遊び込む(平成12年度)12月

先日、東広島市の保育園の園長先生たち10人が、幼稚園の見学に来られました。来られた時間が3時過ぎで雨が降っていたので、「プレイルーム」の子供たちが部屋で遊んでいる様子を見られたのですが、一応に驚かれたのが、どの子もしっかりと、それぞれに「遊び込んでいる」ということでした。どの子もみんな想いおもいのあそびを、夢中になって、しっかりと遊んでいるのです。夢中になってあそびに没頭し集中していますから、とても静かです。それが子供たちの「遊び込んでいる」姿でもあるのです。

ついでに触れておきますが、よくご存じのように、「プレイルーム」は延長保育(預かり保育)の施設です。幼稚園が終わって、45人の子供たちが「プレイルーム」に帰ってきます。年長・年中・年少児と異年齢が入り交じっての生活となります。保護者の方が迎えに来られるのが、夕方5時、6時となりますから、子供たちにはしっかりと遊ぶ時間があります。この日は雨が降っていたので室内でのあそびでしたが、毎日、日が暮れそうになるまで園庭で遊びます。小川で魚やトンボのやごを掴まえようと必死になっている子もいれば、昆虫や虫を探す子、砂場で遊んだり木に登って遊んでいる子もいます。伝承遊びやサッカーボールで遊ぶ子もいます。異年齢の友だちがグループになってそれぞれが遊んでいるのです。その様子を見ていると、昔の子供の「遊びの集団」が甦ったような感じすら持ちます。


このように、子供の「遊びの集団」が成立するには、時間・空間・人間の三つの「間」が重要な要素となります。普段の、幼稚園の子供たちの生活も同じことがいえます。この三つの「間」を保障してやることで、子供たちは、命を甦らせたように生き生きと目を輝かせて遊びます。「間」の保障された子供たちは、自然物や様々な素材を利用し活用しながら、自らあそびを創り出し、そのあそびの中で、その子ならではの発想やアイデアを生かしながら、夢中になって遊びます。

そして、そこでの仲間と関わりを深めながら、あそびを展開していきます。大人から指示や命令されてするあそびではないので、自発的なあそびなのです。そこでは、自己を十分に発揮します。自己を発揮しながら、没頭して遊ぶことで、困難や心の葛藤を味わいながら、その目的を果たしたとき、満足感や達成感をしっかりと持ちます。そのことが、次なる活動の意欲や目標を生み出す大きな動機付けとなり、原動力となっているのです。これらの繰り返しの中で子供たちは自己を充実していくのです。


お父さんお母さんの子供の頃には、まだまだ、しっかりと遊ぶ環境が残っていたと思いますが、今の子供たちに、この「遊び込む」環境がどれだけ残っているか、改めて考え直さなければならないように思います。これは、「空間」としての、子供たちが安心して遊べる自然環境が悪化してきたこともありますが、そのことよりも、私たちの生活そのものの在り方が、子供たちをして、「遊び込む」環境から遠ざけているのではないでしょうか。


子供が、ゆったりじっくりと遊び込める「時間」と、子供同士が深く関わり合うことのできる、「人間」関係としての「間」が、今日の幼児や児童の生活の中から消えつつあるような気がしてなりません。なにかしら、子供の生活が忙しすぎるような気がします。幼児の場合、子供たちだけで遠くに遊びに行かすことはできませんが、空き地や広場で小学生児童の遊ぶ声など聴くことが余り無くなったことに気付かれると思います。子供たちが仲間と遊んでいる姿をほとんど見ることができません。


今、子育てをしているお父さんお母さんは、どの時代もそうですが、はじめて親としての経験をしています。それだけに、とまどいながらの子育てもやむを得ないのかもしれません。おそらく、自分の、子育ての在り方の見本は、意識していようといまいと、その原形は、自分を育ててくれた親がベースとなっているはずです。それをベースに、自分たちの子育てについて、試行錯誤しながら親業をやっているのではないかと思います。


ところが、時々忘れてしまうのが、自分の、子供の時の気持ちです。友だちと空き地で遊ぶことがあんなに楽しかったのに、「遊んでばかりいないで勉強しなさい」といわれて、「今、勉強をしようと思っていたのに、勉強をしろといったから、もうしない」と、訳も分からない反発をしていたときの、子供の頃の、自分の気持ちをしっかりと思い出すことが、我が子の気持ちを理解する大きな手がかりとなります。

皆さんよくご存じの、サン・デグジュペリ作「星の王子さま」の巻頭書に、『おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。』というくだりがあります。子育ての上手な人は、いかに自分の、子どもの時の気持ちをしっかりと覚えているかが、キーポイントになるように思います。子供たちの人間的な感覚を研ぎ澄ますには、自らの興味や好奇心に誘発されて、仲間と関わりながら、時間を忘れて「遊び込む」ことを体験する「間」が保障されなければならないのです。