葉子先生の部屋

先輩の背中を追いかける(平成30年度11月)

猛暑だ!酷暑だ!と言っていた夏が嘘のように、朝晩が肌寒くなり、青々としていた園庭の木々も赤や黄色に色づき始めました。秋空の色や漂う空気の香り……色々な所に秋を感じるようになりました。こうして、少しずつ寒さの厳しい冬へと季節は移り変わって行きます。春から夏へ、夏から秋へと季節の変わり目に見せる自然の美しさを五感で味わえる日本に住んでいる私達は何て贅沢な事だろうかと幸せを感じます。

さて、先日は晴れ渡る秋空の下、秋季大運動会を行いました。たくさんのご家族の皆様から応援をいただきながら、子供達は実に楽しく園庭狭しと走ったり踊ったりしました。運動会当日は、みんなとても張り切っていて誇らし気でした。当日だけではなく、それまでの運動会に向かう活動の中で、子供達は“個の成長”と“集団の中での成長”をたくさん見せてくれていました。

運動会では学年毎にその年齢にふさわしい……もしくは、それより少しハードルをあげた種目に、チャレンジする気持ちで取り組みます。無理なく簡単にできる余裕も大切ですが、これから成長して行く上で必ず必要となる“挑戦する強い心と身体”を育てるためには、子供達の持つ今の力より少しだけ努力や忍耐を要する事に向き合う経験を用意してあげる──ここに運動会のひとつの意味を持たせます。応援してもらったり認めてもらったりしながら、自分で、“もう少し、あと少ししたらできそう。”“ちょっとだけできた!”“もう1回やってみよう!”と、少しずつ自信とチャレンジする勇気を持ち、達成する喜びを味わうのです。子供達は本番までに、そういった“個”としての心の成長を一人ひとりが得て来ました。

満3歳児クラスの子供達にとって、ルールを理解しながらたくさんの人を前に一人で走る事は、個から世界を広げて行動できる自覚と勇気の芽生えの成果です。年少組の子供達は、クラスの友達を意識しながら競争したり一緒に同じ事をしたりする楽しさを味わいながら、広がった世界の中で仲間と刺激し合い自分発見をしてきました。年中組の子供達は学年の仲間達と一緒に一つの事を作り上げていく経験から、競争心や闘争心を持つ楽しさを表現できるようになりました。そして、年長組は、できないかもしれなかった事に挑戦する勇気を得て“集団”の楽しさや大切さを実感しました。その中で、“自分発見”と“自己開拓”につなげていきました。運動会ではこれらを積み上げて来た姿を見てもらって、たくさんの人達に拍手で讃えていただきました。学年毎に取り組む中で、集団でこそ得られる成長があったのです。

そして、園庭で頑張っている姿や楽しそうな姿には、自然と子供達が集まって観ていました。特に年長組の鼓隊演奏の練習には、満3歳児から年中組までたくさんの子供達が年長組を取り囲み、見入っていたり真似てみたり拍手を送って応援したりする姿が見られました。難しそうな事に頑張っている先輩の姿を眩しく感じたに違いありません。いつも一緒に遊んでくれている○○兄ちゃんや○○姉ちゃんが、真剣な顔で頑張っている姿に尊敬の気持ちも抱いた事でしょう。僕達もいつかは、あんな事ができるようになるんだ!なりたいな!と憧れながら観ていました。そして、それを感じとりながら練習をしている年長組の子供達もまた自信を持ちます。どうだ!かっこいいでしょう!凄いでしょ!という先輩としての自覚や自信に繋がって行きます。クラス対抗リレーをしている様子にも後輩達が必死で手をたたいて応援します。こうした応援したりされたりの本番までの毎日は、子供達をその気にさせ、もっと!もっと!と欲を出して自ら頑張ろうという気持ちにさせてくれました。

運動会が終わってから、満3歳児の子供達が部屋の中で、おもちゃのマイクを片手に跳び箱の上にふたりで立ち、「わたしたちは、いちばんになるようにがんばります!どうぞおうえんしてください!れい!」と、年長組の園児代表挨拶を真似ていました。年少組の子は体操台に上がって、代表さながらに体操をしていました。年中組と年長組は一緒になって障害物競走の対抗戦を自分達で楽しんでいました。子供達にとっての運動会の楽しさは、あの日に始まりあの日に終わったのではなかったのです。

