あけましておめでとうございます。新型コロナウイルス感染拡大の状況に警戒しながらもご家族でゆっくりと過ごされたお正月はいかがだったでしょうか?例年と違う過ごし方に、意外と新しい発見等もあったのではないでしょうか?明るい光に向かって笑顔で福を呼びながら今年一年を過ごして行きたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
さて、冬休みの間、年末年始は何かと忙しく猫の手も借りたいほどではなかったでしょうか?そんな時、子供達は戦力として活躍してくれましたか?小さな手の子供達ですが、幼稚園では、クラスのため、先生のため、誰かのために…と、かいがいしく動いて手伝ってくれる事があります。これが結構頼りになります。だから、冬休み中もきっと張り切ってお父さんお母さんのお手伝いをしたのだろうなと想像します。
秋深まった頃の事です。朝、園庭の落ち葉掃きをしていたら「園長先生!小川の中にも落ち葉がいっぱい!掃除しないと!」と年少組の男の子数人が言ったので「みんなで掃除してよ~」と言うと「どうしたらいい?」と意欲を見せてくれました。「さつき組(満3歳児クラス)のテラスに置いてある“熊手”を持って来て!」と頼むと、「ん?なに?なんだって?」と初めて聞く名前に戸惑っていました。「とにかく行ってごらん。行ったらわかるから。」と行かせました。聞いたままを伝えたのか、さつき組の先生が教えてくれたのか、みんな熊手片手に小川に戻って来ました。その熊手は子供達でも使える小型の物です。どうやって使うのかわからないまま、初めて手にした熊手に嬉しそうでした。私は、その子供達に、「クマの手みたいでしょ、だから“熊手“って言うんだよ。」と教えてあげると小さな手で熊の手を真似してみて「はぁはぁ、ホントだ!」と納得!その後で、水の中からたくさんの落ち葉をすくって取る使い方を教えてあげました。私がして見せると面白がって「ぼくがやる!貸して!貸して!」と言ってせがまれた程でした。それから、その子供達は一所懸命に落ち葉をすくってくれていました。みんなで「ここに集めよう!」「こうやったらいっぱいすくえるよ。」「あっちの方がいっぱいあるよ。」「集める競争しようよ。」「よーいドン!」と、もはやあそびと化していました。きれいになった……とは到底言える感じではありませんでしたが、「園長先生!いっぱい集めたよ。クマの手”で上手に集めた!」と最後は得意気でした。その子達は手伝いというよりは遊んで楽しかった方が大きかったようでした。それでも「ありがとう!きれいになったわぁ。またお願いね。」と言うと「うん!またしてあげる!」とドヤ顔で違うあそびに行きました。
先生達はよく子供達に簡単なおつかいを頼みます。事務所にセロテープ等をもらいに行ったり、職員室の私の所まで先生からのお届け物を持って来てくれたりします。子供達は頼まれる事をよほどの事がない限り断る事はありません。それどころか、競うように「ぼくが行く!」「私が行く!」と言って手伝ってくれます。頼まれる事が嬉しいのです。そして「ありがとう」と言ってもらえる事も、先生の役に立てた実感が得られる事も嬉しいのです。
毎週水曜日にクラス毎にパンを分け入れたかごを各保育室に運ぶ手伝いをしてくれる年長組の男の子がいます。ある日手伝ってもらった事がきっかけになり、必ず、水曜日には声をかけなくても自分の仕事として職員室に来て手伝ってくれるのです。その子に先生が「小学校に行ったらこのお手伝いどうする?」と聞くと「水曜日は、幼稚園に来てパンを配ってから学校に行く!」と可愛い事を言ってくれるほどです。
