葉子先生の部屋

子供達にありがとう(平成22年度11月)

今年の夏は、異常とも言える猛暑となりました。動植物の生態系にも異変が起きているようです。最近ニュースでよく耳にするのは、クマやサルが山から里に下りてきて、人を襲ったり作物を荒らしたりしているという事です。異常気象でブナやカシの木にそれらの好物であるドングリや栗が実らなかった事が原因の一つにあるようです。そう言えば、毎年この時季になると幼稚園の子供達も青々しいドングリの実を見つけて喜んでいるのですが、今年はまだそんな姿を見ないような気がします。当たり前の事が当たり前に……、これは、自然に支配されているのかもしれません。


その影響を受け、幼稚園では今年の運動会を例年より遅らせて開催しました。涼しくなってから本格的な練習に取り組めるようにと考えての事でした。無事開催できた秋季大運動会は盛会裡に終える事ができました。毎年子供達の頑張る姿には胸が熱くなります。涙がこぼれます。そんな時ふと思うのです。「最近こんなに感動して胸が熱くなった事があるだろうか?」…と。感動的なシーンにテレビや書物で触れた時にはあるかもしれませんが、生活の中で、何かがあって感動する事はそんなにないのではないでしょうか?青春時代なら胸高鳴る恋愛や自分自身の人生の選択においても一喜一憂しながら涙する事もあったでしょう。でも人生ひと山越えた頃にはなかなかそんなドラマチックなシーンに出会うことはありません。ですが、子育てにおいては、感動する事がたくさんあります。子供達が私達を感動させてくれるのです。ここ数年を振り返ってみてください。飛び上がるほど喜んだり、身体が震えるほど怒りを覚えたり、涙をこぼしたり、この上なく楽しいと感じたりしたその先にはいつも子供達の存在があったのではないでしょうか。それがどんなに私達大人にとって幸せな事かを思うのです。


私はいつも行事の度に取り組みはじめた頃の子供達の様子や先生の様子、本番までの見え隠れする先生と子供達とのドラマ、そして本番の子供達、それを見守る保護者の方々の様子…それら全てに感動します。運動会でも、それぞれに子供達が一生懸命でしたし、楽しそうでした。そして、運動会後に寄せられた保護者の方からの感想には、どれも我が子の成長への驚きや喜びと、ありがたい事に先生達へのそれまでの労いと感謝の言葉を添えていただいていました。


我が子の活躍に胸を熱くして手を叩き、抱きしめたくなるほど愛おしく感じたりしてもらえた事と、子供達のそんな成長の記録にほんの少しでも関われている事に喜びを感じました。
子供って、そこにいてくれるだけで私達大人に感動を与えてくれます。お腹の中に生命が宿った事を知った時から始まる感動のドラマは、その先、些細な事から大きな事までの何もかもが心を動かしてくれる長編作となるのです。幼稚園に入園するまでは、自分が手をかけて育て、我が子の成長を誰よりも近くで見てこられたでしょうが、入園と同時に小さな社会に送り出し、人の手に委ね、こうした節目節目にその成長をふと目の当たりにした時の感動は何とも言えないものがあると思います。運動会の日の朝、どのお父さんもお母さんも、お子さんに「頑張ってね。応援しているからね。」と送り出された事でしょう。そして、先生や友達と楽しそうに一生懸命に頑張っている姿に感動し、運動会終了後、お子さんを迎えた時のお家の人達の目は、とても温かかったように思いました。お子さんを迎えられた時の第一声は何でしたか?「頑張ったね。えらかったね。凄かったよ。……」とお子さんを褒めてあげられたのではないでしょうか?その裏には、感動させてくれた我が子に「ありがとう。」の気持ちもこもってはいませんでしたか?我が子のそんな姿を見て、喜びを味わえた事に感謝しませんでしたか?
周りを見てください。子供のおかげでできたママ友、パパ友、出会えた人達、場所、得た知識……。子供を通して、自分の環境も作られてきている事に気が付かれるでしょう。子供達が世界を広げてくれているのです。その中で、笑ったり泣いたり、喜んだり怒ったりという感動があるのです。淡々と過ぎる日々も幸せでいいかもしれませんが、まだまだ若いうちは、心躍らせる日々にエネルギーを使ったり、またそうする事でエネルギーを充電させてもらうのもこれまた楽しいものです。


運動会が終わって、子供達は先生達から素敵なご褒美をもらっていました。この運動会を頑張った印にして欲しいと渡したプレゼントです。あのご褒美は、子供達へのものでしたが、それを手にした時の子供達の達成感と満足感と自信に満ちた最高の笑顔は、これまでのお子さんの成長を見守って来られたお父さんやお母さんが手にされたご褒美だったかもしれませんね。こういう節目に、改めて子供の存在の大きさや意味を感じたり、子育ての苦労が報われたりするのではないでしょうか。子供達!私達大人にたくさんの感動を与えてくれて、どうもありがとう!


