葉子先生の部屋

誰のせい?誰のため?(平成20年度8月)

地球温暖化をひしひしと感じさせる例年にない暑さの中、子供達は元気に一学期を終える事ができました。新年度を迎え、これまでの3ヶ月間に子供達はたくさんの経験をしてきました。個人差はあってもそれぞれにどの子も成長を見せてくれています。思いきり楽しんだり頑張ったりしてきた子供達に、ここで少し休憩を入れてあげましょう。夏休みは、日頃親の手から少し離れたところで生活している子供の成長を身近で確かめられるいいチャンスです。どうか、一緒にいられる時間を少しでも多くもって、小さな成長も見逃さず一緒に喜んであげてください。夏休み…何はともあれ、安全に楽しく過ごさせたいものです。


さて、6月1日より“道路交通法”が一部改正され施行されました。自転車の乗り方や自動車後部座席シートベルトの着用義務化等、お年寄りや子供の命を守るためのきまりが見直されました。そんな中、小学生をもつお母さん方が、この事について数人で話されているのを耳にしました。自転車利用者対策の一つで、13歳未満の子供の自転車乗車時におけるヘルメット着用努力義務についてのようでした。小学生にもなると、自転車で遊びに行く事等で、道路を走る機会も多くなってきます。当然それだけ危険が伴うのです。そんな話をしているうちに一人のお母さんが、「学校でヘルメットの形や被り方の指導をしてくれて、着用を校則にしてくれないかしら。」と言われました。「みんなが被らないと、うちの子も被らないと思う。」と言われるのです。

以前、似たような言葉を聞いたような気がします。今や子供達の間では、持っていて当たり前のように氾濫しているゲーム…、「自分の子供にはさせたくないけど、友達皆が持っているから、買わずにはいられなくなる。学校でも注意してもらって、少々厳しくてもいいからゲームをしてはいけないきまりをつくってもらえないかしら。」…。私は、この言葉を聞いて、びっくりしたのを覚えています。子供達はいくら幼くても、一人前の人格を持った人として認めていかなくてはなりませんが、まだ、物の分別を正しくつけられない、何かに対して自分で全ての責任を背負えない間は、やはり親の監視の下、毅然とした態度で子供達に言って聞かせるだけの力は持っていて欲しいと思うのです。「ダメなものはダメ!」と言っていいのではないかと思うのです。私は、そのお母さんに、「この子は誰のお子さんですか?」と聞きたかったです。

子供達の命を守るために、ヘルメット着用は有効です。ヘルメット着用は、子供達を保護する責任のある者…言わば、保護者へ課せられた努力義務です。自分の子供は自分で守らなければ!と思えば、ヘルメットの意味や危険性をきちんと話すべきではないでしょうか?どうして、その責任を学校や他人に委ねるのでしょう。もし、学校が規則をつくったとしたら、「校則だから、被りなさい。」と子供に話をされるのでしょうが、そんな事ばかりしていると、子供達は、人が決めてくれた“きまり”でしか、分別がつけられず、“きまり”がないと生きていけない人間になってしまうような気がします。自分で考えて納得して自分なりのルールの中で正しく生きていける人間になれなくなるような気がするのです。そして何か問題が起きたら、きっと「もっと学校側がきちんと指導してくれなかったから…。」とか「先生がしっかり言ってくれれば…。」と、その責任の所在を他人に求めたくなるでしょう。

校則だから…法律で決まっているから…ではないのです。何故、規則にしてあるかを大人が納得をして、子供達に分かりやすくその理由を話してやって欲しいと思います。たとえ、規則になっていなくても、我が子を守るためにどうすればいいのか、どうする事が正解なのかという事を親の判断で決定したっていいではないですか。それは愛情なのです。この子を想うがために「ダメなものはダメ!」と言える親としての自信を持ってほしいと思います。親ほど子供の事を一生懸命考えている人はいないのです。親の言う事をきかないからと、学校や人に委ねるのは情けない事だと思うのです。子供達はよくわかっていますよ。大好きなお母さんやお父さんがここまで「ダメなものはダメ!」と言うには、それなりの理由があるのだという事を…。そして、自分が言っている事は、実はちょっとしたわがままなのだという事にも本当は気づいているのです。

