○か×か 白か黒か(平成30年度2月)2019年2月

 先日、年長組の子供達が卒園写真を撮りました。大騒ぎの中、入園写真を撮ったのがついこの前のように思い出されます。「じっとしててね。こっちを向いててね。」と、言っても言ってもみんなが揃っていい顔をしてくれず、撮影がなかなか大変だった事を思い出しながら、卒園写真撮影の様子を見ていました。撮影のためにパリッと制服を着て、お家の方に髪を綺麗に整えてもらって登園して来る年長組の子供達は、これも一年生になる準備だという事がよくわかっているようで、顔つきがいつもと違って見えました。園長先生と担任の先生の間で、背筋をしっかり伸ばしてカメラをまっすぐ見る子供達に目を細めました。

 そんな年長組の子供達も、そうは言ってもまだまだいろいろ経験中(?)です。ある日、男の子ふたりが新聞紙を細長く丸めて作った一本の剣をめぐって言い争っていました。「僕の(剣)だったんだ!」「違う!僕が拾ったんだ!」と言い合っているのです。そして、剣を手にしている男の子は「無理やり取り返そうとして押された!痛かった!」と悔しそうに泣いています。その反対に「僕が、話そうとしても、笑って走って逃げるばっかりで嫌だった」と両者譲らずの言い争いをしていました。話をよく聞くと、A君の言い分は、作った剣が捨てられていて、持って遊んでいたら、急に「僕のだった!」と無理やり押して取り返そうとして来た!B君の言い分は、剣は捨てたのではなく置いていた。「僕のだったから返して!」と言ったのに走って逃げられた。笑っていたから腹が立った。と……。一見、腕を押さえながら泣いているA君が可愛そうで、B君をとがめてしまいそうですが、よくよく聞いてみると、どっちも悪くてどっちも悪くない…どっちの気持ちにもうなずく事ができる。私がずっとフムフムと二人のやり取りを聞いているうちに、さすがに、「どうでもいいや」と思ったのか「こんな事に時間をかけても仕方がない」と思ったのか、そもそも、その剣にはさほど執着していたわけでもなかったのか、いつの間にかふたりの気持ちも熱も冷めて、はっきりしないままこのもめ事は終わってしまったようでした。──こういったもめ事は、子供達の中にはよくある事です。これをどっちが悪くてどっちが悪くないか、どっちが〇でどっちが×かと問われたら少し困ってしまいます。全てをこの二つに一つという答えの求め方をするのは、子供達の育ちの中では危険なような気がします。特にまだ考え方や経験に未熟な部分をたくさん持っている子供達は、自分の思ったままを発言し行動に移します。そういった事を何度も何度も繰り返しながら相手の様子を感じ取り、その時の自分の気持ちに折り合いをつけていく方法を見出します。それを習得するには、きっと長い時間が必要で、この時間が子供達の成長には大切なのではないかと思います。一つのもめ事でも、「あなたの方が悪かったんだよ」「あなたの方が間違ってるよ」と〇か×かで解決を急ぐと、子供は考える時間を奪われてしまいます。相手の気持ちと自分の気持ち、相手にされた事と自分がした事、いろいろな状況……このもめ事の裏にある全ての事を考えてみる時間と力を奪われる事になるのです。〇と×の中間△…白と黒の間のグレー…曖昧でどっちつかずの部分は、自由に捉えて自由に解釈でき、知恵を働かせる事のできる大切な部分のような気がします。そこから、許し合ったり、認め合ったりしながら、子供達の中にルールを見出していきます。たくさんたくさん考える事ができたら、そう外れた答えは出さないでしょう。そうしながら大人になって行けばいいと思います。世の中には、YESかNOか、〇か×か、白か黒か、良いか悪いかの二つに一つの答えを求められる事はたくさんあります。しかし、そうばかりではなく、人生には曖昧な部分も必要だと思うのです。“そんな事もあるさ”“まあそれもいいんじゃないか”というどっちつかずの考えを答えとして導き出す事も必要です。そうやって折り合いをつけながら上手く人と関わっていく──これも一つの答えだと思います。

 A君のここはどうだったかな?B君のそこはどうだったかな?と一つひとつに〇か×かは明らかでも、最終的にはどちらが〇でどちらが×!とは決めかねる…そこは決められなくても、一つひとつの〇×には、「ごめんね」「僕こそごめんね」……これが心から言えれば、相手の事を知りながら、学んで行けるような気がします。全員が全員、右向け右!ではなくて、人は皆、いろいろな考え方があって、ものの見方は人によって違っていていいはずです。子供達には、何らかの答えを導き出すために、その気持ちや考えに耳を傾ける事が出来たり、自分の考えを持って話せたりできる人になって欲しいと思います。そのために私達大人も、答えを急がず、しっかり時間をかけて子供達を見守り対応していく柔軟な気持ちを持っておく必要があるのかも知れません。


 幼稚園に入園して卒園するまでのこの時間は、私達教師にとって、子供達の心と身体の成長を見守り、導き、支援する大切な時間です。そして、子供達の中に育てておきたい大切な養分を土に染み込ませ、子供達自らの根っこで吸い上げてくれる事を願いながら、子供達と共に話し、触れ合い、過ごしています。それが、子供達が生きて行くための大切な学びの時間である事を思い、感慨深く卒園写真の光景を見つめていました。制服の袖が短くなったね。背が高くなったね。泣かなくなったね。椅子に座って足がブラブラしてないね。入園式のあの日から……大きくなったね。