これから、まだまだ子供達は私達にいろんな感動を与えてくれます。何しろ、長編大作ですから…。それはまだまだ、始まったばかりです。さて、この先どうなるかはおたのしみ…。

どこで教える怖い・痛い・危ない(平成22年度10月)

最近になって、やっと秋めいてきました。朝夕は寒ささえ感じられる日があります。黄金色の稲穂を刈り終えた田んぼに秋を感じます。

今月の初めに、年長組の子供達が稲刈りを経験しました。4ヶ月前に自分達の手で植えたお米の苗が稲に姿を変えた事に感動を覚えながらの作業でした。この稲刈りは今年で5回目となります。初めて幼稚園の子供達に田植えを体験させた年は稲刈りなど幼稚園の子供達にできるはずがないと諦めました。しかし、田植えはしたものの稲刈りの工程を経験せずして、収穫の喜びや自然の恵みへの感動や感謝の気持ちを本当に育ててやれるのかと、煮え切らない気持ちがどこかにありました。その次の年も田植えをしました。稲刈り時期になって、どうにかして刈らせてやれないかとあれこれ考えました。刈らせたい気持ちと、本物の刃物を持たせて、日常の生活の中にない経験をさせる事への不安が交差していました。子供達に鎌を持たせて稲刈りをさせる事は危ないだろうからとためらっていた私達に理事長が、「稲刈りは鎌でするものだ。子供達は、真剣に取り組めば怪我はしない!大丈夫だからやらせてごらん。」と言って背中を押してくれました。そうして、初めての年にはやむなく見送った稲刈りを、翌年からこの理事長の言葉により、子供達に経験させる事にしたのでした。

実際に子供達に鎌を持たせた瞬間から、一瞬たりとも子供から目を離せない状況で、先生達の方が緊張したのを覚えています。勿論刈る前には、鎌とは一歩間違えばとても危険な刃物なのだという事をしっかり話して持ち方刈り方等をくどい程聞かせました。しかし、いざやってみると案外子供達は出来るものだと思いました。私の説明が頭に入っているのかいないのか、自分流に危険のないように力加減を考えながら刈っていたのでした。“案ずるより産むが易し”と言ったところでしょうか。しかし、子供達のその時の顔は実に真剣でした。油断していたり鎌を振りすぎると、稲を握る手や踏ん張っている足まで、切ってしまうかも知れない事が、やってみて初めて理解できたのでしょう。どのくらい力を入れれば刈れるか、どの向きに鎌の刃を向ければいいか、その時の足はどうしていればいいか等が、何株か刈るうちに自分の感覚で見つけられたのだと思います。いくら言葉で「危険だから気をつけてね。」と言っても実際想像がつかないのです。どんなことがどうなって危険なのかは聞くだけではわからないのです。

楽しい事や嬉しい事は、普通の生活の中でどうしなくても経験できるし、親は子供達に楽しい想いをさせるために、そのチャンスをわざわざ作ってまで経験させてやろうとします。だけど、辛い事や苦しい事悲しい事痛い事は、できるだけ経験しなくてもいいように避けて“守り”の生活をしています。では、いつ子供達は、その辛い事や苦しい事悲しい事痛い事を覚えていくのでしょう。生涯、“楽しい”“嬉しい”ばかりで過ごせるわけはありません。痛い思いを経験しないと、それにどう対処したらいいのかどう回避したらいいかを学ぶ事ができないのです。頭の中だけでの知識は実に頼りないものです。実際に怖かったり痛かったり危ない思いをした事があれば、二度とあんな事にはなりたくないと心から気をつけるでしょうし、大切な人がそんな思いをしたら可哀相だと気を付けてあげる事もできるようになるでしょう。

