葉子先生の部屋

50兆?分の1の奇跡を抱きしめる(平成22年度6月)

先日、三次中央幼稚園の姉妹園である子供の城保育園の運動会が行われ、私も園長先生と何人かの先生と一緒に応援に行きました。乳児から5歳児までの小さな子供達の笑顔がたくさん見られた微笑ましい運動会でした。保育園の運動会は子供達がまだ小さいという事と、親子が触れ合える時間作りの意味でもあるため、親子競技がたくさん組まれています。背中におぶってもらったり、抱っこしてもらったりして、身体も気持ちもいっぱいくっつき合って一日を過ごす子供達とその保護者の笑顔は本当に幸せそうで、観ている私達までもが温かい気持ちになりました。

その様子を見ながら、少し前に幼稚園のある保護者と子育ての話をした時の、「この子と私が会えたのは、何億分の1の…いえいえ、もっとすごい奇跡なんですよね。」というお母さんの言葉が思い出されました。専門的にはよくわかりませんが、体内で妊娠が成立する確率は生理学的数字で言えば3億分の1なのだとか…。毎日の子育てに一生懸命な時には、そんな事を思い出す事もないけれど、あらためてそう考えたら、この子を大切に育てていこうと思わせられる──という話をしたのです。また、ある記事には、この世で我が子に出会える事は、人が人として生まれ、ある人がある人と出会う、そして月日を重ね…そのそれぞれの確率を考えれば、50兆分の1の奇跡なのだともありました。

実は、私は結婚してなかなか子供に恵まれませんでした。その間色んな病院に通いました。病院だけではなく、妊娠しやすい身体に変えるために良い整体院があると聞けば県外にも行き、良い子宝寺があると聞けば手を合わせに出かけました。周りの人達の言葉に励まされたりプレッシャーを与えられたりしながらもコウノトリが私達のところにやってきてくれるのを一生懸命に待っていました。そして、結婚7年目にしてやっと娘を授かったのです。幸せで幸せでたまらなかったし、赤ちゃんができるって、こんなに周りのみんなが幸せな気持ちになれるんだなと我が子に感謝したのを思い出します。妊娠が分かった時、驚きと安堵からか、義母の腰が抜けて座り込んでしまった事、微弱陣痛でなかなか産まれて来てくれず、やっと産声をあげた時、タオルで包まれた娘を宝物のように抱いた瞬間の主人の第一声は「嫁にはやらん!」だった事、義理の姉が「みんなでこの子を大切に育てようね」と、自分の子のように愛おしそうに抱いて、私達も力になるよという心強い言葉をかけてくれて涙が出た事、そんな事を思い出しながら、保育園の運動会での親子の姿を観ていました。この子達一人ひとりが50兆分の1の奇跡の宝物なのだ。その奇跡に感謝して、これからこの親子は何年も色んな形の愛を育んで行くんだなぁ…。そう思うと胸が熱くなってきたのです。働きながら子育てをしている私も、娘が幼かった頃は、そんな奇跡なんて思い出す事もなく、毎日バタバタしてゆっくり話をしてやる事も聞いてやる事もできない…。知らない間に眠ってしまった娘を見て(可愛そうな事をしてしまった。ごめんね。)と頭をなでながら、謝ったことが何度あったことか。それでも、子供ながらに忙しい親の事を理解しようとして、我慢してくれていた事も沢山あったと思うのです。仕事をしているしていないにかかわらず、その奇跡の出会いを思いながら、毎日生活している人はそんなにいないのではないでしょうか?結婚して子供が生まれ家族が増え、賑やかな楽しい生活…これが、当たり前だと思っているけれど、よく考えたら、この当たり前に見える生活は実は50兆分の1の確率で自分にやってきた幸せなのだと気づくのです。

もし、この子が私のところにやって来ていなかったら…そう考えてみてください。今のこの生活はなかったし、生き方も全く違っていたでしょう。とても考えられないでしょう。子育てって、大変な事もたくさんあるけれど、それを思うと、この子には私達しかいない!!と頑張れるし、私達にしか味わえない50兆倍の幸せを噛みしめられるのです。保育園の子供達もお父さんやお母さんに沢山抱きしめられていました。抱きしめてもらえて、不幸な顔をしていた子は一人もいませんでした。

