葉子先生の部屋

一瞬の経験の行方(平成23年度10月)

すっかり秋らしくなってきました。空の色、風の匂い、鳥や虫の声…色々な変化がこれまでと違う空気を感じさせてくれます。

黄金色の稲穂は秋の風にゆっくりと揺れ、毎年忘れずに私達の目を楽しませてくれるコスモスの花が道端に咲き始めました。私の大好きな季節です。

今月の初めに年長組が稲刈りを経験しました。5月に自分達で植えた苗が見事な黄金色の稲に姿を変えました。年長組の田植えは今年で9回、稲刈りは7回目です。2回は稲刈りを見送りました。幼稚園の子供達に慣れない刃物を持たせて稲刈りをさせる勇気が私達になかったからです。最後の収穫までを経験させたいのにさせてやれないジレンマや、なぜその後経験させる事になったかという経緯は、幼稚園のホームページ『葉子先生の部屋』平成18年の10月版「あぶないあぶないがもっと危ない」を読んでみてください。

私は、子供達が稲を刈る時の嬉しそうな顔を見ると、させてやれなかった数年間の事をいつも残念に思います。鎌は普段使う事のない刃物で、もしかしたらその時初めて見る子もいたでしょう。子供達は、その鎌の使い方や刈り方の説明にじっと聞き入っていました。子供達の中には、「やりたくない」とか「できない」と尻込みをする子は一人もいませんでした。した事のない経験には興味があるからです。ましてや、自分が植えて育った苗ですから、ぜひ自分の手で刈りたいと思うでしょう。ひとり3株の稲穂を刈りました。初めの1株は、傍で付き添う先生も子供も緊張した面持ちでした。だけど、その“緊張”も危険な物を扱う時にはとても必要な時間なのです。そして、2株3株と刈って行くうちに、子供達はいかに安全に刃物を使って刈る事ができるか…と思案し要領をつかんできます。子供達はひょっとすると大人より飲み込みが早いのかもしれません。刈り取った稲を持ちあげる子供達の顔は喜びと自信で溢れていました。毎日食べるご飯の正体を知った事にも大きな意味があったでしょう。

その日、稲を何本か新聞紙にくるんで、一人ひとりに持ち帰らせました。お迎えに来られたお母さんに「これ!」と見せる時の得意気な顔はとても可愛く思えました。それから、何人ものお母さん方に、「先生、これはどうしたらいいんでしょう?」と尋ねられました。たった数本の稲ですから、お家でも思案された事でしょう。その翌日のお昼、職員室にある男の子が、「失礼します!」とやって来ました。その子の手には、一つのおにぎりがありました。「これ、昨日のお米でお母さんが作ってくれたんよ」と言うのです。「えーっ!!どうやってお米にしたの?」と聞くと、「お母さんが剥いてくれた。」と言うのです。そして、また翌日にその子のお母さんに直接聞いてみると、「夜なべをして剥いたんです。折角子供が喜んで刈ってきてくれたんだから…と思って。」とニコニコと笑いながら話してくださいました。一粒一粒手で剥くなんて、そう簡単な事ではありません。大量ですと、昔の米つきの方法で、一升瓶と棒を使ってもみ殻をとる事もできますが、少量だとそれもできません。さぞかし、時間をかけられた事だろうと思いました。しかし、その時のお母さんの中には、我が子がとびきりいい顔で刈った様子を想像したり、得意気に持って帰ってくれた気持ちに応えたいという想いがあったりして、きっとそれは、我が子との居合わせずともできる共通体験をされたのではないかと思います。

また、数日後ある年長組の保護者の方から手紙をいただきました。そこには、稲刈りを経験して持って帰った稲穂からもみ殻を子供達と一緒に剥き、玄米で姉弟と分けて食べた事、玄米に魅せられて家でのご飯も玄米にして欲しいとリクエストが出た事、食べられる事のありがたさや食べ物や作ってくださった方々への感謝の気持ちを育てていきたいと思った……等々が書かれてありました。

