葉子先生の部屋

子供の心に寄り添う(平成23年度3月)平成24年3月

先日は、今年度最後の参観日でした。幼稚園では、一年の間に何度か参観日を行い、毎回その時期の子供達の成長を観ていただけるように内容も様々にしています。今回の最後の参観日では、各クラスで考え友達と協力し合いながら演じる劇あそびを観ていただきました。幼稚園という小さな社会で色々な経験を積んできた一人ひとりの様子や、深まった集団の関わりには、一年の集大成とも言える大きな成長がみられます。いかがだったでしょうか?各クラス共、笑いあり感動の涙ありの“劇あそび”で、盛り上がったのではないでしょうか。そんな中、年少うめA組の『ももたろう』の劇あそびの裏側に、こんな温かいエピソードがありました。劇あそびに向けて、先生に絵本を読んでもらったり話をしてもらったりして少しずつ劇を組み立てていた頃だったと思います。私が保育室の前を通ると、元気な歌声が聞こえてきました。その歌声に誘われるように行ってみると、うめA組の子供達がとても張り切って歌いながら踊っていました。どの子もどの子も活き活きとしていました。これは、うめA組に限らずどのクラスでも、子供達をその気にさせる先生の指導力にも感心させられますが、その時の子供達の満足気な顔つきにもまた驚かされました。みんな得意顔なのです。新年度が始まった頃には見られなかった顔でした。それから数日後、担任の平田美穂先生が「いとうはやと君のお家からこれをいただいたんです。」と何やら持って来ました。そして、添えられていたお母さんからのお手紙にはこう書かれていました。『はやとも、(家で)ももたろうの話をしてくれています。「ママ、今元気がなくなって休んでいるお友達がいるんよ。きびだんごを食べれば元気になるはずよ」とずーっと言っています。風邪で休んでいる子や咳をしている子が心配なのでしょう。きびだんごの代わりになるかどうか分かりませんが、うめAキッズの皆で食べてください。』──見てみると、それは“乳団子”でした。はやと君のお父さんとおじいさんは“乳団子”を製造販売しておられます。お母さんは、我が子が今一番に心寄せているものが“ももたろう”の劇あそびと欠席している友達の事だという事をしっかりと受け止めておられたのです。園長先生も、その手紙を読んで、すぐに「そう。ありがたいねぇ。子供達に食べさせてやってね。」と共感していました。そして、美穂先生は、子供達にその話をして“乳団子”を食べさせました。それからは、いぬさん、さるさん、きじさん、そして何よりお休みや咳をしていた子もみんなみんな元気になった事でしょう。

子供は、いつも現実と空想の中をさまよい楽しんでいます。ノンフィクションの物語の中にでも自分を登場させて、また想像して考えたり楽しんだりします。はやと君も“きびだんご”には、鬼ヶ島の鬼を退治できるくらい強くなれるパワーがあるのなら、お休みしている友達も食べたら早く元気になれるんじゃないかな?と真剣に思ってお母さんに話したのでしょう。その話を聞いて、お母さんははやと君の純粋な気持ちに寄り添ってあげられたのです。「じゃあ、きびだんごではないけど、お父さんとおじいちゃんの乳団子を持っていこうか!」というその時になされた母子の会話にとても温かいものを感じます。はやと君はどんなに嬉しかったでしょう。“ももたろう”の物語の中に母子一緒に入り楽しんだのです。それから、“ももたろう”の挿入歌は、♪♪も~もたろうさん、ももたろうさん、おこしにつけたちちだんご、ひとつわたしにくださいな♪♪ という歌に変わっていました。そして、美穂先生は、ちゃっかり乳団子の包装用の袋までもらって小道具を作りました。そして参観日…、ももたろう役の子供達の腰にはその“乳団子”がついていました。可愛い可愛い“ももたろう”の劇に、クラスの保護者の方の顔もほころびっぱなしでした。

