香り、そしてその田んぼをトンボが気持ちよさそうに飛び回るこの光景を子供達には“秋の景色”として心に残しておいて欲しいものです。真夏から冬に向かおうとする前のこの時季は何となく日本の季節の美しさが心に優しく伝わってくるような気がします。

 私が仕事帰りにコンビニに寄った時の事です。商品を選んでいた私の横に小さな女の子が棚のおにぎりを取ろうと手を伸ばしていました。少し離れた所からお母さんが「一つだけよ。」と、その子に声をかけていました。お母さんは、どなたかと話をされており、その様子から、どうやら誰かのためにお世話役をされるような立派な方だとうかがい知る事ができました。小さな女の子には、とても手が届きそうにないので、私が「取ってあげようか?どれが欲しいの?」と聞くと「あれ」と、たらこのおにぎりを指差しました。私が取って渡してあげると、その子のお母さんが「ありがとうございます。○○ちゃん、“ありがとう”ってお礼言えた?」と優しく一緒にお礼を言ってくださいました。それから、その親子はレジに向かいました。丁度同じタイミングで、ひとりの男性がお酒とおつまみらしき商品を手に持ち並びました。レジは一つ。すると、そのお母さんが「お先にどうぞ。うち、たくさんなので…。」とカゴの中の商品を見せて男性にレジを譲られました。何でもない事なのかもしれませんが、それがとてもスマートで、見ていても気持ちが良かったのです。それだけではなく、その男性がおにぎりを持っている女の子に「ごめんよ。お嬢ちゃん。じゃあ、お先に…。」と微笑んで返したのです。女の子は照れ臭そうにお母さんの顔を見上げ、親子で笑って、「いいよね」とアイコンタクトを交わしていました。その様子を並んで見ていた私に、レジが終わったお母さんは、「さっきは、ありがとうございました。」と、会釈して店を出て行かれたのです。なんて、気持ちの良い数分間だったか。当たり前の事かもしれないけれど、どちらかと言うと忙しい気持ちでササッと買い物をするコンビニで、こんなに素敵な場面に出くわす事ができた事で、私の心にゆったりとした時間を与えてもらった気がしました。

 幼稚園では年長組が、毎月お茶会を経験しています。お作法の中で「お菓子をどうぞ」「ちょうだいします」という挨拶と、隣の席の人より先にお菓子をいただく時には、隣の人に「お先です」と言い、隣の人はお辞儀をして「いいですよ。どうぞお先に」の気持ちを伝えます。この日本の文化の中にも、お互いを大切に思いやり、感謝の気持ちを表す言葉や奥ゆかしい態度が存在しているのです。「お先にどうぞ」と言われて嫌な気持ちになる人はいないでしょう。「お先にすみません」と言われたら「いえいえ、どうぞ。どうぞ。」と気持ちよく譲ろうと思えるでしょう。そして「どうぞ」と言われたら自然に「ありがとうございます」の感謝の気持ちが湧いてきます。こうして心が通い合うのです。

 殺伐としたニュースがたくさん耳に入って来ますが、こんなちょっとした……でも、温かい言葉、ゆとり、その時の相手の気持ちに気づく“お互い様”の心が、平和な空気をつくってくれるような気がします。コンビニで出会った親子のように、こんな言葉が咄嗟に言えるお母さんに育てられた女の子は、お母さんの姿を見て自然に道徳を学んでいるのだと思います。「実る程、頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」──人が人として生きて行く知識や教養や常識をしっかり身に付けた人ほど、奥ゆかしく謙虚に振舞えるのだと感じた時間だったのです。より多くの人が、こんな気持ちで人と関わっていけたとしたら、人間関係に傷つく事も傷つける事も……また、醜い争い事もなくなるのではないかと思うのです。