親は親としての責任をもって子供達に与える物や話す内容や態度を選んでやらなければならないと思います。それが誰のためなのかがはっきりと納得させられる話がしてもらえる子供は、納得できたらそれからの責任は自分にあると思って、ちゃんと責任もって行動できる人になるのではないでしょうか。規則がある事に頼らないで、自分の言葉で子供達に世の中のルールを伝えてあげてください。


“人に優しくする”という法律はありません。だけど、人は皆、そうする事は当たり前の事で、そのほうが、皆が楽しく幸せに過ごせるという事を親から世間からあるいは経験から、納得して学びとってきたのです。子供が幸せに生きていくために、親はもっと自信をもって子供達に関わらないといけないと思うのです。それ相当の親としての重圧を感じますね。ホント…親って大変なんだなぁ。

食わず嫌い(平成20年度7月)

梅雨を感じさせる毎日になりました。そんな中でも、子供達はプールあそびを楽しんでいます。これからどんどん暑くなり、水あそびもますます活発になってくることでしょう。


しかし、子供達の中には、そのプールあそびを苦痛に感じている子も案外います。プール開きとなる6月初日、さぞかし喜んで水着を持って来るのだろうと思いきや、持ってこない子、お母さんに叱られて仕方なく持って来た子、後からこっそりお母さんが届けてくださった子もいました。勿論、喜んで持って来た子がほとんどですが、みんながみんなそうではなかったのです。年長児ぐらいになると、それまでにプールあそびをしていて、嫌な思いや不快な事があった等、何かのきっかけでプールあそびに消極的になってしまった、という事はあるかもしれません。しかし、まだ幼稚園でのプールあそびを経験していない新入園児達が、それが楽しいものやら辛いものやら知らないはずなのに、何に対して?どうして「嫌だ!水着は持って行かない!」と言うのでしょうか。


「水着は、持って行かない!」と言っている子に「どうして?」と聞くと、その子は私に、「コンコン」と咳をしてみせるのです。(私は、風邪をひいているの。だから、プールに入ってはいけないの。)と言いたかったのでしょう。連れて来られたお父さんに聞くと、「体調は すこぶる元気です!」と言われていました。「だって、雨が降りそうなんだもん。」と青く晴れた空を指差して言う子…。いかに、プールに入らなくて済むかを色々と思案しているのです。「どうして、入りたくないの?」と聞くと、しばらく考えて…「どうしても!」と答えました。理由が見つからなかったのでしょう。だって、幼稚園のプールあそびはまだした事がないのだから。嫌な原因は自分にもわからないのです。


ある朝、水着を持って行きたがらないでいる年少組の男の子に、「どんな水着なのか見せてね。後でお部屋に行くから、着て見せてね。」と約束をしました。そして、プールあそびの時間にその子に会いに行き、「どれどれ、どんな水着?見せて。」と言うと、朝の約束を覚えていてくれたようで、プール袋の中から取り出して水着を広げて見せてくれました。「わあ!かっこいい!きれいな色だね。着て見せてよぉ。」と言うと、少しその気になってくれて着替え始めたのです。水着を着たその子は、少し得意顔でした。「やっぱりかっこいいよ!よく似合う!」と褒めた途端、いきなり脱ぎ始めました。(見せてあげたからもういいでしょ。)というわけです。私は慌てて、「待って待って!せっかく着たんだから、少しプールに入っておいでよ。今日は暑くて汗がいっぱい出たから、冷たいお水が気持ちいいと思うよ。楽しいよ。」と話してやりました。それから、間髪入れずに担任の先生が、外へ誘い出しました。そこからは、先生の“魔法の言葉”に誘われて、プールに入って行きました。プールから出てきたその子は、とてもニコニコ顔でした。それからは、毎日水着を持って来て、プールの時間を楽しみにするようになったといいます。


“食わず嫌い”という言葉があります。それが何でどういうものなのかを分からないまま、拒んだり避けたりすることです。文字通り食事に関してもよくあります。食べてもいないうちから「これ、嫌い!」と言います。それは、ただ単に、口に入れる勇気がなかったり不安だったりするだけなのです。食べた事がないからちょっと不安なのです。誰だって初めての事や物に対しては、多かれ少なかれ警戒します。その警戒心以上に、興味や関心、好奇心が深い時に食べてみようやってみよう!と行動に移せるのです。