たとえ本当の“ももたろう”の話と違っていたとしても、そんな事は問題ではないのです。幼稚園の経験に心動かされた我が子と共に同じ鼓動を打つ事に喜びを感じる事は、お母さんにとっても子供にとっても幸せだと思います。誰でも、自分の心に寄り添ってもらえたら、その時覚えた感動はさらに展開したり深まったりします。ちょっとした、心の動きが本物の感動になり、その時に感じた事がその子の心を育てていく事になるのです。たまたま、岡山に行った園長先生もうめA組の子供達にきびだんごを買って来てくださり、ますますうめA組の子供達の“ももたろう”に向ける気持ちは盛り上がりました。うめA組の子供達にとって“ももたろう”の物語は特別なものになったでしょう。何よりはやと君にとっても……。

そう言えば、昔、年中組を担任していた時、クラスでサッカーが大流行し、保護者がサポーターになってくださり、サッカー大会で盛り上がった事──。年長組の時、牛乳パックでそうめん流し台を作ってそうめんを流したい!という子供達の願望をクラスの保護者に知らせたら、「お手伝いしますよ」と言って、たくさんのお母さん方が手伝いに来てくださった事──。こうして、子供達の突拍子もない夢が何度か叶った事を思い出しました。

幼稚園では、子供達はもうすぐクラスの先生や友達との別れを控えています。この一年の間に、子供達同士でも先生とでも、お互いの小さな心の動きを大切に受けとめ、寄り添って過ごせるようになりました。そんな関係になれるクラス、仲間、家族は、本当に宝物ですね。

♪♪も~もたろうさん、ももたろうさん、おこしにつけた
   ちちだんご、ひとつわたしにくださいな♪♪

……これも、また、なかなかいいじゃあないですか。
ももたろうさん、すみませんねぇ。ここはひとつ大目にみてやってくださいな。

学べるチャンス(平成23年度2月)平成24年2月

新しい年を迎え、あちらこちらに新年の挨拶をしていたら、いつの間にかもう2月…。まだまだ、年明けの余韻を残したまま、時が経っていきます。幼稚園では、年長組の保護者懇談会も行われ、幼稚園を巣立つ準備が始まっています。他の学年にとっても、3月までのこの数カ月は大切な時間となります。ゆっくり時間が経ってくれればいいのに…と物悲しくもあります。

最近年長組のお母さんとこんな会話をする事がよくあります。「もうすぐ卒園…。入園式をしたのが、ついこの前のような気がします。3年間なんてアッという間ですね。」──そうですよね、保護者にとっても子供達が“こども”でいてくれるのは、長い人生の内の一瞬の時間なのです。でも、この短い時間が子供の将来の人生の土台になるのです。人として、生き抜く力はこの時期にこそ育つと思います。たくさんのいろんな経験をすることこそが、この時期にしか出来ない学びだとつくづく思います。

では、“色々な経験から学ぶ”とはいったいどんな事なのでしょうか?たくさんの手習いをし、知識や技術をマスターする事?いろんな所へ、おでかけして楽しい思い出をつくる事?……こんな経験も確かに必要なのかもしれません。でも、与えられた経験ではなく、流れゆく時間の中でじっくりと自らの興味で瞳を輝かせ、時間を忘れるほど遊び込む経験こそが一番の学びであり土台作りに必要な事なのではないかと思います。「あらっ?」「どうして?」「なるほど」という経験がたいせつなのです。

少し前の事です。満3歳児さつき組のある男の子が、「ねえ、ちょっとちょっと!葉子先生!来て来て」と朝の園庭で私を忙しそうに誘いました。「なになに?」と傍に寄ってみると、一本の木の皮の窪んだ部分に見事に作られたクモの巣を覗きこんでいました。そのクモの巣に朝露がかかり青白くきれいに見えていました。