子供達がしてくれるお手伝いはもっとたくさんあります。子供達にとってのお手伝いは“仕事”という名の“あそび”でもあるようです。手伝う事で先生やお家の人から「ありがとう」と言ってもらえ、何だか自分が役に立てた事が嬉しくて、心地よくて、そして特別感も得られる、それがまた楽しい……そう思える子供達の純粋さも可愛いですが、子供達の生活の全てが“あそび”だという事です。役に立っている自分が大人の仲間入りをした気分になれるのです。また、手伝う事でいろいろな力が育ちます。クマの手に似ている熊手を知り、使い方を覚えます。先生に頼まれたから…自分が行かないと先生が困ってるからと一生懸命にその責任を果たそうとおつかいに行きます。そこには責任感が育ちます。重たいパンのかごをどうやって運べば良いかをあの手この手で考え、仲間を呼んで来たり持ち方を変えてみたりする生活力が身に付きます。そして、何より大人の人に褒められたり感謝されたりすると自分に自信が付きます。その自信は自己肯定感にも繋がり、色々な事や様々な人に自信をもって関わっていける力になります。
年長組と満3歳児に姉妹がいるあるお父さんがれんらく帳に書かれていた事ですが、家のトイレにお姉ちゃんが入っていてなかなか出て来ないなぁと思っていたところ、しばらくしてトイレットペーパーの芯を持って出て来て、「もう紙がなくなって(妹の)○○ちゃんが後で入って困るから、新しいのをつけておいたよ。」と言ったそうです。その様子にお父さんは感動して思わず抱きしめたと書いておられました。お手伝いをしっかりさせてもらってほめてもらう…お父さんやお母さんに「ありがとう!助かったよ。」と心から喜んで言ってもらえる…“家族”という社会の中で自分の存在の大きさを感じさせてもらえる…そんな生活を続けていくと、自分の事だけではなく人と楽しく仲良く生活する知恵と力を身につけて行くのです。単なる“お手伝い”かもしれませんが、実は色々な事が子供達の中に育つのです。そして、その時の頼み方だったり言い方だったり、してくれた後の言葉がけ等、子供に向ける大人の接し方によってはその育ちの大きさが違ってくる気がします。せっかく楽しんでしてくれるお手伝いです。子供達が喜んで手伝ってくれるのなら、しっかり頼ってみてください。それがいずれ、社会から必要とされる大人として活躍する時の力になるような気がします。
この冬休みは、家族でお互いに向き合う時間がたっぷりあったと思います。子供達は小さくてもなかなかやりますよ!むしろ、小さい子供達の方が気持ちよく手伝ってくれますよ。冬休みに(そう言えば、大掃除を手伝ってくれたなぁ。)(お節づくりを一緒にしたがっていたなぁ。)(お皿洗いをしてくれたなぁ。)と思い返す事もあるのでは?上手にはできないかもしれませんが、やる気はいっぱいの子供達です。「手伝いたい!手伝いたい!(育ちたい!育ちたい!)」と言ってくれる時が大切です。
大人になった我が娘に、「ちょとぉ~!洗濯物くらいたたんでよ~!」と頼んで「え~ッ~」と思い切り嫌そうな返事をされるこの辛さ……。いったいいつからこうなった??皆さん!今のうちですよ(苦笑)
2021年1月6日 2:56 PM |
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今年のカレンダーが、残すところあと1枚になりました。未だ収束の気配を見せない新型コロナウイルスとの共存で大変な状況のせいか、これまでの一年が長かったような短かったような…そんな言葉にならない気持ちで11枚目のカレンダーをめくりました。
幼稚園では、これまでの慎重な生活の中、中止にしたり見送ったりしてきた行事に遠足や園外保育があります。園外に行かなくても、幼稚園の環境の中で十分に楽しさや発見や感動を与えられる生活にしていく事を先生達で意識的に展開して来ました。しかし、幼稚園のバスに乗って友達や先生と“お出かけ”をして、園内では味わえない感動を与えてあげたいという想いはずっと先生達の中にありました。そしてやっと10月の終わりから1クラス毎で園外に出かける事ができるようになりました。
