葉子先生の部屋

ものは言い様 捉え様(2019年度5月)

 新年度が始まりました。暖かい春の日差しに誘われて早咲きだったチューリップが、新入園児達を明るく迎えてくれました。進級児達も新しい保育室で先生に迎えられ、少し緊張しながらも新鮮なスタートを切る事ができました。

 そんな中、年長組と年中組は、進級して間もなく桜がたくさん咲いている公園や土手に園外保育に出かけました。きれいに咲く桜を見たり匂いを嗅いだり、風に舞った花びらを集めたりして春を感じていたようでした。年長組の引率をした時の事です。その日の朝、お母さんとの離れ際に、必死で涙をこらえながら保育室に向かって行った年長組の男の子が、友達と手をつないで、公園の桜を楽しそうに見て回っているのを見つけ「○○君、今日、幼稚園に来て良かったね。楽しい?」と聞くと「うん。楽しい!」と笑って答えました。「朝、幼稚園に行くか行かないかを迷ってたら時間がもったいないよね。楽しい事をする時間が少なくなるから、さ~っとおいで。楽しい時間がもったいない。もったいない。」と笑いながらさり気なく…を装いその子に言うと「うん!わかった!もったいないね。」と言って笑ってくれました。「時間がもったいない」と言われ、楽しい事に気持ちを向ける事ができたようでした。

 また、年中組の引率をした時の事、走って転んでしまった女の子が、みんなに注目をされた事と痛かった事で、泣きそうになっていたところ「わぁ~、○○ちゃん、今のは早かったねぇ~。○○ちゃんは走るの早いんだね。そりゃ、転んじゃうよね。でも、転び方もカッコよかったよ。」と言うと、泣きそうだった顔が得意顔に変わり、ムクッと起きあがったのです。痛かった!恥ずかしかった!という気持ちが、ほめられた事でヒーロー気分に一転したのです。

そして園庭では、砂場のスコップを使って小川の傍の水たまりで「工事だ!工事だ!」と遊んでいた年中組の男の子、それを見ていた新入園児の男の子がスコップが欲しくなって「それ欲しい!」と、もぎ取ろうとしました。年中組の男の子は、平気で横取りしようとする新入園児さんに驚き、思わず「だめよ!これ僕が使ってたんだから!取らないで!」と怖い顔をして大声で言いました。新入園児の男の子は泣き出してしまいました。私は、年中組の子に、「○○君、ごめんね。この子、そのスコップだったら、○○君のように上手に工事ができる気がしたんだと思うよ。同じように上手にできるスコップがある場所を教えてあげてくれる?どれがいいか選んであげてくれる?」と言うと、「うん!わかった!おいで!」と砂場の道具入れに連れて行ってくれたのです。それからは、先輩気分でいろいろと教えてあげながら先輩後輩でふたりが仲良く遊びました。「そんなに言わないで、貸してあげてよ。」と言うより、優越感を与えられた事で逆に優しい気持ちになれたでしょうし、「それは、人が使っている物だから我慢しなさい」と言うより、優しくしてもらえた事で、先輩を尊敬したでしょう。NOの気持ちで言うのではなく、YESの目で子供達を捉えてあげる事が子供の心を救ってあげる事になるのではないかと思います。