そんな保育園の運動会を観た翌日、いつものように、中門で幼稚園の子供達を受け入れました。その日は大変な雨でした。我が子が雨に濡れないように自分は濡れてでも傘をしっかり差しかけておられるお母さん。「いってらっしゃい。しっかり遊んできてね。」と優しく送り出しておられるお母さん。「行って来い!」と軽く言い放ったものの、心配で何度も振り返りながら幼稚園を後にされるお父さん……そんなお家の方々の姿を見ると、なんて幸せな子供達なのだろうと思いました。身体いっぱいで、心いっぱいで抱きしめられています。幼稚園の子供達も保育園の子供達も、これからもっと成長していきます。その間には、誉めたり叱ったり、抱きしめたり突き放したり…いろんなかかわり方をしていかれると思います。出会えた奇跡に感謝しながら、子供の事を思い真剣に向き合う事、その全てが“子供を心いっぱいで抱きしめる”という事だと思うのです。

 そして先日、50兆分の1以上の奇跡で私のところにやってきてくれた我が娘も16歳の誕生日を迎えました。夢中でここまで来て、『やっと16…』と思えたり、『あっという間に16…』と思えたり、色んな気持ちになります。娘に「おめでとう!」の言葉を贈ると、「これからもずっと家族みんなで仲良くしていこうね。よろしく。」と返してくれました。私は、“本当は、数字では表せないほどの奇跡で、あなたと出会えたのよ”と、心で語りかけました。

おおきくなるっていうことは(平成22年度5月)

今年もまた新しい春が訪れました。幼稚園にすっかり慣れ親しんでいる進級児と、何もかもが初めて…の新入園児達が入り混じってぽかぽか陽気の園庭でいろんな様子をみせながら遊んでいます。4月の間は半日保育だったので、楽しく遊んでいてもあっという間に降園時間になってしまっていました。来月からは、一日保育となり、いよいよ幼稚園生活が本格的に始まります。さてさて、子供達は幼稚園の魅力をどれだけたくさん感じてくれるでしょうか?

新年度になったら言うまでもなく、子供達は一つずつお兄ちゃんお姉ちゃんになります。この“一つ大きくなる”という事は子供達にとっては、実に魅力的で嬉しい事のようです。自分が成長したという実感がもてるのです。それは、周りの大人達がみんなして、「進級おめでとう!」とか、「お兄ちゃんになったんだね。」とか、「小さいお友達のお世話をよろしくね。」等と、持ち上げてやるからです。“一つ大きくなる”という事はこんなにステキな事なんだと子供達自身に気付かせてやることはとても必要です。

私は担任していた頃、毎年、年度末と年度初めに中川ひろたかさんの『おおきくなるっていうことは』という絵本を子供達に読んでいました。

子供達は大きくなるという事をただ単純に背が伸びた…とか身体が大きくなったとかということだけでなく、とても意味ある事なんだという事に気がついて自分への自信と、自分のする事や言う事に少しずつでも子供なりに責任をもつようになってほしいと思うのです。ご存知の方も多いと思いますが、その絵本はこんなふうに始まります。

『おおきくなるっていうことは、ようふくが ちいさくなるってこと。おおきくなるっていうことは、あたらしいはが はえてくるってこと。…………』それから、いろんな事にチャレンジができるようになる事や、我慢ができるようになる事、頭でいろんな事が自分で考えられるようになる等、心や知恵の成長にも触れています。大きくなる自分がこんなふうに変わっていくことに気づかせてくれる絵本です。今までの弱い自分にさようなら…甘えん坊の自分にさようなら…ができるきっかけをつくってくれます。そして、成長する自分像を描きながらそうなりたい!そうなろう!と思えるようになると素敵だなと思います。子供達はいつも大きくなりたいと思っているのです。

2年前の6月”葉子せんせいの部屋“で『朝の儀式』というタイトルで毎朝お母さんとの朝の別れが辛くて泣いている女の子の事を書きました。その時に登場した当時年少組だった女の子…。「今日は、早いお迎えしてねー!!」「チャッチャッと迎えに来てね!」と泣きながら自転車から降ろされ先生に抱きかかえられながら毎日登園していました。私は今年も例年のように中門で子供達を迎えながら、その女の子が、昨年、今年とメキメキお姉ちゃんになって来ているのを感じています。その子も今年は年長組…、最年長になった事が彼女にとっては、特別な事のようで、お母さんの話によると、「今年は幼稚園のリーダーだから、もう泣かないの。」と自分で言っているらしいのです。私はその話を聞いて、2年前の彼女とお母さんの『朝の儀式』を思い出し、胸が暑くなりました。なるほど、その子は今年度になって、毎日お母さんの自転車から降りて、保育室までまっしぐらに走って行きます。1~2回振り返って、お母さんに笑顔で手を振るくらいで、中門から入ったら気分一新!幼稚園のリーダーとして頑張ろうと張り切っているのです。

