喧嘩のなかの「まぁいいか・・・」(平成21年度2月)平成22年2月

3学期に入り、子供達もさらに生き生きと生活しているようです。

これまで積み上げてきた友達との関係や、すっかり慣れ親しんだ幼稚園の環境の中で、それぞれに個性を発揮し合い、気心の知れた仲間と愉快なやりとりを見せてくれています。色んな話をしたり色んなあそびを楽しんだりしている顔は4月5月の頃とは全く違っています。仲間達と過ごす月日がこんなにも子供達の心を解きほぐし、余裕を与えるものなのかとつくづくそう思うのです。

 ところが、関係が深まれば深まる程、逆に、困った事も起こります。仲良く遊んでいるかと思えば、急に何かをきっかけにトラブルが発生するのです。12月の『葉子せんせいの部屋』で、あそびのトラブルを自分達でジャンケンによって解決したというエピソードを書きましたが子供達の解決策も様々です。こんな事がありました。

 「せんせーい!僕が先に遊んでいたのに、後から来て○○君が横取りしちゃった!」と険しい顔で訴えて来ます。話を聞けば、なるほど、言って来た子が最初は遊んでいたのに、それを置いて他な事をしている一瞬の間に、もう一人の子がそのおもちゃで遊んだものだから、「横取りした!」と言ったのです。「だって、置いてあったんだもん!」と、どちらもが自分の言い分を主張します。決して横取りしたつもりはなさそうでした。こういうトラブルはよくある事です。仲裁人の立場からみても仲裁しようがなかったので、どのように解決するだろうかと黙って見ていると、思いきり言い合った後で、「まぁいいか」と最初に訴えてきた子が手にしているおもちゃをもう一人の子に渡したのです。100パーセント良い気持ちではなかったかもしれませんが、白黒はっきりしたいという事よりもその場の空気とその後の二人の関係が悪くなる事を子供ながらに避けたかったのかもしれません。その後、二人は何事もなかったかのように、また一緒に遊び始めました。

子供ってとても無邪気に友達との付き合いができるのです。言葉も方法も内容もストレートなので、一瞬激しいやりとりになってしまうのですが、お互いの関係の積み重ねによって、大切にしたい人、失いたくないものもわかってくるのでしょう。(このまま言い合っていても楽しくないぞ)とか(それより、早く一緒にあそびの続きをしたい)という気持ちのほうが強くなって、「まあいいか」と許し合えるようになるのかなと思います。兄弟姉妹で激しい喧嘩になったとしても、ずっと言い続けても平行線をたどるだけ、一生口をきかないわけにもいかないし、どうせ頼り合わないといけない人だと思えば、最終的には、言い合っている事が「面倒臭い」という気持ちに近くなってきて、いつの間にか、腹立たしい気持ちを自分の中で浄化したり消化したりして「まぁいいか」とウヤムヤの状態で終わらせてしまいます。これが、関係の積み重ねのない相手となれば、白黒はっきりさせないと後には引けなくて収拾がつかなくなってしまうでしょう。白黒はっきりさせるためには、いろんな状況調査や心情鑑定が(少しオーバーですが…)必要になるために、見なくてよかった部分まで見てしまったり、知りたくなかった事までわかってしまったりして、良い関係が保てなくなってしまう事もあるのです。その間はとても苦痛で辛い気分です。だから、いつまでも楽しく仲良く過ごすためには、この場合どうするのがいいのかな?…と子供達は、子供なりに幼稚園という集団生活の中でそれを学んでいくのです。激しくやり合ったとしても、壊してはいけない…失くしてはいけないものにまで槍を刺さない“程々加減”を学びます。これを学べないまま大きくなると、人を許せない、引きどころがわからない…極端に感情的な人間になってしまうような気がします。関係の積み重ねの中には、相手の良い所も悪い所も相受け入れ、悪い所もあえて見逃せるようになる事だと思います。

「まぁいいか」は、時には『いいかげん』、…だけど時には『好い加減』なのです。「まぁいいか」と好い加減に考える事は、色んな人と色んな状況の中で様々な人生を生きて行くためには、自分自身を必要以上に追い込まない精神上健康な考え方だと思うのです。

しかし、こんなケースはどうでしょう。子供達の喧嘩の時に先生がかけよるだけで、いきなりドギマギしながら「ごめんね」「いいよ」というやりとりがあります。その台詞で一瞬にして喧嘩にピリオドが打たれるのです。(さっき出会ってまだ関係を築いていない間ではそれもありかもしれませんが…)何が“ごめん”で何が“いいよ”なんだ!と、腑に落ちません。心が通わないままで終わった後、そこに積み上げられるものは“ストレス”だけです。一見仲直りしたように見えても、心からの「ごめん」でもなく「いいよ」でもありません。この場合は再試合が必要です。自分の気持ちを出し、また相手を受け止めた上で「まぁいいか」と思えた時に更に関係が深まり人間関係の築き方を学ぶのだと思います。

こだわって物事を考え、真正面から向き合う事も大切です。その一点だけにこだわる事によって高められる事もあります。全てを「まぁいいか」と納めるのがいい訳ではないという事も知っておかないと『いいかげん』な人間になってしまいます。時には“こだわり”、時には“まぁいいか”と、人と人との関わりの中で『好い加減』を大人も子供も学んで行きたいものです。