 我が家では、二人の娘が就職をしたのをきっかけに、家族皆で携帯電話の機種変更をしました。私はよくわからないので何でも良かったのですが、娘達はそれぞれに欲しい機種があったらしく、これからは自分で支払うのだから…と高いスマートフォンにしました。特に下の娘はずっと前から研究して決めていたようで、家族の中で一番高い物を選びました。「そんなに高くなくていいんじゃないの?本当に払っていけるの?」とグチグチ言う私の言葉も聞き流し決めてしまいました。その日の夕食時の事です。下の娘が祖父に「おじいちゃん写真を撮ろう!新しい携帯電話を買ったんだよ」と言ってみんなで写真を撮ってくれました。祖父が「自分で買ったのかい?」と娘に聞くと「そうよ。前からこれに決めてたの。家族の中で一番高いのを買っちゃった。」と話していました。それを聞いて祖父は苦言を呈すどころか、娘の頭を何度もなでながら「でかした。でかした。」とほめてくれていました。これまで頑張って勉強をして就職をし、やっと高価なものでも自分で買えるようになったという事を娘と一緒に喜んでくれたのです。グチグチ言っていた私とは違う見方で娘を認めてくれたのです。娘は、「これから頑張って働くね。おじいちゃん、ずっと元気で応援していてよ。」と、意欲満々に語っていました。ものは捉え様です。子供達の突っ込まれたくない部分をNOの捉え方や言い方をすると、気持ちが前に向かなくなってしまうのです。ほんの少し角度をずらしてYESに近づいた捉え方や言い方をしたら、子供は違う角度から前向きになる力を出せるのです。

 子供達のやる気をどう引き出してあげるか、どういう言葉を選びどのタイミングでその言葉をかけてあげるかで、子供達の前向きになる気持ちが大きく変わってくるような気がします。“ものは言い様捉え様”──いい意味で、ちょっと焦点をずらして見てあげる…物事を正当化して捉えてみる……これも一つの大人の作戦?かもしれませんね(笑)。失礼、『手腕』と言わせていただきましょう。

さて、今年度も子供達とのバラエティーに富んだ生活を私も楽しみながら、子供達の世界の素晴らしさをここでお伝えできればと思っています。今年度も『葉子せんせいの部屋』にお付き合いいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。

学ぶおもしろさ(平成30年度3月)2019年3月

気が付けばもう3月…。例年なら、節分から立春を迎え、春が訪れる…と思いきや、2月の終わりに寒の戻りのなごり雪──。寒さ嫌いの私でも、毎年、その情景に風情を感じていましたが、今年はそのなごり雪も見ずにこのまま春に向かうのかもしれません。この現象が良いのか悪いのか、時代の変化に合わせていろいろな事が変わって行くように、自然のサイクルまでが変わって良いものなのか?と少し心配しながらも、芽吹く春を待ち望んでいます。

 先日、凄く寒い朝、年長組の豊川祐美子先生が「葉子先生!氷ができていたんです!子供達が喜んでいます!見てやってください!」と嬉しそうに私に教えてくれました。どうやら子供達と寒さの中で氷ができるかどうかを確かめたくて、外に水を張った入れ物を置いて実験(?)していたようでした。見てみると、確かに薄い氷が張っていました。数人の子供達がそれを囲んでいろいろと話していました。「寒かったら氷ができるんだよ。」「だけど、毎日寒かったのに、今まではできてなかったじゃん。」「すご~く寒い日しかできないんだよ。」「すご~くってどんなに?」「すごく…って……すごくよ」「でも、もうすぐ溶けるよ」「どうして?」「段々あったかくなって来るから。」「でも寒いよ。」「太陽が出たら溶けるよ。」「太陽が出たら溶ける?」「あ~、出ないでほしい。溶けてほしくないよ~。」「触ったらだめよ。溶けるから。」「手があったかかったら溶けるよ。」「太陽はまだ出てないけど?」……と長い間話をしていました。どう納得してその“氷談義”が終わったのかは、わかりませんでしたが、その時の子供達はみんなのいろいろな話に耳を傾けながら“氷”が出来たり溶けたりする現象の不思議を 自分なりに想像を膨らませて考えていたのだと思います。