「これは何?」と聞くのです。見れば、園庭の木のあちらこちらに同じものができていました。その子が言うまで、気が付きませんでした。きれいだなあ、不思議だなあなんて思いもしませんでした。その子は、一日中でも外で遊び、色んな事を発見出来る子です。だんご虫、カマキリ、ドングリ、水たまり…入園してから今まで、色んな事に興味を持っている彼の掌には、いつも何かが握られています。「なんだろう?」と真剣に観て考えるのです。また、先日、ある年少組の保護者のれんらくノートにちょっとした母子の会話が綴られていました。その子のおじいちゃんは、漁師さんだそうです。海で獲れた魚を三次の孫に送ってくださる優しいおじいちゃんです。その子は食通でタイの目が好きらしく、「愛媛のおじいちゃんにタイを送ってねって電話しようや」とお母さんにお願いしました。そしてしばらくして、「ねえ!タイは海のなかで泳いでいるでしょ?じゃあ、おさしみも海で泳いでるん?」と聞いたそうです。そのお母さんは、なんてとんでもない事を聞くんだと、さしみがひらひらと海を泳ぐ姿を想像して苦笑いしたそうです。「…はてさて?どうして?」「ん?これは?」「…ということは?」と思うこの興味は、必ず将来の彼の探究心を育てると思うのです。知っていると思っていた事が意外にも知らなかったり、勘違いのままその子の知識になっていたりする事がたくさんあるのです。大きくなって、今の今まで知らなかったの?と驚く事も結構あるような気がします。それは、それまで興味や関心を示さないまま大きくなったからです。また、そういうチャンスがなかったからです。早期教育等により、子供達が自ら身体を動かし心の目で物事をじっくりと観る時間や気持ちの余裕を失くしてしまう事も要因の一つになるのかも知れません。私達大人は、そのありのままの姿や様子、または本物に触れさせてやる事、そうできるチャンスを奪わない事が大切だと思います。

料理をするお母さんの傍で、その様子を見ているだけで、「そうか!」といろんな事に気付きます。仕事をしているお父さんの手伝いをするだけで、「なるほど!」といった事にも出合えます。畑仕事をするおじいちゃんの傍で土と戯れ遊ぶ時に、季節の野菜の正体や生命力を目の当たりにします。針仕事や洗濯物を干すおばあちゃんの手元を見るだけで、昔ながらの知恵を教わります。昔はこんな光景が当たり前だったそうです。「どうして?」「これはなぁに?」と尋ねた時にゆっくりと教えてくれる人が周りにはたくさんいたのです。だからいつでも、もっと知りたいとか教えてもらいたいと思いながら、色んな事に興味をもちながら経験できていたのだと思います。

今の時代、スーパーに行けば、魚を捌(さば)かなくても良いように、パックに切り身で売っていて、本当の姿がどんな物かを知るチャンスがありません。季節に関係なく野菜が並び、寒い時期でもトマトやキュウリが食べられます。夏野菜という言葉を聞いてもピンときません。すぐに調理しやすいように、皮を剥いてあく抜きがしてあるサトイモやゴボウの笹がき…手を加えていないそれらを見て、同じ物だとは思えないでしょう。 “便利に”とか“能率良く”と、生活をするために省きたい『無駄な時間・無駄な事』は実は子供にとっては大切な時間であり貴重な事なのかもしれません。子供達が思う存分興味深く経験できる時間や気持ちを大切にしてやる事、チャンスを奪わない事が、幼児期の本当の教育だと思うのです。

しきたり…って?(平成23年度1月)平成24年1月

新年明けましておめでとうございます。昨年末に清水寺で行われた「今年の漢字」はご存知の通り『絆』でした。東日本大震災や台風被害によりあらためて感じる事ができた“家族の絆”、支援する“人の心と心の絆”、また、昨年の国内10大ニュース3位にあげられた女子サッカーWカップで優勝に導いた「なでしこジャパン」の“チームワークの絆”等、誰もが納得する理由が挙げられました。これは、昨年限りではなくいついつまでも忘れる事なく、今年…またその次の年…そしてまたその次の年へと繋いでいくべき素晴らしい一文字だと思います。そんな事を思いながら、昨年末から新しく始まるこの一年を心静かに迎えました。今年一年もどうぞ宜しくお願いします。

さて、皆さんは初詣に出かけられましたか?我が家は必ず毎年元旦に家族揃ってお参りします。境内に上がり家内安全の御祈祷をしていただいた時の事です。畳を歩く娘達の足元に目が行きました。畳の縁を踏み、さらに、並べてある座布団を何気なく踏んで座ったのです。きっと娘達は知らず知らずのうちにそうしたのでしょう。お恥ずかしい話、今まで私もそんな事にも気付いてやれなかったのですが、そろそろ“大人”になったなという我が子を見る目が変わって来たせいでしょうか、最近いろんな場面でいわゆる“マナー”について話してやる事が増えてきたのです。そんな事もあって、境内での娘達の振る舞いには物申したくなりました。小さな声で「畳の縁は踏まないんだよ。」「座布団も踏まないの!」と伝えましたが、「どうして?」ときょとんとしていました。「いろんな人がどうしているかを見ていてごらん。」と言って、しばらく一緒にたくさんの参拝客の足元をさりげなく見ていました。すると、年配の方は殆んどが畳の縁を踏まずに歩いておられましたし、座布団を踏む等もありませんでした。その逆で、若い人の多くは悪気もなく踏んでいました。