更に、園庭をよく見ると、異年齢で遊ぶ姿がたくさん見られるようになりました。小さな学年の子の我がままを聞き入れてくれたり優しくいたわってくれたりして、後輩を思いやる先輩達と、先輩を慕いその背中を追いかける後輩達とが良い関係で生活できるようになってきているのを感じます。そんな年長組も、一年前は憧れの眼差しで先輩達を見ていました。こんなふうに、いつかは私達もそうなりたいと思わせてくれる様々な事が、経験の中で引き継がれて来ているのです。先輩が頑張る姿を見せてくれるだけで、後輩達が憧れて成長していきます。先輩達は後輩の憧れの眼差しを受けてもっと頑張ります。子供達は、ちゃんと頑張っていた仲間達を学年を越えて認め合えていたのです。幼稚園の全ての仲間と一緒に頑張ったり楽しんだりする事で、応援し合える事で、集団だからこそ得られる成長がある事を実感します。

運動会が子供達にもたらしたものは、この経験の中で“個”“仲間”“集団”を意識し、心と身体を成長させる力でした。この経験はきっと子供達のこれからの自身を支えていく力になる事を信じたいと思います。

私ってどんな子?(平成30年度10月)

2学期が始まってからはっきりしない天気が続き、肌寒さを感じる日があるかと思えば汗ばむ日もあり、衣替えをするにも躊躇してしまいます。だけど、そんな中でも、間違いなく秋を感じさせてくれるようになりました。空の色、風、園庭の木々、小川の冷たさ……幼稚園に居ながらにして、それを感じる事ができる幸せを子供達にたっぷり味わわせてあげたいと思っています。

数カ月前に、娘が学校に提出する進路についての書類に悩んでいました。“趣味・特技”“自己アピール”の欄にどう書こうか?という事でした。“趣味・特技”については、本当に自分の熱中できる事や好きな事を書けばいいのでしょうが、特別に秀でている訳でもないし、趣味と言い切っていい程の趣味もない──“自己アピール”に至っては、自分に自信がなければ文章に書きにくい、気が引けると言って筆が進まなかったようでした。「私ってどんな人なんだろう?逆に自分を知っている周りの人に聞いてみたいわぁ」と言うのです。

夏休みには、市内の中学生が職場体験に来てくれました。事前オリエンテーションの時に将来の夢を尋ねると、「まだ決めていない」と言っていた生徒さんも何人かいました。そのためにも、職場体験は、いろいろな職場を見て体験して将来を決める選択肢を広げるいいチャンスでもあるので、幼稚園のプレイルーム(預かり保育)で様々な経験をしてもらいました。

また、大学の先生と話をする機会があって、自分に何が向いていて将来自分がどんな職業に就きそこでどんな仕事をしていきたいかという希望を抱けないまま、入れる学部を選んで入学している学生と将来の自分像を描いて入学している学生とでは、生活ぶりも学ぶ姿勢や結果も大いに違うという事を言っておられました。

その時その時の娘や中学生や大学生の事を想像すると、どこか自信の無さを感じさせられるのです。いえ、これは、その子達に限った事ではなく、誰でもそんな時期があったと思うし、もしかしたら未だ自信など持ててないままここまで生きて来たという大人達もたくさんいるでしょう。「あなたの特技は?自己アピールを!」と言われた時、私だったらどう答えるだろうかと考えたら、やはり悩んでしまいます。生きて来た人生の中で、自信があった事でも、何かのきっかけで打ち砕かれたり、新たに自信が持てる事に出会って、また自信喪失になったり…を繰り返しながらここまで何とかやって来ているのかもしれません。その過程の中で、いろいろな人からの評価や励まし等を受けながら、“自分って…??”と我を見つめて来ているような気がします。人は、自分の中に、何か柱となるものがあれば、生きる道を見つける一つのポイントになる事もあります。自分に何ができるのか?どんな事をしたいのか?を見つける決定打につながっていくのではないかと思います。それが、幼稚園の楽しい生き生きとした生活の中で、子供達に、その柱のほんのひと部分を作らせてあげられる時がある事を感じます。

