葉子先生の部屋

伝えたいもの(平成29年度7月)

梅雨入りしてからしばらくは夏を思わせる天気が続きましたが、ここに来てやっと梅雨らしくなってきました。今月から始まったプールあそびでは子供達の歓声が上がっています。プールあそびだけでなく、小川や砂場や園庭では水や砂や泥まみれになって、開放感を十分に味わっているようです。これから夏に向けて、この時季ならではのあそびをたくさん経験しています。

三次中央幼稚園では、毎週木曜日に“なかよしタイム”といって、園児全員が園庭に出て、園長先生の話を聴いたり、みんなで体操をしたりする日があります。園長先生が『梅雨』について日本には四季に加えてこのような季節がある事を分かりやすく話してくださいました。初めて耳にする子もいたでしょう。それを受けて、先生達も子供達に更にわかりやすく説明します。「みんなで植えたアサガオやヒマワリやサツマイモやお米も、雨が降ってくれないと、美味しく育たないんだよ。雨がたくさん降る“梅雨”は、自然にはとっても大切な季節なんだよ。」と、子供達が経験した活動と絡めながら話していました。

満3歳児クラスでは、雨降りの日にバケツを置いて雨だれを受けて響く音を聞きながら雨を感じていました。年少組では、窓の外で鳴くカエルの声に耳を傾けて聞き入っています。あるクラスではカタツムリを飼ったり、オタマジャクシの観察をしたりもしています。このように、何となく日々を過ごすのではなく、その時季にはその時季の楽しみ方や感じ方がある事を、私達大人は教え伝えないといけないと思います。その時に伝える事で、子供達は色々な経験や物の存在を結び付けて知識にしていきます。

幼稚園では、あそびも歌も活動も全てが季節と隣り合わせの生活です。この時季になると、保育室から『茶摘み』の歌が聴こえて来ます。子供達は伝承遊びで♪せっせっせーのヨイヨイヨイ、夏も近づく八十八夜、トントン♪と二人組になって歌っていますが、先生達はきちんと“唱歌”としても教えます。しかし、歌詞を教える時、茶摘みをした事もないし見た事もない──あかねだすき?すげのかさ?──。昔から歌い継がれてきた歌を子供達に伝え、またずっと受け継いでもらいたいし、意味も分からず歌うのではなく、その情景を思い浮かべながら歌ってほしい──そんな想いもあって、私は恥も外聞も捨て茶摘み娘(?)に扮し、園長先生と一緒に子供達に茶摘みの話をしました。家に帰って、この茶摘み娘(?)の話をした子もいたのではないでしょうか?正体は私です(笑)。それで全てが理解できなくても、イメージしながら歌えたりこの時季の歌として茶摘みの事を結び付けて知ってくれたらいいなと思っています。

先月『こいのぼり』の歌を歌っていました。♪やねよりたかいこいのぼり♪ という歌は皆さんご存知でしょう。そんな中、年長組のある女の子が ♪いらかのなみとくものなみ~♪ と歌っていました。

これも『こいのぼり』という歌です。少し難しい歌詞ですが、“いらかの波”というのは家の屋根瓦を波に見立て、波のように見える空の雲との間に泳ぐこいのぼりがいかにも勇ましく、このような子供になれという願いが込められた歌のようです。最近では、“屋根より高いこいのぼり”もあまり見なくなりました。波打つように見える家の瓦屋根も様変わりしているようです。今や昔の歌をイメージしにくい世の中になっています。

歌だけではありません。昔話『ももたろう』のフレーズ「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ“しばかり”に、おばあさんは川へ洗濯に行きました。」ここで出てくる“しばかり”は“芝刈り”ではなく“柴刈り”です。今の子供達に聞くと、きっと庭の芝生の手入れのイメージでしょうか。“川へ洗濯”?洗濯を川でするお母さんを見た事のある子はいないでしょう。このフレーズだけを耳にして、果たして子供達はどんな情景を思い浮かべているのでしょうか?

