葉子先生の部屋

修了式・卒園式を目前に…(平成18年度番外編)平成19年

今年度最後の“葉子せんせいの部屋”です。理事長から引継ぎ、何とかこの1年書き続ける事ができました。皆さんの心に、何かを残す事ができたとしたら本当に嬉しいです。
今回は、私が、年度末になると思い出す今から14年前のある出来事をもう一章、先生の手から巣立つ子供達に、贈りたいと思います。

修了式・卒園式を目前に…』

たくさんの思い出を残して幕を閉じる3月、1年間を共に過ごしてきた子供達との別れはとても寂しい。毎年の事ではあるが、その年その年の子供達への想いがあり、何とも言えない物悲しさがある。子供達もまた、私達と同じ気持ちを味わっている。
年中・年長と続けて私のクラスだったさー君と呼んでいた一人の男の子と私との間にこんな事があった。

田 房「本当に、本当にさよならだね。先生はさー君が1年生になれて嬉しいのが半分、さよならする事の寂しいのが半分で変な気持ちよ。」

さー君「どうして?」

田 房「だって、ずっと仲良しだったのにね。」

さー君「じゃあ、僕にまかせて!」「一緒に1年生になれるようにしてあげるよ。」

田 房「ええっ!どうやって?」

さー君「校長先生に頼んであげるよ。前は園長先生(現 理事長)に頼んであげたから同じクラスになれたでしょ。(年中組から年長組になる時に彼は葉子先生と同じ組にしてくださいとお願いに行った事があったのだ。)今度は学校だから、校長先生に頼まなくっちゃダメなんだ。」

それから、入学説明会などで何度か学校に行く事があり、彼は校長先生に直々にお願いしようと試みたようだが、その勇気がなかったのか翌日幼稚園に来て「昨日も言えなかったんだ…。」と小さな声で報告してくれた。彼の本気な様子に、それは無理な話だという事をどう話してやろうかと考えると、ただただ辛かった。ついに明日が卒園式。その夜、家の電話が鳴った。

田 房「もしもし、田房です。」 電話の向こうからは、何も聞こえない。しばらくするといきなり子供の声で…

さー君「あのねぇ、ぼくと園長先生とどっちをとる?」その声は確かにさー君だった。驚いた。

田 房「さー君、どうしたの?」

さー君「あのね、さっき園長先生に電話したんだ。葉子先生と一緒に1年生になってもいいですか?って。そうしたらね、園長先生は『困ったなぁ、園長先生も田房葉子先生がいなくなっちゃうと寂しくなるからねぇ。園長先生には決められないから、葉子先生にどうするか決めてもらったら?』って言われたんだ。もうぼくにも決められない。ねぇ先生!ぼくと園長先生とどっちをとるか決めて!」

彼のお母さんの話によると、自分で電話番号を調べて園長先生に電話をしたという。私は、彼が受話器の向こうで一生懸命話している声を聞きながら泣いていた。さよならが迫っているという実感と彼の気持ちの重みを感じ、心で『ありがとう』と言いながら、ただただ泣いていた。涙声をおさえて、「さー君ありがとうね。明日はかっこよく卒園証書を受け取ってね。」…そう言うのが精一杯だった。
電話をきって、私は心を落ち着かせ、彼に手紙を書く事にした。明日はきっと涙で言葉にならないと思ったからだ。


翌日、ついに来てしまった卒園式。式の間ずっと一人ひとりの顔を見ながら、その子達との日々を思い出していた。式が終わり、私はさー君に手紙を渡した。

田 房「さー君、昨日はお電話ありがとう。これに昨日のお返事を書いておいたから、家に帰って静かに読んでね。」

さー君「うん。ありがとう。」 

田 房「また遊ぼうね。」「幼稚園に遊びにおいでね。」「元気で頑張ってね。」

一人ひとりに声をかけ手を振った。
その夜、彼のお母さんから電話がかかった。

 「お手紙をありがとうございました。彼は、声を出して読んでいたのですが、4枚目から急に聞こえなくなって…。あの子、目を押さえて泣いていました。『何だかわかんないけど、涙が出てくるんだよ。』って。」今は、まだその涙の意味が彼自身にも理解できなくても、彼の人生の中で同じような場面に出くわした時、初めてその意味をわかってくれるだろう。私はその手紙にこう書いた。