 昨年の秋に京都大学の本庶 佑特別教授が、ノーベル医学生理学賞を受賞されたニュースで賑わいました。がんの新治療薬の元となる分子発見(難しい事はよくわからないのでこの辺で…)の功績が世界的に認められた素晴らしいニュースでした。私は、わからないなりにも、一生懸命にそのニュースに関心を寄せて観ていました。(世の中にはとてつもなく頭の良い人がいるものだ。人並はずれた知能知識の持ち主──。いったいどんな人なんだろう?)と興味津々でした。受賞後の記者会見で、本庶特別教授は、おもしろい事を言われました。「私は、学生には“教科書を信じてはいけない”と伝えている」と…。私は、それは、一般人には通じない言葉だ。元々頭の良い人だけが言える言葉だな~と思って聞いていました。でも、そう言い切れる人ってかっこいい!そして、まぎれもなく新薬の開発の貢献者!どんなにその新薬を待ち望む人が世界中にいるだろうか…とありがたい雲の上の人の言葉を聞くように、ただただ凄い!凄い!と思っていました。しかし、その後、本庶特別教授の“教科書を信じてはいけない”という言葉をiPS細胞でノーベル医学生理学賞を受賞された山中 伸弥教授がわかりやすく話しておられるニュース番組を観た時、(これって、私達だってそういう気持ちを持っていれば、子供達に楽しく学ばせる事ができるんじゃないかな?学問の入り口はここなんじゃないかな?)とストンと落ちるものがありました。

 山中教授は、「我々研究者は、いつも“型破り”な事に挑戦しようと思っている。そのためには先ず“型”を知らなければならない。それを知った上でその“型”を破るべく挑戦して行くんです。その“型”こそが基礎知識となる“教科書”なんです。この基礎知識なくして何かをしようとするのは“型破り”ではなく“形無し”です。」と……。それを聞いたら、なんとなく、勉強をする意味や知識を増やす意味がわかるような気がしました。年長組の子供達が、氷を囲んで話している事が、答え無き答えでそのまま終わった話が、これから小学校に行き、教科書で基礎知識を得て、さらに、(それって本当?)とか(もっと違った事があるかも)と“型”を疑ってみたり、それだけが正解だとは限らない…と逆らってみたりしながらどんどん違うものの見方や考え方を増やして行き、それが、新しい世界を見出す力に繋がり得るかもしれません。学者レベルでの話ではなく、どこかでその力が活かされるはずです。私もこれまで生きて来て、勉強しながら、「何のためにこんな勉強をしなきゃいけないんだ?この勉強って将来何の役にたつの?」と何度思った事でしょう。

 日本の歴史も、どんどん塗り替えられています。そう信じられて来た事が、いろいろな新たな発見や疑わしき事が出て来て、教科書の歴史用語や歴史上の人物の名前の表記が変わったり、消えたりしています。この事でも、教科書に書いてある事がずっと神話の如く正解ではなくて、これが本当に正しい事なのかな?と、それを立証するために調べ、歴史が塗り替えられて行くことにとても興味が湧きます。“型”を学び、そこに食いついてみる事は、面白い事なのかもしれません。
 年長組の子供達は、4月から“勉強”をしながら大きくなります。これから先、どれ程たくさんの“勉強”をしないといけないか。少し気が遠くなりますが、先ずは“型”を得るために、一生懸命に楽しく勉強をして欲しいと思います。新しいランドセル、新しい制服……そして、友達や先生、全てが新しい。その環境はきっと子供達の学びの基礎になる場所のはずです。それをベースにしながら、進化する事を楽しめるようになるのでしょう。そして、子供達にとって、これまで過ごして来た幼稚園での生活はまさに“型”を学べたり興味をもてたりする材料の宝庫だった………いつか、そう感じて欲しいと願いながら、もうすぐ巣立つ日を迎えます──。

○か×か 白か黒か(平成30年度2月)2019年2月

 先日、年長組の子供達が卒園写真を撮りました。大騒ぎの中、入園写真を撮ったのがついこの前のように思い出されます。「じっとしててね。こっちを向いててね。」と、言っても言ってもみんなが揃っていい顔をしてくれず、撮影がなかなか大変だった事を思い出しながら、卒園写真撮影の様子を見ていました。撮影のためにパリッと制服を着て、お家の方に髪を綺麗に整えてもらって登園して来る年長組の子供達は、これも一年生になる準備だという事がよくわかっているようで、顔つきがいつもと違って見えました。園長先生と担任の先生の間で、背筋をしっかり伸ばしてカメラをまっすぐ見る子供達に目を細めました。