イメージしにくいからとか、もう古くて今の時代に合わないからと、歌わなくなったり読まなくなったり、話して聞かせてやらなくなったり…でいいのでしょうか?昔の歌や物語には、その時季折々の美しい言葉、感情、戒めや教えがあります。その歌を歌うだけで…その昔話を読むだけで、子供達はその情景を思い浮かべ自分なりにそこに想いをはせます。新しい歌や流行り歌は、いろいろなメディアを通して目や耳にする事は多いのですが、童謡やわらべ歌は身近なものとして感じにくくなってきています。しかし、イメージできれば、子供達の中にある様々な感情を呼び起こし、そこに身を置きその世界を楽しむ事ができるのです。昔、おばあちゃんが…お母さんがそうしてくれたように、私達大人はこれからもずっと引き継ぐ担い手となり、日本の宝を子供達の心に残してやりたいと思うのです。

勿論、現代の歌にも、これから残し子供達に伝えたい歌が沢山あります。童謡だけでなく、アニメソングにもJ-POP(最近ではこう呼ぶらしい)にも…。新しい歌!これが私にとってはなかなか入りにくい……(泣)。ついて行かなくては!!

正体を知る(平成29年度6月)

新年度を迎えて2カ月が経ちました。周りの様子を少しずつ受け入れながら、新しい環境に徐々に慣れていこうとする子供達の姿が頼もしくもあり愛おしくもあります。先生達も子供達一人ひとりの“その子らしさ”を見つけながら、クラスづくりをしていく楽しさをいよいよ感じているようです。

さて、少し前の事になりますが、ゴールデンウィークはどのように過ごされましたか?農繁期という事もあり、我が家の周りでは朝から農機具の音が響く毎日でした。我が家も親戚の手を借りながら田植えに精を出しました。親戚の0歳から6歳になる男の子4人もやって来て、ヌルヌルの田んぼの中に入り苗を植えて(?)くれたりサワガニを捕まえたり、ヘビを見つけてその様子を楽しんだりしていました。田植え機にも乗せてもらってご満悦だったようです。我が家の娘ふたりも帰省して、こちらは少しだけ田仕事の手助けをしてくれていたようです。そんな可愛い助っ人達のおかげもあり、田植えが予定通りできたので、ゴールデンウィークの一日くらいは出かけようと、娘達のリクエストもあり、急遽、下関の方へドライブをする事になりました。魚市場で買ったさばきたてのネタで握られたお寿司を関門海峡を眺めながら食べました。お寿司のネタをみて「これはヒラメだね。これはフグ、これはアジでこれはタイ、これは……」と自分の好きなものを食べていた娘達でした。満腹になったところで、隣接された水族館に行き、水槽のなかで泳ぐたくさんの魚を見ながら歩き、「えっ?!これヒラメ?カレイ?どこがどう違うの?」と見分け方について話したり、泳ぐアジを見て「アッ!さっき食べた!」とか、群衆で泳ぐイワシを見て「ワァ~!節分のイワシだぁ~」と盛り上がったりしていました。寿司のネタをみて、それが何なのかは分かっても、その元々の姿を見た時に分からなかったり、そこで初めて結びついたりピンときたりするのです。調理しやすくさばいてあったり、小さくしてあったりする物ばかりを買うとその魚の本当の姿を知らない…という事になってしまいます。私もそうしていたのかもしれません。反省しました。さすがに娘達も、アジとイワシくらいは分かるのですが、姿が似ているヒラメやカレイの説明書きを読んで、あらためてそれらの習性や私達の口に入るまでの生態を知り、その形や色には海の中で生き抜くための意味を持つ事を理解します。美味しい握り寿司のネタの正体が明かされるのです。

主人と一緒に野菜の苗を買いに行ったときの事です。野菜作りは父に任せっきりの私達ですが、今年初めて夏野菜の苗を買って来てほしいと頼まれ、二人で買いに行きました。私はまだ幼稚園の子供達と育てた事があるので分かるのですが、そのつもりで畑を見た事のない主人──さすがに生長してそれらしく育った頃には分かりますが、苗からはなかなか判別できず、たくさんの種類の中から全く違う苗を手にとって見ながら「これは?…違うか…」と言って探しているので、笑ってしまいました。

連休明けには、年長組の子供達が田植えを経験しました。初めて経験する子供達がほとんどでした。米作りの事なら野菜作りよりは分かる主人が(笑)、子供達にいろいろと分かりやすく説明をしてくれました。苗が稲になりその穂先になる実がお米で、それがご飯になるという…よく考えたらややこしい話です。お茶碗の中のご飯の正体はお米で、その前の正体がこの緑の苗なのです。この苗がご飯に?主人が「この苗一株でお茶碗一杯くらいのご飯ができるよ。小さなおにぎりが二つくらい作れるね」と……。子供達は「へ~ェ」と声をあげていました。そして、裸足で田んぼに入り楽しそうに植えていました。その後で、ある女の子が私に「今日は楽しかった。」と言ってくれたので、「おにぎり作ろうね。あの苗からどうなっておにぎりになるんだろう。不思議ね!」と言うと「ずんずん伸びて、お花みたいに先っぽに…おにぎり?…ご飯?…ん?」とそれを想像して首をかしげながら答えました。秋には稲刈りも経験します。知らなかったらそのまま素通りしてしまう知識ですが、その収穫までずっと自分達が植えた苗がどのように生長していくのかを気にしながら観ていくという事はおにぎりの正体を暴いていく事になります。