 「だいすきなさーくんへ。
きょうは、そつえんおめでとう。せんせいはいま、こころをこめてこのてがみをかいています。さーくんとのおもいでがたくさんできて、せんせいはとってもうれしいよ。よーくかんがえたんだけど、やっぱりせんせいはいちねんせいにはなりません。さーくんが、にゅうえんしてくるとき、せんせいはどんなおとこのこかなってたのしみにまっていました。そして、おもったとおりとてもすてきなさーくんでした。さーくんのにゅうえんをたのしみにまっていたあのときのようこせんせいとおなじように、こんどは、がっこうで、さーくんをまってくれているせんせいがたくさんいるはずです。これからは、たくさんのひととであい、うれしいことやたのしいこと、そしてかなしいこともけいけんしてほしいの。

『こんにちは』ってであったら『さよなら』だってあるんだよ。すこしむずかしいかもしれないけれど、そうしていくうちにもっともっとさーくんはすてきになれるんだよ。せんせいは、いつでもさーくんのみかただからね。いままではさーくんのちかくでおうえんしていたけど、こんどは、ちょっぴりはなれたところからさーくんをおうえんしているからね。きっときっとがんばってね。
さーくんのこと、ずーっとすきだよ。
さーくんのこと、ずーっとわすれないよ。
ほんとうにたくさんのおもいでをありがとう。
たぶさようこせんせいより」

教師の仕事が終わる時(平成18年度3月)平成19年3月

気がつけばもう3月、いよいよ年度末になりました。幼稚園では、一年のまとめと同時に、すでに来年度に向けての準備にとりかかっています。

4月には、満3歳児・年少組・年中組の子供達は、ひとつ上の学年になります。また、年長組の子供達は小学校へ入学します。そして、小さな子供達が新しく幼稚園生活のスタートをきります。新しい事が始まるという事はやはり夢と希望で胸が膨らみます。どの子もどの子も晴れやかに新しいスタートをきる事ができるように、私たちはこの一年がどうだったか、また、この一年で子供達一人ひとりがどんな成長を見せてくれたかを振り返ります。

あっという間の一年だったように思えるけれど、そうやって一年をゆっくり回想してみると、実にドラマチックな出来事があって素晴らしく充実した時間だったのを確信します。特に卒園を控えた年長組の子供達との思い出には、言葉にできない切ないものがあります。


卒園式という一年の中で一番センチメンタルになる大切な人生の節目の日を間近に控えて、色々と準備にとりかかっています。先日も一足早く卒園写真を撮りました。園長先生と担任の先生に挟まれて、きれいに並んでカメラを一斉に見ている年長組の子供達の様子をじっくり見ていました。

思えば2年3年前の入園式、記念写真を撮ろうにもなかなかカメラの方を見てくれなくて、人形や楽器を派手に鳴らして、ごまかしごまかしやっとの思いで撮影しました。あの日がうそのように、私の目にはどの子もどの子も立派に映りました。

あらためて『大きくなったね』と思いました。制服の袖が…ズボンやスカートの丈が随分短くなった子、赤ちゃん顔だったのに凛々しくなった子、みんな入園した頃はじっとしている事が苦手だったのにカメラマンのOKが出るまでどの子も動かないでキリリと立っている。幼稚園で過ごす数年間は、こんなにも子供達を変えるのかと驚かされる瞬間でもありました。

  
そして私達の教師としての仕事の意味や深さを考えさせられます。この子達を無事送り出した時に私達の仕事は終わるのか…そうではありません。私達は、この子達がどうかいつまでも幸せに過ごせるようにと想う気持ちはずっと持ち続けます。そういう意味では、終わりのない仕事なのかもしれません。先生としての役目の終わりがあるとすれば、たぶんずっと先でしょう。


自分のこれまでを思い出しています。もう随分前の事になりますが、印象深い出来事や言葉はいつまでも心に残るものです。幼稚園の頃友達と積み木の取り合いをしました。それは新しい積み木だったので大人気でした。相手の友達が「先生、葉子ちゃんが取っちゃった!私が先に取ったのに!」そして私も「私が先だった!」と両者譲らず…。そして先生が一言…「自分たちで解決しなさい。」

それからどうやって解決したかは覚えていませんが、先生はその後ずっと先生の机に座って私達を見ておられました。私は、幼心に(座っているくらいならこっちに来て先生が何とか言ってくれればいいのに)と思いました。