ある日の午後、さくら組の保育室の中で、何人かの男の子が何やら面白い物を一生懸命に作っていました。実験道具を作って実験室ごっこをしていたのです。実験でジュースを作る!と、実験さながらの手つきと、博士気どりの眼鏡を作り、助手役(?)の友達を率いてのその実験風景は、楽しくて感心するやらおかしいやらで、しばらく見入ってしまいました。そのちびっ子博士は、いつも発想豊かに、いろいろな事を考えて作ってあそびにしていく男の子だというのです。一緒に実験を楽しんでいる友達からも憧れられる存在らしいのです。きっと彼は、自信をもって「僕は何かを考え出す事が好き!」と言うでしょう。また、クワガタやバッタ、小川にいるザリガニを捕まえたり、それで遊んだりする事に夢中になっている子供達に、その生き物についていろいろ聞いてみると正しいかどうかはわかりませんが、大きな声で、競い合うように「あのねぇ、それはねぇ……」とそれらしき答えを返してくれます。きっと彼らは自信をもって「僕は、昆虫や魚が好き!」と答えるでしょう。困っている友達や小さな学年の子にいつも優しくしてくれたり、お世話をしてくれたりする女の子達は、「いつもありがとうね。あなたは、とっても優しい子だね」と言ってもらえているうちに、自分の中の優しさに気づかされ自分の要素の一つにして過ごす事ができるでしょう。できなかった縄跳びや鉄棒をできるまで何度も何度も頑張る姿や、友達と一緒に難しい事に挑戦していく姿に注目してもらって、達成した時の快感を自ら得る事で、自分の中の強さや粘りに自信を持つようになるでしょう。

子供達には、“あなたのそこが素晴らしい!”“あなたのそんなところが大好き!”と言ってあげる事が必要だと思うのです。そして、そこはきっと誰もが認めてくれる自信を持っていい所だよ…と言ってあげる事──そう自分で感じさせてあげる事がどんなに、その子の将来の道標になる事か……。そして、熱中できる事に出会えたり増やしたりできる環境の中で自分を発見して、自分の好きな事や“自分らしさ”に自信をもって人生を彩って行って欲しいと願うのです。幼児期にはまだまだ自分ってどんな子だろうかと自己分析なんてできませんが、「私、○○するのが好きだから…」とか「得意だから…」と言えるものが自分にあれば、それが、将来を見据える自分の中の柱となって行くのではないかと思うのです。

手出し口出し(平成30年度9月)

今年程、暑さを危険だと感じた夏はなかったのではないでしょうか?酷暑、酷暑と報じられ、気温が30度台になる事が当たり前の毎日でした。夏休み中、プレイルーム(預かり保育)にやって来る子供達には、「水分補給」を連呼し、頻繁にお茶を飲むように勧め、外遊びの仕方や部屋での過ごし方にも配慮をしながらの40日間となりました。もうそろそろ、この暑さの勢いも落ち着いて来て欲しいと思っているのですが、本格的な秋の訪れはいつ頃になるのでしょうか?

さて、この長く暑い夏休み、皆様はどうお過ごしになり、どんな思い出をつくられましたか?きっと、2学期が始まった今日から、しばらくの間、子供達からいろいろな思い出話を聞かせてもらえる事でしょう。

我が家では、大学に進学して家を離れている娘がお盆に帰省するというので、それまでに、物置化している子供部屋を整えておいてやろうと大掃除を試みました。すると、懐かしい写真や手紙や中学高校時代の採点の部分がしっかりと折り隠されているテスト(笑)が本棚からたくさん出て来ました。このテストを含めマル秘の物が出て来てはいけないのとあまりにもいろいろな物がたくさんあったので、本人と一緒に整理しようと思い直し、全てを整える事は断念しました。しかし、赤ちゃんの時から高校卒業までのアルバムに収まり切れていなかった写真にはつい見入ってしまいました。産湯に浸かっている様子、親戚の人達に囲まれている賑やかそうな写真、歩き始めたばかりの頃行った家族旅行、姉妹で遊んでいる日常、幼稚園の友達と先生、小中高の運動会体育祭修学旅行…そして、卒業式等々──。懐かしくて微笑ましくて時間も忘れて見ていました。そんな数々の写真を見ると、わずか二十数年しか経っていないのに、その頃と現在とでは随分色々な事が変わっています。私が年をとって来ているのは勿論ですが、子供達のためにと作った砂場もブランコももうありません。娘達を可愛がってくれた私の祖父母も母も天国へ逝ってしまってもういません。その逆に、親戚も新たに増えてお付き合いの仕方も変わって来ました。そんな写真を見ながら、その時その時に思っていた事を振り返っていました。赤ちゃんの頃は育児の事で悩んだり、仕事と子育ての両立、大きくなればなったで、学校の事、友達関係、進学等々、振り返れば何もなくここまで来たわけではなかったと感慨深いものがこみ上げて来ました。娘が辛かった時には、私達家族も辛かったし、娘達が楽しい時にはみんなが楽しかった。一つひとつを解決してきて経験して来て今がある事をあらためて感じたのです。