 そんな年長組の子供達も、そうは言ってもまだまだいろいろ経験中(?)です。ある日、男の子ふたりが新聞紙を細長く丸めて作った一本の剣をめぐって言い争っていました。「僕の(剣)だったんだ!」「違う!僕が拾ったんだ!」と言い合っているのです。そして、剣を手にしている男の子は「無理やり取り返そうとして押された!痛かった!」と悔しそうに泣いています。その反対に「僕が、話そうとしても、笑って走って逃げるばっかりで嫌だった」と両者譲らずの言い争いをしていました。話をよく聞くと、A君の言い分は、作った剣が捨てられていて、持って遊んでいたら、急に「僕のだった!」と無理やり押して取り返そうとして来た!B君の言い分は、剣は捨てたのではなく置いていた。「僕のだったから返して!」と言ったのに走って逃げられた。笑っていたから腹が立った。と……。一見、腕を押さえながら泣いているA君が可愛そうで、B君をとがめてしまいそうですが、よくよく聞いてみると、どっちも悪くてどっちも悪くない…どっちの気持ちにもうなずく事ができる。私がずっとフムフムと二人のやり取りを聞いているうちに、さすがに、「どうでもいいや」と思ったのか「こんな事に時間をかけても仕方がない」と思ったのか、そもそも、その剣にはさほど執着していたわけでもなかったのか、いつの間にかふたりの気持ちも熱も冷めて、はっきりしないままこのもめ事は終わってしまったようでした。──こういったもめ事は、子供達の中にはよくある事です。これをどっちが悪くてどっちが悪くないか、どっちが〇でどっちが×かと問われたら少し困ってしまいます。全てをこの二つに一つという答えの求め方をするのは、子供達の育ちの中では危険なような気がします。特にまだ考え方や経験に未熟な部分をたくさん持っている子供達は、自分の思ったままを発言し行動に移します。そういった事を何度も何度も繰り返しながら相手の様子を感じ取り、その時の自分の気持ちに折り合いをつけていく方法を見出します。それを習得するには、きっと長い時間が必要で、この時間が子供達の成長には大切なのではないかと思います。一つのもめ事でも、「あなたの方が悪かったんだよ」「あなたの方が間違ってるよ」と〇か×かで解決を急ぐと、子供は考える時間を奪われてしまいます。相手の気持ちと自分の気持ち、相手にされた事と自分がした事、いろいろな状況……このもめ事の裏にある全ての事を考えてみる時間と力を奪われる事になるのです。〇と×の中間△…白と黒の間のグレー…曖昧でどっちつかずの部分は、自由に捉えて自由に解釈でき、知恵を働かせる事のできる大切な部分のような気がします。そこから、許し合ったり、認め合ったりしながら、子供達の中にルールを見出していきます。たくさんたくさん考える事ができたら、そう外れた答えは出さないでしょう。そうしながら大人になって行けばいいと思います。世の中には、YESかNOか、〇か×か、白か黒か、良いか悪いかの二つに一つの答えを求められる事はたくさんあります。しかし、そうばかりではなく、人生には曖昧な部分も必要だと思うのです。“そんな事もあるさ”“まあそれもいいんじゃないか”というどっちつかずの考えを答えとして導き出す事も必要です。そうやって折り合いをつけながら上手く人と関わっていく──これも一つの答えだと思います。

 A君のここはどうだったかな?B君のそこはどうだったかな?と一つひとつに〇か×かは明らかでも、最終的にはどちらが〇でどちらが×!とは決めかねる…そこは決められなくても、一つひとつの〇×には、「ごめんね」「僕こそごめんね」……これが心から言えれば、相手の事を知りながら、学んで行けるような気がします。全員が全員、右向け右!ではなくて、人は皆、いろいろな考え方があって、ものの見方は人によって違っていていいはずです。子供達には、何らかの答えを導き出すために、その気持ちや考えに耳を傾ける事が出来たり、自分の考えを持って話せたりできる人になって欲しいと思います。そのために私達大人も、答えを急がず、しっかり時間をかけて子供達を見守り対応していく柔軟な気持ちを持っておく必要があるのかも知れません。