幼稚園で飼っていたヒツジ……昨年度末に老衰で亡くなってしまいましたが、毎年年長児達が毛刈りをしていました。その時も、みんなが冬に着るセーターの正体が実はこのヒツジの毛である事を知ります。

私達大人でも、商品のその正体を知って、だからそうなのか…こうなっているのか…と改めて理解する事があります。それが、食べ物であっても物であっても何でも、『正体』があるのです。正体を知ると、今まで、何気なく手にしたり目にしたり口に入れたりしていた物に、納得しながら触れる事ができ、そのルーツにも関心をもち、より深い感じ方や味わい方楽しみ方ができるようになります。こうした物の見方ができるようになる事が、学ぶ姿勢につながっていくのだと思うのです。イメージが具体化できる体験をたくさんする事が、幼児期の子供達にとっては大切なのではないかと思います。『正体』に触れる経験をたくさんさせてあげてください。それを知った上で積み上げられた知識は確かな学びになります。

新しい環境は踏切板(平成29年度5月)

満開に花を咲かせた桜の木も葉桜になり、黄緑の柔らかい優しい色に変わりました。あちらこちらの家の軒先には、安住の地を求めてツバメの親がせっせと巣作りをしています。生き物達は皆ありったけの生命力を使って季節折々の自然と共存しています。私達も、そんな様子を見て季節を感じとるのです。“あぁ、またこの季節がやってきたなぁ”……と。

幼稚園では、今年もまた新入園児達が仲間入りをして、賑やかな新年度を過ごしています。私は、登園して来る子供達を毎朝中門で迎えますが、まだまだ赤ちゃんぽさが残っているようにみえていた入園当初の新入園児達が、日に日に“幼稚園児”の顔つきになっていくから本当に不思議です。こうして少しずつみんな成長していきます。これからどんな成長を見せてくれるのか楽しみです。

そして、そんな可愛い新入園児達を先生と一緒にサポートしてくれているのが進級児達です。「この子をうめ組のお部屋まで連れて行ってあげてくれる?」と頼むと「わかった!」と手を繋いでくれたり、優しく肩に手を添えて連れて行ってくれたりします。「先生!小川の所で、女の子が泣いてるよ。転んだんだって。」と教えに来てくれます。小さいけれど大きな助っ人です。進級児の中でも、特に年長組になった子供達の助っ人振りは凄いです。それは、入園式の翌日でした。ある男の子が、入園式で使ったたくさんの園児椅子を一人で片付けている担任の先生をみつけ、「先生!何してるん?」と声をかけていました。先生は「昨日の入園式で、新しいお友達が座った椅子を片付けるために運んでるの。」と答えると、「そうなんだ。手伝ってあげようか?!」と言ってくれたのです。担任の先生が重そうに運んでいるのを黙って見ていられなかったのでしょう。実に自然に口から出た言葉に聞こえました。「ホント?嬉しい!一人でどうしようかと思っていたの。」と先生が言うと「いいよ!これをどこに持っていけばいい?」……その二人のやり取りが、とても微笑ましく思えました。ちょっと前までの年中組の時の顔つきとは違って、どこから見ても幼稚園の最高学年のお兄ちゃんでした。それからも、その男の子が、担任の先生をいろいろな場面で助けてあげたり、協力してあげたりしている姿を見かけるようになりました。朝、園庭の掃き掃除も積極的に先生達と一緒にしてくれます。その上手な事!保育室に入る前に園庭に落ちている砂場の道具を見つけては片付けてくれる。その頼もしい事!

