葉子先生の部屋

園庭に託す願い(平成21年度7月)

夏も近くなり、子供達は毎日プールで水しぶきを浴びながら、目を輝かせて遊んでいます。砂場に水を持ち込んで身体中を汚して遊ぶ子供達の顔は生き生きとしています。
先日、小川で数人の年中組の子供達が遊んでいました。手には柄の長い砂場用のスコップを持っていました。大きな鯉の近くで泳いでいる小さなメダカを鯉から守ろうと一生懸命に鯉の行く手を遮っていました。小川の向こう岸へ跳んで渡り、またこちらへ跳んで戻ってくる…これを何度も繰り返しながら、メダカを守っていました。


その様子をしゃがんで見ていた年少組の男の子が、スクッと立ち上がり自分もジャンプして渡れるんじゃないかと向こう岸を見つめていました。その子には、ぴょんぴょんと小川を飛び越えるお兄さん達の姿がかっこよく思えたのでしょう。幼稚園の小川は幅が狭い所もあれば広い所もあります。子供達はまず確実に跳んで渡れる所から試し、次はもう少し広い所、またその次はさらに広い所…と、どんどん自分の力を試そうとチャレンジします。子供というのは、簡単にできる事には初めは興味を示しますが、そのうち飽きてしまいます。難しすぎる事には初めから挑戦意欲は湧きません。自分の力よりほんの少し難しい事に無心になって挑戦しようとします。


三次中央幼稚園には、素敵な園庭があります。私は、転勤で三次に来られたご家族に、園内を案内する事がよくあります。案内をして、必ず園庭にある遊具や小川やわんぱく小山、なかよし動物園を紹介します。幼稚園に用意されている環境の一つ一つに、実は、幼稚園を創立した伊達正浩理事長の子供の育ちへの想いがいっぱい込められているのです。理事長が幼き頃を山河で夢中に走り回って遊び、その中からいろいろな事を学んだ尊い経験を子供達にもさせてやりたいという想いが…。
小川には、魚が泳ぎ、岩についた苔を食べ、水面を歩くアメンボは魚の泳ぎに可愛く逆らう…そんな様子を見たり、自分も入って魚を追いかけたりしながら自然を感じます。また、向こう岸に渡りたくて、ジャンプに挑戦しようと頑張ります。自分の力の限界に挑むのです。アスレチックでも、手や足や体全体を必死に使って遊びます。岩でできている小山を登ったり下ったり飛び降りたり…こうして知らず知らずの間に子供達の身体は鍛えられていきます。また、そこに植えられた木々は、季節によって色を変える葉で生い茂り、夏には木陰を秋には落ち葉を子供達にプレゼントしてくれます。虫や鳥も集まり網を片手に遊びます。そこで自然の営みを感じる事ができるのです。田舎では、このような経験を当たり前のように子供達はしています。自然を通して春夏秋冬の移り変わりを知り、そこであそびを生み出すのです。こんな自然を楽しいと感じたり、素晴らしいと思えたりできる環境が幼稚園にあることは三次中央幼稚園の自慢でもあるのです。


核家族化している今の状況の中、一緒に住んでいる家族との悲しい永遠の別れがあったり、生命誕生の一部始終に触れる…そういった事が少なくなりました。大人は皆“命を大切にしよう”と子供達に伝えます。子供達が“命”について、本当に考える事ができるのは、それが失われたり生み出されたりする時の心の動きがあった時なのです。悲しみや喜びで胸が高鳴る時なのです。三次中央幼稚園の動物の中には、ここで生まれて育っているクジャクやカモやウサギがいます。そんな喜びもあれば悲しい出来事もあります。去年の冬、寒い夕方にプレイルームの子供達に看取られて長年子供達と一緒に幼稚園で過ごしたヤギ(メエメエちゃん)が天国へ逝ってしまいました。次の日には、園児全員でお墓に運ばれるメエメエちゃんに手を合わせて送りました。そういうかわいそうなシーンも、あえて直視させる事で命について考え学びます。言葉で伝えきれない大切な教育を子供達は受けるのです。


園庭の環境にも動物たちにも理事長の込められた思いがそこにあるのです。それを理事長から聞かせてもらったのは、私がこの幼稚園に就職してしばらくしてからでした。その話を聞いてからずっと私は三次中央幼稚園の園庭を自慢に思っています。ただただ子供達のよりよい成長を願い、子供達の笑顔と歓喜の声を思い描いて造られた環境なのです。そこで夢中になって遊び、何かを感じこの環境の中でチャレンジするたくましい心や冒険心、観察力や思いやりの心を育てようとしているのです。三次中央幼稚園の庭は“物言わぬ教師”なのです。


