学べるチャンス(平成23年度2月)平成24年2月

新しい年を迎え、あちらこちらに新年の挨拶をしていたら、いつの間にかもう2月…。まだまだ、年明けの余韻を残したまま、時が経っていきます。幼稚園では、年長組の保護者懇談会も行われ、幼稚園を巣立つ準備が始まっています。他の学年にとっても、3月までのこの数カ月は大切な時間となります。ゆっくり時間が経ってくれればいいのに…と物悲しくもあります。

最近年長組のお母さんとこんな会話をする事がよくあります。「もうすぐ卒園…。入園式をしたのが、ついこの前のような気がします。3年間なんてアッという間ですね。」──そうですよね、保護者にとっても子供達が“こども”でいてくれるのは、長い人生の内の一瞬の時間なのです。でも、この短い時間が子供の将来の人生の土台になるのです。人として、生き抜く力はこの時期にこそ育つと思います。たくさんのいろんな経験をすることこそが、この時期にしか出来ない学びだとつくづく思います。

では、“色々な経験から学ぶ”とはいったいどんな事なのでしょうか?たくさんの手習いをし、知識や技術をマスターする事?いろんな所へ、おでかけして楽しい思い出をつくる事?……こんな経験も確かに必要なのかもしれません。でも、与えられた経験ではなく、流れゆく時間の中でじっくりと自らの興味で瞳を輝かせ、時間を忘れるほど遊び込む経験こそが一番の学びであり土台作りに必要な事なのではないかと思います。「あらっ?」「どうして?」「なるほど」という経験がたいせつなのです。

少し前の事です。満3歳児さつき組のある男の子が、「ねえ、ちょっとちょっと!葉子先生!来て来て」と朝の園庭で私を忙しそうに誘いました。「なになに?」と傍に寄ってみると、一本の木の皮の窪んだ部分に見事に作られたクモの巣を覗きこんでいました。そのクモの巣に朝露がかかり青白くきれいに見えていました。

「これは何?」と聞くのです。見れば、園庭の木のあちらこちらに同じものができていました。その子が言うまで、気が付きませんでした。きれいだなあ、不思議だなあなんて思いもしませんでした。その子は、一日中でも外で遊び、色んな事を発見出来る子です。だんご虫、カマキリ、ドングリ、水たまり…入園してから今まで、色んな事に興味を持っている彼の掌には、いつも何かが握られています。「なんだろう?」と真剣に観て考えるのです。また、先日、ある年少組の保護者のれんらくノートにちょっとした母子の会話が綴られていました。その子のおじいちゃんは、漁師さんだそうです。海で獲れた魚を三次の孫に送ってくださる優しいおじいちゃんです。その子は食通でタイの目が好きらしく、「愛媛のおじいちゃんにタイを送ってねって電話しようや」とお母さんにお願いしました。そしてしばらくして、「ねえ!タイは海のなかで泳いでいるでしょ?じゃあ、おさしみも海で泳いでるん?」と聞いたそうです。そのお母さんは、なんてとんでもない事を聞くんだと、さしみがひらひらと海を泳ぐ姿を想像して苦笑いしたそうです。「…はてさて?どうして?」「ん?これは?」「…ということは?」と思うこの興味は、必ず将来の彼の探究心を育てると思うのです。知っていると思っていた事が意外にも知らなかったり、勘違いのままその子の知識になっていたりする事がたくさんあるのです。大きくなって、今の今まで知らなかったの?と驚く事も結構あるような気がします。それは、それまで興味や関心を示さないまま大きくなったからです。また、そういうチャンスがなかったからです。早期教育等により、子供達が自ら身体を動かし心の目で物事をじっくりと観る時間や気持ちの余裕を失くしてしまう事も要因の一つになるのかも知れません。私達大人は、そのありのままの姿や様子、または本物に触れさせてやる事、そうできるチャンスを奪わない事が大切だと思います。

料理をするお母さんの傍で、その様子を見ているだけで、「そうか!」といろんな事に気付きます。仕事をしているお父さんの手伝いをするだけで、「なるほど!」といった事にも出合えます。畑仕事をするおじいちゃんの傍で土と戯れ遊ぶ時に、季節の野菜の正体や生命力を目の当たりにします。針仕事や洗濯物を干すおばあちゃんの手元を見るだけで、昔ながらの知恵を教わります。昔はこんな光景が当たり前だったそうです。「どうして?」「これはなぁに?」と尋ねた時にゆっくりと教えてくれる人が周りにはたくさんいたのです。だからいつでも、もっと知りたいとか教えてもらいたいと思いながら、色んな事に興味をもちながら経験できていたのだと思います。

今の時代、スーパーに行けば、魚を捌(さば)かなくても良いように、パックに切り身で売っていて、本当の姿がどんな物かを知るチャンスがありません。季節に関係なく野菜が並び、寒い時期でもトマトやキュウリが食べられます。夏野菜という言葉を聞いてもピンときません。すぐに調理しやすいように、皮を剥いてあく抜きがしてあるサトイモやゴボウの笹がき…手を加えていないそれらを見て、同じ物だとは思えないでしょう。 “便利に”とか“能率良く”と、生活をするために省きたい『無駄な時間・無駄な事』は実は子供にとっては大切な時間であり貴重な事なのかもしれません。子供達が思う存分興味深く経験できる時間や気持ちを大切にしてやる事、チャンスを奪わない事が、幼児期の本当の教育だと思うのです。