子供はとても素直ですから、自分の周りの環境の変化に敏感に反応します。これまでとは違う環境をすんなり受け入れられる子もいれば、なかなか馴染めなくて気持ちがすくんでしまう子もいます。しかし、どの子も何とかこの環境を受け入れたいと頑張っているのです。様子が変われば、少しくらいは抵抗してみたかったり、その時のママやパパや先生の反応を確認してみたかったりするのです。その繰り返しをしながら、色んな感情をコントロールしたり壁を乗り越えたりして、環境を受け入れられるようになって来ます。子供達自身でも、気がつかないうちに心も成長して行きます。「大きくなったね。」「お姉ちゃんになったね。」と誉めてもらえたら、(そうか!こんな感じが大きくなるっていう事なのか。)(大きくなるってすごいんだな。)と自覚します。今までの自分とは少し違ったカッコイイ自分になりたいな…と奮起させます。友達と一緒にいる時の彼女をみても大きくなった事に自信をもっている様子がうかがえます。子供達は一つ大きくなるだけで、前とはちがう自分に変身することができるのですね。これから長い人生の中で何度変身するのでしょう。見事な蝶になるまでに、さなぎになり、脱皮していく青虫…。蝶になるまでには必ずこの道を通る青虫のように、どれも子供達には必要な時間で、一つひとつの時間を頑張っているのだと思って見守ってやらなければいけないと思うのです。その女の子にも今までに色んな事があったでしょうが、こんなに立派なリーダーになりました。その事を一緒に喜んであげたいと思います。

そして、その絵本は、こう終わっています。

『……おおきくなるっていうことは ちいさなひとに やさしくなれるってこと。おおきくなるっていうことは そういうこと。またひとつ おおきくなった おめでとう みんな。』

入園・進級、心からおめでとう。これからの変身振りがとても楽しみです。

巣立つ背中に…(平成21年度3月)平成22年3月

お正月に掛けたカレンダーはまだ始まったばかりなのに、幼稚園の年間予定のカレンダーはあと一枚……。ふきのとうやつくしを見つけやっと春めいてきたかと嬉しくしていたら、子供達との別れの季節がやってくるのです。春は、“別れ”や“出会い”“出発”…と、とても忙しい季節です。


幼稚園でも、この頃になると、いろいろな想いで時間が優しく流れていきます。私も担任をしていた頃は、子供達が「さようなら」と帰ってしまった後の静まりかえった保育室を、一人で掃除しながら、この子達と過ごせるのも残りあと何日…あと何日と思い、色んな想いにふけ、毎日やけに寂しく思えたのを思い出します。そして、これまで心から笑って過ごせたのも、真剣に子供達を叱ったり、涙が出る程心配したり、跳び上がる程喜んだりできたのも、子供達がいてくれたからだったとしみじみ思うのです。子供達にとって先生は大切な人だったでしょうが、先生達にとっても子供達は大切な存在です。先生達を幸せにしてくれる存在であった事をこの時期にいつも感じます。


時々、私も子供の様子を見るために保育室に行きます。そのクラスの子供達と先生との深いつながりがみられます。新年度当初はまだ、関係が確立されていない分、お互い探り合いながらより良い付き合い方を編み出していきます。だから、どことなくぎこちなかったり遠慮気味だったりという様子がみられましたが、この頃は、あうんの呼吸で生活しているようにさえ思えるのです。こうして築いてきた幼稚園生活も年長組にとってはあとわずかとなりました。