私が案内をして入園を希望される方の中には、「子供が、このお庭が気に入ったというので…」とか「本当に楽しそうな園庭なので、どんな風にうちの子が遊ぶのだろう?と今から楽しみなんです。」という声がよく聞かれます。きっとこの園庭は、子供達の心をくすぐる素敵なものなのでしょう。
今日も幼稚園の園庭を走り回る子供達の笑い声が聞こえます。そして、園庭の木々や小川や動物達は、ここで成長し世界を広げていく子供達を何人も見守ってきたのです。この庭に託された想いや願いを知っていただきたいと思うのです。幼稚園で生活している全ての時間が子供達を成長させているという…そして、その一瞬一瞬が大切な時間である事もこの園庭はよく知っているのです。

働かざる者食うべからず(平成21年度6月)

日差しがいよいよ強くなってきました。幼稚園では、子供達が楽しみにしていたプールも始まります。新しい水着の話で子供達は盛り上がっているようです。


さて、今年のゴールデンウィークは行楽にはもって来い!の良い天気で、休み明けにはお土産話を聞かせてくれる子がたくさんいました。さて、我が家は…というと、毎年の事ですが、5月の連休は田植えになります。私が田んぼに入って田植えを手伝うようになったのは6年前からです。「農業を知らないおまえに田んぼに入ってもらうような事はないよ。」と主人に言われ22年前に嫁ぎました。大変さを知らない私は、興味本位で(おもしろそう!!)と思って見ていました。そのうち、これを幼稚園の子供達に経験させてやりたい!と思い、義父と主人に頼んで、田んぼの一部を植えさせてもらう事にしたのです。私が頼んだのですから、手伝わないわけにはいきません。それから、見様見真似で手伝うようになったのです。その頃義母が亡くなったのも手伝うきっかけになった理由の一つです。


娘達も小さい頃は、おもしろがって田んぼについて行っていました。田んぼに入って歩いたり植えてみたり、周りでスケッチしたり、一緒におやつを食べたりして楽しい時間を過ごしていました。だから、ゴールデンウィークにどこにも連れて行ってもらえなくても、それはそれで楽しかったのだと思います。しかし、さすがに中学生になると、「今日は田植えよ。」と言っても「やったー!」と言わなくなりました。それどころか、「勉強がある。」と言って手伝う気もない様子。「じゃあ、家の事をお母さんの代わりにしてくれる?」と頼むと、「だって、宿題が…。」と言います。そのうち、義理の姉夫婦が手伝いに来てくれました。外では、機械の準備や苗運びや植える段取りで大変なのに、それがわかっていても、子供達は一向に外に出て来ません。私は、思わず二人を呼んで話をしました。それは、勉強より大切な事がある!という事を話すためでした。 娘達は、少しムッとしていました。「だって…だって…」としきりに宿題の事を言うのです。「今日の田植えは勉強より大事!親戚までが手伝いに来てくれているのに、家の者がしないなんて…おかしいでしょ。大変な時にはみんなで協力して助け合うのが家族じゃない?」と話しました。


それから、しばらくして、娘達が短パンをはいて田んぼにやってきました。娘達がどんな相談をして手伝う気持ちになったのかはわかりませんが、何か思った事があったのでしょう。田んぼに入って何か所か植えてくれたり、苗箱を運んだり洗ったりしてくれました。そしてお昼にはご飯の準備までしてくれて…、さっきまでの顔とは随分違っていました。「ありがとうね。助かったよ。秋に食べるご飯は特別おいしいかもね。」と言うと、下の娘が、「お母さん!いつもの言葉…“働かざる者食うべからず”…でしょ。」と笑いました。私は“してもらう事が当たり前だと思わないで、そうしてもらえる事への感謝の気持ちを自分にできる事をしてあげる事で返していきなさい。”という想いで子供達に時々そう言います。実際には、子供達が手伝ってくれたからと言ってたいしてはかどるわけではないのですが、小さな力でも仕事を一緒にする事で、家族の一員として、「手伝おうか?」と言えたり、「代わりに何かしてあげられないかな?」と考えられる子になってほしいのです。考えて行動できる子になってほしかったのです。