 幼稚園に入園して卒園するまでのこの時間は、私達教師にとって、子供達の心と身体の成長を見守り、導き、支援する大切な時間です。そして、子供達の中に育てておきたい大切な養分を土に染み込ませ、子供達自らの根っこで吸い上げてくれる事を願いながら、子供達と共に話し、触れ合い、過ごしています。それが、子供達が生きて行くための大切な学びの時間である事を思い、感慨深く卒園写真の光景を見つめていました。制服の袖が短くなったね。背が高くなったね。泣かなくなったね。椅子に座って足がブラブラしてないね。入園式のあの日から……大きくなったね。

心のおまもり(平成30年度1月)2019年1月

 明けましておめでとうございます。“平成最後の……”といろいろな場面で使われるフレーズですが、正に、平成最後となるお正月をどのような気持ちで迎え、過ごされたでしょうか?今年の4月30日で『平成』の幕が閉じられ、5月1日から新元号が施行されます。その日がじわじわと近づいている事に、平成を振り返り次の時代への心づもりをしながら、様々な感情が湧いてきます。そういった話が特別な思いで家族とできたとしたら、新しい年を迎える気持ちもいつになく引き締まったものになるのではないかと思います。子供にはまだわからないと思うのではなく、『平成』と次の元号を生きる次世代の立派な人材の一人として、幼い子供達なりにちゃんと理解できるように話をしてあげて欲しいと思います。今年も皆様にとって明るい幸せな年になりますように……。そして、どうぞよろしくお願い致します。

 さて、先月行った音楽発表会では、子供達のそれまでの頑張りや充実感と当日の達成感と一人ひとりの成長を感じ取っていただけたものと思います。どのクラスにも取り組みの中に心温まるドラマや可愛いエピソードが詰まった発表でした。表舞台に立つ子供達には感動的ですが、実は裏舞台でもそこにはない感動をみる事が出来ます。緊張や興奮、友達と交わすエール、お世話をしていただくPTA執行部さんと協力隊のお父さん方の声かけ、そして、先生達の子供達の全てを包み込む温かく強く深い繋がり──これらを目の当たりにし全てが感動でした。そんな幾つかある出来事の一つにこんな事がありました。二日間ある本番の一日目、それまでの練習では全く心配していなかったのに、何かの気持ちの調子が万全でないままステージを迎えてしまった年長組の男の子がいました。ステージの幕が開いて先生の指揮が始まると、普段通りの素敵な演奏が聴かれるはずでした。しかし、決まった小節の初めや終わりに鳴るはずの楽器の音が聴こえてきません。それは、彼の担当するパートでした。私も傍で励まし続けましたが、なかなか普段の気持ちを持ち直す事ができませんでした。時々、少しだけ自分で手を動かし小さな音を出しましたが、あの時の彼はそれが精一杯でした。クラスの子供達は、その事態がわかっていて、実に一生懸命に彼をカバーしながら、心配しながらも演奏を続けました。それはそれで感動でした。発表会終了後、彼のお父さんとお母さんに伺うと、そうなる思い当たる事はいろいろあって、ちょっとしたきっかけで、万全な状態にならなかったようでした。きっと彼の中でもはっきりした原因が説明できず、張り切る気持ちと裏腹に緊張や不安が入り混じっていたのでしょう。「どうして?」と聞かれても…「○○だから…」と言えるものではない何かと必死に戦っていたのかも知れません。普段通りにできない事を悔しく思いながら、あのステージの上で自分と葛藤していたのです。そして、二日目を迎えました。「今日こそは、普段の彼のままで、みんなと演奏させてあげたい。」と担任をはじめみんながそう思っていました。そして、ステージに上がって来た彼の顔は昨日とは全く違い、友達とワイワイ言いながら嬉しそうにスタンバイしたのです。そして、見事に演奏をやり遂げました。クラスの子供達も達成感で一杯だったようでした。それから、幕が閉まってすぐに彼が私に「今日は、頑張れた!どうしてかわかる?」と聞いてきました。昨日とは打って変わって晴れやかな表情でした。「どうしてだろう??」と聞き返すと「あのね、朝ね、手のひらに“人”っていう字を3回書いて飲み込んだからだよ。お父さんが教えてくれたんだ。そうしたら頑張れるって言って。」──お父さんと幼稚園に向かう車の中で、そんな話をしてもらったようでした。前を向いて運転するお父さんは、きっと時々彼の反応をチラチラ見ながら、大げさではなくサラッと…でも心中は祈るような気持ちで、その時の空気を大切にしながら話されたのではないでしょうか?私は、「お父さんが教えてくれたんだ。」と健気に話してくれる彼が愛おしくて可愛くて、つい抱きしめてしまいました。自分でも説明できない不安な気持ち、昨日のステージの経験が、彼の中で辛い思い出にならないように、むしろその経験をバネに変えて欲しいと願う気持ちで一杯だったので、「できた!」と嬉しそうにお父さんとのやりとりを話す顔に色々な気持ちが湧いて来ました。「どうして?」と聞かれても「○○だから」とはっきりとした原因や答えが出せない時に、その原因を探られ必要に迫られたら、気持ちを切り替えるきっかけを失います。彼のお父さんは、あえて、そこには触れず「いい事を教えてあげよう」と昔から言い伝えられているこのおまじない(科学的根拠があるようなないような…迷信)を彼に教えてあげたのです。それは、彼にとってよりどころとなる“お守り”になったのだと思います。そのおまじないによって、自分の中の何者かが元気よく力を出して自分を奮い立たせてくれる──そう思える事ができたのでしょう。その時の父子を包む空気がとても温かかった事を想像して、素敵な父子関係だなぁと胸が熱くなりました。「がんばれ!がんばれ!」よりも、彼にとっては静かに“お守り”を心の中に渡してもらえた事で、いろいろな想いを解きほぐせたのでしょう。