赤ちゃんは、好奇心を持って行動します。目が離せなくなる頃です。目の前にある物がたとえ危険な物でも、どんな物なのかを試そうとして、自分の口に持っていったり手で触ったりします。怖い経験や危ない思いをまだ味わった事がないから、興味だけで行動します。それが、少しずついろんな経験をしていくうちに物事の分別がつくようになり、臆病になったり警戒心をもつようになったりするのです。成長の印なのかもしれません。しかし、その向こうにある本当の楽しさやおいしさを知らないまま大きくなるのは、ある意味不幸です。何かきっかけをつくって、それに正面から向かわせてやらないと、ただの“食わず嫌い”が本当に自ら“苦手意識”の壁をつくってしまう事になり、その先はあえて挑戦しなかったり、受け付けなかったりして、自分のものにしようとしなくなるのです。


“為せば成る、為さねば成らぬ何事も”という言葉がありますが、やってみなくっちゃわからない!子供達自身に挑戦する気持ちを持たせる事もですが、そういう気持ちを奮い起こさせるきっかけをつくってやってほしいと思います。もともと子供達は好奇心のかたまりなのですから…。やってみたら楽しかった、食べてみたらおいしかった、という気持ちを味わえた子供は幸せです。幼児期の間は、新しい経験を自分の力にするために、“食わず嫌い”の壁を乗り越えさせるきっかけはおおいに必要だと思うのです。乗り越えるコツがわかったり、その先にある“おもしろさ”を味わえたら、そのうちに“食わず嫌い”の壁はつくらなくなるような気がします。

朝の儀式(平成20年度6月)

ぽかぽか暖かい日差しが、少しずつ強く感じられるようになってきました。5月の下旬には、紺色の制服ブレザーも、降園時には脱いで帰るほどでした。そして6月…、子供達はさわやかな水色やピンクの夏の制服に衣替えをして夏を待ちます。その前にやってくる梅雨にも季節の移り変わりを感じさせながら、この6月を過ごしたいと思います。


5月のゴールデンウィーク…、今年は長い休暇をとる事ができた方もたくさんおられるのではないでしょうか?我が家は毎年、この連休に田植えをするので、ゴールデンウィークといっても、ゆっくりレジャーに出かける事はありません。これが当たり前になっている(あきらめている?)ので、子供達も不満を言いません。それどころか、昼食や夕食の手伝いや、田植えの手伝いまでしてもらっています。本当はどう思っているのやら…。皆さんはどんなゴールデンウィークを過ごされたのでしょうか?


その連休明け、幼稚園の子供達も、入園・進級して、それまでは、勢いも手伝って毎日喜んで幼稚園に通っていたのに、急に涙が出たり、「行きたくなーい!」って言うようになったりと様子が変わる事があります。これは、よく考えるとそうなっても不思議ではない事なのかもしれません。新しい環境を自分なりに受け止めようと、小さな体で一生懸命だった4月、連休の間にフッと気が抜けて、お父さんやお母さんとずっと一緒に過ごす時間をあらためて心地よく感じ、連休が終わってしまってまた元の生活に戻ろうとした時に、すごいエネルギーを必要とするのです。しんどくなる気持ちもよくわかります。そんな時、ここをどう乗りきるか…です。「行きたくない」と泣かれれば、親子で泣きたくなるものです。


私は毎朝、中門の所で登園して来る子供達を迎えています。ここにいるといろんな様子がうかがえます。今の時期はほとんどの子供達は、新しい生活を受け入れ、元気に登園する事ができています。しかし、まだゆっくりじっくりと幼稚園の様子を手探り中の子は、どこかによりどころを求めていなくては、幼稚園に行く一歩を踏み出せないでいます。そんな子供とお母さんは、いろんな方法で朝の別れ(?)を惜しみます。勿論、私も他の先生達も言葉をかけたり手を差し伸べたりしますが、見ていると、その子とお母さんやお父さんとの間で交わされる決まったやり取りで、「いざ!」と奮起して幼稚園に入っていく子がたくさんいる事を感じます。