なんて素敵なお母さん方でしょう。その他にも、子供達が持ち帰った稲穂を飾り、稲刈りの一日の話を家族で聞いたり、稲穂が揺れる田んぼを見ながら思い出し色んな話をしてくださったりした事でしょう。そうしてもらえた子供達はなんて幸せだろうかと嬉しくなりました。子供達がした楽しい経験を共に喜んだり感激したり考え合ったりしてやって欲しいのです。共感しながら、その時の喜びや感動を確かなものにしてやって欲しいのです。子供達が経験するその時は一瞬です。一瞬の感動が一瞬のうちに消えてしまうか、その感動を更に深く確かなものに、そして、その一瞬の感動がその子にとって生きる土台となる大きなきっかけになるかは、子供達がした経験をいかに大切に育ててやれるかだと思います。子供達が経験した事がそれっきりにならないように……、やりっぱなしではなく、経験を繋いでやってほしいと思うのです。そうすれば、子供達はもっと生活の中で色んな経験をする事を楽しみにしてくれるでしょう。好奇心も育つでしょう。子供達は好奇心のかたまりです。まだまだ子供達はいろんな事に興味を持って挑戦して生きていきます。私達大人は、その気持ちの高ぶりをいつも応援してやりたいものです。

それからしばらくして、子供達が刈ったお米を精米し幼稚園に届けました。そのお米でおにぎり作りをしました。自分達で握って作ったおにぎりは最高の味だったに違いありません。

笑顔

長い夏休みが終わりました。こんがりと陽に焼けた顔と背中の水着の跡で、楽しかった夏の思い出がうかがえます。今年の夏は格別に暑く、熱中症のニュースが毎日聞かれました。

そんな中、ずっと心から離れなかった事…東日本大震災の被災地と被災された方々の事です。あの大地震から6ヶ月が経とうとしています。当時は不安と寒さに震える被災者の事を思い胸を痛めましたが、今は真逆です。原発事故により節電を余儀なくされ、仮設住宅で暑さに耐えておられる多くの方々の姿が報道されます。私達が想像するに余りある大変な生活を送っておられます。しかし、今は被災地の人達は、一生懸命前を見て復興に向けて頑張っておられます。「もう振り返ってはいられない!前を向いて!前を向いて!」という底力を感じさせられます。この震災により、各地での様々なイベントが自粛ムードになりました。しかし、今は、自分達が出来る事は何だろう?とそれぞれの人が考え、被災地を励ます活動がいろいろと行われています。お盆前には、うつむいてばかりではなくみんなで上を見上げて生きて行こう!と花火が打ち上げられたそうです。「心傷ついた人の一瞬の笑顔のために…」という主催者の言葉が聞かれました。各地からたくさんの人達がその地を訪れ、同じように、「笑顔になってもらえるように…」「その時の笑顔が明日への一歩になれば…」という気持ちで支援活動をされているのです。

笑顔は当たり前にできるものだと思っているけれど、どんなに尊くありがたいものかを幸せであればある程私達は忘れがちです。実は悲しかったり苦しかったりする時こそ、笑顔が必要なのかもしれません。そう思えば、子供達の笑顔は宝です。子供達は、楽しい時や嬉しい時に自然と笑顔を見せてくれます。気持ちが沈んでいる時に子供達のそんな笑顔に救われたり励まされたり元気をもらったりする事がありませんか?何があっても子供達が傍で笑ってくれていると、この笑顔を失いたくないし、失わせたくない!と力が湧いてきます。

甲子園球場では、全国高校野球選手権大会が行われました。高校球児達の雄姿には毎年心を打たれます。苦しい場面でこそ、選手の気持ちが沈まないようにと声を出し合ったり、笑顔で励まし合ったりする姿がたくさん見られ、とても爽やかな気持ちになりました。特に、東北勢の選手達が笑顔で頑張るその姿は被災地の人にとって、大きな力となりました。その笑顔によって周りの誰にも、前向きな気持ちが湧いてくるのです。「元気をもらいました。ありがとう!くよくよしていても始まらない。私達も頑張ります。」「前向きな気持ちになれそうです。」という言葉がたくさん報道の中で聞かれました。

日々の生活においても、「この子の笑顔のためなら!」と親は一生懸命子育てをしています。「笑顔が見たいから」と子供達と向き合います。その事によって、みんなが幸せになるのです。そして、子供達もまた、お父さんやお母さんからの笑顔を期待している事も忘れないでください。子供は自分に向けられた笑顔によって安心したり喜んだりします。「お母さん!見て!見て!」と嬉しい事があったり、感動した事があったりすると、共感してほしくて大人を呼ぶ事があります。そんな時に笑顔で応えてやるのと無表情で見るのとでは、子供のその後の反応が大きく違ってきます。笑顔で応えてやると、もっともっと積極的にその事に取り組めたり探求したりしようとします。逆に期待通りの反応がもらえなかったら、子供はそれから次に踏み出す気持ちになれなくなってしまうのです。反応に表情がなかったり、険しい顔だったりすると、この人が何を考えどのように思っているのかが伝わって来ませんが、それが『笑顔』であれば、そこには嬉しい・楽しい・共感・受容等のプラスの感情が伝わって来ます。『笑顔』には、言葉では伝えきれない“感情の伝達力”があるような気がします。笑顔になると、自分も相手も楽しくなります。そして、周りの空気も明るくなります。そして、そこから前に踏み出す元気や勇気や意欲を与えられるのです。