気配り目配り思いやり(平成21年度1月)平成22年1月

新年あけましておめでとうございます。
新型インフルエンザをひきずったまま冬休みが始まり、幼稚園の子供達はみんな元気にしているだろうかと気にしながら過ごしておりました。皆様お元気で輝かしい年明けを迎えられたでしょうか?毎年繰り返し迎える年明けですが、その年その年で、迎える気持ちや状況が違っています。私自身、若い頃はそれ程感じていませんでしたが、年をとってきたせいでしょうか?近年、新しい年を元気で迎えられる事のありがたさをかみしめます。この気持ちを忘れないで、一日一日を大切にしながら過ごして行きたいと思っています。


そんな気持ちで、私もこの冬休みは年末から新年を迎える準備に忙しくしていました。日頃、“忙しい”を言い訳にしてまともに掃除ができていなかったので、我が家の年末の大掃除は大変です。こんな事になるのなら、日曜日の度に少しずつでも窓ふきや換気扇の掃除に手をつけておけば良かった…と毎年思うのです。ここは娘達に頼るしかありません。娘達にも日頃さんざん“働かざる者食うべからず”と言っているせいか、「手伝って」と声をかければ手伝ってくれますが、何もかもしてとは言わないけれど、自分のできる事を見つけて手伝って欲しいと思うのです。「何したらいい?」と聞くので、「家中のごみ箱を集めてくれる?」と言うと、せっせと集めて来てくれました。しかし、私が掃除機をかけている間に、いつの間にかいなくなっていました。集められたごみ箱がごみの入ったまま、置きっぱなしです。「ごみ箱を集めて。」と言ったのは、ごみを仕分けして一つにまとめるためだったのですから、状況的に見ても、ごみ箱を集めるだけでその仕事が終わったわけではない事は中学生ぐらいになればわかるはずなのです。しかも、置きっぱなしという事になれば、結局はバタバタと忙しくしている私か主人がする事になるのです。お父さんやお母さんを助けてあげたいと思ってくれているのならば、「ごみを分けておこうか?」という言葉が出たり、言わなくてもそうしてくれるでしょう。「ごみ箱を集めて。」と言われたからそうしただけなのです。言われた事だけするのであれば、誰だってできるのです。アンテナがピーンと張っていれば、次に自分はどうするべきか、何ができるかと考えて行動に移せるのです。ましてや、そうすれば、お父さんやお母さんが助かるだろうと思えば、自然にここまでやっておいてあげようかと考えられるのです。


幼稚園の創立以来副園長として勤務しておられ、退職後十数年経った昨年亡くなられた先生がいつも言っておられた言葉が『気配り目配り思いやり』でした。掃除をする時、皆が皆ほうきを持っていたのでははかどらない。一つ先を見据えてちりとりを持ってごみを集める、草取りをする等、いくらでも役立つ策はあるのです。皆できれいにしたい気持ちがあれば、気が回るようになる。なくなったティッシュペーパーの空箱がそのまま置いてある…次の人が困るだろうと思いやる気持ちがあれば、新しいティッシュペーパーに入れ替えておく事もできるのです。次の人が困らないように…思いやる気持ちがあったら…。全てが愛情なのだ。…という事を言っておられたのを思い出します。


我が家にお年始にいらっしゃったお客様に料理やお酒を出す時にも、「料理を運んでくれる?」と頼んだら、言われなくても料理の中にお刺身があるとわかれば醤油やわさびが…ビールがあればコップや栓抜きが必要だろうなと考えて準備できる──、そんな気の利く人になって欲しいと思います。そのためには、私達大人がそうする姿を見せる事が必要ですし、一緒にする事で子供達は自然に学ぶのだと思うのです。『気配り』は、相手に気持ちよく居ていただくための思いやりによるものだという事に気づくようになります。(こうしてもらえたら嬉しいだろうな。喜んでもらえるだろうな。)と考えて行動できる人になって欲しいと思います。そして “自分も共同生活を営む家族の一員である”ということが自覚できる生活をお互いに意識していることも大切です。気が利かないことをつい子供のせいにしてしまいそうですが、実はそうなってしまっている原因が大人にもあったのでは?という事に気づいてやらないといけないのです。今まで、子供達が些細な事でも何かをしてくれた時に、その気持ちに気づいて「ありがとう。助かったよ。」とか「よく気がついたね。」とか言ってやれていたか…、“子供は手伝うのが当たり前!”と思い過ぎて、押しつけていなかったか…と私自身も振り返ってみました。「ありがとう」「どういたしまして」「ごめんね」「あ~助かった」「嬉しいよ」「よかったね」という相手の気持ちに気づき、またその気持ちに応えてあげられる言葉のやりとりがいつもできていただろうかと考えてみないといけないと思いました。そういう言葉が自然に飛び交う家庭の中で育った子供達は『気配り目配り思いやり』のアンテナが育っていくでしょう。そして、たくさんの人達に愛情をもって接して生きていける人になってくれるようになると思います。感謝・ねぎらい・尊敬という人と人が円満に付き合っていくために必要な心が育っていきますように…。そう願いながら心あらたにこの一年娘達と向き合う事を誓った元旦でした。