子供達のあそびの中にはそんな学びがたくさんあるのです。ある年少組の女の子が吊り輪にぶら下がり手をすべらせて落ちました。尻もちをついて大泣きをしましたが、その女の子はその後、他の学年のお兄ちゃんが上手にぶら下がっているのを見ながら何度も繰り返し挑戦していました。一度失敗してからは、手が離れて下に落ちたとしても、上手に落ちています。その子には落ちた時にはお尻を強打する可能性があるから気をつけないといけないという構えができているからです。また、幼稚園の小川の飛び石を渡って向こう岸に行こうとして、バランスを崩し、つい小川にはまってしまう事があります。その時に、次からはどうやってバランスを保てばいいのか考えます。こうして子供達は身をもって経験した危険に対して、身の守り方を学んでいくのです。

子供達は今、幼稚園という安全と危険をバランスよく取り入れた環境の中でチャレンジしながら遊んでいます。 “怖い・痛い・危ない”を見守られた環境の中で経験させてやる事は、子供達が自立して生活するための基盤をつくる事の一つでもあると思います。危ないから…と先回りをして子供達の周りにある危険物の何もかもを取り払ってしまっては、子供達が学べるチャンスまで奪ってしまい危険の予測ができない人間になってしまうのです。“心配する事はいい事、心配し過ぎる事は不幸の元”とも言います。

そんな事を思いながら、今年の稲刈りも緊張感の中、無事終わりました。真剣に刈った稲がお米になり、もう少ししたら年長組の子供達はおにぎりを作って食べます。どんなにか満足することでしょう。その時の嬉しそうな顔が目に浮かびます。

平和の心を伝える(平成22年度9月)

今年の夏は猛暑日が何日も続きました。熱中症のニュースもあちらこちらで耳にし、尋常ではない暑さを感じました。この暑さは9月になってからもしばらくは続きそうです。

夏休みも終わり、子供達はたくさんの夏の思い出を抱えて幼稚園にやって来てくれました。先生達は、日に焼けた元気な子供達に久しぶりに会えてとても嬉しそうです。2学期も子供達と一緒に良い時間を過ごしていきたいと思います。

さて、今年広島は被爆65年目を迎えました。昭和20年8月6日午前8時15分、忘れてはならない日。今年も、8月6日には、格別暑い中、平和記念式典が行われました。今の子供達は、私達以上に戦争の事を実感するすべもない世代です。学校の平和学習で習っているので知ってはいますが、この日の事をどの位理解できているのでしょうか。

私の娘はこの原爆の日が誕生日です。毎年家族で誕生会をします。その時には、決まっておじいちゃんの平和談義が行われます。どうしても8月6日といえば、その話題になってしまうのです。私達や孫達に体験した事を話してくれます。「ちょうど、その時おじいさんは15歳、八千代町に飛行場をつくるための作業に借り出されて働いておったんよ。南西の空がパッと光って少し遅れて大きな音がした。だいぶすると、大きな雲が登って来て黒い雨が降ったのが見えたんよ。何か大変な事が起きたんだと思った……。」──毎年同じ話で、その話が始まると、いつもは(またこの話か…)といった様子で苦笑いをしながら聞いていたのですが、今年の子供達はとても熱心に話を聞いていました。上の子が16歳、下の子が14歳でその間の15歳の時のおじいちゃんの話なので、自分に置き換えて聞くことができたのだと思います。自分と同じ年頃に「お国のために…」と言い聞かされて身体を使って働いていたおじいちゃんの事、原爆投下時の生々しい話、その後芸備線で見た怪我をした知人の話等々、一生懸命質問しながらおじいちゃんの話を聞いていました。

8月6日は、メディアを通して色々と原爆や戦争の惨事に触れる事ができます。8月9日は長崎原爆の日、そして8月15日の終戦記念日と平和について考えさせられる日が続きます。しかし、その時の事を語れるおじいちゃんでさえ、当時15歳、うろ覚えの体験談です。私達親も勿論話して聞かせてやれる体験などありません。

戦争を身をもって知っている世代の方々が段々おられなくなってきています。私もおじいちゃんの話を一緒に聞きながら、「こうして子供達の世代に言い継がなければ、平和に対する想いを抱く機会さえも失くしてしまうのだな。」と感じたのです。広島には、この原爆の事を若い人達に伝えようと、語り部として活動されている方々がいらっしゃいます。広島市内の学校では、街で平和を訴える学生達の一生懸命な姿も見られます。戦争を知らない子供達がこんなにも一生懸命な顔で道行く人達に声張り上げて平和を呼び掛けている──その姿を見て若い世代に繋いで行く事の大切さを感じるのです。