この夏休みには、東日本大震災の特集や終戦66年の報道がたくさん見られました、この国や町そして人の気持ちの復興を支えているものは、“『笑顔』を再び!”と思う強い願いだという事を痛烈に感じました。全国高校野球選手権大会では、ピンチになる度にピッチャーを取り囲む球児らの顔には必ず『笑顔』が見られました。苦しいはずのその場面で共に励まし合うのです。そこには、壊れそうな崩れそうな気持ちを奮起させてくれるエネルギーが起こります。また、固まりそうな気持ちをほぐしリラックスさせてくれる優しいエネルギーがその場を包んでくれます。『笑顔』は楽しかったり嬉しかったりする時に自然に出る表情だけれど、逆に元気になるために…周りの『笑顔』を誘うために『笑顔』を見せる事も大切なのだという事を感じたのです。私達大人も毎日元気で優しい笑顔を子供達に向けていく事が、将来の子供達の豊かな心を育てていくのです。

さて、この2学期もたくさんの子供達がいろいろな『笑顔』を見せてくれる事でしょう。その『笑顔』に感謝しながら皆が心も身体も元気でいたいものです。

思い出を紐解く(平成23年度8月)

梅雨が明け、山々の緑が一層濃く見えます。耳をすませば、セミの鳴き声も聞こえ、いよいよ夏らしくなってきました。

先日、幼稚園の先生の結婚式が行われ、先生達大勢で招かれ出席しました。その先生の旦那様は実は卒園児です。私も、年中組の時に担任しました。その頃の彼の事を思い出しながら、メインテーブルに座る輝く二人を心からお祝いしました。まさか、同僚が教え子と結婚し、そのお祝いの場に彼の事を知るたくさんの先生達で招かれる事になるなんて、とても不思議な気持ちでした。少し、やんちゃで気分屋さんだった彼が大人になり、一つの幸せな家庭を作る事を誓う姿を見て、嬉しくてたまりませんでした。

二人は、ご家族ご親戚の方やたくさんの友達の祝福のシャワーを一日中浴びていました。その友達の中に、当時彼と同じクラスだった卒園児が3人もいたのです。年長組の時の仲間です。その年長組の時の担任は平田美穂先生でした。美穂先生は、前もってスピーチを頼まれていました。その挨拶は、色々な当時のエピソードやお祝いの言葉でした。しかし、その中でも感動したのは、実は美穂先生は年長組を担任したらその年の子が卒園する時に「みんながいなくなると寂しくなるから、美穂先生に絵を描いてプレゼントして欲しいな。」と言って絵を描いてもらっていたそうです。その時の懐かしい絵を持って来ていました。21年も前の絵です。美穂先生はその間大切に残していたのです。その場に集まっていた新郎を含めて4人の絵を挨拶の中で披露しました。絵の裏には、美穂先生に宛てたメッセージが、たどたどしいクレパスの文字でつづられていました。それはそれは、美穂先生を慕う中、卒園というお別れを淋しく思う切ない気持ちが表れた文字に思えました。そんな物が準備されているとは、思いもしなかった新郎と卒園児達は、驚いていたようでした。それは、卒園児だけではなく、会場におられたたくさんの方々皆からの、「すごーい!!」と言うどよめきの声が聞こえました。

一人の人生の節目に、その子を祝う人達の中に、幼稚園時代ゆかりの人がたくさん集まっている事に、人と人との繋がりのスタートに関わる幼稚園の意味深さを感じます。美穂先生は教え子たちの成長ぶりに…また、卒園してからもずっと先生に思われていた卒園児達もお互いにどんなに嬉しかったでしょうか。その絵を描いた時の事を覚えている子もいました。それぞれに違った人生を歩んでいても、何かの時には、こうして集える仲間の関係が続いているという事は素敵な事だと思います。思い出話もたくさんできたようでした。