幼稚園の中門までは、お母さんと一緒に元気よく歩いてきたのに、急にブレーキがかかり「お母さんがいい!」と泣いてお母さんの後ろにかくれる男の子、「今晩のご飯は何にしようか?」と夕食のメニューを相談して「じゃあ、お買い物をして仕度しておくね。」とお母さんがニッコリしてくれた途端に半ベソではあるけれど、自分で歩いて保育室に向かって行きます。お母さんとの別れ際に毎日「(時計の)長い針が10になったらきてね。」と必ず言って「うん、わかったよ。」というお母さんの言葉を聞いて安心したようにいく子、「今日は、(早くても遅くても)早いお迎えしてねー!!」と一言必ず言ってから中門を入る子、幼稚園が見えてくると急に泣き出し、自転車から降ろされ「チャッチャッ!と迎えに来てね。」と涙声になりながら先生に抱っこされて行く子…様々です。


昨年度から幼稚園に来ている男の子、昨年度はおにいちゃんと一緒に来ていたのに、お兄ちゃんが卒園してしまって、4月からは1人で幼稚園に来ています。お母さんが抱っこして幼稚園の中まで送るその距離を少しずつ少しずつ短くされて来ました。最近は自分からトコトコと歩いて自分の先生の所まで行く事ができるようになりました。中門から先生のいる保育室までのその道中(?)は、何度も何度も振り返り、その度にお母さんとバイバイを交わします。結構な時間ですが、お母さんは、テラスで両手を広げて待っていてくれる先生のところにその子がたどり着くまで終始笑顔です。


こうして行われる様々な『朝の儀式』──これは、子供達にとって大きなエネルギーになっているのです。不安な気持ちをお家の人の言葉やちょっとした働きかけで子供達は安心感を得て、一歩踏み出す事ができるのです。幼稚園の生活になかなか慣れなくて、情けなく焦ってしまうあまり「いつも同じ事ばかり言わないで!サッサと行きなさい!」などと突き放さないであげてくださいね。『朝の儀式』は、お家の人と自分だけの間にしかない『おやくそく』なのです。そんな儀式を必要としない子供達もいますが、それでも、子供達は、何かを始める前には、お父さんやお母さんからもらうエネルギーで自分を奮起させている事があるのです。お母さんの「行ってらっしゃい。」の笑顔もお父さんの「いっぱい遊んで来いよ。」の声も毎日やる気を起こす『朝の儀式』になっているのです。お家の人の朝の決まり文句にも一日のリズムをつくってくれる大きな役目がある事を感じます。


願わくは、『朝の儀式』の言葉が、必要以上に「早く食べなさい!早く着替えなさい!早く!早く!」…でない事を祈ります。どうぞ、お家の人の愛情がいっぱい感じられる儀式をしてやってください。

こいのぼり(平成20年度5月)

何もかもが新しく芽吹く春、新年度が始まりました。子供達も先生達も新しい環境の中で必死に過ごしていたせいか、4月はあっという間に過ぎてしまいました。そして、いつの間にか新緑に包まれる5月です。あちらこちらの自然の中から生命の勢いを感じる事のできる季節です。今年度も昨年度に引き続いて『葉子せんせいの部屋』を書かせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。


さて、幼稚園の送迎バスに乗っていると、鯉のぼりが元気よく泳いでいるのを見かけます。そうは言ってもひと昔前の事を思うと、この光景もめっきり少なくなったようです。私は、鯉のぼりが青い初夏の空で風を受けて雄々と泳ぐ姿を見て、それを毎日揚げておられるご家族の心情を思います。我が家は娘ばかりなので、鯉のぼりは揚げませんが、3月には雛人形を飾ります。長女が生まれた時に実家から祝いに贈ってもらった物です。しかし、飾るのは結構大変で、子供達と一緒に飾るのですが、飾り終えた時には正直、“やれやれ”と思ってしまいます。飾り終えて一か月、初めの内は意識していても、いつの間にか、飾ってある事すら忘れてしまうほど無関心になってしまっています。


雛人形を飾ってしばらく経ったある日、義父がその部屋に入り、
「あぁ、お雛さんが飾ってあるねぇ。」と言って、その前におもむろにひざまずいて目を閉じ、手を合わせて祈り始めました。わりと長い時間だったので、子供達はびっくりしていました。祈り終えて目を開けた祖父に娘が、「おじいちゃん、何てお祈りしてたん?」と聞くと、「里奈子ちゃんと夕奈ちゃんが、元気で笑って大きくなりますように…と祈ったんよ。おじいさんは、それだけ…。それが一番…。」と二人の頭をなでながら目を細めて答えてくれていました。子供達は、とても幸せで満たされた顔をしていました。その時に、“やれやれ”と思いながら飾っていた自分が少し恥ずかしくなりました。子供の成長を祈る親の気持ちには、嘘も飾りもないはずですが、その気持ちを鯉のぼりや雛人形に込めた昔の人達の、それだけをひたすら願って飾る本来の意味をつい忘れてしまっている事に気づかされたのです。