こうして新入園児も進級児も、顔つきが皆それぞれにお兄さんお姉さんらしくなっていくのはどうしてでしょう。そうなるきっかけは、環境が新しくなった事だと思います。子供達は一年の間にその子独自のカラーを築き自分らしく輝きます。でも、子供達はいつでも潜在的に“もっとあんなふうになりたい!もっと…もっと…”と憧れの人を見て自分が思い描くカッコイイ自分になりたいという願望を抱いていると思うのです。今のままの自分に満足しっぱなしではないのです。自分の今ある能力を高めたり、場合によっては自分のカラーを塗り直して新しいカラーを作りたいと思っているのです。人はいくつになっても脱皮し続けると私は思っています。これが『成長』だと思うのです。環境がずっと変わらなかったり、関わる周りの人がずっと同じ人だったりしたら、気持ちも変わりにくいと思います。長い人生には、何度かいろいろな節目があり、自分を変えるきっかけがあると思います。子供達にとっては、それがまさに今の新年度です。新しい先生、新しい友達、環境…これらの全てが新しい自分になれる…成長できるきっかけです。

跳び箱の前に置かれた踏切板──少し勇気がいるかもしれませんが、踏切板をしっかり踏んで跳び箱を越えて行きます。人生の中に何度かある踏切板を避けていては、跳び箱の向こうにある世界に出会えないままです。新しい自分に出会え自分を発見できたら、それまでとは違う世界の中で生きて行けます。

それまでは、お母さんと一緒でないと保育室まで行けなかった女の子が、年中組になった途端にお母さんの手から離れ一人で行けるようになったり、自分から「おはよう」がなかなか言えなかったのにひとつお姉さんクラスになったからと「おはようございます!」と言えるようになったり…と「今日からの私は今までの私とはちょっと違うのよ!見ていてね!」と言わんばかりに変わって行きます。

新しい未知の環境は、不安でいっぱいだと思います。大好きだった友達と同じクラスになれなかったから…昨年までの様子と違ってきたから…馴染めてないのでは?と心配されていると思いますが、子供達には自分が脱皮できそうな予感はあるはず。今はそのための踏切板に向かって行こうかどうしようかとチャンスを窺っているだけなのです。すぐに向かって行ける子もいれば、ゆっくりと向かう子もいます。どうか、これから、いろいろに変わって行く子供達を楽しみにしていてください。

今年度も、皆様に『葉子せんせいの部屋』を読んでいただく事で、子育ての難しさも楽しさも共有し、どんな小さな成長でも大きな喜びとして感じてもらえたらと思っています。感想などお寄せいただけると嬉しいです。一年間どうぞよろしくお願い致します。

ずっと応援団(平成28年度3月)平成29年3月

幼稚園の花壇から、チューリップが小さな芽をのぞかせています。土の中にかくれていた生き物達は、園庭で遊ぶ子供達の元気な声や保育室から聞こえてくる可愛い歌声を耳にしながら、長い冬の間、この時季を待っていたのでしょう。春ですよ~。もういいかい?そろそろ目を覚まそうかな?と……。

今月の初め、幼稚園に嬉しいニュースが届きました。休日に、卒園児が結婚の報告に来てくれたのです。新郎となる子も新婦となる子も20年ほど前に卒園したふたりです。理事長先生(当時の園長先生)にだけ報告に来るつもりのふたりを、その子達の事を知る先生みんなで迎えよう!と園長先生が声をかけ、完全サプライズで「結婚おめでとう!!」とみんなで出迎えました。そんな事を知らなかったふたりはとても驚いていました。「なんで?なんで先生達までいてくださってるんですか?」「嬉しい!ありがとうございます!」と涙を流して喜んでくれているふたりを見ながら、私達もここで過ごしていた当時のふたりの事を思い出し、私達の知らないこの十数年の間の、どこでどうなってこうなったのか、その不思議なめぐり合わせに何とも言えない幸せを感じました。

