先生の背中はぼくらの指定席(2025年2月28日)

保育室から聞こえてくる子供達の歌声……こうして部屋の外にこぼれて来る四季折々の歌をその都度その都度いろいろな思いをはせながらこの一年聞いてきました。いよいよ年度末。友達との別れを惜しむ歌や進級・進学に向けてエールを送り合う歌を聞きながら、子供達や先生達の気持ちを想像して胸を熱くしています。

先生の「おはよう!」

 毎朝、私は、園バスや車、あるいは徒歩で登園して来る子供達を先生達と一緒に門の前で迎えたり車の誘導をしたりしながらその様子を見守っています。子供達は、いろいろな表情で幼稚園にやって来ます。年度末ともなれば、どの子もみんな年度初めの4月頃とは違い、先生達が手を差し伸べなくても、「おはようございます!」と元気に挨拶をして走るように自分の保育室に向かって行きます。なかなか「おはよう」と言えなかった子供達も、いつの間にか笑顔で元気良く挨拶ができるようになりました。お家の人と離れられず涙を流していた子も、緊張の面持ちであっても気持ちを切り替えて、お家の人に「行ってきます」と言って園庭を真っ直ぐ歩いてお部屋に向かえるようになりました。門から幼稚園に入って行くこの短い時間の中でも、一人ひとりの成長がうかがえるシーンにたくさん出会えるのです。

「ママがいい!」からの…「ばいば~い!」

 そんな中、幼稚園で一番小さな満3歳児クラス(さつき組)の子供達は、まだその日の気分や朝起きて幼稚園に着くまでのリズムのちょっとした崩れに影響を受けて、機嫌よく登園出来ない時があります。「どうしたの?」と聞いても言葉にならないその子なりのわけがあるのでしょうが、保護者の方から聞く特別な事情がなければ、あえてその子に深く聞く事もしません。そんな気分になる時は誰だってあるからです。その日も、さつき組の女の子がお母さんからなかなか離れられずにいました。「さて、今日はブロックするのかな?」「早く行ってあそぼう!」と誘っても、お母さんの足元をくるくる回ってお母さんから離れようとしません。「ママがいい。ママがいい。」の一点張りです。そんな時、園庭の中ほどから「○○ちゃ~ん、早く来て~!」と言う先生の声。振り向くと担任の先生が背中向けにしゃがんで呼んでいました。(おんぶしてあげるからおいで~)と誘ってくれたのでした。それに気づいた女の子は急にお母さんから離れ、走って「みちこせんせ~い!」と、その先生の所へ向かって行きました。おんぶされた女の子は、先生の背中からママに「バイバーイ」できました。

 その先生は、幼いさつき組の子供達の機嫌がよくない時には、おんぶをしている場面をよく見ます。喧嘩したり寂しくなったりして泣いている時、自分の思い通りにならなくてプンプン怒っている時、聞き分けのない事を言って駄々をこねている時……。先生の背中に乗っかると、途端に気持ちが鎮まるから不思議です。先ず、落ち着かないと先生の話にも、友達の思いにも心を向ける気になってくれません。背中に居る間に自分なりにその時の気持ちに決着をつけて、気持ち取り直して再びしたい事に臨んだり、友達と遊べたりする場合もあります。

おんぶは人数制限あり、時間制限あり、スピード制限あり、だけどその時は、他の友達の手の届かない自分だけの居場所になります。先生の背中は、悩める子供達の指定席なのです。その時のスペシャルシートです。

大きくなったって、やっぱり……

 「重たいから自分で歩いてよ!」「もう、大きくなったんだから抱っこできないよ」───つい言っていませんか?子供達は、大きくなっても、自分の安全地帯をお父さんやお母さん、時におじいちゃんおばあちゃんに膝の上や腕の中や背中に求めています。大好きな人と身体が密着できている事で安心感や幸福感が得られると思うのです。叱ってしまった後、言い聞かせたい事がある時、悩みを聞いてあげたい時、褒めてあげたい時等、子供が不安な状態や溢れるほどの感情に子供だけでは受け止めきれない時には、惜し気もなく「ここにおいで」と、膝、胸、腕、背中を差し出してあげてみてください。

3人きょうだいの長子である私は、いつもお姉ちゃんとしてしっかりしていなければいけないと思いながら過ごしていたように思います。抱っこもおんぶも、妹や弟が優先でした。それは極々当たり前の事だと思っていました。小学校2年生の頃、母から頼まれたおつかいが上手くできずに、なかなか帰って来ない私を心配して迎えに来てくれた母の胸に飛び込んで泣きじゃくった事、その後、帰り道は母におぶってもらって慰めてもらった事、その時の母のぬくもりは、大人になった今でも忘れられません。素直に甘えて素直に泣けた事、私のためだけに手を広げて不安でたまらなかった気持ちを受け止めてもらい、背中に揺られて安心できた事を思い出します。

幼稚園では、先生がおんぶしてくれたり、ぎゅっと繋いでくれた手や「おいで~」と迎えてくれる声、ムギュ~と抱きしめてくれる両腕、絵本を読んでもらうお膝の中で、子供達は安心を得てくれていたと思います。そんな指定席を基地にして子供達は、これまでのびのびといろいろな経験を積んできました。

