夏の経験(平成17年7月)

イタリアのミラノから帰ってきた娘と初孫の男の子と2ヶ月間一緒に過ごしました。その間、東京にいる次女も時々帰ってきてくれて、久しぶりに家族そろってのにぎやかな日々を過ごすことが出来ました。

この2ヶ月間、毎日の食事はほとんど私が作りましたが、娘二人が子供の時にお母さんから作ってもらって食べていたお雑煮とおでん、きんぴらゴボウやレンコンを炒めたものは「おふくろの味」として残っているようで、娘からのリクエストを受けて女房も作ってくれました。娘がリクエストするだけあって、私が食べてみてもすごく美味しいのです。私自身、料理は女房よりも上手と思っていても、やはり、自分で作るより作ってもらって食べるほうが美味しいのです。そう言えば、板前さんは家に帰ったら自分ではまったくといって良いくらい食事を作らないそうです。奥さんの料理について一切口出しすることなく食べると言います。仕事で料理ばかりしていて、家に帰ってまでという気持ちもありましょうが、料理人であっても、奥さんが作ってくれた料理が美味しいのです。本当はプロである板前さんのご主人が作ったものの方が美味しいに違いありません。でも、奥さんの作ったものを美味しく戴きます。きっと、そこには奥さんの愛情のこもった料理の家庭的な美味しさがあるのだと思います。


母乳で子供を育てている娘が帰ってきている間に、料理を作るうえで私が心がけていたことは、添加物の入った既製のものは一切使わないことと、できるだけ旬のものを使って作ることでした。タラの芽の天ぷら、ワラビ、タケノコ、フキノトウの料理から始まって、ニンジンや大根にチシャ、レタスにキャベツ、ナスやキュウリとほとんど野菜中心ですが、ワラビとタケノコ以外は、すべて、自分で栽培しているものです。タケノコは近所の人や子供の城保育園の先生から貰ったものでした。タケノコは朝採ったものは、時間を置かないで食べると、苦味となるアクも無く、湯がかなくても刺身にしても食べられるし、湯がいて調理する場合でも、アク抜きしなくても美味しく戴けます。ダシも昆布とカツオからとります。野菜も朝採りしたものをサラダにして食べると、野菜一つ一つの味がとってもよく分かり、美味しさも格別です。ドレッシングも自分で作ります。市販のものは使いません。因みに、私のドレッシングの定番のレシピは、「酢・大さじ3、砂糖・大さじ2、醤油・大さじ1、白ゴマ油(サラダ油、オリーブ由)・大さじ2、すりゴマ・大さじ2」です。一度、試してみてください。魚も、一度は下の娘と一緒に渓流にヤマメを釣りに行って来ました。釣った日に食べるヤマメもとても美味しかったのですが、そのことより、娘と魚釣りができたことも楽しい経験でした。孫とも楽しい生活ができましたが、娘と孫がまたイタリアに行ってしまって、再び二人きりの静かな生活に戻りました。女房がすっかり疲れています。「孫来て好し、帰って好し」と言ったところでしょうか。

明日から夏休みに入ります。年長組の子供達はさっそく三瓶山での合宿に出かけます。ほとんどの子供達は親や身内の人から離れて過ごすという経験は初めてで、それだけでも大きな経験です。そして、原っぱを駆け回ったりキャンプファイヤーをしたり、友達と一緒に風呂に入ったり枕を並べて寝たりすることも、とても大きな経験で子供の自立心を培う大きな要素となります。


夏休みというと、保護者の皆さんも子供の頃の楽しい思い出がいっぱい有ることと思います。特に小学生時代の思い出が一番印象に残っているのではないかと思います。友達と山や川で遊んだことや海水浴に行ったこと、お爺ちゃんお婆ちゃんの家に泊まりに行ったこと、魚やセミを捕ったりカブトムシを飼っていたりしたこと等々、たくさんの経験をされてきたことと思います。楽しい思い出として残っている様々な経験というのは、実は自己形成の上で一番の役割をしてくれています。友達と楽しく過ごすことで人間関係の持ち方、自然と関わることで好奇心や意欲、探究心や科学する心と、直接経験することで思考能力を育み、子供時代を完成していったのです。残念なことに、今の子供達は自然と関って遊ぶことがずいぶんと少なくなってきました。実は、今の保護者の方が子供の頃にはすでにテレビゲームが出始め、子供達のあそびが大きく変化していった頃だったのではないかと思います。