よく、“あの頃が一番良かった”と昔を思い出しながら言う事がありますが、その時はその時で、悩みがありとてもその時が一番良いだなんて思えないものかもしれません。実際私も、“早く大きくなってくれないかなぁ”と思いながら育てて来たような気がします。大きくなって手が離れたらどんなに安心で楽な気持ちになれるだろうかと。でも、大きくなったらなったで、小さい頃とは違った悩みや心配事が増えて来ました。親の私がどうにかすれば解決する悩みと、私が何かをしたからと言って解決しようもない…事の成り行きを見守るしかない悩みとの比率が変わって来ているのを感じます。そしてこれから先は増々、子供自身でしか解決できない事ばかりになって来ます。そして私達親の心の中には成長の喜びと共に寂しさが生まれます。今まさに、段々とそちらに向かっている事を感じながら、子供の成長のためにと親が必死になっていられるのは本当にわずかな時間だという事がわかって来るのです。

娘がお盆に、「私が辛かったあの時、お母さんが言ってくれたあの言葉で凄く楽になった。」とか「お母さんとよく言い争った頃が反抗期だったのかな?懐かしいね」とか「あの時に、お父さんと喧嘩のように話をした事が今はすごくよくわかる。」とか、かつてを思い出しながら話してくれました。その時その時で必死に悩んで一生懸命に育てて来た事がよみがえります。そして、その頃悩んでいた事が、最近になってからの悩みよりも軽く感じ“なんであんな些細な事で頭抱えていたのだろう?”とつい噴き出してしまうような事もあります。だけど、その時は必死だったのです。その時の一生懸命な子育てを子供なりに感じていてくれて、あの時のお母さんの言葉が…あの時にお父さんが手を差し伸べてくれたから…と少しでも感謝の気持ちを持ってくれながら大きくなって来たのだと思います。そして、そうして一生懸命に悩み考えそして解決しながら幸せに楽しく過ごして来たこの過程は、子供達のどこかに滲みているはずです。いずれ子供達は自分の力で生きて行かなければなりません。親が“手出し口出し”できるのは、長いようでもほんの僅かな時間です。大きくなるにつれて、手出し口出しをしなければならない時期、してもいい時期、しなくてもいい時期、してはいけない時期、そして最後は必要とされない時期に関わり方が変化していくのを感じ、どこか寂しさを覚えます。今現在の子育ての醍醐味を存分に噛みしめてください。今しか味わえない苦労もまた幸せである事をずっと先でわかる時が来ます。そう言う私は、そろそろ娘達から“手出し口出しをされる側”に近づいて来ています(苦笑)。

はんぶんこ、じゅんばんこ(平成30年度8月)

西日本豪雨における大災害で亡くなられた方々に謹んでご冥福をお祈りします。また、被災された方々におかれましては、先の見えない落ち着かぬ日々をお過ごしになり、その日その日のご苦労を思うと心よりお見舞い申し上げ、一日も早く日常の生活が取り戻せますように…と祈るばかりです。自然の恵みを受けて私達は命を?いでいますが、時として、その自然と人とが共存する難しさを思い知らされる事があります。西日本の復興を信じて、どうか、心を強く持ち続けられますように……。

さて、今日で、幼稚園は1学期を終えます。この間、子供達は個々に、また、集団の中の一人としてどんな成長をしてきたでしょうか?

個々の成長はお家での我が子を見れば、こんな事もできるようになった、考えられるようになった、言えるようになった、こんなに身体が大きくなったetc…とわかる事がたくさんあると思います。そして、その成長を喜んでおられる事でしょう。では、集団の中の一人としての我が子はどんな成長をしているかな?──これは、なかなか見えにくい所ではないかと思います。

この1学期間、幼稚園という集団の中で子供達は様々な経験をしながら園生活を過ごして来ました。それは、今、目に見えてわかる成長ではなくこれからの人生に繋がる成長の一つ一つなのです。年少組で言うと、それまで家族の中で自分がほぼ中心になっていた生活から、子供達にとっては“ちょっと窮屈な生活”になりました。自分と同じような生活をして来ていて、同じような事を考え、心身共に同じような者が集まり、なかなか思い通りにならない社会に入りました。自分だけのために先生がいて、自分だけのためにおもちゃや絵本があって、自分のために時間が流れているのではない事を知ったのです。