 「お先にどうぞ」──この言葉を言ってもらったら、目を吊り上げて世の中を見てしまいそうになる気持ちも穏やかな気持ちにふっと変えられる、そして、わが身を振り返り、自分の背筋がピンと伸びるような気さえします。相手を思いやる心はいろいろな場面で言葉や態度や姿勢で表す事が出来ます。「お先にどうぞ」には、自分の時間や気持ちをほんの少し犠牲にしてでも、相手の事を大切にしたいという、心のゆとりや広さを感じます。そして、お互いを尊重し合い良い関係を築く事になるのです。「自分が先!自分が先!」と思う心や人に譲れない心には、その人の中にある心の広さは感じられません。世の中には人に道を譲ったり、時間を譲ったり、場所を譲ったりするシーンがたくさんあります。そんな時に状況をみて、「お先にどうぞ」と言えるか?どうしてもそれが無理な時には「お先にすみません」と一言添える事ができるか?そして、その気持ちを受けて言葉や態度で感謝の気持ちを表す事ができているか?────

コンビニでのあの時間、その空気の中に居ながら、そう自分を顧みたりしていました。そして、あの時の大人の素敵なやりとりを目で見て、耳で聞いていた女の子は、十数年後、きっと素敵な大人になっているのだろうなと思ったのでした。
「実る程、頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」──古くから伝わるこの言葉に『人間力』を感じます。

大人の背中が教えるもの(2019年9月)

 言い飽きる程交わした「暑いですね」の挨拶──それでも、昨年の夏よりは多少暑い時期を短く感じるのは、気象観測上本当なのか?ただ昨年の事を思って覚悟して夏を迎えたからか?はたまた、この暑さにも慣れてきたからなのか?いずれにしても、今年の夏も猛暑だった事には違いありません。そんな中、夏休みも終わり、今日から2学期が始まります。こんがりと日に焼けた子供達の顔が、夏の楽しかった思い出を物語っているようです。

 幼稚園では預かり保育の子供達が、ほぼ毎日元気に過ごしました。日によっては、暑さが厳しい時間帯には外あそびを控える事もありましたが、今年は全保育室に冷房が設置され、室内では快適に過ごせたようです。預かり保育の子供達は、基本、異年齢で毎日触れ合いますが、夏休みの間は、学年別に部屋を分けて過ごす時間も多くありました。年長組が過ごしている部屋へ行ってみると、色々な係ができていました。預かり保育担任の先生と子供達で話し合って決めたようで、おやつを運ぶ係、掃除係、洗濯物を集める係等、子供達は自分達で決めた役割に責任を持ち、張り切って果たしていました。集団で生活する上で、これらの工夫がみんなの生活を快適にスムーズにしてくれている事を実感しながら過ごせていたようでした。

また、プールの時間は先ず、満3歳児と年少組が入ります。しばらくして裸ん坊でプールから上がって来た子供達を年長組がタオルを持って待ち構えます。全身濡れている身体を拭いてあげるのです。「手を広げてごらん」「ハイ、後ろを向いて」「できたよ。OK!」と年下の子供達に優しく声をかけます。それから、次は着替えです。「プールバッグを持ってここに来てごらん」「パンツは自分ではけるでしょ。ハイ、シャツはこっちが前よ。」「ズボンはくよ、右足こっち、左足こっち。ここからは自分で頑張ってごらん。」「着替えたらおしっこへ行っておいで。」と、まるで先生のようです。こんなふうに“小さな先生”役をしてくれる年長組の子供達も、数年前には先生や上の学年の子にしてもらっていたのです。そして、今、してもらっている満3歳児と年少組の子供達がきっと来年や再来年は、“小さな先生”になってくれるでしょう。先輩を見て習っていくのです。