また、小学校6年の時“帰りの会”で先生が、「この時間は、明日の連絡だけではなくて、今日一日を振り返るために『知らせる事』と題して、人の良い事を発表する時間にしよう。」と言われました。それから色々見つけて班ごとに順番に毎日良い事をした人の事を発表しました。その度に名前を挙げてもらった子は拍手で褒めてもらえます。そうしていくうちに褒めてもらえる子はだいたい決まってきていました。

ある日、先生は「名前の挙げられていない人には本当に『知らせる事』がないんだろうか。みんなが、見つけてあげられていないだけなんじゃないか?」となげかけられました。何とも言えない余韻の残る言葉でした。

あの言葉の本当の意味や、あの時先生が言いたかった事が、こうして幼稚園の先生になり母親になった今、やっと理解できるようになりました。もちろん、その時その時もそれなりに納得はしていましたが、解決さえすればいいのではなく、自分達で意見を戦わせながら相手の気持ちを汲み取ったり、解決する方法を自分達で見つける意味を教えてくださっていた事、どんな人でも誰にでも素晴らしい力があって、発信するほうも受信するほうもそういう気持ちで人を見ていかなければならないという事、また、どんな小さな事でも見逃さず受信してあげれば、その人はますます力を出せるようになるんだ。と言う事をあの時教えてもらっていたんだと気づいたのです。


学校の先生達が意見を出し合う番組である出演者が、「その時にわからなくても、ずっと先で、(ああ、先生があの時言ってた事はこの事だったのか)とその子が思い出してくれた瞬間に、その先生の仕事が終わる。」と言われました。

これは、教育現場に限らず家庭においても言える事だと思うのです。教育がその子の身体と心に浸み込むのはずっとずっと先の事なのかも知れません。結婚をして父親母親になってからかもしれません。私達はこれからの人生の支えになる心に残る言葉や経験をたくさん与えて子供達に今できる最大の事をしてやりたいと思っています。今年も三次中央幼稚園を巣立っていこうとする子供達の将来をずっと祈っていたいと思うのです。

  
人生の節目が、どの子にも輝かしいものでありますように…。

手紙(平成18年度2月)平成19年2月

早いもので、新しい年を迎えてもう1ヶ月が過ぎました。1月は行く・2月は逃げる・3月は去る…とはよく言ったものだと毎年思います。

同じように、この時期になると毎年思う事があります。…というのも、1月から2月にかけて年中組と年長組で流行るあそびがあります。『ゆうびんごっこ』です。このあそびに夢中になっている子供達の姿に考えさせられることがあるのです。


今年も我が家に年賀状が届きました。以前勤めていた京都の幼稚園の教え子達から、遠い友人から、ご無沙汰している方々から、身近にいる子供達から…そして、幼稚園にも先生達にたくさんの年賀状が届いていました。

それを一枚一枚読みながら、(手紙っていいなぁ)と思うのです。今の世の中、スピード時代になって、手紙より携帯電話やパソコンを利用してのメールでのやりとりが普通になってきています。新年の挨拶でさえメールで済ませる人も多くなっているようです。確かに自分の今の気持ちをリアルタイムに伝えたり返事を急ぐという時には、最良の方法であると思います。私もやっと覚えたパソコンを触りながら、メールのやりとりをすることも多くなりました。

しかし、子供達から届く手紙の文字や絵を見たり、遠い友人から届いた便箋に綴られた手紙を読むと、メールとは違う気持ちで相手の気持ちが伝わってくるのを感じるのです。


職員室にいると、クラスの郵便配達役の子が「ようこせんせい!ゆうびんで~す!」と先生達が用意しているはがき代わりの画用紙を届けてくれます。その字はまだまだたどたどしくて、読み取れなかったりしますが、少なくとも、この手紙を書いている時は私の事を想いながらしたためてくれているのです。時間がかかればかかるほど、その間相手の事を想っています。その様子が一枚の手紙からわかるから感動します。

まだ字が書けない子は「ようこせんせいをかきました」とかわいい絵を描いてくれています。“葉子先生”をかわいく描いてあげようと一生懸命だったことがわかるのです。そして、その想いに応えようと返事もまた時間をかけて書きたくなります。「お返事はまだかなぁ~」と、すぐに届かない返事が…このじれったい『間』が、なんとも心と心をつないでいる時間になっているような気がするのは私だけでしょうか?