先日、園庭から「おまけのおまけのきしゃぽっぽ、ポ~っとなったら代わりましょ。いち、に、さん、し、ご、……じゅう!ポッポ~!」か~わって!」「いいよ」と言う子供達の声が聞こえて来ました。ブランコを交代する時の約束のかぞえ歌です。行ってみると、年少組の子が数人遊んでいました。数えている子はちゃんと並んで座っています。ブランコに乗っている子は、その合図で交代しています。もっともっと乗りたいけど、そのルールは守ります。乗りたい子はもう一度並びます。また、違う所では、ストライダーをめぐって「貸して」「いやだ!」、砂場の道具の奪い合い、部屋の中では、限られた数の物を「あの子は多い!ぼくは少ない!」──。上手く遊んでいると思いきや、泣いたり、怒ったり…と、いろいろな所で“交代劇”が繰り広げられています。しばらくもめて、「じゃあ、もう少ししたら代わってよ!」とか「これをはんぶんこにしようよ」と子供達の中から声が聞かれます。時には「今度は僕の番だよ!」「代わってよ!」と泣きながら訴えて提案?しています。しぶしぶでも「わかったよ!」と交代したり分けてあげたりします。なんやかんや言っても、そうする事が一番の解決策でみんなが仲良く過ごせる方法だとわかっています。わがままが通らない場所だと分かって来たからです。

こんなふうに、集団でいる時間をいかにみんなで楽しく過ごす事ができるかを“ちょっと窮屈な生活”の中で方法を模索しながら学んで行きます。限られているモノなら、『時間』も『物』も分け合う事で仲良くできる事を知って行きます。年中組や年長組でも、年齢や経験によってその対象となる物や頻度や種類は違ってきますが、このような同じ経験を積み重ねて、人と交わって生活する事の意味について学んでいきます。これが、ただ単に『時間』や『物』を分け合う行動そのものだけではなく、自分さえよければいいのではない、人のために社会のために自分はどう成せばいいのか、という倫理観を身につけているのです。そんな大げさな!と思われるかもしれませんが、子供達は、遠い遠い先に自分達で考え自分達で行動し自分達で社会をつくって行かなければならない大切な人材です。その人材を今、私達は家庭と幼稚園で育てています。この小さな経験と心の動きが、大切な第一歩になっている事を知りながら、この1学期の子供達の様子に“人生分の1”の成長を感じて欲しいと思います。

今まさに、この度の西日本豪雨で、被災された方々の姿や場所や、それを直接的に自分の時間と身体を使ったり、あるいは間接的に支援しているボランティアの人達、救護に当たられているたくさんの方々の姿が報道されています。そして、私の住む町三次でも、あちらこちらでその被害を受け、日常の生活を取り戻すためにたくさんの方々の力や言葉に励まし励まされながら2週間目を迎えています。これらの様子一つひとつに、人として大切な事を幼い頃から学べて来た人達の姿が重なって見えるのです。幼稚園での子供達の様々な感情が入り混じった“交代劇”が、いずれ、『人のために…社会のために…』の倫理観に繋がるという事、そしてそれがいつか自分のために巡って来るかもしれないこの人間関係のサイクル──“お互い様”“持ちつ持たれつ”を学ぶ事にも繋がるのです。「はんぶんこ」「じゅんばんこ」etcこれらは、幼い子供達にとって、集団の中でこそ学べるコミュニケーションのキーワードかもしれません。

そのエネルギーが能力になる(平成30年度7月)

雨の日、さつき組のテラスを通りがかると、ポッタンカラン ポッタンコロン カラン コロン ポッタンカラン と不思議な音?可愛い音?おもしろい音?が聞こえて来ます。雨の日にだけ聞こえる音色です。さつき組の子供達が先生と一緒に軒に落ちて来る雨だれの真下に大きめな空き缶を置いたのです。雨だれを受けて響くその音を聞きながら、梅雨の季節を楽しく感じています。

幼稚園では、6月に入ってプールあそびが始まりました。プールだけでなく、水道からホースを引っ張って来たり、水たまりでドロドロになって遊んだりしながら水と戯れています。幼稚園の小川は朝から子供達の絶好のあそび場になります。小川の中にいるザリガニ、鯉、アメンボ採りに必死になり、必ず何人かの子が「小川に落ちた~」とビショビショになっています。