幼稚園の子供達には、まだはっきりとした将来が見えません。中学生や高校生くらいになると、将来の事を現実的に考えながら生活していくようになるので、その子がどんな大人になっていくかが、だいたい予想できますが、幼稚園時代から大人までの長い年月は、子供達を色んな風に変えていきます。幼稚園の先生達は、いつも、まだ先の見えない子供達の成長を長い間気にしながら過ごしています。風のたよりや懐かしく久々に会った保護者の話から、今その子がどうしているかを知ったり、手紙や年賀状のやり取りで知ったりして、安心したり心配したりしています。こうして気にしているところに、“嬉しい報告”があれば、我が子の事のように喜びます。新聞等で、卒園児の名前をみつけては、先生達で「○○君が、作文書いてたね」「○○ちゃんが入賞していたね」等と懐かしみながら話をします。先日も開幕した全国高校野球広島大会の各学校のメンバー表が新聞に出ていました。その中から卒園児の名前を一生懸命探します。どの子がどの学校で頑張っているのかをみつけたいからです。どんな人生を歩んでいて、その先どんな志をもって生きていこうとしているのかを応援したいからです。4人の絵を大切にしまっていた平田美穂先生の気持ちはそういう愛情だったと思います。その絵を久しぶりに取り出してみた美穂先生は、きっと当時の事を鮮明に思い出し、その4人だけではなくその他の子供達とも一緒に過ごした1年間を紐解いたでしょう。また、その絵を見せてもらった卒園児達も、当時の自分にふと戻れたでしょう。そして、この繋がりに感謝したのではないかと思います。

自分の事を気にしてくれている人がいるという事を知ったら、何となく心強かったり安心したりします。久々の再会で今までずっと自分の事を気にかけてくれていた事を知った彼らは、きっとこれから先も元気に前を向いて頑張れる力をもらったと思います。(こんな先生を裏切れないな)と思ったでしょう。幼稚園で得た物や学んだ事を生きる力にして自分で幸せだと思える人生を歩んで欲しい…これが、私達の幼稚園から子供達を送り出す時の願いです。幸せをつかんだ卒園児の姿を見ることができた時には、本当に安心し感動します。

まだまだ人生の通過点ではあるけれど、彼らはその絵を見せてもらった事によって、心の栄養補給ができ、これから先、また再び素晴らしい人生を歩める力を得たのではないかと思います。梅雨明けのウエディング…新郎が描いたその絵は丁度雨上がりの虹を見る自分と美穂先生でした。(お相手は変わっちゃいましたね。)

経験となんとなくが結びつく時(平成23年度7月)

段々と日差しが強くなってきました。いよいよ夏です。子供達は毎日楽しいあそびを考えて、元気いっぱい過ごしています。とりわけ、プールあそびができる日には、その時間を楽しみにしているようです。

子供達は、新年度が始まってこれまで色々な事を経験しました。春の遠足、内科・歯科検診、初めての参観日、ヒツジの毛刈り、年長組は田植えやサツマイモの苗植え、お茶のお稽古等々…。初めての事や、ずっと前から楽しみにしていた事が経験できて、子供達はドキドキワクワクの心揺さぶられる毎日のようです。その度に子供達の心の中にはたくさんの感動と発見の喜びがあったはずです。年中組の田植えについては先月書かせていただきました。5月の終わりに行なったヒツジ(クリームちゃん)の毛刈りでは、冬に着るセーターの正体が、実はそのヒツジの毛だったという事を知りました。当たり前にように着ていた時には(いったいこれは何でできていて元は何だったのだろう?)なんて考えていた子はそんなにいなかったでしょう。刈られた毛を洗い、段々きれいなアイボリー色になっていく様をみて、「ほんとだ!!毛糸と同じ!セーターと同じになってきた!!」と感動していた子供達の頭の中では、その経験と“なんとなく”がつながってヒツジと毛糸の関係が“なるほど”と納得できたのです。いつも食べているご飯やサツマイモが、実はこうして作られていたのだ、いろいろな手をかけ僕達の口に入るんだな、という事を田植えやサツマイモの苗植えで知ります。子供達が自らの経験を通して得た学びは一生の学びになります。そこには、“なるほどそうだったのか”“不思議だ!”“すごーい!”という感動があるからです。