三次中央幼稚園には、自慢があります。それは、卒園児が幼稚園や先生をよく訪ねて来てくれる事です。先日も、卒園児が家族揃って来てくれました。「幼稚園にいた頃の写真を今でも眺めながら懐かしんでいます。ここの幼稚園に来ていなかったら、得られなかった事を沢山得る事ができました。親子で楽しめたあの時間は私達家族にとっては宝物です。私達家族は幸せです。」その言葉を聞いて私も幸せでした。幼稚園は今年で40周年を迎え、卒園児も3467名となりました。この子達は卒園してからいろいろな人生を歩んでいるはずです。卒園して随分経った子供達でもひょっこり来てくれます。結婚の報告や生まれた子供を見せに来てくれたり、卒業・入学・就職の節目に来てくれたりします。だけど、そんな幸せな子供ばかりではありません。時には、「先生!助けて!」と言わんばかりに何かの救いを求めて来る子もいます。話を聞いてやったり、しばらく一緒に時間を過ごしたりしてやるだけで、少し元気を取り戻して帰って行きます。帰っていくその後ろ姿に“頑張れ!!”と静かにエールを送るのです。「先生!助けて!」と来た時には(よく、ここへ来てくれたね)という気持ちになります。私達の知らない所で、一人で悩んだり苦しんだりしている教え子がいると思うと胸が痛いのです。来てくれたら何かしてやれる事があるような気がするからです。嬉しい時も悲しい時も苦しい時にも、幼稚園を思い出してくれる事が嬉しいです。私達は、子供達の遠い将来まで気にしています。送り出してもいつも私達はその後の子供達の人生を気にしています。遠い将来につながる保育をしているからです。私達のしてきた仕事が確かなものであったかどうかの答えは子供一人ひとりの人生の中にあるからです。「卒園したら敷居が高くて…」とか、「きっと、先生は私の事なんて覚えていてくれないだろうから…」とか、「卒園してまで、幼稚園にお世話になったらいけないだろう…」なんて思わないでください。先生達は自分の手から離れてもなお“あなたの先生”でいたいと思っています。3467名もの子供達を送り出した間には、園庭や園舎や遊具の様変わりはありますが、その中に宿る幼稚園の子供達に対する想いは、ゆるぎないものでありたいと思っています。


卒園児の活躍や幸せは私達の喜びです。理事長室には、卒園児の活躍を報道した新聞の切り抜きが壁に貼ってあります。思い上がりかもしれませんが、その子のどこかに、幼稚園生活の何かがほんの少しでも力になっていると信じたいと思います。逆に、問題を抱えているのなら、何が足らなかったのだろうか、と一緒に振り返ってやりたいのです。そして、やり直すきっかけがまたこの幼稚園になればと思います。


来月の誕生会には、大学の音楽専門の学部に入学が決まった卒園児が、バンドのメンバーと一緒にドラム演奏に来てくれます。幼稚園の頃、音楽発表会で小太鼓を見事に演奏した男の子です。あの頃の彼と重ね合わせながら幼稚園の子供達と一緒に彼のスティック捌きや、ドラムの音を聴くのが楽しみです。夢を追い、進む道を切り開いた彼はきっと眩しい程に輝いている事でしょう。卒園児の輝かしいスタートを再び幼稚園で祝ってやれるような気がして、今から楽しみです。
年長組の子供達は今、幼稚園での残りの時間を先生と一緒に大切に過ごしています。年長組だけではありません。どの学年も今の先生とは、小さな別れをします。きっと、どの先生も同じ想いで毎日を過ごしているはずです。子供達一人ひとりの背中に語りかけながら…『いつまでも、私は“あなたの先生”です…』と。

喧嘩のなかの「まぁいいか・・・」(平成21年度2月)平成22年2月

3学期に入り、子供達もさらに生き生きと生活しているようです。

これまで積み上げてきた友達との関係や、すっかり慣れ親しんだ幼稚園の環境の中で、それぞれに個性を発揮し合い、気心の知れた仲間と愉快なやりとりを見せてくれています。色んな話をしたり色んなあそびを楽しんだりしている顔は4月5月の頃とは全く違っています。仲間達と過ごす月日がこんなにも子供達の心を解きほぐし、余裕を与えるものなのかとつくづくそう思うのです。

 ところが、関係が深まれば深まる程、逆に、困った事も起こります。仲良く遊んでいるかと思えば、急に何かをきっかけにトラブルが発生するのです。12月の『葉子せんせいの部屋』で、あそびのトラブルを自分達でジャンケンによって解決したというエピソードを書きましたが子供達の解決策も様々です。こんな事がありました。

 「せんせーい!僕が先に遊んでいたのに、後から来て○○君が横取りしちゃった!」と険しい顔で訴えて来ます。話を聞けば、なるほど、言って来た子が最初は遊んでいたのに、それを置いて他な事をしている一瞬の間に、もう一人の子がそのおもちゃで遊んだものだから、「横取りした!」と言ったのです。「だって、置いてあったんだもん!」と、どちらもが自分の言い分を主張します。決して横取りしたつもりはなさそうでした。こういうトラブルはよくある事です。仲裁人の立場からみても仲裁しようがなかったので、どのように解決するだろうかと黙って見ていると、思いきり言い合った後で、「まぁいいか」と最初に訴えてきた子が手にしているおもちゃをもう一人の子に渡したのです。100パーセント良い気持ちではなかったかもしれませんが、白黒はっきりしたいという事よりもその場の空気とその後の二人の関係が悪くなる事を子供ながらに避けたかったのかもしれません。その後、二人は何事もなかったかのように、また一緒に遊び始めました。