それから、数日後、ある親子が平田美穂先生を訪ねて来られました。美穂先生が年長組の時に担任した現在小学校6年生の男の子とそのお母さんでした。その男の子は、幼稚園の頃ずっと声を発する事なく過ごした子でした。歌う時も話す時も、みんなの中では決して声を出さないのです。家では普通に喋れて大声で歌ったり笑ったりできるのですが、集団の中では頑なに口を閉ざしていました。美穂先生はいろいろな方法やきっかけを作って声を誘おうとしましたが、小声も出してくれませんでした。でも幼稚園は好き!先生の事も好き!当たり前に園生活を友達に囲まれて過ごしました。美穂先生は彼のペースを守っていこうと、無理させないようにみんなと同じように接し、彼なりのプランで経験させていたように覚えています。お家の方ともよく話をしながら、どうしてあげたらいいかと模索していました。でも、決して悲観的ではありませんでした。周りの者も楽な気持ちで見守る姿勢でいようと家庭と連携をとっていました。しかし、彼は最後まで声を発する事なく卒園して行ったのです。小学生になってもずっと同じような状態だと聞いていました。そんな親子と美穂先生が久々に会い園庭で長い間話し込んでいました。そして、しばらくして職員室に戻って来た美穂先生は涙で目を真っ赤にしていました。「もう!どうしよう!幸せすぎて怖いくらい!嬉しい!!」と泣いていました。話を聞くと、卒園して6年経ってやって来たその男の子が、「美穂先生に報告があるんでしょ?」というお母さんの誘いに促され、「……喋れるようになりました。…」と声を発してくれたというのです。美穂先生はどんなに驚いたでしょう。どんなに嬉しかったでしょう。これまでずっと心の中に彼の事があったはずです。気にかけていた子が自分の声を聞いて欲しくて…話せるようになった自分を見てほしくて幼稚園に来てくれた事…“幸せすぎて怖いくらい”と思わず言った美穂先生の気持ちが伝わって来て、私も胸が熱くなりました。美穂先生は「声を聞いた時、涙が溢れそうだったけど、グッと我慢しました。」と言いました。それを聞いて、幼稚園にいた頃の彼に対する美穂先生の見守り方が、今なおブレていない事を感じました。“声を出せないあなたも他のみんなと何も変わらない。待っているから…話せるようになった時でいいよ。その時にあなたの持っている声を聞かせてくれたらいいよ。”“彼のペースを守りたい”という想い、(あなたはみんなと何も違っていないんだよ)という気持ちで接し続けたかったのだと思います。彼はそんな美穂先生の想いを受け、今まで、口は閉ざしていても心は閉ざしていなかったのです。しばらく話して別れ際に、美穂先生が「じゃあね。さようなら。」と言うと、「さようなら」と静かに答えてくれたそうです。ずっと聞きたかった彼の声でした。その親子が帰ってから美穂先生はこらえていた涙が一気に溢れたのだと言いました。小学校の卒業式で、名前を呼ばれ「はい!」と返事をして卒業証書を受け取る彼の姿をその当日思い浮かべ、遠くから拍手を送る事にします。

同じ日、ある小学校の先生が幼稚園との連携のために来園されました。その先生は、美穂先生が年長組で担任した卒園児でした。立派になった卒園児に目を細めました。きっと優しい先生なのでしょう。あの頃とちっとも変わらない笑顔が印象的でした。

結婚する報告に来てくれた卒園児も年は違うけど、ふたり共、美穂先生が担任した子供達です。不思議なほど嬉しい訪問者が続き、「本当に幸せな事が最近たくさんあって…怖いくらい」と…涙する美穂先生を見て思ったのです。子供達の長い人生のスタートにしか携わる事のできない私達は、見えないゴールに向けて、素晴らしい人生を切り開いてくれるようにと祈り続けたり、心で応援したりするしかできない。幸せになる事を信じてエールを送り続ける応援団でいたいと……。

間もなく、年長組の子供達は、幼稚園を巣立って行きます。ここに、あなた達の人生が素晴らしいものであるようにとずっと願っている先生達がいます。あなた達の幸せを自分の幸せのように涙を流して喜んでくれる人、あなた達の苦しみを和らげてあげる事が出来ればと待っている人がここにいます。忘れないでいてくださいね。

なぜ?どうして?(平成28年度2月)平成29年2月

3学期の始業式に、園長先生が挨拶の中で、今年度も残すところあとわずか、みんなで過ごせる毎日を大切に過ごしましょうという意味を込めて、これからの3カ月の短さや忙しさを表わした“1月は行く、2月は逃げる、3月は去る”という言葉を子供達に教えてくださいました。大人の感じ方から生まれた言葉なのかもしれませんが、子供達にとっても、信頼関係が深まった友達や先生と過ごす3学期はこれまで以上に楽しく充実したもので、きっと時間の流れを早く感じるのではないかと思います。私達はこの3学期を今年度の締めくくりとして、また、来年度に繋がる良い時間にしていきたいと思っています。