先月、あるところで幼稚園の先生と保育士さんの合同の研修会があり講演をしてきました。そのとき、自然と関わって遊ぶことの大切さも話したのですが、最後に謝辞を戴いたときに、その中で、「今の若い先生たちが育った頃は、すでに自然の中で遊んだ経験が無いので、どのように遊んでいいのか分からない」という話がありました。
実際、今の保護者の方の中にも、どのように自然と関わって遊べばいいのか躊躇される方がかなりいらっしゃるのではないかと思います。「子供はあそびの天才」という言葉があります。子供は放っておいても周りにあるものを見つけて何かに見立てたり遊んだり利用したりして遊びます。あそびを発見し創造してくれます。1人でイメージして遊んでいたことも、その中に友達が関わってくると、友達のあそびのイメージに影響されたり模倣したりしてあそびを共有しながら、お互いに知恵を出し合い、もっと楽しく遊ぼうとします。時間と空間が整えば、その環境の中で子供自らあそびを創造します。大人は子供達の周りでその様子を見守っていると、子供のあそびの世界とどのように付き合うといいかも発見できると思います。子供から学ぶのです。小学生になると子供同士で外あそびができます。しかし、幼児には大きい子供や大人が付いてやっていないと危険すぎて野外で遊ばすことができません。しかも、子供は夏休みと言っても、保護者の方には仕事があります。少しでも休みが有る時は、できるだけ近くの自然を求めて遊び、お爺ちゃんお婆ちゃんのところに泊まりに行ったり、山や海で遊んでやったりしてください。子供達にとって、発見の多い「夏の経験」であって欲しいと思います

空梅雨(平成17年度7月)

今年の梅雨ほど雨の降らない年は私の記憶にはありません。26日の午後になって、久しぶりに10分足らず降りましたが、まさに焼け石に水でした。雨らしい雨が降ったのは、6月に入った間なしの一度きりです。そのため、幼稚園の園庭に昨年の秋に植えた樹木が気になり、時々、水をやっていたものの、少々の水やりでは表面が湿るだけで、地中深くには滲み込みません。トチの木とクルミの木がこの夏を持ちこたえることが出来るかどうかわからない状態になってきました。中門のところに2本ある「ハナミズキ」は10年前に植えたのにもかかわらず、一本が枯れてしまいました。
先生たちも子供たちと植えた芋畑の苗が心配で、暑い中を何度も水やりに行っています。幼稚園の「自然観察園」も昨年完成したばかりで、ほとんどの果樹や樹木、芝生は昨年の春と秋に植えたものなので、これも枯らしてはいけないと、出張で留守をした以外は、毎日水やりをしました。なんとか青い葉っぱを茂らせています。


その水やりを毎日した副産物が、野菜園のトマトです。雨がかかると病気になりやすいトマトの苗には根元だけに水やりをしますが、好天に恵まれ、2メートルくらいに伸び、トマトの実をいっぱい付けています。人の足よりも大きい見事な大根もたくさん収穫しました。
勢い余ったトマトの苗に押しやられたナスやキュウリの苗が、逆に、弱々しくさえ感じます。
子供たちの幼稚園でのあそびも、プールあそびだけではなく、園庭にある小川に入って水あそびをしたり、ホースを持ち出して、小山や園庭を水浸しにして、泥まみれになって遊んでいます。園庭中に子供たちの嬉々とした歓声が響き渡り、どの子も目を輝かせています。