満3歳児組や年少組にとって初めての“お出かけ”の日の事です。「おはよう!今日はお出かけだね!」と声をかけると「おはようございます!」の弾んだ挨拶が返ってきました。支度をして、バスに乗り込む子供達の喜びの気持ちは最高潮です。三次の名所「尾関山」に向かいます。バスの窓から見える尾関山までの三次の街並みは、普段お家の人と一緒に見るそれとは違って見えていたかもしれません。尾関山はそれはそれは見事な紅葉でした。行く所行く所に子供達の大好きなドングリが落ちていて、なかなか前に進めないほどでした。「み~つけた!」「あった!!」「ぼうしをかぶったドングリだ!」と、小さなモミジのような手で一生懸命に拾っていました。そんな時、どこからか♪どんぐりころころどんぶりこ~♪と歌声が聞こえて来ました。それを聞いた子供達がまた歌います。それに乗せられ私も一緒に♪どんぐりころころどんぶりこ~、おいけにはまってさあたいへん……♪と歌います。2番の歌詞は曖昧なのか1番を繰り返し歌っていたので、私は、それに続いて2番の歌詞を歌ってあげました。♪どんぐりころころよろこんで しばらくいっしょにあそんだが やっぱりおやまがこいしいと ないてはドジョウをこまらせた~♪ 拾いながら進んで行くとさっき見つけた物より小さなドングリが落ちていました。「アッ!ちいさっ!かわいいよ、えんちょうせんせいみてみて!」とそのドングリを愛おしそうに手のひらにのせて見せてくれました。その小さなドングリを拾っていると、♪どんぐりころころどんぶりこ~、おいけにはまってさあたいへん……♪と小さな声で囁くように歌う声が聞こえて来ました。みんな同じように歌い始めました。小さなドングリに向ける子供達の気持ちが込められた歌い方でした。小さくて可愛い・もろい・弱い・大切 などを声の大きさで表現していたのだと思いました。それを聞いて何だかとても温かい気持ちになりました。その時の自分の気持ちと情景がピタッとはまる歌を自分の知っている数々の歌の中からチョイスし、つい口ずさむ子供達の感性に感動しました。アニメソングやリズム主張の強い流行歌を口にするのではなく、♪「どんぐりころころ」だった事が嬉しかったです。木から離れコロコロ転がってここに落ちているドングリを想像しながら大切に拾っていたでしょう。
童謡は、子供達のすぐ近くにある様々な事を歌詞と曲で子供達が歌うために作られた歌です。見逃してしまいがちな情景を歌詞にして、子供達の感性をくすぐります。ドングリ目線のものがたりに触れ、♪やっぱりおやまがこいしいとないてはドジョウをこまらせた~♪の部分では、自分の気持ちを重ねてお家を恋しがる気持ちに共感します。そして、それからのドングリの旅を想像させます。何でもないような物事に心を持たせ、子供達の心をそこに寄り添わせる事ができるのが童謡なのだと思います。
私の義母が、孫をおんぶしながら童謡をよく歌ってくれていました。夏の畑で、きっと最近では幼稚園でもなかなか教える事のない『トマト』を歌ってくれていたのを思い出します。♪トマトってかわいいなまえだね うえからよんでもト・マ・ト したからよんでもト・マ・ト……トマトってなかなかおしゃれだね ちいさいときにはあおいふく おおきくなったらあかいふく♪ そこに生っているトマトがかわいい子供に見えてくるから不思議です。トマトに心を寄せる事が出来ます。
童謡には、そうした心を育てる大きな力があります。曲も素敵ですが、歌詞を噛みしめて歌うと目にしている物の現在より前の事、そしてその先の事を想像して楽しんだり悲しんだりおもしろがったり気にかけたりします。心が揺さぶられるのです。これを繰り返して行くうちに、心情豊かな人間性が培われるような気がします。
今は、情報化社会になり、こちら側が積極的にならなくても自然にいろいろな曲や歌が耳に飛び込んでくる世の中です。様々な音楽に出会い、それに触れる事によって感情が育ちます。私も、『懐かしの70年代ソング』等のような歌謡曲番組があると、その若かりし頃(笑)の悪事(笑)や家族や友達との思い出を重ねながらその時の感情が甦ります。流行歌などの楽曲は、放っておいても耳に入りますが、童謡やわらべ歌は、今や、教えてあげないと知るすべもない世の中になって来つつあるような気がしています。お父さんやお母さん、またはおじいちゃんやおばあちゃんが歌って聞かせてくれて受け継がれて来たこの童謡やわらべ歌で、私達は心を育ててもらいました。決して上手とは言えない母の歌声と童謡が重なって耳に残っています。このサイクルを崩してはもったいないです。何かを学ばせようとして、習い事等には急いでとびついてしまいがちですが、すぐ近くにこんなに素敵な心を育てる“教材”がある事を思い出してください。大好きな人の声で歌ってもらった童謡は、子供の心の財産になるような気がします。私達も昔から歌い継がれてきたたくさんの童謡やわらべ歌を幼稚園で歌っていきたいと思っています。