畳の縁も座布団も踏まないという日本人特有のしきたり(マナー)には、それぞれに意味や理由があるのです。床下に隠れた忍びの者が畳の縁の隙間から漏れる明かりで、刀を床下から刺し命を取られる事がないようにという戒めだったり、畳の縁には、模様として家紋を入れることもあるので、それを踏むという事は無礼になるという事もあるようで、この理由を聞かせてやると、娘達は「なるほど」と納得しました。また、座布団には客を大切にもてなすという意味があり、それを踏むということは、もてなしの心を踏みにじることにもなるからです。日本の住宅事情も変わり、畳の生活からフローリングの生活に変わってきた現代、実際なかなかそんな事を話してやる機会がなくなってきたのかもしれません。もう“古臭いしきたり”なのかもしれません。しかし、人は皆いろんな形で共同生活を送っています。お互いに良い関係を保つために必要な気持ちを形に表したものが“しきたり”や“マナー”なのです。面倒臭いと思われがちですが、そもそもの意味を知れば、相手への心配りとして当然の事だと納得できます。しきたりに縛られる事はないと思いますが、その年齢にあったマナーはあると思います。例えば、人の家に遊びに行った時に靴をきちんと脱いで揃えるとか、食事の食べ方、挨拶の仕方等、これは、いつの時代になっても変わる事のない当たり前の“マナー”で、そのマナーの裏にある「心」を子供達には教えてやらなければいけないのだと思います。色々な事が簡略化・合理化されてきている世の中でこういった事までそうしてしまうのは、「心」が置き去りになりそこに生まれるはずの人と人との良い関係が築かれなくなってしまう危険があるような気がします。しかし、私達世代の大人も、もう一世代前の方にとっては、無知で無作法な事をたくさんしているのでしょう。私自身も昔から言い継がれているしきたりの意味をもう一度学び、子供達に伝えてやりたいと思います。 

幼稚園では年長組が、毎月一度お茶のお稽古をしています。ある年長組のお父さんが、「うちの息子と、あるお茶会に行ったら、懐紙を上手に使って口を覆ってお菓子を食べて、茶碗もくるっと向きを変えて(正面を避けて)飲んでいたのにびっくりしました。」と話してくださいました。お茶のお稽古は、ただ単にお菓子やお茶の頂き方を習っているのではなく、お茶碗を大切にする事や口を覆ってお菓子を頂く意味やそこでの一つひとつの挨拶等、その作法の中に見え隠れする「相手を思いやる心」や「大切に思う心」を学ぶ一つの入口にもなっているような気がします。

家庭から受け継がれていくマナーやしきたり…それは、一生涯人とコミュニケーションを取らずには生きられない子供達の最低学ぶべき最高の教育ではないかと思います。

特にお正月には、このような日本人特有のものにたくさん出会えます。お節料理やお年玉の意味、お客様への心配り、逆に訪問する時のマナー等、堅苦しい様ですが色んなしきたりのその行為と心を知れば結構おもしろいのです。なかなかそうできなくても、(何となくそうしてはいけないような気がする)(何となくこうした方が良いような気がする)(この方が気持ちよかったり喜んでもらえるような気がする)…こんな気持ちになるだけでも素晴らしい事だと思います。そう思えることが、相手を大切に思うことに繋がっているのですから。

神聖なる場所(平成23年度12月)

暑い夏に木陰をつくり子供達の身体を優しく包んでくれた園庭の木々の葉が冷たい風に舞い落ちる季節になりました。イチョウの木の下は黄色い絨毯(じゅうたん)のようにも見えるほどです。葉が落ちた木々を見上げると少し寂しくなりますが、春の準備を始めているのだと思うと、この趣もなかなかいいものです。

