栗ごはん(2021年度10月)

時折、夕方の西の空が真っ赤に染まり秋を思わせてくれます。夜、耳をすませば、涼やかな虫の声が聞こえて来る…そんな季節になってきました。

先日、知人から大きくてきれいな栗をたくさんいただき、休日の半日を使って剥きました。皮を剥くのは大変だけど、剥いている間いろいろな事を思いながらゆったりとした時間を楽しみました。

栗を見ると思い出す事があります。私の娘達が幼稚園の頃の事、まだ元気だった義父母が「奥の山にある栗の木にたくさん栗が実っているよ。」と教えてくれたので、休日になったら娘達に栗拾いをさせてやろうと計画をしました。そして休日、身支度をし籠と火箸を持ってゆっくりゆっくり裏山に向かって歩いて行くと大きな栗の木が見えて来ました。「ほら、あれがおじいちゃんとおばあちゃんが言っていた栗の木だよ。たくさんあるといいねー。」と言うと、二人の娘が先に栗の木の下まで走って行き、すぐに「あった!あった!」「みーつけた!」「ここにもあった!」と籠に入れ始めました。「待って待って!イガイガがあるから、気を付けてよ!手で触ったら痛いよ!」と心配して叫ぶと、小さな手に大きな栗の実を握っていたのでした。あれ?変だぞ?と走り寄ってみると、イガから外されたきれいな栗の実があちらこちらにゴロゴロ落ちていたのです。「えっ?どうしてこんなに実が落ちているんだろう?」空のイガもたくさん落ちていました。落ちた拍子に外れた??こんなにもたくさん??──不思議でした。それから籠いっぱい拾って家に帰ると、義母が待ってくれていました。「おばあちゃん!たくさんあった!」と娘達が見せると「そう!たくさん採れて良かったね!お母さんに栗ごはんを作ってもらいなさいね。」と目を細めて一緒に喜んでくれました。そして、私は「お義母さん、すっごくたくさん落ちていてビックリしました。喜んで拾っていましたよ。」と言うと、義母が私の耳元で「お父さんが朝早く山に行ってイガを剥いて栗をまいておいてくれたらしいよ。」と言ったのです。それを聞いてやっと合点がいきました。(そうでしょそうでしょ、それしか考えられないですよ)と思いました。大きな栗の木や生っている実、落ちている栗のイガ、足を使ってイガから栗を取り出す……これらを体験させたい私の思惑は空振りとなりました。だけど、おじいちゃんおばあちゃんの私達親とは違う優しさや愛情が吹き出す程愉快でありがたく思いました。ただただしんどい思いをさせずに喜ばせてやりたい、という計算のない純粋な愛情です。

私達親は、栗の木を見せて栗の生り方やイガの痛さや剥き方を教え学ばせたいといろいろな事を経験させようとします。これは、とても大切な事です。子供の将来を考え人として生きる上で大切な力を育てていく事または、その環境を用意するのは親の責任でもあります。それは、親の仕事で、おじいちゃんおばちゃんの役割ではないような気がします。おじいちゃんおばあちゃんには、孫の喜びや悲しみにいつでもどんな時でも寄り添って味方になってくれる、子供にとって安心安全な居場所となってもらえれば十分なのではないでしょうか?

義母が亡くなり、娘達の子守り役はもっぱら義父でした。仕事が終わり私が帰宅するまでの時間をあの手この手で安全に過ごさせてくれていました。いつも「ちゃんと宿題したよ。おやつもおじいちゃんが買ってくれたよ。」と私が帰るなり報告してくれ娘達はおかげさまで寂しがる事も無く、むしろ留守時間が充実しているようでした。「おじいちゃんの用事でホームセンターについて行ったら、おじいちゃんが自転車を買ってくれたんだー。」と大買い物にビックリ!「跳び箱が苦手って話したらおじいちゃんがこれを作ってくれたよ。ブランコが好きって話したらこれも作ってくれたよ。」と広い作業場が体育館のようになっていたのにもビックリ!そして、ずっと先になって「実は……」と白状した事がありました。いつも算数ドリルの宿題は、おじいちゃんとの共同作業(?)で、孫が問題を言いおじいちゃんが計算機で答えを出してくれていたと言うのです。その姿を想像すると可愛くて微笑ましくて叱る気にはなりませんでした。おじいちゃんが「ありゃありゃ、お母さんにバラしたのかぁ。お母さん叱らないでやってや、あんまり時間かけてしんどそうにしていたもんで、おじいさんが手伝ってしまったんよ。かんにんかんにん。」と笑いながら話してくれました。孫達とおじいちゃんのチームワークの良さ(?)に、親子にはない関係を感じ、いろいろな形の愛情を受けて育ててもらえている事に感謝さえしました。