今日も、秋の童謡が保育室から聞こえて来ます。園庭では、はないちもんめの歌で子供達が遊んでいます。この子達が、日本の大切な心を育む歌を伝承してくれる大人になってくれたら嬉しいです。春には春を、夏には夏の、秋には秋を、冬には冬の、季節と生活を密着させた歌を歌い、その時々の心の中にある“情”という人間らしさを柔らかくほぐし、豊かな感性の種を植え育てて行きたいと思うのです。
先日、卒園児が可愛い男の子を出産しました。出産したばかりの写真をラインで送ってくれたその顔に、大仕事をし終えた母親としての強さと優しさを感じました。どうか、可愛い我が子にいつも優しい声でたくさんの歌を歌ってあげるお母さんになって欲しいと願っています。そして、赤ちゃんには、お母さんの歌を聴きながら心豊かに育っていく事を心から願っています。
2020年11月30日 2:29 PM |
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衣替えとなり、久々に着た紺色のブレザーが小さくなっている年中・年長組の子供達…、入園式以来に袖を通した新入園児さんの少し大きめな制服姿…、どちらともとても新鮮に見えます。「良く似合うよ」と声を掛けられ、照れながらも嬉しそうに登園して来た衣替え初日の子供達が印象的でした。
さて、今年度は、新型コロナウイルスの影響で秋季大運動を開催する事が出来ませんでした。それに代わる活動として、“わんぱくチャレンジ週間”を企画しました。毎年行っていた形で出来なくても、何とかして子供達に運動会の経験をさせてあげたいと思い先生達で考えました。長い期間の中で身体をいっぱい動かしいろいろな事に挑戦しよう!そして、その姿を皆で応援したり認め合ったりする経験を楽しもう!という企画で、初めての試みとなりました。
それを企画するまでに先ず、先生達で“運動会で何が育つのだろうか?”“運動会をする意味は何?”から考えてみました。子供達は、幼稚園での日常生活の中で走ったり跳んだりしてたくさん運動をしています。三次中央幼稚園の庭には、小川やお山、大きなアスレチック、鉄棒、子供達が掘り返して遊び込んだためにできたデコボコの園庭、そして、その園庭に植えられたたくさんの木々……これは幼稚園に居ながらにして自然の中で遊び込める、子供達にとっては幸せな環境だと思っています。小川の岸から岸へジャンプして渡ったり、裸足で水の冷たさを感じたり、滑らないように踏ん張ってお山を登ったり下ったり、高い所から飛び降りたり、また、デコボコした園庭で転ばないようによけたり跳び越えたりしながら走って追いかけっこをして遊びます。このように子供達は身体をいっぱいに使って夢中で遊びながら知らず知らずのうちに身体能力を高めています。身体が鍛えられているならばそれで十分ではないか。それをあえて“会”にする意味はどこにあるのだろうか?と、教育の原点に立ち返るつもりでその意味を探ってみました。