心のおまもり(平成30年度1月)2019年1月

 明けましておめでとうございます。“平成最後の……”といろいろな場面で使われるフレーズですが、正に、平成最後となるお正月をどのような気持ちで迎え、過ごされたでしょうか?今年の4月30日で『平成』の幕が閉じられ、5月1日から新元号が施行されます。その日がじわじわと近づいている事に、平成を振り返り次の時代への心づもりをしながら、様々な感情が湧いてきます。そういった話が特別な思いで家族とできたとしたら、新しい年を迎える気持ちもいつになく引き締まったものになるのではないかと思います。子供にはまだわからないと思うのではなく、『平成』と次の元号を生きる次世代の立派な人材の一人として、幼い子供達なりにちゃんと理解できるように話をしてあげて欲しいと思います。今年も皆様にとって明るい幸せな年になりますように……。そして、どうぞよろしくお願い致します。

 さて、先月行った音楽発表会では、子供達のそれまでの頑張りや充実感と当日の達成感と一人ひとりの成長を感じ取っていただけたものと思います。どのクラスにも取り組みの中に心温まるドラマや可愛いエピソードが詰まった発表でした。表舞台に立つ子供達には感動的ですが、実は裏舞台でもそこにはない感動をみる事が出来ます。緊張や興奮、友達と交わすエール、お世話をしていただくPTA執行部さんと協力隊のお父さん方の声かけ、そして、先生達の子供達の全てを包み込む温かく強く深い繋がり──これらを目の当たりにし全てが感動でした。そんな幾つかある出来事の一つにこんな事がありました。二日間ある本番の一日目、それまでの練習では全く心配していなかったのに、何かの気持ちの調子が万全でないままステージを迎えてしまった年長組の男の子がいました。ステージの幕が開いて先生の指揮が始まると、普段通りの素敵な演奏が聴かれるはずでした。しかし、決まった小節の初めや終わりに鳴るはずの楽器の音が聴こえてきません。それは、彼の担当するパートでした。私も傍で励まし続けましたが、なかなか普段の気持ちを持ち直す事ができませんでした。時々、少しだけ自分で手を動かし小さな音を出しましたが、あの時の彼はそれが精一杯でした。クラスの子供達は、その事態がわかっていて、実に一生懸命に彼をカバーしながら、心配しながらも演奏を続けました。それはそれで感動でした。発表会終了後、彼のお父さんとお母さんに伺うと、そうなる思い当たる事はいろいろあって、ちょっとしたきっかけで、万全な状態にならなかったようでした。きっと彼の中でもはっきりした原因が説明できず、張り切る気持ちと裏腹に緊張や不安が入り混じっていたのでしょう。「どうして?」と聞かれても…「○○だから…」と言えるものではない何かと必死に戦っていたのかも知れません。普段通りにできない事を悔しく思いながら、あのステージの上で自分と葛藤していたのです。そして、二日目を迎えました。「今日こそは、普段の彼のままで、みんなと演奏させてあげたい。」と担任をはじめみんながそう思っていました。そして、ステージに上がって来た彼の顔は昨日とは全く違い、友達とワイワイ言いながら嬉しそうにスタンバイしたのです。そして、見事に演奏をやり遂げました。クラスの子供達も達成感で一杯だったようでした。それから、幕が閉まってすぐに彼が私に「今日は、頑張れた!どうしてかわかる?」と聞いてきました。昨日とは打って変わって晴れやかな表情でした。「どうしてだろう??」と聞き返すと「あのね、朝ね、手のひらに“人”っていう字を3回書いて飲み込んだからだよ。お父さんが教えてくれたんだ。そうしたら頑張れるって言って。」──お父さんと幼稚園に向かう車の中で、そんな話をしてもらったようでした。前を向いて運転するお父さんは、きっと時々彼の反応をチラチラ見ながら、大げさではなくサラッと…でも心中は祈るような気持ちで、その時の空気を大切にしながら話されたのではないでしょうか?私は、「お父さんが教えてくれたんだ。」と健気に話してくれる彼が愛おしくて可愛くて、つい抱きしめてしまいました。自分でも説明できない不安な気持ち、昨日のステージの経験が、彼の中で辛い思い出にならないように、むしろその経験をバネに変えて欲しいと願う気持ちで一杯だったので、「できた!」と嬉しそうにお父さんとのやりとりを話す顔に色々な気持ちが湧いて来ました。「どうして?」と聞かれても「○○だから」とはっきりとした原因や答えが出せない時に、その原因を探られ必要に迫られたら、気持ちを切り替えるきっかけを失います。彼のお父さんは、あえて、そこには触れず「いい事を教えてあげよう」と昔から言い伝えられているこのおまじない(科学的根拠があるようなないような…迷信)を彼に教えてあげたのです。それは、彼にとってよりどころとなる“お守り”になったのだと思います。そのおまじないによって、自分の中の何者かが元気よく力を出して自分を奮い立たせてくれる──そう思える事ができたのでしょう。その時の父子を包む空気がとても温かかった事を想像して、素敵な父子関係だなぁと胸が熱くなりました。「がんばれ!がんばれ!」よりも、彼にとっては静かに“お守り”を心の中に渡してもらえた事で、いろいろな想いを解きほぐせたのでしょう。

後日お父さんに聞くと、「あの日(一日目)、あまり朝食を食べていなくて、お腹が空いていたのも原因かなと思って、二日目の朝は大きなツナマヨのおにぎりを一つ作ってやったんです。それを食べさせた後、車の中で……」という事でした。彼にとって、お父さんが作ってくれたその大きなおにぎりとおまじない──それは、愛いっぱいの『心のお守り』だったのです。