鯉のぼりだって、揚げたり降ろしたりは大変です。家の外にある物ですから、天気を考えて上げ下げしなくてはならないので、油断できません。それでも、毎日揚げてもらっている鯉のぼりは、ご家族の子供を思う強い気持ちを受けて泳いでいるのです。幼稚園でも、3月には雛人形、5月には鯉のぼりをどの学年も、その由来を話したり歌を歌ったりしながら制作します。2階のテラスには年長組の子供達が作ったジャンボ鯉のぼりが飾られています。鯉のぼりを見て…雛人形を飾って、皆が心から祈る“子供の幸せ”を子供達自身が感じとってくれたらと思います。


親は、毎日の育児や仕事に追われて、一日一日が一生懸命!将来の子供の人生設計等に苦悩しながら…の中で、子供の将来を祈ります。その点、おじいちゃんやおばあちゃんの愛情には余裕があって、親とはまた違った、素朴でストレートなもののような気がします。そんな、おじいちゃんおばあちゃんの孫に向ける愛情のかたちに、私は教えられる事がたくさんあります。昔の人は、ただただ、“この子が健康に育ちますように…”と祈るためだけだったのです。“我が家には男の子がいます。天の神様、どうぞ、この子をお守りください。”と空高く揚げていたのです。


雛人形は流し雛から始まりました。草や藁で作った人形に子供の病気や厄を移し、その人形を流す事で、“神様、どうぞこの子からけがれを除き、健康にしてやってください。”…そういうひたむきな願いこそが、古来、言い継がれてきた日本の伝統文化の本来の意味である事を忘れないでいたいものです。子供達にとっても、自分の存在の尊さを静かに祈りながら見つめてくれている人がいる事を感じて、あらためて幸せに浸る事もできるでしょう。折に触れ、こういう事がなくてはならないと思うのです。鯉のぼりを揚げれば…雛人形を飾ればそれでいいかと言えば、そうではないのです。そうしてもらえる事で、子供達自身があらためて幸せを感じたり、自分の命を大切に考えたりするきっかけにもなるような気がします。その家々に合ったかたちで、それぞれのやり方でいいと思います。大きい小さい、立派質素は関係ありません。もっと言えば、なくてもかまわないのです。“鯉のぼり”の季節を歌や語ってやる事で感じ合ってもいいでしょう。空より広く海より深い愛情は、形にならないものでもあるのですから。


親の私達が、そのまた親から注がれてきた愛情をそのまま私達の子供に注いであげましょう。この5月の空からは、たくさんの鯉のぼりが見えるでしょう。そのたくさんの願いを空の神様が見落とされるはずがありません。どの子もどの子も幸せな成長を見守ってくださるでしょう。そして、愛情いっぱいかけてもらって育っていくこの子供達が、次の平和な世の中をつくってくれる事を祈らずにはいられません。 「やねよ~りたかいこいの~ぼ~り~♪」今日も幼稚園では、かわいい声が響き渡っています。

魔法の言葉(平成19年度3月)平成20年3月

1年って本当にアッという間のような気がします。年をとったせいでしょうか?毎日の忙しさのせいでしょうか。だけど、不思議な事に子供達の進級や卒園を目の前にするこの3月は急に時がゆっくり流れていくように感じます。

特に朝、子供達が登園して体操服に着替え、園庭で先生や友達と走り回って遊ぶ姿や、友達と何やら内緒話をしていたり、少し陽が差して暖かいお昼には給食を食べて小川にかかる橋に座り話し込む…そんな様子を少し遠目から心の中の言葉を想像しながらながめている時間は、とても緩やかな時の流れで心地よく感じるられるのです。この1年間は、子供達と先生達にとってどんな時間だったのでしょうか。手を握り、言葉を交わしながら心を結んできました。この繋がりは、担任のない私にとっては妬けるほど深いものです。どうか、この繋がりをいつまでも大切にしてほしいと思います。先生からかけてもらった言葉や手の温もりを忘れないでいてほしいと思います。