私達は、「子供達の健康な身体を育てる」それに加えて、「生きるために必要な力を育てたい」と思いながら保育をしています。“苦手だと思っている事も頑張る”“目標に向かって努力する”“みんなで力を合わせる事の楽しさや大切さを感じる”“ルールを守ろうとする”“友達や自分の力を認め合う”“最後まであきらめない”等々──これから先、自分を支え、生きる勇気とエネルギーの土台となる力です。運動会では、様々なルールを持たせた競技やひとりの力ではできない演技をします。日々のあそびにはない競技上のルールを意識的に守りながら、日々のあそびで習得した身体能力を発揮します。ルールを設けられた平等な舞台の中で、ある時は自信を持ち、ある時は苦手意識を克服できるよう導かれます。そして、みんなの応援によって向上心を持ち、勝敗を競うものであれば、悔しい気持ちを次へのバネにもできるように──。日常のあそびでは子供達の意識は“遊ぶ”がメインです。速く走ったり、すばしっこくタッチの手を避けたりする瞬発力よりも「鬼になった、ならない」の方に子供達の意識は向きます。それが“運動会”では、運動をしている事に意識が向き、運動する事を通して、どうしたら一つの目標を達成する事ができるかを子供達に考え学ばせる事が出来るのです。そうしてみると、運動会をこれまでの形にこだわるのではなく、「育てたい力」をどのような方法で育てるか……という事にこだわるべきだと思いました。そうして考えたのが“わんぱくチャレンジ週間”でした。
何かにチャレンジするという事は、自分の中にある様々なハードルを上げたり下げたりの調節をしながら自分の力を試します。みんなと一緒にすると、友達の力を見て励まし合ったり認め合ったりしながら共にハードルを乗り越えようと頑張ります。「できない」と諦めそうな自分を奮い立たせてくれます。それは、かけっこや競技だけに限らず、一本のバトンをチームで繫ぐリレーでも、集団の美をみせてくれる遊戯や鼓隊演奏での表現でも、同じように、チャレンジする事で日常のあそびから育つ力に加え、更なる力が心と身体に育ちます。みんなで一緒にチャレンジしながらも、自分の力にチャレンジするのです。例えば、年長組が行ったリレーでは、走る事が苦手でも、自分自身としてのチャレンジは“最後まで頑張って追い越されても走りきる。そして、次の友達にバトンを渡す事”チームのチャレンジとしては“みんなでカバーし合ったり励まし合ったりしながらトップを目指す事”です。年中組や年少組、また一番小さな満3歳児クラスも、一人ひとりの…あるいはチームとしての頑張りどころにチャレンジしました。その姿を園全体で目の当たりにし刺激し合いながら過ごす毎日だったように思います。特に“わんぱくチャレンジ週間”の二週間は、園内で、“運動会”さながらに、年中組の子供達が横断幕や万国旗を作ってグラウンド上に張ってくれました。万国旗はたった2本でしたが、みんなでがんばろー!!という気持ちをいっぱい込めて作られていて、それはそれは賑やかに美しく秋空に映えていました。隣の子供の城保育園からは、「がんばれー」と書かれた横断幕で応援してもらいました。
この経験を通して「そうだ!この頑張る気持ちが凄い事なんだ!」「僕の力も私の力も、輝かせる事ができるんだ!」と、実感できる経験にしてあげたかったのです。その実感が、これからずっと子供達の心に「生きる力」として宿り続けて欲しいと願っています。
“わんぱくチャレンジ週間”が終わった翌週、園庭から、年長組が演奏した鼓隊の曲が流れて来ました。見てみると、年少組の子供達が空き箱や段ボール箱で太鼓やシンバルや指揮棒を作って鼓隊演奏(?)をしていました。年長組のお姉ちゃんお兄ちゃんがしていた入場や演技、そして退場までの流れ全てを真似ていたのです。そして、よく見ると、総指揮をしているのは年長組の子でした。どちらの顔も得意そうです。マイクを通して聞こえる年長組の子供達の声──「次はリレーですよ~並んで!」いろいろな色のカラー帽子を被った子供達が集まって来ました。学年入り混じってのリレーが始まりました。走るのは、学年対抗でも男女対抗でもクラス対抗でもなく、走る事にチャレンジしたいと思って集まった子供達で、並べたり人数調整や実況アナウンスをしてくれたりしたのは年長組の子供達でした。お兄ちゃん達に憧れて新たな目標をもった小さな学年の子供達……憧れてもらった事に自信を持ち、さらに幼稚園のリーダーとしての自覚が芽生えた子供達……。みんなみんなとても頼もしく輝いて見えました。
どうやら、“わんぱくチャレンジ週間”が子供達の中に育てた事は、私達が狙った以上だったようです。あっぱれ!あっぱれ!子供達!