少し…いやかなり古いですが♪文字のみだれは線路のきしみ?愛の迷いじゃないですか?♪という歌詞の演歌がありました。(古すぎ??)文字には、その人のその時の気持ちが見え隠れします。上手な字、下手な字ではなくて、どんな気持ちでしたためられたものかを察する事ができます。書くという事はメールより時間も手間もかかるけれど、書いている間に相手を想いながら気持ちを文字にし、即答されない返事を待つ間もまた相手を想う…。もしかすると、この『間』が人を思いやる事ができたり冷静に物事を考え行動に移すという心のゆとりにもつながるのではないかと思うほどです。


共働きの両親をもつ子供が学校から誰もいない家に帰った時、ふと見たテーブルの上に“おかえりなさい。”と一言置手紙がしてあったとしたら、その子はどんなに嬉しいでしょう。(お母さんやお父さんはお仕事をしていても僕の事を思ってくれているんだな。)と愛情を感じる事でしょう。そして、もっと深く考えることができる子ならば、本当は、家にいて「おかえりなさい。」と言ってやりたいのだけれど…せめて…という親の気持ちを察することでしょう。


先月、講師に沖田孝司先生をお招きしておこなった教育講演会で、ヴィオラの楽しい演奏を聴かせてもらった年長組の一人の女の子が2日後、担任の先生に「これを沖田先生に送ってください。」と一通の手紙を持って来ました。それには、素敵な演奏を聴かせてくださった事へのお礼とまたいつかお会いしたいといった内容が、可愛い絵と一緒に一生懸命書かれていました。思った事や考えた事、感動をこんなふうに素直に書き連ねる事にエネルギーを惜しまない子供の純粋さに感心しました。その手紙は早速沖田先生に送りました。


『手紙』は、書いてくれた人の気持ちを察したり想像したり、また、自分も相手の事を懐かしんだり気にしたりする想いをはせる時間をつくってくれるような気がします。筆不精なんて言わないで、自分の気持ちをどんどん文字にして相手に伝えてみてください。いい言葉やきれいな文章を並べなくても、相手を心から思いながら書いているその時間が貴重で意味深い事なのです。そして、必ずその気持ちは相手に伝わります。

年明け以来、職員室では先生たちに届いた年賀状を見せ合いながらその子を懐かしんだり、居ても立ってもいられなくて、表書きの住所を見て連絡をとっている先生もいます。日頃はなかなか連絡がとれないでいても、こんなふうに時折届く『手紙』をきっかけにお互いを気にとめ、心と心とを通わせる事ができます。


今日も職員室に郵便屋さんに扮した子供達が手紙を届けてくれます。「ようこせんせい!ゆうびんで~す!」──。さてさて、今日はなんて書いてくれているかな?職員室で受け取った園長先生と私は、たどたどしく書かれた文字と文章の解読に悪戦苦闘です。

親ばか万歳!(平成18年度1月)平成19年1月

新年あけましておめでとうございます。地球の温暖化や国と国の紛争、人と人との争いの数々…、「世の中何かが狂ってきている」と言われているけれど、私は暗い事ばかりをクローズアップして考えないで、ささやかな平和や喜びを大切にし、幸せに希望をもってこの一年を過ごしたいと思います。またこのページでも、読んで希望のもてるコラムを書いていきたいと思っておりますのでどうぞ今年もよろしくお願いします。


さて、12月の園だよりでは、音楽発表会の取り組みの中で見せる子供の精神的成長について書きました。発表会を終え、その後、寄せていただいたお家の方からの感想の中には、嬉しいお便りがたくさんありました。中でも微笑ましかったのは、「うちのクラスが一番よかった。」とか「うちの子の姿が一番輝いて見えた。」という言葉でした。

言葉は違えど、どのクラスの保護者の方からもそのようにとれる感想をいただいたのが本当に嬉しかったです。褒めていただいた事はもちろんですが、それぞれの子供達がみんなお父さんお母さんから「うちの子が…うちのクラスが…一番!」と思ってもらえているという事が嬉しかったのです。