子供達は、大好きな人の言葉はスーッと心に入ってくるようです。
1月に来年度入園児の用品・制服注文の日を設け、たくさんの親子が幼稚園にやって来てくれました。まだまだ、集団生活を知らない幼すぎる子供達です。サイズを合わせようとママが一生懸命に制服のブレザーを持ってお子さんに近づくと、「いやだー!」と逃げ回ります。いやなものはいや!なのです。今まではみんな、いやだったらそれで済まされる生活を送っていたのですから…それは、極々当たり前の事。おまけに、おもちゃの入っているクローゼットを「開けて!開けて!僕は遊びたいんだよ!!」と、そのドアを叩きながら泣いてママを困らせていました。

一向にサイズ合わせははかどりません。そこへ、園長先生が近づきその子の目線に合わせ、膝まづき、「アラッ!ちょっとちょっと、僕、ここを持ってごらん。開かないねぇ。今日は、おもちゃはお休みかな?カギが開いてないね。あーぁごめんごめん、今度カギを持ってきておくね。ねっ、葉子先生、今度は開けておいてあげてね。」とすかさず私に振ってきました。私も「あーぁ、ごめんなさい。園長先生、今度おもちゃがお休みじゃあない日には、カギを持って来ておきますね。」と演技をします。
その子は、呆気にとられたのが半分、納得したのが半分のような顔で、諦めてママの「制服を着てみようか。」の言葉にやっと耳を傾けてくれました。


これもよく目にする光景ですが、スーパーのお菓子のコーナーで、「これ買って!これ買って!」とママにせがみ、ママがヒステリックに叱り諦めさせようとしていたり、子供の言葉を聞かぬふりして買い物をし続け、言っている事を聞いてもらえないその子が、歩き続けるママを大泣きしながら後を追っている…。私は、思わず抱っこしてやりたくなります。少しゆっくり話してあげれば落ち着くだろうに…おんぶしてやれば、素直にこちらの言う事に耳を傾けてくれるだろうに…と思うのです。

少し前に同じようにママにキャラクターの箱に入ったクッキーをせがむ男の子がいました。そのママは、その箱を手に取りじっくり見ています。男の子はもう買ってもらえる気になっているようでした。その後、ママはしゃがんで男の子に話し始めました。「かっこいいねーこれ。でも、ここに書いてあるよ“お菓子は少ししか入っていません。たくさん食べたい人はやめた方がいいです。”って。」その次に「ママが、このクッキーならもっとおいしいのをいーっぱい作ってあげるよ。そうしようよ。いっぱい食べたいもんねー。」と続けました。男の子は、ママの言葉に乗せられて「そうしよう!そうしよう!いっぱい!いっぱい!」と飛び跳ねながらママと一緒に行ってしまいました。


それはそれは、アッパレ!!でした。ただただ、ダメダメと否定するのではなくて、少し子供の気持ちを汲み取りながらゆっくりと話してやるのです。制服のサイズ合わせの時の園長先生の言葉も、スーパーでのママの言葉も、正に“魔法の言葉”です。“ウソも方便”だって“魔法の言葉”になるのです。子供達は自分でも、きっとこれ以上わがまま言うとママに叱られちゃうな…っていう事はわかっているのです。でも、ママにはねのけられるともう後に引けなくなるのでしょう。最後には、ママとの意地の張り合いです。傷つけ合いに発展しかねません。子供の気持ちに寄り添う気持ちで、話を聞いてやって欲しいと思います。

でも、いけない事はいけないとはっきり伝えてやってください。自分に寄り添ってくれているのを感じていれば、それもスーッと心に響くと思います。そんなの理想よ。なんて思わないで、もしこんな場面がやって来たら、子供の話を聞いてやりながら、汲み取ってやれる事には共感した上でさとしてみてください。魔法をかけるつもりで…。ママの言葉は愛情いっぱいで子供達にとって一番耳に入るはずですから。


頭ごなしのダメ!や注意には、子供達は自分から耳をふさぎ、シャットアウトしてしまいますよ。幼稚園の先生は“魔法の言葉”をかけるのがとても上手です。魔術話術でこの一年間何度魔法をかけた事か…。アッ!!毒リンゴは食べさせてないですよ。ご安心を。