その次の日、年長組の子供達が我が家に田植えに来ました。その日娘達は学校が休みの日で、年長組の子供達の泥んこになった足を一生懸命洗ってくれました。後で、「幼稚園の子ども達ってすごく可愛かった。」と言っていました。大きな事はできなくても、その中で自分にできる仕事を考えみつけられる人になってもらいたいと思います。娘達がいずれ社会に出た時、そして、家庭を持った時、そういう気持ちが娘達を“なくてはならない人”と認めてもらえる人間にしてくれるのではないかと思うのです。その子のその時期にあったお手伝いをさせて、共同生活の営みに携わる事で、自分も家族を支えている大切な一人なのだという事を実感させてあげてください。家族は、楽しい時も苦しい時もずっと一番強い絆で結ばれていなくてはならないのですから。


その日の夕方、いくつかの放送局で幼稚園の田植えのニュースが放送されました。何人もの知り合いから「ニュースに出てたね。」という電話がありました。上の娘も友達から、「お家で、そんな経験ができるなんてすごいね。」と学校で話題になったり、園児達の足を洗う様子がチラッと映ったニュースを見て「見たよ!」と言われたようで、ちょっと恥ずかしそうでした。そして、下の娘の宿題の『ゴールデンウィ-クの思い出』という作文に『どこにも行かなかったけれど、裸足になって家の田植えを手伝いました。田舎ならでは!の経験なので、とても楽しかったし、いい気持ちになりました。……』と書いていました。夕食を食べながらの子供達との会話──。「友達みんな、いろんな所へ旅行や遊びに行ったりした作文を書いてたよ。」「うちは、ゴールデンウィ-クの時でないと田植えができないんだから仕方ないよ。」「それはそうなんだけど…。わかってるけど…。でも…。」──
言いたい事はわかるよ。“それとこれは別!”って言いたいんでしょ。うん、わかる!!実はお母さんもちょっぴりおんなじ気持ち(笑)。

朝の光景(平成21年度5月)

3月の終わりから4月の初めまで、私達の心を癒してくれていた桜の花…、枝先につぼみがつき少しずつ膨らんでくるじれったい時間も、花咲きほころび薄ピンクの優しさに包まれる時間も、そして春風に舞う花びらの優雅さや、一気にその時を終わらせる潔さにも、桜は、その全てに美しさを感じさせてくれます。いつの間にか、そんな時期も終わり、初夏を感じる5月になりました。
今年度もまた、『葉子せんせいの部屋』を書かせていただきます。子供達を取り巻くいろいろなものや、子供達の心の動き等で私なりに感じる事を書いていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。


さて、幼稚園では、新しい生活が始まっています。先生達は、子供達にまず自分を“ぼくの、私の先生”として受け入れてもらうのに一生懸命です。子供達もまた、その生活の中で先生や友達と新しい関係をつくろうとしています。入園して3週間が経っていますが、これまで順調にいい朝を迎えられている子もいれば、まだお家の人との別れが辛くて涙が出てしまう子もいます。そんな子供達にとっては、『朝』が勝負です。気持ちよく朝が迎えられたら、その一日が調子よく過ごせます。子供も大人と同じです。


毎朝、私は登園して来る子供達を中門で迎えます。毎年ここでは、お家の人と子供達との小さなドラマをいろいろ見る事ができます。毎朝立っていると、その子がどんな風に今後幼稚園に慣れていくか…とか、何に不安を感じているか…とか、何に期待して幼稚園に来ているのか…が見えてきます。不安そうに保育室に向かって行く子供を見送るママやパパは、担任の先生の所にたどりつくまで、中門の外で心配そうに見つめておられます。きっと、「今日こそ泣かないで幼稚園に行ってほしい。」とか、「どうか、すんなりと先生の所に行ってくれますように…。」と祈るような気持ちでお家から幼稚園までなんとか連れて来てくださったに違いありません。実は先生達もそんな気持ちでおられるお家の人からお子さんをうけとる気持ちは、ある意味“勝負!”です。お母さんの手から先生の手に繋ぎかえる瞬間、お母さんにも子供にも…そして先生にも緊張が走ります。すんなりと手を繋ぎかえてくれたら、その子の気持ちが先生に向いてくれた!と嬉しくなるのです。この瞬間には、先生の観察力と包容力が必要です。どの子にも同じ対応でいいわけではありません。泣かないで幼稚園に来るだけで精一杯の子供に、先生達が「おはよう!!」と遠くから思いっきり元気な声で迎えたら、その子は、気後れしてしまい緊張の糸を解くどころか、もつれさせてしまうかもしれません。人知れず静かに門をくぐりたい子だっているのです。そっとしておいてほしい子だっているのです。園庭に入るきっかけを見つけられないでいる子には、先生たちが優しく言葉をかけて、そのきっかけをつくってあげないといけません。次の新しいステップのために、泣いてかわいそうでもお母さんから離してあげないといけない子もいるでしょう。その子の心にどんな壁ができているのかを早くつかみ、その壁を取り除いてあげたり、乗り越えるための後押しをしたりします。一人ひとりの事を理解している事が必要です。これまで、家族の愛情をいっぱいかけてきたお子さんを言わば“他人”に預ける瞬間は、親としても不安で仕方ない事でしょう。その気持ちを理解した上で、私達幼稚園では、“信頼関係”を架け橋にして、子供達がママやパパの手から、先生の手に繋ぎかえる“橋”を渡ってほしいと願って子供達と向き合っていきます。