さて、なかなか降らなかった雪が、先日記録的な寒気の中、幼稚園の庭にもたくさん積もりました。参観日の翌日、幼稚園は振替休日でしたが、預かり保育(プレイルーム)の子供達はスキーウエアを着て雪遊びを楽しみました。そんな時の事です。ある年中組の女の子が、手袋を外して手のひらに雪を乗せてじーっと見ていました。「何してるの?」と聞くと「雪がね、溶けるの。ほら!お水になるよ」と言って見せてくれました。雪が溶ける現象は分かってはいたものの、じっくり見てみたら面白かったのでしょう。それを見ていた年少組の女の子が「私の雪は溶けないよ」と同じように乗せて見ていました。その子は毛糸の手袋をはめていたのです。年中組の女の子は「当り前よ!だってそっち、手袋の上だもん」と言うのです。年少組の子は「どうして手袋をしていたら溶けないの?」と聞き返しました。少し私の顔を見ながら考えていましたが、年中組の女の子の答えは「手袋はフワフワしてるからよ」……でした。私は、年少組の子がどう反応するかな?と見ていると「手袋の方があったかいのに…手は冷たいのに…」と腑に落ちない様子でつぶやくように言いました。なるほど、何となく言いたい事はわかる!おもしろい!と思いました。毛糸の手袋は手が冷たくないようにはめる物で、あったかい物だから…という事だ。毛糸の手袋をはめていた私は「どうしてなんだろうね」と言って、片方を外して両方の手のひらの上に雪を乗せました。わざと雪の量を違えて乗せると、年中組の子が「ダメよ~同じくらいにしないと!」と言いました。調べたい事以外の条件は同じにしないと比較できないというのが感覚的にわかっているという事が凄い!と思いました。重い物を持って走るのと軽い物を持って走るのとでは「よーいドン!」で競走した時、勝負にならなかったり、サッカーをする時にメンバーの人数を揃えないと公平ではなかったりする事と同じです。このようなあそびや経験の積み重ねから得たものなのです。それから、もう一度今度は同じくらい乗せてその子達と見ていました。手のひらの雪がジワ~ッと溶けていく様子に「アッ!手袋をしていない方が早く溶けた!」と大きな声で言いました。それから何回も「やってみせて!」とせがまれましたし、子供同士でも試していました。

また、何人かの男の子がブーツの裏を見比べていました。滑り止めの金具がついているのといないのと、そして、それがどう違うのかを話していました。「雨の日と雪の日の長靴は違うんだよ。」「雪は滑りやすいからこれ(金具)が付いてるんだよ。」「雨ならいらないの?」と聞いてみると「うん。だってザックザックって歩かないでしょ」「ぴちゃぴちゃ歩くだけだから…」──。何となく言わんとする事がわかりました。“ザックザック”と雪を掻くように手の指を曲げて爪を立てるように……“ぴちゃぴちゃ”と雨の中ベタ足で歩くように手の指を伸ばして動かしながらそれを説明してくれました。

雪あそびや滑りやすい所を滑らないように考えて遊ぶ経験が、その時の“なぜ?どうして?”を解決させてくれるのです。

子供達の周りには、“どうしてだろう?”という事がたくさんあります。大人にとってわかりきっている事でも、子供達にとっては、不思議でたまらない事や、おもしろくてたまらない事がたくさんあります。「ん?」と思っている時や質問して来た時、その時が子供達の育ちのチャンスです。幼児期の“あそび”の中にたくさんの教材がある事に気付かされます。どうして雪は溶けるんだろう?どんな時にどんなところで?と疑問を持ち、じゃあ、こうしてみたらどうなんだろうと試してみようとします。何度も何度も試しては失敗したり、答えが見つからなかったりします。その過程で、いろんな知識や方法を学びます。あれこれと考える力が身に付きます。それが面白くなって、もっと知りたい学びたいと意欲的に取り組む力が育ちます。知識だけではなく、試してみようとする時に周りにいる友達と一緒に考え合い、意見をぶつかり合わせながら一人の人格者として友達に関わる力も育ってきます。

あそびを通して子供達のそんな力を引き出すのです。子供達が、「なぜだろう?」と心くすぐられる経験をたくさんさせてやりたいものです。幼児期が終わると児童期になり大人になっていきます。

幼児期にしかできない学びがあります。そう言えばあの時に手のひらで雪が溶けて水になったなぁ。それが、これか!と経験と知識が一致する時がいつか来るのです。経験との一致がないと知識は本当の力にはならないのです。あそびの中から生まれる“なぜ?どうして?”を大切にしてあげてください。