 そんな事を思って迎えたお盆休み、我が家では89歳の義父を囲み、親戚が揃いました。ひ孫4人と孫4人を含め総勢15人の夕食です。何の話からか覚えていませんが、話題が“おじいちゃんは凄い”という事に集中しました。それからは昔亡くなった祖父母の話にもなり、思い出話に花が咲いたのです。それを今や成人した孫達が一生懸命に聞いていました。主人が「亡くなったおじいさんは、とにかく行儀にはうるさい人で、茶碗を箸で1回叩くだけで凄く叱られたよ。」「肘ついてご飯を食べたり、お茶碗にご飯粒が一粒でも残っていたりした時にはとにかく厳しかった。」──主人の姉も「でも、その厳しさは今、自分達にとって、ありがたい事だったと分かる。」と言いました。その話になると、決まって義父は自分の父であるその“おじいさん”の事を「とにかく働き者で、真面目な…真面目な人だった」と教えてくれます。そして「おばあさんは、穏やかな優しい人だった。」と…。そんな“お父さん”の姿を見たり“おばあさん”の優しさに触れたりして育った義父もまた私達からすればそれ以上に真面目な働き者です。孫達も「だからおじいちゃんも優しくて真面目で働き者になったんだね。」と納得していました。“おじいちゃんの人柄のルーツ”を探りながら、写真でしか見た事のない古いおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いていました。

義父と一緒に食事をすると、いつも、私が作ったおかずをじっと見て「今日はケーキのようにきれいな色合いのご馳走だね。」「この豆はどうやってこんな柔らかくできるのかね。」「食べたら、しょうがのような味がするね。入れてあるのかねぇ。」と、ただ食べるのではなく、作った物に関心を持って“美味しいよ”“ありがとうね”“ご馳走様”の気持ちを表してくれ、とても嬉しい気持ちになります。また、義父の通院に付き添った時の事、看護師さんに名前を呼ばれて席を立つ時、隣に座っている人にゆっくり会釈をして、「前をすみません」と小声で挨拶をする姿に驚き感心しました。年老いて自分の身体もままならないのに、他人を敬う姿勢に学ぶものがありました。その姿を見た私の娘が「おじいちゃん、めちゃくちゃ凄い人!私も見習わなきゃいけない!」と感動していました。食べ物に限らず、周りにある様々な物や人に関心を持ち、大切にする気持ちが生き様として言動に表れるのでしょう。これは、教えられずとも学ばせてもらっている『生き様』という『しつけ』なのかもしれません。

 人は皆、身近な大人の生き様を見て育つのです。今の時代を作って来た“おじいさんおばあさん世代”の話ではなく、夏休みの預かり保育で見たように、未来をつくって行く小さな子供達もまた先輩や身近な人達にしてもらった事や姿勢を見て真似をしながら大きくなろうとしているのです。「こうしなさい。ああしなさい。」と言葉で教えるだけではなく、自分の存在や生き方そのものが子供達のお手本となり何かを教えてあげられるような──そんな大人になりたいものです。そんな人にはなかなかなれませんが、せめて、子供達に見られている事を忘れないでいたいものです。アッ!でも、“反面教師”という言葉もあったなぁ~とほんの少し気を緩めたくもなります。だって私…やっぱり完璧人間じゃあないんですもの(笑)

水たまりに気をつけて―???(2019年度8月)

保育室から聞こえてくる子供達の可愛い歌声♪ヤッホッホなつやすみ~♪ヤッホッホなつやすみ~♪……そして、いよいよ明日から夏休みになります。昨年のこの時期に比べると、心なしか涼しい夏休みの始まりに思えます。長い夏休みをどうかご家族で元気に楽しくお過ごしください。

 さて、この1学期、子供達は新しい環境に身を置き、不安や戸惑いから徐々に幼稚園の楽しさがわかって来て、もっとあそびた~いと思えるようになったところでしょうか?特に、プールあそびが始まった頃から、子供達のあそびはみるみるダイナミックになっていきました。解放感に満ち溢れ、プールあそびに限らず、水や泥と戯れながら遊ぶ子供達の表情は実に生き生きしています。