思春期になれば、私の母に恋や進路の相談等をしていたようでした。母が「お母さんには言えない相談をしてくれたよ。これはおばあちゃんとふたりだけの秘密だ。」と言っていました。どんな時でもどんな事でも聞き役で「そうかそうか。うんうん。」と受け入れてくれる、孫達にとっては大切な居場所でした。

敬老の日、お子さん達はおじいちゃんやおばあちゃんの愛情に感謝したでしょうか?いえ、きっとおじいちゃんおばあちゃん方は、孫達に感謝して欲しいなんて思ってはおられないと思います。無償の愛ですから。ただただ可愛いくて大切だと思ってくださっているそんな愛に元気な笑顔を返してくれたりたくさん話してくれたり、「おじいちゃんおばあちゃんだいすき!」と言ってくれたりする事で、喜んでいつでもウエルカムの居場所を用意してくださるのではないでしょうか?そんな安全地帯になってくださっている事に私達親の方が「ありがとうございます」と言わなくてはいけませんよね。
大人になった娘達は今でも、おじいちゃんおばあちゃんの事を懐かしく思い出し、その存在の大きさに親とは違う“ありがとう”の気持ちを抱いているようです。栗ごはんを食べながらいつも家族でこんな思い出話になります。「またその話?」と同じ話を何度もして笑われてしまう私も、そろそろおばあちゃんの立場で物事を考える年になったのでしょうか?
“敬老の日”がやけに気になるのはどうしてだろう………?(苦笑)

世界を動かす精神(2021年度9月)

長い夏休み、ご家族でどのようにお過ごしになったでしょうか?

1学期の終業式では、夏休みの間に大きなケガや事故にあわないように元気で過ごすための約束をしました。そして、自分の事はできるだけ自分で頑張ってみよう!お手伝いをしよう!という事も話しました。さてさて、どうだったでしょうか?これから子供達に夏の思い出と一緒にこの約束が守れたかどうかを徐々に聞いてみたいと思います。

今年の夏休みには、一年延期された『TOKYO 2020 オリンピック』が開催され、『パラリンピック』は現在開催中です。開催にあたっては、新型コロナウイルス感染拡大が懸念される中でいろいろな観点から論じられました。それとは違う次元で、誰もが叶える事の出来ない大きな目標に向かってひたむきに努力してきたアスリート達に目を向けてみると、やはり“感動”と“夢”を与えてもらえた事には間違いないでしょう。

どの競技でも、アスリート達の雄姿には感動させられましたが、その中でも私が一番印象に残って心動かされたのは、スケートボード女子パークに出場した岡本碧優(みすぐ)選手の挑戦でした。決勝で大技に挑戦し、残念ながら転倒してしまいメダルを逃したその戦いには、たくさんのドラマとこれまでの私の中でのオリンピックの見方が少し変わった素敵な瞬間を見る事ができました。メダル獲得に向けて選手達には、私達が想像するに余りある意気込みとこだわりがあるはずです。成功するかしないかギリギリのところで大技に挑んだ岡本選手のチャレンジ精神にも感動しました。そして転倒した後の事、そこには感動と共に爽やかな空気が選手達を包んでいました。悔しさに涙をこらえながら立ち上がりスタートポジションに駆け上がった彼女をたくさんの出場選手達が集まって迎え、笑顔と拍手で抱きかかえてその健闘を讃えていました。そこには、勝負と国境を越えたアスリートの友情が見えました。ライバルである前に同じ夢を追う仲間…技を競い合い磨き合う事でお互いに目標を更新していく者として、大技に挑戦した姿を讃えたのです。そのような姿を見せてくれたのが、10代の若い少女達だった事にも感動しました。これからの時代を背負い動かしていくだろう若者がこんなハートを持ってお互いを尊敬し認め合いながら夢を追っている姿は、まさに※「オリンピック精神」そのもので、このような若者達こそが平和と調和をもって幸せな世界をつくってくれるのではないかと、明るい未来を見たようで頼もしい気持ちになりました。