年長組の子供達は毎月お茶のお稽古をしています。掛け軸や花、香合を見ながら季節の話を聞いたり、相手を思いやる気持ちや子供なりに場の空気を感じ、いろいろな事に気づく心が育てばと思ってお稽古をしています。そこでいただくお菓子やお茶も子供達にとっては魅力の一つとなっています。毎回、お茶の先生が季節折々の掛け軸を持って来て話をしてくださいます。5月は雨降りの田植えの掛け軸でした。「これは、何をしている絵でしょうか?」と尋ねられると、「田植え!」と即座に答えていました。その前に田植えを経験したばかりだったので、すぐにわかったのだと思います。掛け軸に描かれている苗と自分達が植えた苗が同じ物だという事も田植えの絵と自分達のその時の様子が重なりリアルに感じる事ができたでしょう。また、6月は、雨の日の夕暮れの掛け軸でした。「どうしてこの軸を持ってきたでしょうか?」と先生が尋ねられ、きょとんとしていた子供達に、「ついこの前は春だったでしょ、そして夏になるでしょ、その前に雨がたくさん降る時期があって、今がちょうどその時期で“梅雨”と言うのよ。」と教えていただき、日本の四季について知りました。雨の大切さや恐ろしさも、先生の話の中から知りました。子供達は、真剣に先生の話に耳を傾けます。「水のないカラカラの田んぼでは、みんなの植えた苗はお米が実らないのよ。」と教えてもらい、「アサガオも一緒!水を毎日あげないといけないんだよね」と、自分たちが栽培しているアサガオにせっせと水をあげていました。

「雨降りが好きな人!」と聞かれた時に手をあげた子がいました。「傘をさした時のポタポタという音が好きだから。」とその理由を言っていました。また、「雨がずっと降らないと水不足になって、野菜が駄目になるから。」と言う子もいました。逆に嫌いな理由を「外で遊べないから。」とか「大水になって洪水になって、家が流されてしまうから。」と、災害の事を思い出したように言っていた子もいました。いろんな経験や先生の話…または、家でお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんから聞いた話で、子供達の頭の中ではいろんな事が結びついたのだと思います。話を聞いて、“なんとなく”わかっていた事と、実体験を通して得られた感動が結びついた時(ああ、こういう事だったんだな。なるほど本当だ!)と“真の学び”につながるのです。その時、子供達は学ぶ楽しさや面白さを同時に得ます。もっと知りたい、もっと教えてもらいたい!という学ぶ意欲に繋がります。

自分が毎日せっせと水をあげるアサガオの葉がどんどん大きくなったり、自分達が植えた田んぼの苗がぐんぐん長くなっているのを見たりした時、または、初夏に植えたサツマイモの苗がピーンと元気に育ってきて、秋の収穫の時には更に感動を味わうでしょう。逆に、水やりをさぼってしまって、アサガオが枯れたとしたらそれはそれで、“なるほど”と学ぶでしょう。幼稚園はそういう体験がたくさん出来るところです。教えてやろうと先走って結果や結論を教えたとしても、子供達が感動できる経験が伴わないと、本当の知識として頭と心に残らないのです。

これからも、子供達はもっともっと幼稚園で色んな経験をします。“なんとなく”知っているだろう事を確かな“知識”に繋げるためにも、子供達はどんどん遊んでどんな事にも興味をもって心揺さぶられる経験を積む事が大切なのです。幼稚園生活の一日一日が子供達にはとても大切で意味のある時間なのです。

開放感(平成23年度6月)

入園・進級から2カ月が経とうとしています。新しい生活に慣れるための半日保育を過ごしていた子供達は、最初は幼稚園での短い時間でさえ、いっぱいいっぱいで長く感じていたのに、そんな子供達の中から、段々と(もっと遊びたい)(まだ帰りたくない)という言葉が聞かれるようになってきました。幼稚園生活のペースやリズムがつかめ、幼稚園の楽しさがわかって来たからでしょう。

5月に入ると、遠足や参観日を経験し、初夏の日差しや空気を感じながら外遊びもしっかりできるようになってきました。子供達の表情がどんどん変わってきているのがよくわかります。

そんな中、ゴールデンウィーク明けに、年長組が田植えを経験しました。我が家の田んぼを一枚、その日一日は子供達のために田植えができるように準備しておく…、これは、今年で8回目です。もともとの始まりは、田植えの経験等全くなかった私が農家に嫁ぎ、田植えの作業がとても気持ち良さそうに見え、歩けそうで、実はそう簡単には歩けないヌメヌメした田んぼの感触と手植えの面白さを、何とか幼稚園の子供達に経験させてやる事ができないかと、家族に相談をしたのがきっかけでした。すると、義父が「子供達に植えさせるのなら、この田んぼが一番条件がいいんじゃないかな?広いし、見晴らしがよくて、友達が植えるのも良く見えて、足を洗うところもある。使ったらええよ。いい経験になるかもしれん。」と言ってくれたので、その田を幼稚園に貸りる事にしました。こうやって始まった三次中央幼稚園の田植え、これが、私自身が家業だと思いながら田仕事を手伝っていたのであれば、大変な事ばかりが見えてきて、とても幼稚園の子供達に……等と、思いつきもしなかったかもしれません。幸い(?)にもその苦労がわからなかったことで、始める事ができたのだと思います。 