子供ってとても無邪気に友達との付き合いができるのです。言葉も方法も内容もストレートなので、一瞬激しいやりとりになってしまうのですが、お互いの関係の積み重ねによって、大切にしたい人、失いたくないものもわかってくるのでしょう。(このまま言い合っていても楽しくないぞ)とか(それより、早く一緒にあそびの続きをしたい)という気持ちのほうが強くなって、「まあいいか」と許し合えるようになるのかなと思います。兄弟姉妹で激しい喧嘩になったとしても、ずっと言い続けても平行線をたどるだけ、一生口をきかないわけにもいかないし、どうせ頼り合わないといけない人だと思えば、最終的には、言い合っている事が「面倒臭い」という気持ちに近くなってきて、いつの間にか、腹立たしい気持ちを自分の中で浄化したり消化したりして「まぁいいか」とウヤムヤの状態で終わらせてしまいます。これが、関係の積み重ねのない相手となれば、白黒はっきりさせないと後には引けなくて収拾がつかなくなってしまうでしょう。白黒はっきりさせるためには、いろんな状況調査や心情鑑定が(少しオーバーですが…)必要になるために、見なくてよかった部分まで見てしまったり、知りたくなかった事までわかってしまったりして、良い関係が保てなくなってしまう事もあるのです。その間はとても苦痛で辛い気分です。だから、いつまでも楽しく仲良く過ごすためには、この場合どうするのがいいのかな?…と子供達は、子供なりに幼稚園という集団生活の中でそれを学んでいくのです。激しくやり合ったとしても、壊してはいけない…失くしてはいけないものにまで槍を刺さない“程々加減”を学びます。これを学べないまま大きくなると、人を許せない、引きどころがわからない…極端に感情的な人間になってしまうような気がします。関係の積み重ねの中には、相手の良い所も悪い所も相受け入れ、悪い所もあえて見逃せるようになる事だと思います。

「まぁいいか」は、時には『いいかげん』、…だけど時には『好い加減』なのです。「まぁいいか」と好い加減に考える事は、色んな人と色んな状況の中で様々な人生を生きて行くためには、自分自身を必要以上に追い込まない精神上健康な考え方だと思うのです。

しかし、こんなケースはどうでしょう。子供達の喧嘩の時に先生がかけよるだけで、いきなりドギマギしながら「ごめんね」「いいよ」というやりとりがあります。その台詞で一瞬にして喧嘩にピリオドが打たれるのです。(さっき出会ってまだ関係を築いていない間ではそれもありかもしれませんが…)何が“ごめん”で何が“いいよ”なんだ!と、腑に落ちません。心が通わないままで終わった後、そこに積み上げられるものは“ストレス”だけです。一見仲直りしたように見えても、心からの「ごめん」でもなく「いいよ」でもありません。この場合は再試合が必要です。自分の気持ちを出し、また相手を受け止めた上で「まぁいいか」と思えた時に更に関係が深まり人間関係の築き方を学ぶのだと思います。

こだわって物事を考え、真正面から向き合う事も大切です。その一点だけにこだわる事によって高められる事もあります。全てを「まぁいいか」と納めるのがいい訳ではないという事も知っておかないと『いいかげん』な人間になってしまいます。時には“こだわり”、時には“まぁいいか”と、人と人との関わりの中で『好い加減』を大人も子供も学んで行きたいものです。

気配り目配り思いやり(平成21年度1月)平成22年1月

新年あけましておめでとうございます。
新型インフルエンザをひきずったまま冬休みが始まり、幼稚園の子供達はみんな元気にしているだろうかと気にしながら過ごしておりました。皆様お元気で輝かしい年明けを迎えられたでしょうか?毎年繰り返し迎える年明けですが、その年その年で、迎える気持ちや状況が違っています。私自身、若い頃はそれ程感じていませんでしたが、年をとってきたせいでしょうか?近年、新しい年を元気で迎えられる事のありがたさをかみしめます。この気持ちを忘れないで、一日一日を大切にしながら過ごして行きたいと思っています。