※この時の様子は三次中央幼稚園のホームページのブログでも見ていただけます。併せてご覧ください。
2020年10月30日 2:24 PM |
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台風10号が過ぎ去った数日後、雨降りの朝の事です。私はいつものように中門で子供達を迎えていました。通常なら小さな門の方を開けて迎えるのですが、その日は雨降りだったため傘をさして登園する子も多いので、大きな門を開けて広くして迎えていました。少しずつ子供達が「おはようございます!」と元気にやって来ます。そのうち雨が大降りになり、迎える私も登園してくる子供達も送るお父さんやお母さんも大騒ぎです。しばらくすると小降りになりました。それからは、少し晴れ間ものぞいてきて暑ささえ感じられるようになりました。さっきまで、誰もいなかった園庭に少しずつ子供達が保育室から出て来ました。雨が止むのを「待っていました!」とばかりに、ある子は小川の方へ向かって走って行きます。ザリガニや魚やカエル、虫を見つけに集まるのです。またある子は、いつも水溜まりができる場所に向かいます。長靴を履いて水あそびをするのです。年長組の子供達は小川の近くの木の枝に手を伸ばしてつかみ、揺すって雨粒を散らしながら「雨だ~!」と言って歓声をあげています。飛び散る雨水に濡れながら喜んでいます。いつもの朝の光景に戻って来たな……と思っていた矢先、またまた雨が……。その時、園舎の方から小さな子供達が傘をさしてやって来ました。満3歳児の子供達です。先生も一緒に出て来て。みんなで傘をさして中門の所に集まって来ました。次々に登園して来る友達に「おはよう!おはよう!」と声をかけてくれていました。ちょっとした“あいさつ運動”でした。可愛い生徒会(笑)達のその姿を見て何人もの保護者の方が「可愛い!」と声をかけてくださいました。そんなさつき組の様子に触発されてか、他の学年の子供達も傘をさして園庭に出て来ました。子供達の表情はいつもにも増して生き生きとして見えます。
そればかりではなく、いつもならお母さんに抱っこされてやって来る子供も、お母さんが持ってくれている傘を取り自分でさして意気揚々と中門を入って行く子もいて驚きました。長靴や傘を私に「みて!みて!○○ちゃんと同じなんだよ」「この傘、ここから見えるんだよ」「ここにリボンが付いてるの」と言って見せてくれます。ウキウキの様子でした。部屋に入っても、相変わらず満3歳児の子供達はテラスで傘を持って遊んでいました。私がそこを通ろうとすると先生が「アッ!園長先生だ!隠れろ~!」と大きな声で言いました。すると、子供達はみんな傘をさして集まりしゃがみ込んでじっとしているのです。見つかり過ぎる(笑)その可愛いかくれんぼに笑ってしまいました。
私達大人は天気予報で「明日は雨」と聞くと「あ~ぁ、雨か」と少しがっかりします。「明日は暑く(寒く)なるでしょう」と聞くと「あ~ぁ、明日も暑くて(寒くて)大変だ」と変に覚悟を決めてしぶしぶ過ごします。天気で左右される仕事を持つ人は、その逆の捉え方があるかもしれませんが、日常だけを考えたら概ね持つ雨のイメージや晴れのイメージは一緒ではないでしょうか?でも、子供達は、雨降りでも暑さの中でも寒さのなかでも、きっとそれはそれで楽しみ方を知っているのだと思います。家の中でも外でも、いろいろな物をあそびに使い楽しめる方法を何となくわかっているようです。 “そうならそうで、こうしよう”とか“そうならば、こんな事ができる”と、ポジティブにその環境を捉える事ができる子供達は生き生きとしてたくましいです。大人がネガティブなイメージをつくってしまっているのかもしれません。
そんな事を考えている時、車の中で聴いた朝のあるラジオ放送の一言がその時の事と結びつきました。※ ギブソンの“アフォ―ダンス理論”というものです。『アフォ―ダンス──“環境が人間に与える意味”』……例えば、子供達はそれまでの経験から、そこに傘があれば“雨でも外を歩ける”。また、長靴があれば“水たまりに入っても大丈夫”。そしてまた、雨上がりには木々を濡らし小川の水は増え、魚やカエル等の生き物みんなが動き出す──そう認識しています。そして、これらの環境から見出した価値観で「おもしろい!」「楽しい!」とまっしぐらにそこに向かい遊び出すのです。自分の置かれた環境や状況を受け、いろいろな心の動きや行動に結びつけるのです。そのラジオ放送を私は運転しながらぼんやり聴いていたので、明確には理解できていないかもしれませんが、それまでの経験により、人間が様々な物事に対して抱いた価値観を自分の行動や発言に結び付けていく事を『アフォ―ダンスの理論』なのだと私なりに解釈しました。