 先月の園だよりにも書きましたが、幼稚園の小川は、子供達のお気に入りの場所です。それと、園庭のあちらこちらにできる雨上がりにできた水たまりと水の通り道は、子供達が見つけた恰好のあそび場です。特に小川のすぐ横にある中門近くにできる大きな水たまりは、今思えば、昨年度の満3歳児クラスの子供達が「工事現場~工事中~」と言いながら砂遊び用のスコップで掘ったり埋めたりを繰り返し毎日遊んでできたものでした。その制作者(笑)達は、今でもその水たまりに自然と集まって新入園児達を指導(?)しながら遊んでいます。幼稚園が休みの土日の間にやっと乾いたと思いきや、月曜日には、小川からわざわざ水を入れて大きな水たまりを作ります。小雨の降るある朝、いつものように登園してくる子供達を中門で待っていると、子供を送りながら「いってらっしゃい!水たまりに気を付けてね!靴が濡れるよ!」と何人かのお母さんが声をかけておられました。靴を濡らさないように、水たまりを避けて保育室に行く子供もいますが、長靴を履いている子供の中には、そんなお母さんの心配をよそに、ゆっくりゆっくりとその大きな水たまりに入って行く子がいます。短めの長靴の子は、浸水までギリギリです。その様子を見てお母さん達は「あ~ぁ…」と目を覆っておられます。中には、わざとバシャバシャと歩く子もいます。また、バスで登園して来る子供達は、バスから降りてアスファルトの窪んだ所にできた水たまりをわざわざ歩いて行きます。体操服に着替えて水たまりに入り、しゃがんで遊んでいておしりがビショビショ!!傍にいた子も飛び散る泥水を浴びてしまう!!上手く入ったはずだったのに、遊んでいるうちに長靴の中に浸水!!──それでもみんなそこが大好きなのです。

どうして?──うまく説明できないけれど、そうしたくなる気持ち……わかりませんか?私も子供の頃、深い水たまりを見つけると、長靴で入って遊んでいたものです。どこまで濡らさずに歩けるか、長靴で水たまりの深さに挑戦していたのかもしれません。歩き方によったら濡れるかもしれない…でも入ってみたい…という冒険なのかもしれません。それがやけに楽しいのです。ただただ楽しいのです。そこにはスリルを楽しみ冒険心をかきたてるものがあるような気がします。“たかが水たまり、されど水たまり”です。そして、目を横に向けると、水たまりだけでは物足りなくなった年中組や年長組の子供達が小川で遊んでいます。靴が濡れないように小川の中にある大きな石を上手く渡りながら、エビやヤゴを捕まえるのです。運動靴は勿論、長靴でもその深さにはかなわない事がわかる時には裸足になって小川に入って行きます。

そう言えば、「工事現場~!工事中~!」と言って大きな水たまりを作ってくれた昨年度の満3歳児クラスの子供達に担任の先生がいつの頃からか、「靴を濡らさないであそぶのが上手!できるかな?」と言っていたのを思い出します。それは「靴を濡らしてはダメ!」という意味ではなく「むやみやたらに濡らす事を楽しむよりも、少し考えて上手に遊ぶ楽しみ方を見つけるようになって欲しい」というねらいからの子供達への“お題”だったのだと思います。そのクラスの子供達は、その先生からの“お題”に応えるべく、濡れる事が平気で当たり前の遊び方ではなく、考えながら楽しみをみつけて遊べていたような気がします。このように子供達は、いろいろな事を経験しながら加減する技や方法を習得し、どこでどのようにどうしたら良いのかを子供達自身が考えて生活できるようになっていくのです。ダイナミックに遊ぶその時の夢中な顔には、「楽しい」以上の感情が子供達の中に生まれている事を感じます。冒険心をかきたてられ真剣に自然に向かう子供達には、いろいろな場面で次から次へと挑戦する意欲が生まれます。“怖い物知らず”“危ない物知らず”また、“難しい事知らず”ではなく、せめて守られた幼稚園生活の中にある怖い物や危ない物くらいにはドンとこい!の気持ちで“怖い物見たさ”“危ない物見たさ”“難しい事見たさ”の好奇心や冒険心を大切にし、楽しみながら触れさせてあげたいものです。だって、大人が思うより子供達って実は“怖い”“危ない”“難しい”を結構楽しめるのです。

幼児期のうちに、いろいろな事を体験しながら、大きくなって世の中の怖い物や危ない物難しい事にどう関わっていくのが良いのかを学んでいるのだと思って「水たまりに気をつけて!」ではなく、ある意味あきらめて「水たまりを楽しんで!」と言ってあげてください。大人にとってのNOの中に子供達の成長のためにYESがある事にも気付いてあげたいものですね