私達は、つい、国が獲得した金メダル・銀メダル・銅メダルの数を競ってみたり、勝った負けたと一喜一憂したりしますが、オリンピックに全てをかけてきたアスリート達が狙うメダルへの執念とは別に、応援する立場の者としては、そこだけを見るのではなく、果敢に挑む姿や振る舞い等にスポーツマン精神を感じ、世界中の人達に与えてくれる“感動”と“夢”に光を当てて賞賛したいと思うのです。

幼稚園でも、子供達は毎日いろいろな事に挑戦しながら生活しています。その中で、勝ち負けやできるできないだけではなく、友達がどんなに頑張っていたか、努力していたか、どこが素晴らしいかをみつけてあげる事ができる人になって欲しいと思います。大人社会でよく耳にする“結果を出さないと意味がない”“結果が全て”“結果オーライ”と言ってしまえばそれまでですが、子供のうちには、結果は良しと出なくても、それまでの積み重ねや意欲にスポットを当てて、その姿を認め合える仲間作りをしっかり意識させたいと思います。勝者は素晴らしい、敗者はダメ……の意識だと、人の事も自分自身にも肯定感が持てず、喜びが新しい目標をつくり、悔しさはバネにして再挑戦に向かうという次の意欲につながらないと思うのです。前はできなかった事ができるようになった、前よりももっとできるようになった……そんな姿の裏でその子がどんな努力をしていたか、どんな気持ちで頑張っていたかという事を含めて讃え一緒に喜び応援し合えたり励まし合えたりする関係を築いていく事ができる───そして、敵味方、年齢、性別、国、全ての枠を取り除いてリスペクトし合う気持ちを持つ事ができれば、友情や信頼が結ばれ平和へとつながっていくような気がします。他のスケートボードの選手が、インタビューで「ライバルだけど友達だから」という事を言っていました。この言葉に全てが語られていたような気がしました。

同じく、オリンピックに新しく加わったスポーツクライミングでは、競技前に選手達がみんなで、どうやって成功させるかを相談し合っていました。この競技はロッククライミングが始まりらしく、険しい岩山を登るために、クライマーみんなでさまざまな情報を得ながら知恵や技術を出し合い作戦をたてるのだそうです。「力を合わせて」とい“精神”が競技にも持ち込まれているというのです。私には馴染みのない競技でしたが、競技前のその光景にも同じ目標に向かって高みを目指す仲間の気持ち良さを感じました。陸上男子800メートル走準決勝では、国の違うふたりの選手が転倒し手を差し伸べ差し伸べられ、声かけ合ってふたり揃ってゆっくりゴールインしたシーンがありました。感動的でした。そこには、メダルがちらつかないそれ以上の美しいアスリートの姿を見ました。

今回のオリンピックは、新型コロナウイルス感染症により、アスリート達も世の中もなかなか出口の見えない状況の中での開催でした。また、いろいろな立場の方々の意見やご苦労やご苦悩があった事、今もなおその影響を受け大変な思いをされている方がおられる事に目を向けると、感動とは別に複雑な気持ちにもなります。しかし、私は、純粋にこれらのアスリート達によるドラマを子供達もテレビ観戦しているかな?お家の人達と一緒にいろいろな話をしながらどんな事を感じているかなと思いながら見ていました。開催中のパラリンピックでも、個性と力を発揮し活躍するアスリート達の姿に純粋に感動するでしょう。スポーツに限らず子供達の世界でも、いろいろな場面でこれらのドラマと重なる事がたくさんあるはずです。一生懸命頑張る友達を認め、自分もそうありたいと共にチャレンジしみんなで高まり合おうとする気持ち、協力し合いながら一緒に楽しく過ごそうとする精神は、いずれ社会を…世界を突き動かすはず!と思えるのです。

※「オリンピック精神」:スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合う事で、平和でよりよい世界の実現に貢献する。