子供達が感じる前に大人の価値観で物事を誘導するのではなく、子供達が今ある環境の中で……先入観無しで価値観をもち行動に移す事は、世界を広げる事にも繋がります。“雨なら雨で…”“暑ければ暑さの中で…”“寒くても寒さの中で…”と、どんな状況の中でも楽しく過ごせるのです。何度もこのような気持ちを味わう経験を重ねると、物の考え方にも広がりがあり、少しの困難や悲しみ苦しみにも発想転換しながら正面から向き合える大人になっていくような気がします。
幼い頃にいかにたくさんの種類の環境と出会わせてあげる事ができるかで、子供達のものの考え方や生きていく方法や力に結びついていくかが問われるのではないかと思います。季節と共に、おもむきを変える園庭にはそうした様々な子供達の心をくすぐる環境があります。大人にとってはうっとおしく感じられる天気も子供達にとっては楽しく遊ぶための格好の条件になるのです。そして、“おもしろい”と思えばそこにある物が皆楽しい物に見えてくる……“嬉しい”という感情を持っていれば、周りの景色までもが素敵に見えたりありがたく思えたりする……その環境が子供達に何かの意味を与える──そう思って、子供達の素直に感じた心を大切にしていかなければならないのだろうと思います。
雨ふりのギャング達は、将来のたのもしい金のたまごです。木の枝を揺すって遊ぶ“びしょぬれギャング”も、素手でつぶれそうなほどカエルや虫をつかむ“残虐ギャング”も、お気に入りの傘と長靴でわざわざ水たまりを歩く“可愛いギャング”も、みんな世界と考え方を広げるための大切な環境との出会いをしているのです。今のうち……純粋な目で、心でいろいろな物を見渡せる幼い子供のうちに、たくさんの環境に出会わせてあげたいものです。
※ジェームズ・ギブソン(知覚心理学者)
2020年9月30日 2:08 PM |
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夏の厳しい暑さの中、2学期が始まりました。まだまだ、幼稚園の庭の木々にはセミがたくさん鳴いています。今年は、新型コロナウイルスの影響を受け、休園していた期間があったため夏休みを短縮しました。その分、幼稚園での夏のあそびをたっぷりと経験させてあげられたのではないかと思います。太陽と水と土と木々に囲まれて遊ぶ子供達の生き生きとした姿が、とてもたくましく感じます。
夏休みの間、プレイルームの子供達は毎日元気に幼稚園へやって来ました。
外でもたくさん遊びますが、暑さが厳しい時間帯は室内でいろいろな事をして遊びます。そんなある日、年長組の子供達が職員室に「この紙をたくさんコピーしてください。」と言って、書いて遊べるプリントの原本用紙を持って来ました。プレイルームの今田直子先生から頼まれたおつかいでした。私が受け取りコピーをして渡すと、喜んでプレイルームの部屋に帰って行きました。その日の夕方、私がテラスを歩いているとある女の子が「園長先生!今日はコピーをしてくれてありがとう!」と言ってくれたのです。私も忘れているくらいの事でしたが、ちゃんと私を見て(そうだ!あの時のお礼をいわなくっちゃ!)と思い出して言ってくれたのでしょう。私は嬉しくて、「“ありがとう”って言ってくれてありがとう。」と言いました。
それから、数日後の夜、プレイルームの子供達に小物入れを作らせたいのでチラシを家から持って来て欲しいと直子先生から連絡があったので、翌日たくさん持って行きました。子供達はチラシでいろいろなものを作って遊び、一生懸命に作った小物入れもちゃんとできていました。そしてその日もまた、子供達が私に「園長先生、チラシをたくさん持って来てくれてありがとう!私、上手に作れるようになったんだよ!折り紙だと小さくて出来ないけど、チラシは大きいから何でも入れられる小物入れができたよ。」と説明付きでお礼を言ってくれました。きっと、先生から「園長先生にお礼を言おうね。」と促されたからでしょう。しかも、具体的に何がありがたかったのか、どうしてありがたい気持ちになったのかを子供達が自分で感じるように話をしてもらったからなのだと思います。