ゴールデンウィーク真っ只中、4月のうちに少し慣れていたはずなのに、この連休で一気に緊張がほぐれ、それと同時に幼稚園に向いていた気持ちが離れてしまう…こんな事もあるかもしれません。しかし、これは、“後退”ではないのです。石橋をたたいて確かめながら渡っている最中だと思ってあげてください。(この架け橋を渡ったら、楽しい事が待っているのかな?嬉しい事があるのかな?あるかもしれないな。渡ってみようかな、どうしよう…)と迷っていたり、葛藤していたりするだけなのです。だから、(大丈夫だよ、渡って行ってごらん。この橋は丈夫な橋だから。)と言うつもりで、パパやママと幼稚園の“信頼関係”という架け橋をガッチリ丈夫なものにしてあげないといけないのです。私達もお家の方々の協力を得ながら一人ひとりの子供達の事をしっかり理解し受け止めて、楽しい経験を一緒にしていきたいと思っています。


さてさて、明日から少し長い幼稚園での時間を子供達と先生達はどんな顔で過ごすのでしょうか。中門で見られる朝のドラマがどのような連続物になっていくのだろうかと…。私は、それをみるのがこれからとても楽しみです。ちなみに、昨年度の6月の『葉子せんせいの部屋』に登場した(ホームページをご覧ください。)女の子も男の子も、今では、それぞれに新しい環境をすんなり受け止め、実にいい顔をして中門を通って行きます。一年前の事が懐かしいです。子供達はこうして幼稚園でのいろいろな環境や経験を栄養にし、少しずつ自立しながら世界を広げていくのですね。一年前の『朝の光景』から始まったこの子達のドラマもまだまだ続きます。

夢(平成20年度3月)平成21年3月

今年の春一番は、みぞれ雪を運んで来ました。春を待ちこがれていた土の中の生き物達は、どうしたものかと悩んでいるのではないかと思います。そんな中でも、幼稚園の花壇には10月に子供達と一緒に植えたチューリップが春の様子をうかがうように、小さな芽を出しています。「もうそろそろだよ。」と声をかけてあげたくなります。そして、その春はいろいろな別れと出会いの季節です。年長組を送る卒園式の日も近づいています。“別れ”と言っても、その先に希望や夢が見えている“別れ”です。子供達が笑顔で新しいスタートがきれるように、“いい別れ”をしたいと思っています。


先日、子供達に「大きくなったら何になりたい?」と将来の夢を聞いてみました。アニメやドラマのヒーローが圧倒的に多い中、ピアノや学校や幼稚園の先生、コックさん、美容師さん、お医者さん…と少し現実味のある答えも返ってきました。どの子も積極的に答えてくれました。かつて私にもこんなに無邪気に夢を語った頃があったなぁと思い出しました。


先日、“キャリア教育”の一環として、ある小学校の児童に幼稚園教諭の仕事について話を聞かせて欲しいという依頼があり出向いていきました。“キャリア教育”というのは、子供達の勤労観や職業観を育てる教育です。それは、将来的には社会人として…いずれ働く者としての自立を目的にされているようです。校長室にはいろいろな職業の方が打ち合わせに来られていました。その時に校長先生が、「最近は、将来就きたい職業が見つけられないでいる子がたくさんいる。夢ですら語れない子供達がいる。そういう子供達に漠然としたものであってもいいから、自分の将来を描ける子供になって欲しい。」という話をされました。