そう思いながら、朝の園庭にいると年長組の保育室から、鍵盤ハーモニカの音が聴こえてきました。よく聴いてみると12月に行われる“フロアーコンサート(音楽発表会)”で年長組が演奏する曲でした。出来ないから練習しているのでも、先生からしなさいと言われたからでもなく、何人かの友達で集まって弾いて遊んでいるのです。これまでにしてきた楽器別・パート別の練習があそびになっていました。きっかけは、“フロアーコンサート”に向けての、先生の指導だったけれど、それから自分達でどんどんモチベーションをあげ、自然に「もっと上手になりたい」「もっと弾いて楽しみたい」と思うようになってきます。そうしながら、子供達はどんどん技術を磨き挑戦する事を楽しみながら上達していきます。そんな何日かを過ごし、いよいよ先日からホールで合奏の練習を始めました。年中組・年長組は合奏、年少組はお遊戯を発表します。これまでに、フロアーコンサートを経験している子供達も、今年初めて経験する子供達も、ホールのステージでの練習はとても楽しみにしていたようです。それもそのはず、先生達が、ホールに行って練習する事をもったいぶって話すからです。「キラキラステージで踊れるよ」とか「ホールで大きな楽器を使って合わせてみるのが楽しみだね」等と、毎日の練習が楽しみになるように話します。また、「頑張って練習して、ステージで演奏しようね。」と話す事によって“ホールに行くこと”が目標になるのです。それからは、子供達の意識の中で“いつものホール”が“憧れのホール”に変わります。早くホールのステージで踊りたい!演奏したい!とウズウズしてくるのです。

ある年少組の男の子が、ホールでの練習を明日に控えた日、降園前に、先生から「明日は、いよいよホールのキラキラステージで踊るから楽しみに幼稚園に来てね」と言われ、家に帰ってからもその事を嬉しそうに母親に話し、翌朝も楽しみに幼稚園に来たそうです。その子は、やっと行く事ができた“憧れのホール”のステージで笑顔いっぱい嬉しそうに踊っていました。年中組・年長組もまた、ホールに入って来る時の顔つきがいつもと違っていました。普段は、お誕生会でにぎやかに楽しく過ごすホールが、“憧れのホール”で、“神聖な場所”になっているのです。だから、そのつもりでホールに集まる子供達は、いつもと少し違い、整然と並び、静かに歩いてやってきます。そして、練習のスタンバイをします。

ホールに行く時の心構えや、挑戦しようとするいい緊張感が子供達の心に宿ります。子供達はこの空気を楽しみます。私は、たとえ幼い子供であっても、今この場所はどんな場所か、自分がどうしないといけない場所なのかが分かり、そのように振る舞えるようになってほしいと思います。いつもいつも同じ空気、同じ気持ち、同じ自分ではなくて、その場に応じて自分の気持ちを切り替えられる子になってほしいと思うのです。その空気の中だからこそ味わえる喜びや楽しみや感動があるのです。この空気こそが子供達にとって“神聖な場所”なのです。そんな場所をつくってやることは大切です。

“神聖な場所”を楽しめるのは素敵な事だと思います。

戸外あそびで大はしゃぎをした気持ちのままがどこでも通用するかといえば、そうではありません。小さな子供だから仕方がない…ではないのです。年長組の子供達が毎月一回行っているお茶会でも、5歳6歳の子が席入りをする顔つきは、いつもと違い神妙な面持ちです。それだからと言って苦痛なのではなく、みんなその神聖な空気を楽しんでいます。そこに身を置く気持ちをどのように切り替えればいいのかを分かっているからです。ここはどんな所か、ここではどんな事がありどう行動するべきなのか、どうする事が周りの人にとっても自分にとっても良いのかということを話してやれば、ちゃんと分かって行動できるのです。それは、その子にとって賢い人になる一歩につながると思います。

これまで、保育室で練習してきた事をこの”神聖なるホール“で、力いっぱい出し切る事を夢見て頑張ろうとすることができる子供達はすごいと思います。”神聖なる“…なんて大げさかもしれませんが、小さな子供達にとっては、幼稚園のホールでさえ、やり方や考え方次第では、大切な場所としてひとつの目標にする事ができるのです。