子供が人から何かをもらった時、すぐに「あら!ありがとうは?」と子供に言っていませんか?そうすると子供は「ありがとう」と言います。でも、それはもらった事に反応して…またはお母さんの「ありがとうは?」の言葉に反応して言った言葉で、気持ちがそこにどれだけ入っているかは???です。例えば、お誕生日におじいちゃんおばあちゃんからプレゼントをもらったら、「おじいちゃんもおばあちゃんも、あなたの誕生日を覚えてくださっていたんだね。そして、あなたの喜びそうな物を一生懸命に考えてくださったね。嬉しいね。きっと、あなたの事を大切に思ってくださっているんだね。ありがたいね。お礼を言おうね。」と声をかけてあげると、プレゼントをくれたおじいちゃんおばあちゃんからどんなに自分は愛されているか、自分の事を思って選んでくれたその時の気持ちにスポットを当てて考える事ができ、心からの「ありがとう」が言えるのではないでしょうか?ただ、もらった事だけにスポットを当てるのではなく、何に“ありがとう”なのか、どうして“ありがとう”なのかを感じる事ができるように言葉をかけてあげてください。
先日の夕方、幼稚園で怪我をしてしまった子がいて、保護者の方に連絡後私が病院に連れて行きました。診察室で処置を待っていると、お母さんが駆けつけてくださいました。私は申し訳なかった気持ちで原因を話し謝罪しました。すると「いえいえ、こちらこそ申し訳ないです。」と言ってくださりただただ恐縮しました。その時に、お母さんが処置待ちのその子に「○○ちゃん、園長先生にお礼言おうね。本当にご丁寧に連れて来てくださって。はさみを使う時には切れる方は向こう向きになるように持たないといけなかったね。先生、本当にごめんなさい。ご心配をおかけして……。お忙しいのに、遅くまで一緒にいてくださってありがとうございます。○○ちゃん、園長先生にありがとうだね。」と、何度も話してくださいました。○○ちゃんは処置が終わり、病院を出る時に「園長先生、ありがとうございました。」としっかり言ってくれました。お母さんは、その子が感謝する人、感謝する事をきちんとわかるようにスポットをあてて話しておられました。申し訳なかったのはこちら側でしたのに…。
また、私がトイレづまりを直していたある日、トイレにやってきた男の子が、「あのね、ここが壊れてるんだと思うんよ。直る?むずかしい?」と私の傍でずっと気にしてくれていました。しばらくしてやっと水が抜け「やった!直ったよ。○○君、教えてくれてありがとうね。ずっといてくれてありがとうね。心配してくれてありがとう。園長先生、嬉しかったよ。」と言うと「直してくれてありがとう。もう使えるの?ありがとう!」と一言残して行きました。向うへ行きながら「トイレ、直ったよ~。園長先生が直してくれたよ~!!」と大きな声で友達に教えてあげていました。私から彼に“何にありがとうと言いたかったのか”を……また彼からも私に“何にありがとうなのか”を心から言ってくれた事が伝わって来てとても嬉しかったし、直してあげて良かった!と思えました。
子供達の中には、「ありがとう」「どういたしまして」あるいは「ごめんね」「いいよ」の反射的なやり取りがよく聞かれます。事が収まればそれでいいというのではなく、本当に感謝した気持ちや詫びたい気持ちを、相手の心に届くように伝えるためには、何に心打たれたかを明確にして話してあげる事が大切です。そして、それを繰り返していくうちに、人の優しさや苦しさに自分から気が付いて自然に声をかける事のできる人になるような気がするのです。
この夏、84歳の父を亡くしました。父の最期、息をひきとるその時まで一生懸命に耳元で伝えた事…「ありがとう」…いろいろ考えてもその言葉以外に思い浮かばなかったし、一番伝えたかった事でした。(育ててくれてありがとう。叱ってくれてありがとう。褒めてくれてありがとう。助けてくれてありがとう。どんな事でも一緒に喜んでくれてありがとう。一緒に悩んでくれてありがとう。楽しませてくれてありがとう。そして、頑張って怪我や病気と闘ってくれてありがとう。)──
何に“ありがとう”なのかをあげればきりがありませんが、「(その全てに)お父さんありがとうね。」心からそう言っておくりました。
2020年8月1日 1:52 PM |
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