叱る(平成12年度)7月

皆さんは、子供の頃、親や先生、あるいは近所の人から叱られた経験がどのくらいおありですか。すべては覚えていなくても、「このことだけははっきりと覚えている」と言うことが、一つや二つはおありではないでしょうか。

 
私も、叱られた直接の原因は思い出せないのですが、叱られているときの、その場の情景も一緒に思い出すことがいくつかあります。
一番小さいときの記憶では、雪の降る夜、母親に雪の中に放り出されて、泣くどころか、自分でわざと雪をかぶってまでして、反抗していたことをはっきりと覚えています。伯父の家に泊まりにいっていたときで、おそらく何かいたずらをして、その伯父に対して迷惑をかけたのではないかと思うのですが、母親から、「ごめんなさい、と言いなさい」と言われても、絶対言わないので、今までは叱ったことのない優しい母親が、縁側から私を雪の中に放り出したのです。

その伯父が亡くなったのが、私が4才の時ですから、4才の時に叱られているときの記憶です。小学校の低学年の時も、同じように何かのことで、「ごめんなさい」と言わないので、母親に、真っ暗な蔵に、「蛇がいる」と脅かされながら入れられようとして、本当に蛇がいると信じて、泣きながら、入り口の戸にしがみついて抵抗したのですが、許してもらえず、とうとう、「ごめんなさい」と言ってしまった一生の不覚があります。


父親にも、叱られた記憶が一回だけあります。これも、何で叱られたかは記憶にはないのですが、やはり、「ごめんなさい」と言わないものですから、「謝るまで座っていなさい」と板の間に正座させらされ、1時間も2時間も意地を張って座っているものですから、今度は逆に、母親が泣きながら、「お父さんに早くごめん言いなさい」と、しきりに私に嘆願している状況は、今でもはっきりと覚えています。

いずれも、「ごめんなさい」と言わない、私の意地っ張りが原因しています。いたずらっ子だった私にとっては、悪いことをしているという意識がなかったからだと思います。
両親から叱られた経験の記憶はそのくらいで、逆に、「敷居(しきい)はお父さんの頭だから、敷居を踏んで通ってはいけない」と言うような、明治生まれの、すべてのことに対して厳しすぎる祖母から守ってくれていた優しさの方が記憶に残っています。


今のお母さん、お父さんの世代での、「叱る」ということが、どのような形でおこなわれているのでしょうか。一度、このことについて調べてみたら、おもしろい結果が出るのではないかと思っています。
一つだけ、私の気になっていることをお話しします。
たいていの場合、子育ては、お母さんが中心的な役割をしておられるご家庭が殆どだと思います。それはそれで、とても大切なことなのです。子育てを通して母性愛が育まれ、子供は、その優しくて細やかな愛情に包まれて安定した幼児期を過ごします。
子育ては毎日のことですから、お母さんが子供に対して叱ったりすることは、よくあることだと思います。毎日、ガミガミ言うのは感心しませんが、本当に叱らなければならない時には、しっかりと叱っても良いと思います。子供は、悪いことをして叱られることについては、何故、叱られているのか、何故、そんな風にお母さんが言うのか等、心の中で葛藤しながら、解決していきます。それは、自分の感情をコントロールする力にもなっていくのです。


気になっていることと言うのは、その時の父親との関係です。普通ですと、母親に叱られたときには、父親の、そのことに対してのおおらかな態度が子供の追いつめられている気持ちを救い、父親に叱られたときは、お母さんの優しさで救われるのです。


ところが、最近の例を話しますと、お母さんが子供を叱っても、子供が母親の言うことを聞いてくれないと、お母さんは、お父さんに事細かく訴えます。それを聞いたお父さんは、お母さんと一緒になって叱るのです。これは、子供には応えます。子供の心の中で解決していく度合いを超えてしまっているのです。通常は、叱られながら、心の中の葛藤を通して、子供自身で解決していくのに、心の傷として残るほど、子供の気持ちは追いつめられていきます。心の逃げ場所がないのです。


「ほめる」ことは以外と簡単に出来るのですが、叱ることはとても難しいことなのです。ほめすぎるのも、逆に、ほめられるためにしようと邪念を生みますが、「ほめられる」ことは、もともと気持ちの良いことですから、意欲につながります。 問題は、「叱る」ことの難しさです。よく聞く話で、電車の中で我が子が騒いでいたら、「怖いおじちゃんが見ているから静かにしなさい」と、人のせいにして叱るのではなく、我が子の、「騒いでいる」ことに対して、「人に迷惑をかけるから、電車の中では騒いではいけません」と、悪いことをしたそのことについて、その時点で、しっかりと叱ることです。「あなたは、いつもそうなんだから!」と、人格否定もいけません。