お先にどうぞ(2019年度10月)

「実る程、頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」──春に年長組の子供達が植えた苗が稲穂を実らせ田んぼ一面黄金色に広がりました。今月の初めには子供達の手で一生懸命稲刈りをして、収穫の喜びを味わいました。広い黄金色の田んぼと稲を刈った後のわらの香り、そしてその田んぼをトンボが気持ちよさそうに飛び回るこの光景を子供達には“秋の景色”として心に残しておいて欲しいものです。真夏から冬に向かおうとする前のこの時季は何となく日本の季節の美しさが心に優しく伝わってくるような気がします。

 私が仕事帰りにコンビニに寄った時の事です。商品を選んでいた私の横に小さな女の子が棚のおにぎりを取ろうと手を伸ばしていました。少し離れた所からお母さんが「一つだけよ。」と、その子に声をかけていました。お母さんは、どなたかと話をされており、その様子から、どうやら誰かのためにお世話役をされるような立派な方だとうかがい知る事ができました。小さな女の子には、とても手が届きそうにないので、私が「取ってあげようか?どれが欲しいの?」と聞くと「あれ」と、たらこのおにぎりを指差しました。私が取って渡してあげると、その子のお母さんが「ありがとうございます。○○ちゃん、“ありがとう”ってお礼言えた?」と優しく一緒にお礼を言ってくださいました。それから、その親子はレジに向かいました。丁度同じタイミングで、ひとりの男性がお酒とおつまみらしき商品を手に持ち並びました。レジは一つ。すると、そのお母さんが「お先にどうぞ。うち、たくさんなので…。」とカゴの中の商品を見せて男性にレジを譲られました。何でもない事なのかもしれませんが、それがとてもスマートで、見ていても気持ちが良かったのです。それだけではなく、その男性がおにぎりを持っている女の子に「ごめんよ。お嬢ちゃん。じゃあ、お先に…。」と微笑んで返したのです。女の子は照れ臭そうにお母さんの顔を見上げ、親子で笑って、「いいよね」とアイコンタクトを交わしていました。その様子を並んで見ていた私に、レジが終わったお母さんは、「さっきは、ありがとうございました。」と、会釈して店を出て行かれたのです。なんて、気持ちの良い数分間だったか。当たり前の事かもしれないけれど、どちらかと言うと忙しい気持ちでササッと買い物をするコンビニで、こんなに素敵な場面に出くわす事ができた事で、私の心にゆったりとした時間を与えてもらった気がしました。

 幼稚園では年長組が、毎月お茶会を経験しています。お作法の中で「お菓子をどうぞ」「ちょうだいします」という挨拶と、隣の席の人より先にお菓子をいただく時には、隣の人に「お先です」と言い、隣の人はお辞儀をして「いいですよ。どうぞお先に」の気持ちを伝えます。この日本の文化の中にも、お互いを大切に思いやり、感謝の気持ちを表す言葉や奥ゆかしい態度が存在しているのです。「お先にどうぞ」と言われて嫌な気持ちになる人はいないでしょう。「お先にすみません」と言われたら「いえいえ、どうぞ。どうぞ。」と気持ちよく譲ろうと思えるでしょう。そして「どうぞ」と言われたら自然に「ありがとうございます」の感謝の気持ちが湧いてきます。こうして心が通い合うのです。

 殺伐としたニュースがたくさん耳に入って来ますが、こんなちょっとした……でも、温かい言葉、ゆとり、その時の相手の気持ちに気づく“お互い様”の心が、平和な空気をつくってくれるような気がします。コンビニで出会った親子のように、こんな言葉が咄嗟に言えるお母さんに育てられた女の子は、お母さんの姿を見て自然に道徳を学んでいるのだと思います。「実る程、頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」──人が人として生きて行く知識や教養や常識をしっかり身に付けた人ほど、奥ゆかしく謙虚に振舞えるのだと感じた時間だったのです。より多くの人が、こんな気持ちで人と関わっていけたとしたら、人間関係に傷つく事も傷つける事も……また、醜い争い事もなくなるのではないかと思うのです。

 「お先にどうぞ」──この言葉を言ってもらったら、目を吊り上げて世の中を見てしまいそうになる気持ちも穏やかな気持ちにふっと変えられる、そして、わが身を振り返り、自分の背筋がピンと伸びるような気さえします。相手を思いやる心はいろいろな場面で言葉や態度や姿勢で表す事が出来ます。「お先にどうぞ」には、自分の時間や気持ちをほんの少し犠牲にしてでも、相手の事を大切にしたいという、心のゆとりや広さを感じます。そして、お互いを尊重し合い良い関係を築く事になるのです。「自分が先!自分が先!」と思う心や人に譲れない心には、その人の中にある心の広さは感じられません。世の中には人に道を譲ったり、時間を譲ったり、場所を譲ったりするシーンがたくさんあります。そんな時に状況をみて、「お先にどうぞ」と言えるか?どうしてもそれが無理な時には「お先にすみません」と一言添える事ができるか?そして、その気持ちを受けて言葉や態度で感謝の気持ちを表す事ができているか?────

コンビニでのあの時間、その空気の中に居ながら、そう自分を顧みたりしていました。そして、あの時の大人の素敵なやりとりを目で見て、耳で聞いていた女の子は、十数年後、きっと素敵な大人になっているのだろうなと思ったのでした。
「実る程、頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」──古くから伝わるこの言葉に『人間力』を感じます。

大人の背中が教えるもの(2019年9月)