そんな気持ちで、私もこの冬休みは年末から新年を迎える準備に忙しくしていました。日頃、“忙しい”を言い訳にしてまともに掃除ができていなかったので、我が家の年末の大掃除は大変です。こんな事になるのなら、日曜日の度に少しずつでも窓ふきや換気扇の掃除に手をつけておけば良かった…と毎年思うのです。ここは娘達に頼るしかありません。娘達にも日頃さんざん“働かざる者食うべからず”と言っているせいか、「手伝って」と声をかければ手伝ってくれますが、何もかもしてとは言わないけれど、自分のできる事を見つけて手伝って欲しいと思うのです。「何したらいい?」と聞くので、「家中のごみ箱を集めてくれる?」と言うと、せっせと集めて来てくれました。しかし、私が掃除機をかけている間に、いつの間にかいなくなっていました。集められたごみ箱がごみの入ったまま、置きっぱなしです。「ごみ箱を集めて。」と言ったのは、ごみを仕分けして一つにまとめるためだったのですから、状況的に見ても、ごみ箱を集めるだけでその仕事が終わったわけではない事は中学生ぐらいになればわかるはずなのです。しかも、置きっぱなしという事になれば、結局はバタバタと忙しくしている私か主人がする事になるのです。お父さんやお母さんを助けてあげたいと思ってくれているのならば、「ごみを分けておこうか?」という言葉が出たり、言わなくてもそうしてくれるでしょう。「ごみ箱を集めて。」と言われたからそうしただけなのです。言われた事だけするのであれば、誰だってできるのです。アンテナがピーンと張っていれば、次に自分はどうするべきか、何ができるかと考えて行動に移せるのです。ましてや、そうすれば、お父さんやお母さんが助かるだろうと思えば、自然にここまでやっておいてあげようかと考えられるのです。


幼稚園の創立以来副園長として勤務しておられ、退職後十数年経った昨年亡くなられた先生がいつも言っておられた言葉が『気配り目配り思いやり』でした。掃除をする時、皆が皆ほうきを持っていたのでははかどらない。一つ先を見据えてちりとりを持ってごみを集める、草取りをする等、いくらでも役立つ策はあるのです。皆できれいにしたい気持ちがあれば、気が回るようになる。なくなったティッシュペーパーの空箱がそのまま置いてある…次の人が困るだろうと思いやる気持ちがあれば、新しいティッシュペーパーに入れ替えておく事もできるのです。次の人が困らないように…思いやる気持ちがあったら…。全てが愛情なのだ。…という事を言っておられたのを思い出します。


我が家にお年始にいらっしゃったお客様に料理やお酒を出す時にも、「料理を運んでくれる?」と頼んだら、言われなくても料理の中にお刺身があるとわかれば醤油やわさびが…ビールがあればコップや栓抜きが必要だろうなと考えて準備できる──、そんな気の利く人になって欲しいと思います。そのためには、私達大人がそうする姿を見せる事が必要ですし、一緒にする事で子供達は自然に学ぶのだと思うのです。『気配り』は、相手に気持ちよく居ていただくための思いやりによるものだという事に気づくようになります。(こうしてもらえたら嬉しいだろうな。喜んでもらえるだろうな。)と考えて行動できる人になって欲しいと思います。そして “自分も共同生活を営む家族の一員である”ということが自覚できる生活をお互いに意識していることも大切です。気が利かないことをつい子供のせいにしてしまいそうですが、実はそうなってしまっている原因が大人にもあったのでは?という事に気づいてやらないといけないのです。今まで、子供達が些細な事でも何かをしてくれた時に、その気持ちに気づいて「ありがとう。助かったよ。」とか「よく気がついたね。」とか言ってやれていたか…、“子供は手伝うのが当たり前!”と思い過ぎて、押しつけていなかったか…と私自身も振り返ってみました。「ありがとう」「どういたしまして」「ごめんね」「あ~助かった」「嬉しいよ」「よかったね」という相手の気持ちに気づき、またその気持ちに応えてあげられる言葉のやりとりがいつもできていただろうかと考えてみないといけないと思いました。そういう言葉が自然に飛び交う家庭の中で育った子供達は『気配り目配り思いやり』のアンテナが育っていくでしょう。そして、たくさんの人達に愛情をもって接して生きていける人になってくれるようになると思います。感謝・ねぎらい・尊敬という人と人が円満に付き合っていくために必要な心が育っていきますように…。そう願いながら心あらたにこの一年娘達と向き合う事を誓った元旦でした。