幼稚園の子供達にも先生達はこの原爆の日の話をします。どれだけ理解できているかは解りませんが、少なくとも広島に住む子供達は、ぼんやりとでもこの日の事を知っておくべきだと思うのです。毎年毎年繰り返し話してやる事で、年齢を重ねる度に平和に対する考えが確かなものになります。ややもすればこの世から時代と共に薄れゆく記憶を蘇らせる事が出来るのは、体験された方から次の世代に…次の世代に…と受け継ぎ伝えていく事しかないのです。

おじいちゃんの話を真剣に聞きながら、娘達には色々な事が伝わったと思いました。平和を願う気持ちは誰もが抱いているはずですが、平和な世の中にずっと生きてきた私達や子供達は、真の平和に気がついたり意識して考えたりする事がないのではないかと思います。あまりにも平和に慣れてしまっているからです。話を聞いたりその時の記録写真を見たりする事によって、その惨事を知り、その時の人達の思いはどんなだっただろうか、それからどんな気持ちでどんな努力で今の広島が復興したかと考える事もします。まだ幼稚園の子供だから…と思わないで、平和について話してやる事は必要です。まだ小さな世界でほんの数年しか生きていない子供達は、子供達なりに、自分の生活の中に置き換えて平和と幸せを感じてくれます。友達と仲良く元気に遊べる喜びや家族みんなで過ごせる幸せ、友達との喧嘩の中にもルールがある事、人を傷つける言葉や腕力の恐ろしさと悲しさ等…。これから、子供達はいろいろな事を学びます。戦争の歴史も学ぶでしょう。その中で、自分の平和観を持つでしょうが、人類が平和であり続けますようにと願う気持ちは皆が持っていて欲しいと思います。かつて死に物狂いで復興に力を注いだ方々に築いていただいた平和への願いをこれからは、私達、そしてこの子達が受け継ぎ、心から幸せを祈りながら自分達の手で平和な世の中にしていかなければなりません。

娘達が自分の誕生日を迎える度におじいちゃんの話を思い出してくれたらと思いながら、私も一緒に真剣に平和談義に耳を傾けていました。

例えば、こんな夏休み(平成22年度8月)

今日で1学期が終わりました。子供達にとっては、新しい環境に慣れるのに必死だった4月・5月。それから色々な経験を重ねてきました。その度に友達との関わりも濃くなり、一緒に生活する楽しさを知った1学期だったのではないかと思います。明日から長い夏休みが始まります。しばらくは、先生や友達に会えなくて寂しく感じると思いますが、2学期の始まりを楽しみにしながら、夏休みの間にご家庭でいろいろな事をしっかり経験させてやって欲しいと思います。

いろいろな事をしっかり…それは、どこかへ旅行をするという事ではなく、また、何かを与えて考えさせたり習わせたりする事を言っているのではありません。一言で言うならば、刺激的な生活をさせてやって欲しいという事です。子供達って、大人に見えないものが見えたり、大人には考えられない事を発想したりします。実は、日頃から子供達は「ん?あれは?」とか「わ~ぁ!すごい!」と疑問や感動の声を心の中でもあげているのです。けれど、大人は日々の生活が忙しくてなかなかその一つひとつの疑問や感動に耳を傾けてあげる事ができずにいます。そのうち子供達も忙しいお父さんやお母さんの様子を察し、あえて、目に見えた物や耳で聞こえた音、手で触った感触等の感動を伝えようとしなくなってしまいます。子供達は、感動した事を素直に「聞いて!聞いて!見て!見て!」と訴えてきます。そうした時に共感してやると、嬉しくなってもっともっと目を輝かせて世の中を見てみようとするでしょう。

夏休みは日頃より少し、子供達と関わる時間がとりやすくなるでしょう。幼稚園にいる時は、家でできない事をしっかり経験させてやりますが、夏休みは、逆に幼稚園ではできない事をお家の方と一緒に経験して欲しいと思うのです。