これから子供達は、今、出会っている人達と離れ、新しい場所で新しく人と出会うために新たに歩み始めます。どんな事があっても、帰り着く場所はお父さんお母さんなのです。心の基地がある事で、子供達は安心して世界を広げる事ができるのだと思います。

断捨離で気づかされた事(2025年1月31日)

新しい年を迎え、一カ月が過ぎました。“1月は行く 2月は逃げる 3月は去る”とはよく言ったものです。この3学期は進級・進学前の大切な3カ月です。慌ただしさの中にあっても、この言葉に流されず一日一日を大切に過ごしたいものですね。

12月にも書いたように、昨年末から大掛かりな家の片づけを始めました。少しずつ片付いてきた我が家──それでも、捨てるに捨てられない、だからといって置いておく場所もない、行き場のないかわいそうな物がまだまだ溢れかえっています。結婚する前の私の思い出の写真や日記、衣装ケースの中にしまったままでいつかは着るかも…と思って数年経っている洋服等はこの際思い切ってリサイクルや処分をする事にしました。

 ずっととっておいても、結局、将来、片づけに困るのは娘達だから…、今のうちに自分達で処分しなくちゃいけないと、主人と一緒にいろいろな物を分別しています。私が結婚する時に両親が準備してくれた物で一度も使っていない物が出て来て使っていなかった事が悔やまれたり申し訳なかったりして、胸が痛みましたが心を鬼にして処分しました。その次に頭を抱えている物、それは、写真です。自分の幼い頃の写真や娘達の生まれた時から今までの物が数えきれないほどありました。アルバムにしている物もあれば、忙しさを理由にバラバラのまま箱詰めにしていた写真もあり、とても大切な物なのに、それは到底大切にしているとは言えない状態でした。お正月に家族でその写真を見てある程度処分する事にしました。

 

カメラ越しの娘

幼稚園や小学校の行事での写真を見ていると、その時の事がはっきり思い出され、娘達は、「この時、こうだったよねぇ~。」「〇〇ちゃんを追い越して一番になった。観覧席から凄い声援が聞こえてめっちゃ嬉しかった事を思い出すわぁ!」等と、よみがえったその時の感動を語り合っていました。すると主人が「そうだったっけ?お父さんは、あまり覚えていないなぁ。」とボソっと言いました。「エーッ!お父さんが写真撮ってたのに?!」と娘達は不思議そうでした。主人は、「だって、撮り逃してはいけないと、カメラで追いかけるのが必死だったから……。」───カメラのファインダーからしか見れなかった主人には、レンズ越しに追いかける娘達の姿は、たくさんの友達とリレーをしている娘が感じていた周りの声援や風や空の色等、その時にしか一緒に感じる事のできない躍動的な全体の風景を共有できていなかった事があらためてわかりました。

 

思い出作りのための悲しい努力

そして、家族旅行の写真。幼かった娘達を連れていろんな所へ出かけていきました。その度にカメラやビデオを準備して(……そんな時代です。最近はスマホですよね)、それもまた楽しいと思っていました。なかなかカメラの方を見てくれなくて「こっちみてみて!こっちだよ~」とシャッターチャンスを狙いながら、行く所行く所で、思い出をカメラにおさめようと一生懸命だった事を思い出します。少し大きくなってからは、「写真撮ろう」と言うと「え~っ!またぁ~??」と、その度に足を止められてカメラの方を見ないといけないのが面倒臭そうに不機嫌な反応を見せるようになりました。

 

心のレンズで…

今、それらの写真を見返してみれば、思い出作りのためにと形に残す事しか考えていなかった親心でしたが、時間が経ってみるともっと一緒に子供達が興味を持った場所に興味のままに足を運び、楽しめば良かったと思うのです。写真を撮る事に時間を使い、子供達のしたい事や行きたい場所に向かう興味に足止めを喰わせていた事、その時の写真を撮る事が大変だった思い出よりも、もっと楽しい事ができたのではないかと思います。そして、今……思い出の写真の山……。娘達は、この親の努力(笑)に感謝してくれてはいますが、これらの写真やアルバムをまたいつ開いて見てくれるでしょうか?この先、そうそうないと思われます。それよりも、あの時こうだったよね~、ああだったよね~、と、写真には写っていない思い出……形ではない自分達の心のレンズで見た物や感じた空気、その一瞬一瞬を見て聞いて触れて家族で共有できる方が心の中に強く残る大切な財産になっていくのではないかと思うのです。

 断捨離をしながら、あらためて自分自身の……あるいは、家族の残したい本当の思い出や財産は何なのか?という事を考えてしまいました。

まだまだ可愛いさかりのお子さんを、撮らずにはいられない親心──、今はスマホ片手に手軽にきれいな画像が撮れます。データで残しておけるので、記録があふれかえる事もありません。良き時代です。でも、時々は、スマホ越しではなく、その時の我が子を取り巻くいろいろな物全てを感じ、その瞬間に一緒に声を出して笑ったり、泣いたり、叫んだりして、ご家族みんなで感動と思い出を共有してみるのも良いかもしれません。写真を撮る事に追われてその時の感動を逃してしまわないように、“記録”よりも“記憶”に残る思い出にしたい!

 あっ!💦 これ、写真撮り過ぎて、整理しきれずにいる今の私の後悔からの反省でもあるんですけどね。