こちらではほとんど雨が降らないのに、鹿児島県や東北・北陸地方では集中豪雨に見舞われています。幸いなことに、大きな災害にはつながっていませんが、こういう異常気象の時はどこでどんな災害に遭うかわかりません。
昔から、「災害は忘れた頃にやってくる」と言われていますが、こんなにも雨が降らないでいると、ある日突然、集中豪雨に見舞われそうな感じがしないでもありません。
現在の保護者の方がお生まれになった年の前後頃になると思いまが、幼稚園も33年前の昭和47年7月12日に大洪水に見舞われています。
その前日、子供たちが登園した間なしの頃から、集中豪雨に見舞われ、見る間に川は増水してきました。そのため、午前中で保育を取りやめ、急遽、帰宅させました。
当時、幼稚園の前身となった女学校の最後の学年の生徒がいました。一緒に寮生活をしていましたが、洪水で帰宅できなくなった幼稚園の先生と女学校の先生も寮に泊りこみとなりました。馬洗川に行ってみると、すごい勢いの濁流で、今にも水が堤防を越しそうになっています。すぐさま幼稚園に帰り、その女学校の寮生と先生、泊りこみとなった幼稚園の先生とで重要書類や貴重品を二階に運んでいました。食材の仕入れにも行かせました。プロパンガスの元栓も締めました。水もバケツからタライにいたるまで確保しておいたのです。万が一にと思って、ゴムボートにも空気を入れ二階に運んでおきました。
ところが、2時頃には雨は止み、澄み渡った夏空となりました。みんな必死で荷物を運んでいたので、しばらく休憩にして、もう一度、川の様子を見に行きました。あの、今にも堤防を越えそうだった濁流は、うそのように水が引き、河川敷にあった自動車教習所は浸水した後で、すでに、片付けや清掃をしていました。もう大丈夫だと、再び幼稚園に帰り、作業の中止を指示しました。


しかし、これが大きな見込み違いとなったのです。それでも、気掛かりなので、万が一のことを思って、私だけは玄関に布団を敷いてそこで寝ることにしたのです。玄関が床より低いため、一番早く水が来るからです。夜中の2時頃でしたか、バケツで水をかけるような勢いで再び雨が降り始めました。そして、玄関に水が押し寄せてきました。すぐさま、寮生や先生たちを起こして、残りの荷物を二階に上げようとしましたが、みんな怖がるので中止にして、全員、二階に避難しました。
突然、寮の裏の方から「シュー」という音がし始めました。プロパンガスの大きなボンベが浮き上がり、ホースが切れて、ガスが噴出しているのです。いったん閉めていたガスの元栓を、夕食を作るとき、開けて使用し、元栓がそのままになっていたのです。すぐさま泥水の中に飛び込み、泳いで行って元栓を締め、一本のボンベを部屋に持ち帰りました。
夜明けになり、薄明かりの中、外を見ると市街地一面、二階近くまで浸水しています。ゴムボートを中二階から水に浮かべ、市役所の建物の中に避難している人たちの様子も見てきました。ガスボンベを部屋に持ち込むことが出来たのと、食材と水は前日に確保していたので、全員の朝食や昼食は困ることなく、みんな揃って摂ることが出来たのです。後でわかったのですが、十日市町側の堤防が2箇所、決壊していたのです。


ここまで書いていたら、雨(28日)が降り始めました。ニュースを見ると、中越地方が洪水に見舞われています。人事とは思えません。
幼稚園が洪水に見舞われた昭和47年は、幼稚園を開園して2年目の年なのです。園舎もピアノも教材も全て新しいものばかりでした。園バスも完全に浸水しました。もう一度、施設設備のやり直しです。水害から33年が過ぎ、そのときの建物も全て建て替わりました。
実は私は、昭和20年にも水害にあっています。当時、2歳でしたから記憶にはありませんが、女学校の校庭に牛が流れてきたことや、寮生が使うカマスに入った塩がみな溶けてなくなっていたことなどの話を聞いていました。聞いていたことが、昭和47年の水害の時の食料や水を確保するなど、避難の時の知恵となっていたように思います。
空梅雨が、逆に、集中豪雨とならないようにと願うばかりです。