先日、プレイルーム(預かり保育)の子供達と外あそびをした時の事です。年長組が植えた赤く実ったミニトマトを見つけた年少組の男の子が「先生!これ!食べたい!」と言うのです。「採って食べていいよ」と言うと、他の実が落ちないように、その赤い実だけをそっとつまんで採り、可愛い口の中に入れて食べました。その後で、「おいしい!のどが乾いていたからおいしかった。」と言って走って行きました。例えば、夏休みの間におじいちゃんやおばあちゃんの家の畑で、こんな事が普通にできたら素敵ですよね。

また、年長組の子供達が大きな石を掘り出したところ、アリの巣があったらしく、それまで平和だったはずの巣が壊されて、アリ達が慌てふためき、その穴からどんどん出てきました。子供達は、あまりにもたくさんのアリだったので驚いたのか、その穴に砂をかけて埋めてしまいました。それからしばらくそのアリ達の様子をみていると、小さな砂の一粒一粒を何匹ものアリがせっせと運び、何回も何回も行ったり来たりしながら、再び巣を作り始めたのです。どんどん穴ができていくので、私も見ていてとてもおもしろかったです。そのアリ達は、けっこう長い時間かけて巣作りをしていたと思います。例えば、夏休みの間に日頃は気にもとめていなかった虫や魚の様子に眼を向けて何日も気にしながら親子で観てみる…こんな事が普通にできたらこれもまた刺激的ですよね。

ちょっぴり夜更かししても、ホタルを見つけに庭に出てみたり、夜空を見上げて夏の星を観たり…そんなゆっくりした時間を親子で過ごすのも夏休みだから、家族と一緒だからこそできる事だと思うのです。

子供達は、夏休みをとても楽しみにしています。勿論、お出かけの計画があれば、家族の思い出づくりのためにそれもいいでしょう。せっかく旅行に行くのだったら、そこが何県で何が有名でそこの特産物は何なのか等を教えてやったり、そこでないとできないものにも触れさせてやってください。刺激的だと思いますよ。3~5歳の子供には、まだ正確な情報として深い理解ができるかどうかは分かりませんが、小学生ぐらいになると自分で地図を見て、その場所を調べてみたりできるかも知れません。そんな事をしているお兄ちゃんやお姉ちゃんの姿を見るだけでも刺激的ではないでしょうか。

それともう一つ、どんどん子供達にお手伝いをさせてやってください。台所にお母さんと一緒に立つだけで…お父さんと庭の手入れや車の掃除の手伝いをするだけで、お父さんやお母さんの役にたっていると思え、家族の大切な一員である事を実感します。子供達に手伝ってもらうと逆に時間がかかってしまって、日頃はなかなか「手伝って!」とか「一緒にしようか」と誘ってやれないものです。実は子供はいつもお父さんやお母さんに「手伝ってくれる?」と頼りにしてもらいたいと思っているのです。

子供達に刺激的な夏休みを過ごさせてやれば、自分の周りにある環境に興味をもって積極的に関わり、数々の感動を見つけようとするでしょう。夏休みはその感動に家族で共感してやる時間がとれるいいチャンスでもあるのです。そう思うと、何だか夏休みが楽しみになってきませんか?お家の人達と色んな経験をして、たくさんの会話を交わしながら過ごした夏休みの後、ますます目を輝やかせて幼稚園に来てくれる子供達に会うのが今から楽しみです。

あそびは学び(平成22年度7月)

6月に入った途端、夏の始まりを感じさせる暑さがやってきました。それまでは、今年のプール開きを心配していましたが、予定通り6月1日に行う事ができました。ほぼ毎日子供達の歓声がプールから聞こえて来ます。そうは言っても梅雨に入り、これからはプールに入れない日も増えてくるでしょう。入れる時には、しっかり水に親しませてやりたいと思っています。夏にしかできないあそびをいろいろな形で経験させてやりたいものです。

先日は、年長組の子供達が水鉄砲あそびをしました。水鉄砲と言っても、幼稚園で使っている20㎝ほどの絵具のチューブの空容器です。そのふたに穴を開けて、的(まと)を目がけて色水を飛ばします。その時の的は、園庭中に張り巡らせたロープに洗濯物を干すようにつるした細長く切った紙でした。色水なので、その紙に色々な模様ができて子供達は大喜びでした。私はそんな子供達の様子を記録に残しておきたいと思い、カメラを持っていいショットを狙っていましたが、狙われたのは担任の先生や私で、私のエプロンの背中には、薄く絵具がついていましたし、担任の先生達は色水をかけまくられていました。子供達も全身を汚したり濡らしたりして大喜びでかなりダイナミックなあそびになっていました。