俗に『親ばか』という言葉がありますが、私はこのお便りを読んで“親ばか万歳!”という気持ちがしました。この世の中で、その子の事を一番よく知り、一番愛しているのは、他の誰でもないその子の親です。親ばかになって当たり前です。そのおかげで、子供達はどんなに喜んだり救われたりしているでしょう。たとえ、人が何と言おうが、お父さんとお母さんだけは自分の事をスゴイって言ってくれると思えたら、孤独な子はいなくなります。


お母さん同士が、謙遜か本気か、我が子がそばにいるのに「うちの子本当にダメなのよ。」「全然言うことをきかないし、わがまま言って困らせるし、何でも遅いし……。」まだ言うか!と思うくらい“ダメな子像”を言い並べている光景をよく目にします。

それを聞いている子供の気持ちはどうでしょうか。一瞬にして孤独になります。そんなところもあるけれど、「それでも何でもあなたの事が一番好きよ。誰よりもお父さんやお母さんがあなたのことをわかっているよ。」と言ってもらえるだけで、子供は安心して暮らせるのです。他の子と比べてしまうから、自分の子供に自信が持てなくなってしまうのです。比べる必要なんて全くありません。その子は、その子の持って生まれた力や能力を十分に発揮すれば…または、そうできるように導いてやればいいのです。そして、できた時には、「やっぱり、うちの子が一番!」と喜んでやるのです。…と書きつつ、私自身にも今、言い聞かせています。


これは、夫婦の間でも言える事です。本当は、大好きなのに人前では夫婦互いにけなしあう──。これがある意味、日本人大人の美学かのようになっているような気がします。長い人生、結局は最後まで一緒に夫婦互いに心寄せ合って生きていくのですから、“この人が一番!”と思って生きたいじゃあありませんか。そしてそう思ってもらえているとわかっていれば、ますます夫婦の絆は深くなります。まあ、夫婦の場合、他人には分からない色々なことがあるので全てが全て単純にそういくとは限らないでしょう。ただ、子供に対しては思い方一つで、子供達の生き様が変わってくる──それぐらい重要な事のような気がします。


しかし確かに、周りの空気をよめず、我が子の自慢話を長々と話す人がいて「親ばかだ」と笑われるということもあります。わざわざ人に言いふらしたり、可愛いと思う気持ちが先走り、周りに目を向けることも忘れ、わが子の事ばかりを優先したりする姿には首をかしげてしまいます。自分の心の中で、そう思って育ててやって欲しいということなのです。何があっても、あなたの事をお父さんとお母さんは信じて守ってあげるからという気持ちでいてあげて欲しいという事なのです。くれぐれも、本当の『親ばか』にならないようにご注意を!


三次中央幼稚園の子供達は幸せだなぁと思います。うちの子が一番と思ってもらえたり、よく頑張ったねと涙を流して褒めてもらったり、それだけでなく、今回の音楽発表会でも他のクラスの子供達や先生にも目を向けてクラス全体の頑張りを認めてくださる──。本当に温かい気持ちになります。こんな保護者の方々がいてくださるおかげで、私達ものびのびと自信をもって子供達と向き合う事ができているような気がします。


幼稚園では新しい年を迎え、締めくくりの3学期になりました。1学期・2学期と色々な経験を積んできて、最後の1学期間でクラスの意識や、個々の成長をより確かなものにするために私達も頑張っていきたいと思っています。どうぞ、ご家庭におきましても共に悩みを分かち合い考え合いながら、温かい雰囲気の中で子供達を育ててやってください。


子供達はお父さんやお母さんが大好きですよ。どの子もどの子も“私の、僕のお父さんお母さんが一番!”と思っていますよ。その気持ちにこたえてあげてください。『親ばか万歳!』です。

任される喜び(平成18年度12月)

今、幼稚園中に色々な楽器の音色が響き渡っています。あと数日もすれば、“おんがくはっぴょうかい”です。これまで子供達は、様々なかたちで踊ったり演奏したりする曲に親しんできました。


先生達は、入園・進級当初から子供達をずっと見てきて、自分のクラスに合う曲を探っていました。そして夏休みには自分で編曲をして楽譜を完成させます。実はこれは、とても大変だけどとても楽しい作業なのです。頭の中で、子供達の演奏する様子を想像しながら音符を五線譜に書き込んでいく──(こう演奏したらかっこいいだろうなぁ。)とか(ここでこの音が入ったら楽しくなるかな。)と思いを巡らすのです。こうして温めてきた楽譜の中では、既に先生と子供達との絆を感じるオーケストラ演奏がイメージとして完成しています。