しきたり…って?(平成23年度1月)平成24年1月

新年明けましておめでとうございます。昨年末に清水寺で行われた「今年の漢字」はご存知の通り『絆』でした。東日本大震災や台風被害によりあらためて感じる事ができた“家族の絆”、支援する“人の心と心の絆”、また、昨年の国内10大ニュース3位にあげられた女子サッカーWカップで優勝に導いた「なでしこジャパン」の“チームワークの絆”等、誰もが納得する理由が挙げられました。これは、昨年限りではなくいついつまでも忘れる事なく、今年…またその次の年…そしてまたその次の年へと繋いでいくべき素晴らしい一文字だと思います。そんな事を思いながら、昨年末から新しく始まるこの一年を心静かに迎えました。今年一年もどうぞ宜しくお願いします。

さて、皆さんは初詣に出かけられましたか?我が家は必ず毎年元旦に家族揃ってお参りします。境内に上がり家内安全の御祈祷をしていただいた時の事です。畳を歩く娘達の足元に目が行きました。畳の縁を踏み、さらに、並べてある座布団を何気なく踏んで座ったのです。きっと娘達は知らず知らずのうちにそうしたのでしょう。お恥ずかしい話、今まで私もそんな事にも気付いてやれなかったのですが、そろそろ“大人”になったなという我が子を見る目が変わって来たせいでしょうか、最近いろんな場面でいわゆる“マナー”について話してやる事が増えてきたのです。そんな事もあって、境内での娘達の振る舞いには物申したくなりました。小さな声で「畳の縁は踏まないんだよ。」「座布団も踏まないの!」と伝えましたが、「どうして?」ときょとんとしていました。「いろんな人がどうしているかを見ていてごらん。」と言って、しばらく一緒にたくさんの参拝客の足元をさりげなく見ていました。すると、年配の方は殆んどが畳の縁を踏まずに歩いておられましたし、座布団を踏む等もありませんでした。その逆で、若い人の多くは悪気もなく踏んでいました。

畳の縁も座布団も踏まないという日本人特有のしきたり(マナー)には、それぞれに意味や理由があるのです。床下に隠れた忍びの者が畳の縁の隙間から漏れる明かりで、刀を床下から刺し命を取られる事がないようにという戒めだったり、畳の縁には、模様として家紋を入れることもあるので、それを踏むという事は無礼になるという事もあるようで、この理由を聞かせてやると、娘達は「なるほど」と納得しました。また、座布団には客を大切にもてなすという意味があり、それを踏むということは、もてなしの心を踏みにじることにもなるからです。日本の住宅事情も変わり、畳の生活からフローリングの生活に変わってきた現代、実際なかなかそんな事を話してやる機会がなくなってきたのかもしれません。もう“古臭いしきたり”なのかもしれません。しかし、人は皆いろんな形で共同生活を送っています。お互いに良い関係を保つために必要な気持ちを形に表したものが“しきたり”や“マナー”なのです。面倒臭いと思われがちですが、そもそもの意味を知れば、相手への心配りとして当然の事だと納得できます。しきたりに縛られる事はないと思いますが、その年齢にあったマナーはあると思います。例えば、人の家に遊びに行った時に靴をきちんと脱いで揃えるとか、食事の食べ方、挨拶の仕方等、これは、いつの時代になっても変わる事のない当たり前の“マナー”で、そのマナーの裏にある「心」を子供達には教えてやらなければいけないのだと思います。色々な事が簡略化・合理化されてきている世の中でこういった事までそうしてしまうのは、「心」が置き去りになりそこに生まれるはずの人と人との良い関係が築かれなくなってしまう危険があるような気がします。しかし、私達世代の大人も、もう一世代前の方にとっては、無知で無作法な事をたくさんしているのでしょう。私自身も昔から言い継がれているしきたりの意味をもう一度学び、子供達に伝えてやりたいと思います。 

幼稚園では年長組が、毎月一度お茶のお稽古をしています。ある年長組のお父さんが、「うちの息子と、あるお茶会に行ったら、懐紙を上手に使って口を覆ってお菓子を食べて、茶碗もくるっと向きを変えて(正面を避けて)飲んでいたのにびっくりしました。」と話してくださいました。お茶のお稽古は、ただ単にお菓子やお茶の頂き方を習っているのではなく、お茶碗を大切にする事や口を覆ってお菓子を頂く意味やそこでの一つひとつの挨拶等、その作法の中に見え隠れする「相手を思いやる心」や「大切に思う心」を学ぶ一つの入口にもなっているような気がします。

家庭から受け継がれていくマナーやしきたり…それは、一生涯人とコミュニケーションを取らずには生きられない子供達の最低学ぶべき最高の教育ではないかと思います。

特にお正月には、このような日本人特有のものにたくさん出会えます。お節料理やお年玉の意味、お客様への心配り、逆に訪問する時のマナー等、堅苦しい様ですが色んなしきたりのその行為と心を知れば結構おもしろいのです。なかなかそうできなくても、(何となくそうしてはいけないような気がする)(何となくこうした方が良いような気がする)(この方が気持ちよかったり喜んでもらえるような気がする)…こんな気持ちになるだけでも素晴らしい事だと思います。そう思えることが、相手を大切に思うことに繋がっているのですから。