そんな中、はしゃいでいる子供達の中でなかなか思うように水が遠くに飛ばず、手にした水鉄砲をまじまじと見つめている男の子がいました。何度チューブを押しても「プシュッ!プシュッ!」という音ばかりで、水が勢いよく飛ばないようです。隣では勢いよく飛ばしている女の子がいます。「何が違うんだろうね」と、比べてみると水の量が違っている事に気づき、早速、チューブいっぱいに水を入れて来ました。「ちょっとやってみて」と言うと、的を目がけて遠くからでも勢いよく飛んだのでした。それから中の水が減ってくるにつれて、的に近づかないと届かなくなっていきました。「発見!発見!」と声をかけると、その男の子は何やら発見できた事が嬉しそうでした。

そして、もう一人飛ばし悩んでいた男の子がいました。その子の水鉄砲は、穴がとても大きくて、たくさん水が飛ぶだろうと思っていたのに思うほど勢いよく飛ばなくて困っていたのでした。チューブを押しても「ダクダク」と水が溢(あふ)れ出るだけで、遠くにも飛ばないし勢いもないのです。またまた「何が違うんだろうね」と声をかけると、「ここが…」と穴を見比べていました。よく飛んでいる友達の物と種類も穴の大きさも違う事に気がつきました。私が「穴が小さい方がよく飛ぶっていう事なのかな。小さい穴なのにねえ。なんでだろうね」と言うと、その子は、不思議そうな顔をしながらも、残っていたチューブの中から小さい穴の物を見つけて力一杯押してみました。すると、思った以上に遠くに飛んだので、自分でもびっくりしていたようでした。何がどうしてどうなるからこうなるのかわからないけれど、穴の大きさや水の量が、水の勢いや飛ぶ距離に関係するという事には気がついたようです。それからその二人は、遠くに飛ばすコツも覚え楽しそうに何度も水を汲み的(まと)をめがけて飛ばしていました。子供達はこんな経験を繰り返しながら、物事の原理や法則に着目するようになるのだと思います。

昨年も今年も年長組の子供達が科学あそびでお世話になっている広島国際大学の寺重隆視教授がおっしゃった言葉が印象的でした。「生活の中にはたくさんのサイエンス(科学)が潜んでいる。疑問をもったり、不思議だと思ったりする経験が必要だ」というような話でした。その疑問に対して試したり挑戦してみたりして、「やったー!!できた!わかった!」という達成感や充実感を味わえる経験を積み重ねる事が大切なのです。もっと深く知りたいと思った時にこの経験を思い出し、学びとる意欲につながるでしょう。まだ今は、理論的に教えるより、「上手くいかないな」「どうしてだろう」「こうしたらどうだろう」「これなら上手くいくようだ」「なるほどこりゃおもしろい……」───こういった経験をたくさんしていれば、「あの時にああだったから」とか「もしかしたらあの時と同じ事なのかも…」という過去の経験を土台にして、具体的な例を基に自分なりに納得していくでしょう。

この事は全てにおいて言える事だと思います。経験なくしては、立証できない事、確信できない事、納得できない事がたくさんあり、逆に言えば、過去の経験が物事の理屈を合わせてくれるものになるのでしょう。そして、そうやって得られた知識は生きた知識として頭の中に入ります。勉強ってこうしてできるのが、一番理想なのかもしれません。

寺重先生と共に「子供達に科学あそびを!」と、活動されている広島大学大学院教授前原俊信先生の話によると、学校の教科になると、時間的に限られていて、早く結論に結び付けさせなければならない現状があるらしく、なかなか探究心につなげるまでの段階や経験を見守るという十分な余裕がないようです。それならば、余裕をもって受け入れて対応してやれるのはどこかといえば、それは、幼児期における『あそび』なのだと言われていました。それを聞いた時、やはり三次中央幼稚園がやっている事は間違っていないと確信しました。三次中央幼稚園の子供達はたくさんの経験や体験を通して、知らず知らずのうちにいろんな事を学びとっています。急いで結論につなげて覚えさせるのではなく、心躍るようなたくさんの経験を積む事こそが、学ぶ事なのです。“興味”からジワジワと“探究心”へつながる『あそび』をしっかりさせてやる事…、その経験こそが、本来の学ぶ力・生きる力になるはずです。

「あそんでばっかり…」が実は大切な学びなのです。