私は、少し驚きました。幼稚園の子供達はそんなに悩まず将来の夢を話してくれます。たとえそれが、とても幼い夢であっても自信満々に話します。それが、大きくなるにつれて悩んでくるのです。よく考えたら、それも成長段階の一つなのかもしれません。

幼児期の子供達の知っている社会はまだまだ狭いし、多方面に目を向けたり経験したりするにも限界があります。自分の住んでいる楽しい世界の中だけで夢を描くのです。しかし、成長するにつれて世の中を幅広く見ることができるようになって、“○○レンジャーになれるはずがない”と知る日が来ます。そして、さらに自分をみつめる事もできるようになると、自分がこの世界でどう生きられるかと考えて悩んでしまうのでしょう。悩むのは当たり前なのかもしれません。その時に自分が幼稚園の頃に描いていた夢がベースにあれば、発想の転換によって“叶うはずがない夢”の続きでも描けるかもしれないのです。

○○レンジャーになりたいのは、正義の味方に憧れているから…とか強くなりたいから…、と自分を見つめた時に気づけたら、警察官や消防士に夢を持ち目標を置くかもしれません。そう考えると、夢のまた夢のような、“夢”を見たり語ったりする事はとても必要な気がします。「そんなものなれるわけないでしょ!」ではなくて、「そうかぁ、正義の味方はかっこいいよね。」と聞いてあげてください。ピアノが弾けない子が「ピアノの先生になりたい」と言えば、「教えてあげられる程いろんな曲が弾けたら楽しいもんね。」と希望を持たせてあげてください。具体的に考えるのはまだまだ先でいいのです。そのうちに、世界を広げて自分の目で見て考えるようになるのですから、今は、夢を見る事や描く事が楽しいしウキウキしてくるという事を実感させてやってほしいと思います。


そしてさらに、お父さんやお母さんの仕事は何か、どこでどんな事をしているのかも話してあげてください。一番身近にいるお父さんやお母さんの事には特に興味を持って聞くでしょう。朝、お父さんは決まったように仕事に行っているけれど、その生活はその子が生まれた時からそうなのだから、当たり前過ぎて逆に関心をもっていないかもしれません。「お父さんの仕事は何?」と聞かれて、「会社」と答える時に、お父さんがそこで働く姿がイメージ出来たり、かっこいいお父さんを想ったりできる事って大切だと思うのです。また、お母さんの働く姿は、家で一生懸命に自分達のために動き回ってくれている姿とまた違って素敵に見えたりすると思うのです。ある男の子が「僕のお父さんは、道路を作ってるんだよ。ずーっとつながっている道路を作ってるんだよ。」と教えてくれました。その子は、汗いっぱいかいて働くお父さんの姿といつも歩く道を見るたびに、お父さんの力を尊敬したり憧れたりするのかもしれません。その憧れが夢に結びつくかもしれないし、夢を描くひとつの選択肢となるかもしれません。


年長の子供達はもうすぐこの幼稚園から巣立っていきます。憧れのランドセル…これを背負って学校へ毎日通う事だって、この子達にとっては夢だったのです。そして、これまでに一緒にしてきた経験が子供達の夢へとつながったり、夢を描くきっかけとなってくれれば、こんなに嬉しい事はありません。夢を語る今の輝く心がどうか、なえる事なくこの子達の数十年先の姿や生き様を素敵にしてくれますようにと祈らずにはいられません。

異年齢の学びあい(平成20年度2月)平成21年1月

1月は行く2月は逃げる3月は去る…本当にこの3学期は毎年駆け足で過ぎて行きます。だからこそ、子供達と一緒にいられるこの時間を大切に過ごしたいといつも思うのです。


これまで、春夏秋と幼稚園で過ごし、いよいよ最後の季節を過ごしているわけですが、四季折々に表情が変わる園庭も、子供達の成長を見つめてきた環境の一つです。若い芽を吹く春の木々、青々と葉が生い茂る夏の木々、風の波に上手に乗って葉が舞い降りる秋…。