後日お父さんに聞くと、「あの日(一日目)、あまり朝食を食べていなくて、お腹が空いていたのも原因かなと思って、二日目の朝は大きなツナマヨのおにぎりを一つ作ってやったんです。それを食べさせた後、車の中で……」という事でした。彼にとって、お父さんが作ってくれたその大きなおにぎりとおまじない──それは、愛いっぱいの『心のお守り』だったのです。

“難しい事”が”楽しい事”に…(平成30年度12月)

紅葉した山々を見渡し、秋に浸りながらも、クリスマスソングを耳にし口ずさみ、そうかと思えばお正月のお節や年賀状の注文書に数を記入している……なんて気ぜわしいのでしょう。一つひとつの事をじっくりと楽しみ味わいながら過ごしたいのに、世の中のムードについつい流されてしまいます。まぁ、この気ぜわしさも、この時期らしさを味わっているという事なのでしょう。そんな中でも、幼稚園の子供達は、相変わらず落ち葉に埋もれて秋を満喫しています。大人があれもこれも…と感じる忙しさとは違い、一つの経験の中で、いろいろな事を考えながら、一生懸命に心と身体を忙しそうに動かし遊び込みます。

そして、今、子供達には頑張っている事があります。ご存知の通り、来月行われる“音楽発表会”の練習です。現在は、本番と同じようにステージ上で年少組はクラス毎に踊りを年中年長組は合奏をそして、それぞれに学年では歌の練習をしています。少し前までは、ホールのフロアーに楽器を並べての合奏練習でした。そしてさらにその前は、4つの保育室に打楽器、木琴、鉄琴、アコーデオンそれぞれパート別に置いて、パート練習をしていました。練習を重ねて行きながら、今週ついにステージで本番さながらの練習に入りました。子供達は、このステージに立つ事をずっと楽しみにしていました。「あのステージに立つために……」と自分がそこへ立っている姿を想像して頑張っていました。先生達の話術により、このステージは憧れの『神聖なる場所』となっていたのでした。