さて、田植えの当日は、園長もバスの運転手も、協力してくれる我が家の家族も田んぼに入り、田植えの仕方を指導します。子供達はあぜ道から、ヌメヌメした田んぼに一歩踏み入れるまでが、勇気がいるようで、最初はなかなか「こっちにおいで」と呼んでも、恐る恐るなので足が進みません。その日は汚れても良い短パンとTシャツ、裸足というスタイルですが、汚れる事にも抵抗を感じている子も毎年います。「汚れてもいいんんだよ」と言っても、なかなか思い切って動けないのです。

やっとの思いで自分が苗を植えるポジションに着くと、慎重に丁度いいだけの株を一生懸命植えていきます。一生懸命になっている間にお尻が田んぼの中につかり、汚れてしまう子もいます。それを何回か繰り返すうちにこの醍醐味がわかってくるのか、表情がパーっと明るく、いたずらっぽくなってくるのです。そこで、近年始めたのは、慎重に心を込めて苗植えをした後、植えていないスペースを使っての田んぼの運動会です。気分を一新して思いっきり走りまわります。それはそれは、顔も身体も泥だらけです。もう汚れなんて気にしている子はいません。むしろ、わざと、田の中に座りこんで、「いい気持ち」と喜ぶ子もいました。ほっぺや白い腕に私達がわざと泥をつけると、友達がそれを見て大笑い。「汚れていいんだよ」という言葉と先生がわざと泥をつけて汚してくれたことで、子供達にとっては先生が『ぼくらに共感』してくれたという事を確信するのです。しかし家では、とてもそうはいきません。そんなに汚れて遊んでいたら、親なら一言二言、小言を言いたくなるでしょう。それが、ここでは、「いいんだよ。いっぱい汚してどろんこになって!」と勧めてもらえるのですから…その上、汚れた事を褒めてもらえるのですから…。

子供達はいつも、ハチャメチャしてみたいと思っているのです。それは、挑戦であったり、試してみたかったり、自分を発見するチャンスをうかがっているものだと思うのです。子供の殻をほんの少しコンコンとノックしてやるだけで、その子の新たな一面を見つける事ができます。子供自身もそれによって、大げさかもしれませんが、人生が少し変わるかもしれないのです。心が解き放たれ、“自分の秘めたる力の発見”や“楽しさ発見”のきっかけを自由に感じる事ができるようになるからです。

泥んこの身体や足を洗った後は、我が家の家の周りを走り回って“探検”とやらをしていたみたいです。子供達が帰った後、家の裏へ行ってみると、可愛い足跡や石ころや葉っぱを集めて遊んだ跡があり、それがなんとも可愛かったのです。開放感を十分に味わってくれた事でしょう。だからと言って、勿論、いつでもどこでもそれがOKかと言うとそうではない事にも、いつか気がつく子供達になって欲しいと思います。そのためにも、だからこそ思いっきり開放感を味わわせる事が必要だと思うのです。そして、十分発散できたら、空気をよんで、落ち着くべき時には、(この場は違うぞ)と感じて、自分の中の落ち着いた部分を発揮するようになります。納得するまで思う存分やらせる事は、切替えもできるようになるという事なのです。自分で納得できていないまま無理やりストップをかけられたり、叱られたり、わかってもらえなかったりすると、またどこかで、発散したくていつも何だかそわそわと落ち着かない様子になる…という事もあるのです。“自分発見”のチャンスは、この開放感を味わえる経験や活動の中で得られるのかもしれません。

年長組が植えた田んぼを、その後すぐの日曜日に、見に来てくださったご家族がありました。あの時、「汚してもいいんだよ」と言ってくれた先生やその後で、「上手に植えたね」とほめてくれる家族の元で育つ子供達は何とも充実感をたっぷりと味わえた事でしょう。

「楽しかったぁ~!」と言って帰って行く子供達の顔が、また少したくましく見えました。