ちょうどこの頃、私は土曜日にプレイルーム(預かり保育)の子供達と一日中過ごした日がありました。いつものように園庭中に敷き詰められた落ち葉で、その日もいろいろなあそびが繰り広げられました。遊んで散らかった落ち葉を少し掃き集めておこうと、ほうきを用意していたら、女の子数人が、「先生!何するの?」と寄ってきました。「落ち葉を掃除しようと思っているんだよ。」と答えると、「私もする!」と言ってくれたのです。その日の落ち葉は尋常でなく大量でした。早速、子供達にほうきを用意して掃除に取り掛かる事にしました。手伝ってくれるのは、年長児も年中児も年少児もいました。少しすると、他の子供達も「僕も!」「私も!」と、どんどん助っ人として集まってくれました。


プレイルームには、満3歳児から年長児までの子供達がいます。もちろん力の差も知恵の差も動きの差もあります。そんな子供達がどうやってみんなで掃除をしてくれるのかを観察しながら私も一緒に掃除をしていました。人気は、竹ぼうきでした。とりあえずみんなが竹ぼうきを手に、掃き掃除に取り掛かります。しかし、自分の身長より数段長いほうきは、年少児では持て余します。しばらくして、自分には向いていない事がわかり困っていると、年長児の女の子が「じゃあ、○○ちゃんはちりとりを持って落ち葉を集めて!」と指示を出します。竹ぼうきもちりとりも足りなくなったら、落ち葉を入れるビニール袋を持って集める子供もいました。落ち葉で一杯になった重たい袋を運ぶのに一役かったのは、男の子でした。これには、力の差に関係なく、自分は男だから!と思った子が、頑張ってくれました。かなり重く、必死で引きずっている男の子が可愛かったです。よくみると、いつの間にか役割分担ができていました。


ご存知のように、プレイルームには異年齢の子供達が、夕方、保護者が迎えに来られるまでの時間を過ごしています。ここは、子供達がいろいろな面で学習できる場所でもあるような気がします。異年齢の子供達の生活は、学年別のクラスでは味わえない事がたくさんあるのです。これまでいろいろな事を体験してきた時間に違いがあるのですから、そこに生じる力の差や知恵の差、動きの差を子供達は感じながら生活しています。“自分にはできても、小さいからこの子にはまだ無理なんだ。”とか“○○君はすごいね。さすが!”と、いたわったり尊敬したりしながらお互いを認め合おうとします。もちろん、認め合うためには、喧嘩やもめ事も数々あるはずですが、兄弟姉妹のように一緒にいろんな事を感じ合いながら過ごせているのだと思います。


おやつや昼食の時間にも、兄弟姉妹のように過ごし、自分がこの中でどういう立場でどう行動しないといけないかがわかっているのがうかがえる場面がたくさんあります。何人かずつが一つのテーブルで食べるのですが、それも異年齢になります。小さい子が牛乳やお茶をこぼしたら、先生を頼らず、年長児や年中児が率先して雑巾を取りに行きテーブルを拭きます。手が届かないコップをその子の前に寄せてあげます。それがとても自然にできるのです。もちろん、全てをやってあげているわけではありません。プレイルームでの生活は、基本は“自分の事は自分で”なのです。

それは、今家庭でも失われがちな厳しさではないでしょうか。我が子可愛さに、子供が困る前に先回りをして困らないように、お膳立てをしてしまいます。プレイルームでは、“自分の事は自分で…。”“小さい子を気にかけてあげる…。”“助け合う…。”“役割に自分なりに責任を持つ”等、いろんな事を異年齢の中で学習します。困った事が生じたとしても、お兄さんやお姉さんの良いお手本があるので、見様見真似で、自分でクリアしてみようと頑張ります。自分の本当の妹や弟ではなくても、小さい子を可愛く思う気持ちが育っていくような気がします。家では末っ子で受け身でいる事が多い子にとっては、この場所では、お兄ちゃんでいられるし、お姉ちゃんでもいられるのです。

それは、まるで大家族のように、子供達同士で助け合おうとするのです。喧嘩になってもいつも仲良く一緒に過ごしている仲間には、手加減ができます。その喧嘩の中で、相手を思いやる気持ちやどうしたら友達とうまく関わって生活していけるか等を会得します。こうして、子供達はお父さんやお母さんの迎えまでの時間、家庭では味わえない学習をしていると私は思います。そこにいる子供達は、実にたくましく見えます。家庭とプレイルームのどちらが子供達にとって良いかという問題ではなく、その中でどう子供達を育てるかを意識して環境を整えていかなくてはいけないという事なのです。家庭での異年齢もそう考えると、子供達にとって大切な環境なのです。