実際に子供達が楽器を手にして演奏したのは、11月の半ばぐらいからですが、それまでに原曲を聴いたりそれに合わせて手拍子をしたりして、耳からリズムを身体に入れていきました。そのうち楽器の使い方・音の出し方を教えてもらいます。子供達はその楽器のきれいな音に感激をしてとても嬉しそうです。それぞれのパートが決まったら各パートの練習です。自分のパートは自分で覚えなくてはなりませんから、なかなか覚えられず、合わせられなくて悔しかったり悲しかったりして時には涙が出たりする子もいます。それでも先生はあきらめず励ましながら一緒に頑張ります。何度も何度も励まして頑張ります。それは、こここそ頑張りどころで、これを乗り越えればこの子はきっと成長できる!とわかっているからです。成長してほしいからです。それは、先生にとっても正念場です。


パートを与えるという事は“任せる”という事なのです。“任せる”という事には、任せる側にも任される側にもそこには“責任”が生じます。「あなたに任せる。」と決めた時の心の中には(あなたを信じて…)という思いが込められます。信じて任せてもらうからには、できるだけその気持ちに応えようと努力をします。

こんなふうに言うと、大変な事のように聞こえるかもしれませんが、幼い子供でも自分を信じて任せてもらったら、張り切って頑張ろうとします。自分を頼りにしてもらった事や、自分に関心を持ってもらった事──(あなたでなきゃできないの。だからお願い。)と思ってもらった事に優越感と共に喜びを感じるのです。

よくある例で言いますと、それらは、“おつかい”等に明確に表れます。満3歳児のさつき組や年少のうめ組のような幼いクラスでも、「事務所におつかいに行ってくれる?」と聞くと「ハーイ!」と争うように張り切って行ってくれます。「事務所」と言ったのに、間違って「職員室」へ行っていたり、やっとたどり着いたかと思えば、用件が何だったか忘れてしまったりもする──でも、そんな珍道中の末、責任を果たした時の得意気な顔はたまらなく可愛いものです。そこには、(僕にもできた。僕はすごい!)という自信が生まれます。


今、先生と子供達は発表会に向けての練習の中で毎日これを繰り返しているのです。先生はその子を信じてパートを任せ、子供達は任されたパートを責任を持って演奏したり踊ったりする──その数分の演奏中の空間には、第三者の入り込めない空気が漂っています。指揮をする先生を真剣な目で子供達が見ています。(次はあなたよ!)という先生の目に、(わかってるって、まかせて!)という気持ちが返されます。

そしてうまくいった後の満足感は、先生と子供達との関係を深めます。発表会の練習時期に入る前と今とでは、クラスのムードも全然違います。信頼関係がぐっと深まっています。そんな様子を見てクラスのない私は羨ましくなります。


任せてもらえる喜びは、私たち大人社会でも実感する事が多々あるのではないでしょうか。任される事は大変でしんどい事もありますが、“信じてもらえている”と思えば逆に嬉しい事なのです。それはエネルギーに変える事ができるのです。子供は大人以上に純粋に喜びます。自分の存在を認めてもらえた事を素直に喜んで、意欲的に物事に取り組もうとします。どうぞ、子供達に“任せる”事をしてみてください。

生活の中で何でもいいです。「これはあなたにお願いするね。」と任せてみてください。そして責任を果たした時には、「あなたのおかげよ。」と言ってあげてください。自分の力と存在の大きさを実感してくれます。どんなに小さな力でも、我が家にはなくてはならない大きな存在で、とても大切な存在なのだ。と伝えてあげてほしいと思います。


いよいよ“おんがくはっぴょうかい”です。先生と子供達が、このような経験を積み重ねてきた様子が、色々なところで感じ取っていただけると思います。上手にできる事も大事かもしれませんが、もっと大事なのは、与えられた責任を果たすためにいかに頑張ろうとしているか、先生や友達と築き上げた信頼関係がどんなに深まっているかという事だと思うのです。

ステージの何とも言えない張詰めた緊張感の中に存在する、先生と子供達との目に見えない心のキャッチボールを感じながら、一つひとつのプログラムをお楽しみいただけたら嬉しいです。それはそれは感動の一日です。