そんな中、年長組の男の子S君が「葉子先生!来て!来て!あのね、A君ってね、小川のここを跳び越えられるんだよ!すごいんだよ!」と言って私を呼んでくれました。そこは、小川でも幅の広い部分です。S君にとっては飛び越えるには、勇気を要する幅だったのでしょう。「そうなの?すごいね!見てみたいなあ。ちょっと呼んで来てよ。」と言うと、S君は「うん!わかった!」と言ってその勇者A君を探しに行きました。しばらくして「呼んで来たよ。ほらA君、葉子先生に跳び越えて見せてあげてよ。」とふたりがやり取りをしていました。「見ててよ!見ててよ!」と勇者が跳ぶのを私に見せてくれました。A君にとってはどうってことない技だったようで、軽く跳び越えて見せてくれました。私を呼んでくれた男の子は「ねっ、ねっ、A君ってすごいでしょ。」と勇者を自慢していました。「すごいね!カッコいい!」「じゃあ、S君の得意技は何かな?」と聞くと、「僕はできないんだよ。」と笑いながらそう答えました。すると、A君がアスレチックを指差しました。きみは、アスレチックの高い所によじ登れるじゃないか!やってみろよ──と言わんばかりに、S君の背中を押しながらアスレチックに誘いました。少し照れながらS君は「葉子先生!見ててよ!」と言いながら、走って登る姿を見せてくれました。それを見守るA君は、どう?S君も凄いでしょと自慢そうに私を見ました。「凄いね!A君もS君も凄い!真剣な顔もカッコよかったよ!」と拍手をすると、ふたりはニコニコしながら向うへ走って行きました。

ふたりの中では、お互いにその力を認め合えているのでしょう。「キミってすごいね!」「きみだって凄いじゃん!」というお互いの力を知った上で認め合っている事を感じました。そして、それはお互いに自信が持てる事として各々を支えていく力となっているのです。

大人はつい、“凄い”と言える物差しを勝手に設定して、その子にとっての“凄い”を見落としてしまう事があります。他の子と比べて、“劣る劣らない”“出来る出来ない”を決めて“凄い凄くない”と評価してしまいがちです。純粋な子供達は、お互いに遊びながらその子の力を理解します。そして、周りにいる大人達が「○○君って凄いよね。」「○○ちゃんって○○よね。」等といつも、一人ひとりに個々の物差しをあてて見てあげていれば、自然に子供同士で認め合えるようになります。

20年以上も前に卒園したある男の子達の事を思い出します。とってもやんちゃですぐにカッとなっていつも喧嘩勃発の元をつくってしまうような男の子でした。でも、スポーツ万能で足も速く運動会やサッカー大会をしたら一目置かれる存在でした。私は、その力をクラスのみんなで認め合える雰囲気づくりに努めました。すると、その子を取り巻く子供達の関係に変化が現れました。少しずつその男の子はやんちゃなエネルギーを“友達を守る力”に変えて行きました。「○○くんのできない所は俺に任せて!俺が助けてやるから!」と、いい意味のリーダーになってくれてクラスの仲間達から頼られる存在になっていったのです。また、おとなしくてあまり外で遊ぶのが好きではなくて、何をしても自信なさそうに毎日を過ごしている男の子がいました。でも、その子には特技がありました。迷路を描けば抜群な力を発揮していました。すごく大きな紙にスタートからゴールまでを細かく細かく描いて友達を驚かせていました。その巧妙ぶりでは誰も彼には敵いませんでした。鉄道も好きで、日本中の駅や路線を知っていて、それを描かせれば大人顔負けでした。その子のために大きな紙を用意してあげると友達と一緒に何日もかけて迷路を完成させるあそびをしていました。クラスで迷路ブームになり、その事もクラスの仲間の中では認められて、描き方を教えてあげながら尊敬される存在となったのです。彼は、今、高速道路を守る仕事に就いて頑張っているらしいです。

子供達は皆それぞれにエネルギーを持っています。性格、特性、経験……その子持ち前のエネルギーです。周りの人達から、「あなたのそんな所が凄いと思うよ。素敵だと思うよ。」と光を当ててその力を認めてもらえたら、自信を持って“持ち前の力”を磨きます。それはいずれその子の“能力”になっていきます。小さなエネルギーでもその子にとっての大きな“能力”にしていくためには、個々に合った物差しをあててお互いに認め合える雰囲気が大切です。その雰囲気をつくる事も大人の大切な仕事ではないかと思うのです。