恩師との別れ(平成11年度)9月

私が小学校2年生、3年生の時の担任に徳原つね子先生という方がいらっしゃいました。もう、すでに50年近く前になります。私たちの担任を最後に定年退職(当時、女教師の定年は40才でした。)されたので、それ以後、お会いすることもなく過ごしていました。

ちょっと照れくさい話になりますが、私たち夫婦の結婚が決まったとき、その先生に、「私のお嫁さんを見てもらいたい」という感情が突然に涌き出たのです。3年生の時の担任を最後にお会いすることもなかった先生なのに、なぜか無性にお会いしたくなったのです。ところが、とうの昔に引っ越されていて、お住まいが分かりません。田舎のお袋に聞いたら、広島の祇園町に引っ越されたという記憶があるというので、祇園町ということだけを頼りに、捜し歩いたのです。交番で尋ねても分かりません。そして、祇園町の西原というところで、「徳原酒店」という看板を見つけ、同じ名字なので、もしかしたら親戚かもしれないと、お店のドアを開けて中に入って行きました。そこには、おじいさんが一人立っておられました。「実は、世羅郡三川村の伊尾小学校というところに、徳原つね子先生という方がいらしたのですが、同じ名字なので、もしかして、親戚ではないかと思って伺いました」と尋ねるなり、「あ、それは、わしの家内よ」と言われた途端に、涙がぽろぽろと沸き落ちるのです。そして、その先生の顔を見るなり、わんわんと声を出して泣いてしまったのです。


その時には、その先生に、ぼくのお嫁さんを見て欲しいとか、声を出して泣くなど、どうしてこんな感情になるのか、自分自身、はっきりとは分かりませんでした。そして、結婚式に来ていただき、お嫁さんを見ていただくことが出来たのです。


そして、それから15年経ったある日、その先生が、ご長男に背負われて私の家に訪ねてきてくださったのです。ところが、「まさひろちゃん、一生のお願いがある」と、おっしゃるのです。何事かと思っていると、「私が死んだら弔辞を詠んで欲しい」と言われるのです。恩師からそのようなことを言われることは、教え子としてはとても名誉なこととは思ったのですが、「分かりました」とも言えず、「そんなことを言わないで、一日でも長くお元気でいてください」としか言えないでいると、「たのんだよ、たのんだからね」と、私の手をしっかりと握って帰って行かれました。

その後も、時々お尋ねはしていたのですが、大学院での研究生活に入ってからの、この2年間余り、ご無沙汰をしていました。
そして、7月18日の早朝に、先生のご長男から電話がかかってきて、先生の訃報に接したのです。そして、すぐにかけ付け、先生の棺にお祈りを済ますなり、ご長男が、「あなたのことが,ここに書いてあるよ」と、「あさの風」という一冊の歌集を渡してくださいました。そこに詠ってある詩は、「玄関に見知らぬ紳士の涙ぐむ アツ!! クラス一のわんぱくなりし」という和歌でした。また、号泣してしまいました。

そうなんです。ほんとうにわんぱく者の児童期を過ごしていたのです。 どうして、お嫁さんを見て欲しいとか、再会したときどうして号泣するほどの感情を抱いたかが、結婚が決まったときには、まだはっきりとは分かりませんでしたが、その後の園児との生活を通して分かってきたのです。家に帰って教科書も開いたこともなく、宿題も一回もやってきたことのない、わんぱくばかりしていた私の短所も長所も含めた全てを受け止めてくださっていたのだということが分かったのです。私の全てを受容してくださっていたからこそ、今の自分があるのだと確信が持てたのです。


子供は、親を中心とした周りの人たちの愛情を支えに成長していきます。親から見て良いところも悪いところも有ります。その長所短所も含めてわが子なのです。わが子の全てをありのままに受け止めてやることが、その子の成長にとって大きな支えになるのです。他の子と比較するのではなく、その子の全てを、その子の個性や特性として受け止めてやって欲しいのです。子供は、自分を認めてもらうことで、正しく成長していくのです。  先生のご霊前で教え子を代表して弔辞を読みました。行年90歳のご長寿でした。弔辞を詠ませて戴いたことが、私の人生の中で最高の勲章です。