 実際に楽器に触れたり、踊ったりしたのは運動会が終わった頃からですが、具体的に踊りの動きを考えたり楽譜を作ったり、幼稚園としてどんな音楽発表会にして行こうかという構想は、夏ぐらいまでに先生達の頭の中では練られていました。その時点では、まだ子供達がどんなふうに頑張るかが見えていなくて不安材料もたくさんありましたが、確かにわかっている事はこの経験で子供達が大きく成長できるという事だけでした。その後この不安は日に日に自信につながって行きました。子供達の中にも最初は、自分が思っていた以上に難しくて今までした事がない事に戸惑ったり気持ちが向かなかったりしていた子もいました。そんな時、先生は何度も何度も励ましたり、工夫したりしてその子その子が頑張れるように考えて行きます。この頃が先生も子供達も正念場です。ここで、「ぼく、もうやめる」「ぼくにはできない」と思うか「もっと上手になりたい!」「もうちょっと頑張ってみる」と思うかで、成長への扉が開くか開かないかが変わって来ます。どのクラスを覗いてみても、少しずつ変わって行く発表会に向かう子供達の生き生きと頑張っている様子で先生達のその思惑が手に取るようにわかりました。「出来たじゃない!凄い!」「よく頑張ったね!」「かっこいい!」「もう少ししたら、もっと上手になるよ」「どんどん素敵になるね」と褒めたり励ましたりして、子供達のやる気と持てる力を引き出していました。

 この正念場を越えれば、今度は自分の事だけではなく、友達の頑張りに目を向ける余裕が出てきます。パートが決まり、その楽器を一生懸命に練習する友達を傍で見ながら、「○○ちゃん上手だね」「○○君頑張ってるね」とお互いに認め合うようになります。同じ楽器を任されている子供達は一緒に「もっとこんなふうにしたらいいんじゃない?」とか、時には手を抜く様子が見られたらその友達に「○○君、もっとまじめにやってよ!」と注意し合うシーンもみられました。上手くできた時にはハイタッチで喜び合ったり、他のクラスの演奏を聴きながら、自分と同じ楽器をしている友達をジーっと見て、自分とどこがどう違うのか、もっと自分も頑張ろうと刺激を受けたりして子供なりに研究をします。こうなって来ると、“難しい事”がもはや“楽しい事”に変わって来ているのです。“難しい”と思うのはこの先がどうなるのか……“できる自分”の姿が想像できなくて不安だからです。何となくできそうな自分が見えて来たら“楽しさ”に変わります。いつか必ずできるようになる!と思えるようになったり、そう感じさせてもらえる言葉をもらったりする事で、“できる自分”を想像し自分を信じて頑張れるようになります。自信を持つ事で“難しい事”がそのままずっと“難しく辛い事”にならず“希望”となり、その過程を“楽しい”と感じるようになるのです。

 先月の『葉子せんせいの部屋』でも書きましたが。“難しい事にチャレンジする強い心と身体”──自分の力より少し高いハードルを越えようとする時、そこに“楽しさ”が見い出せた時にこそ成長があると思うのです。音楽発表会では、楽器や踊りや歌の技術を得る事も大切な学びですが、私達が育てたいのはそこ一本ではなく、この間に芽生える個々の精神力や表現力、自信、そしてクラスの友達や先生との間に生まれる関係の中で協同性や感性豊かな心です。“難しい事”にチャレンジしようとクラスのみんなで向かう過程があって本番を迎えます。今の子供達は不安が自信に変わり、一回りも二回りも強く頼もしくなっています。お家の人達に観ていただける本番は『一発勝負』ですが、実は、本当の意味の勝負で既に子供達は勝利を得ているのです。音楽発表会当日は上手下手ではなく、子供達と先生との間に見えない糸で結ばれた信頼関係を感じ、その事を感じ取っていただけたら嬉しいです。そして、これまでの子供達の頑張りに“勝利の拍手”をたくさん送ってあげてください。