 言い飽きる程交わした「暑いですね」の挨拶──それでも、昨年の夏よりは多少暑い時期を短く感じるのは、気象観測上本当なのか?ただ昨年の事を思って覚悟して夏を迎えたからか?はたまた、この暑さにも慣れてきたからなのか?いずれにしても、今年の夏も猛暑だった事には違いありません。そんな中、夏休みも終わり、今日から2学期が始まります。こんがりと日に焼けた子供達の顔が、夏の楽しかった思い出を物語っているようです。

 幼稚園では預かり保育の子供達が、ほぼ毎日元気に過ごしました。日によっては、暑さが厳しい時間帯には外あそびを控える事もありましたが、今年は全保育室に冷房が設置され、室内では快適に過ごせたようです。預かり保育の子供達は、基本、異年齢で毎日触れ合いますが、夏休みの間は、学年別に部屋を分けて過ごす時間も多くありました。年長組が過ごしている部屋へ行ってみると、色々な係ができていました。預かり保育担任の先生と子供達で話し合って決めたようで、おやつを運ぶ係、掃除係、洗濯物を集める係等、子供達は自分達で決めた役割に責任を持ち、張り切って果たしていました。集団で生活する上で、これらの工夫がみんなの生活を快適にスムーズにしてくれている事を実感しながら過ごせていたようでした。

また、プールの時間は先ず、満3歳児と年少組が入ります。しばらくして裸ん坊でプールから上がって来た子供達を年長組がタオルを持って待ち構えます。全身濡れている身体を拭いてあげるのです。「手を広げてごらん」「ハイ、後ろを向いて」「できたよ。OK!」と年下の子供達に優しく声をかけます。それから、次は着替えです。「プールバッグを持ってここに来てごらん」「パンツは自分ではけるでしょ。ハイ、シャツはこっちが前よ。」「ズボンはくよ、右足こっち、左足こっち。ここからは自分で頑張ってごらん。」「着替えたらおしっこへ行っておいで。」と、まるで先生のようです。こんなふうに“小さな先生”役をしてくれる年長組の子供達も、数年前には先生や上の学年の子にしてもらっていたのです。そして、今、してもらっている満3歳児と年少組の子供達がきっと来年や再来年は、“小さな先生”になってくれるでしょう。先輩を見て習っていくのです。

 そんな事を思って迎えたお盆休み、我が家では89歳の義父を囲み、親戚が揃いました。ひ孫4人と孫4人を含め総勢15人の夕食です。何の話からか覚えていませんが、話題が“おじいちゃんは凄い”という事に集中しました。それからは昔亡くなった祖父母の話にもなり、思い出話に花が咲いたのです。それを今や成人した孫達が一生懸命に聞いていました。主人が「亡くなったおじいさんは、とにかく行儀にはうるさい人で、茶碗を箸で1回叩くだけで凄く叱られたよ。」「肘ついてご飯を食べたり、お茶碗にご飯粒が一粒でも残っていたりした時にはとにかく厳しかった。」──主人の姉も「でも、その厳しさは今、自分達にとって、ありがたい事だったと分かる。」と言いました。その話になると、決まって義父は自分の父であるその“おじいさん”の事を「とにかく働き者で、真面目な…真面目な人だった」と教えてくれます。そして「おばあさんは、穏やかな優しい人だった。」と…。そんな“お父さん”の姿を見たり“おばあさん”の優しさに触れたりして育った義父もまた私達からすればそれ以上に真面目な働き者です。孫達も「だからおじいちゃんも優しくて真面目で働き者になったんだね。」と納得していました。“おじいちゃんの人柄のルーツ”を探りながら、写真でしか見た事のない古いおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いていました。

義父と一緒に食事をすると、いつも、私が作ったおかずをじっと見て「今日はケーキのようにきれいな色合いのご馳走だね。」「この豆はどうやってこんな柔らかくできるのかね。」「食べたら、しょうがのような味がするね。入れてあるのかねぇ。」と、ただ食べるのではなく、作った物に関心を持って“美味しいよ”“ありがとうね”“ご馳走様”の気持ちを表してくれ、とても嬉しい気持ちになります。また、義父の通院に付き添った時の事、看護師さんに名前を呼ばれて席を立つ時、隣に座っている人にゆっくり会釈をして、「前をすみません」と小声で挨拶をする姿に驚き感心しました。年老いて自分の身体もままならないのに、他人を敬う姿勢に学ぶものがありました。その姿を見た私の娘が「おじいちゃん、めちゃくちゃ凄い人!私も見習わなきゃいけない!」と感動していました。食べ物に限らず、周りにある様々な物や人に関心を持ち、大切にする気持ちが生き様として言動に表れるのでしょう。これは、教えられずとも学ばせてもらっている『生き様』という『しつけ』なのかもしれません。

 人は皆、身近な大人の生き様を見て育つのです。今の時代を作って来た“おじいさんおばあさん世代”の話ではなく、夏休みの預かり保育で見たように、未来をつくって行く小さな子供達もまた先輩や身近な人達にしてもらった事や姿勢を見て真似をしながら大きくなろうとしているのです。「こうしなさい。ああしなさい。」と言葉で教えるだけではなく、自分の存在や生き方そのものが子供達のお手本となり何かを教えてあげられるような──そんな大人になりたいものです。そんな人にはなかなかなれませんが、せめて、子供達に見られている事を忘れないでいたいものです。アッ!でも、“反面教師”という言葉もあったなぁ~とほんの少し気を緩めたくもなります。だって私…やっぱり完璧人間じゃあないんですもの(笑)