本番のフロアーコンサートでは、ステージに立つ子供達がそんな気持ちで臨む姿を、きっと頼もしく思っていただけるのではないかと思います。どうぞ、楽しみにしていてください。

やるときゃやる!!そんな子供達を応援してやってください。

“神聖なるホール”に響き渡る大喝采は、子供達をまた一回り成長させてくれる事でしょう。

気持ちに気付く(平成23年度11月)

この10月は、私達の周りで様々な秋の行事がありました。町のあちらこちらでも、華やかな神輿(みこし)をかつぐ声や鐘の音が賑やかな秋祭り、学校や町の人達による文化祭、そして幼稚園でも秋季大運動会から始まり、イモ掘りや秋の遠足、また、先日は保育参観「ちゅうおう祭」を行いました。実りの秋・芸術の秋・~の秋…と色々な事を言いますが、それらの楽しみや喜びを味わうには大変良い時節です。

幼稚園の遠足には私も全学年の引率をしました。春の遠足の事を思い出しこの半年間の子供達の成長を実感しました。子供達にとって集団生活の中での半年はとても大きな時間である事がわかります。密に関わりを持ちながら生活をして行きますから、楽しい事も悲しい事も経験します。友達との関わりでも色々な事が起こります。それらを通して、子供達は少しずつ大人になる準備をして行くのです。

先日、こんな場面に出会いました。年長組での昼食時、子供達と一緒に食べようと保育室に行った時の事です。お当番の子二人が自分の昼食の準備をした後、前に出て「いただきます」の挨拶をしていました。他の子供達はお当番の号令に合わせて食べる準備を進めます。その間、お当番の子のお弁当やコップや椅子を隣の子がきちんと整えたり、席に戻った時にすぐに食べられるように、準備をしてあげたりしていました。それはとても自然な優しさに見えました。クラスの中でそうしてあげる事がルールになっているわけでもなさそうでした。私はその後もお当番の子とその隣の席の子を見ていました。挨拶を終えて、席に戻ったお当番の子は、自分が準備した時よりもお弁当やコップがきれいに整えてあるのに気付き、「わー、誰がしてくれた?ありがとうね」と周りの子を見ました。すると、隣の女の子が「うん」と一言言い、にっこり微笑みを交わしたのです。特にそれが大きな話題にもなるわけでもなく、そこには、柔らかな空気がほんの一瞬漂っただけでした。私もあえて「ちいちゃん優しいんだね」と声をかけませんでした。二人の間では、ちいちゃんの気持ちは十分に伝わっていたのですから…。また、その子にとっても、その行為は極々自然な気持ちのままだったからです。「やってあげた」という得意な意識を持っていた訳ではなさそうでした。多分、いつか誰かにそうしてもらった事があって、その時に嬉しかったりありがたかったりした経験がその子の心を動かしているのでしょう。相手の子の「ありがとうね」と喜んで言ってくれた一言でまた二人のいい関係が繋がっていくのです。

我が家の娘が小学校の時の事です。私はいつも、学校から帰る娘のスリッパをすぐはけるように玄関に並べて仕事に出かけていました。すると、ある日の夕食の時、「玄関のドアを開けた時、自分のスリッパが自分の方に並べて置いてあったら、お母さんがいなくても、おかえり!って言ってくれてるような気がして嬉しい。」と言いました。そんなふうに思ってくれていたんだと知って嬉しかったし、そうしてやっていて良かったなぁと思いました。なんでもない事ですが、私の気持ちは伝わっていたのです。

人は皆、相手の気持ちに気付いたり気付かれたりしながら、いい関係をつくっていきます。「ありがとう」はそのための美しい言葉だと思います。気付いて欲しくて優しくしている訳ではないのですが、だけど、された側はその気持ちに気付かないと…、当たり前の事として通り過ぎてしまい、次は自分もそうしてあげようと思う子にならないのではないでしょうか。

親子の間には、親から子へ向ける「優しさ」があります。手を差し伸べたり、言葉をかけたりする「優しさ」がいつの間にか、子供にとって無感動な“当たり前の事”になっているかもしれません。特に、幼い時にはなかなかそれを親から自分への「優しさ」だと気付く事はできません。親子とはそんなものなのかもしれませんが、何かの時に「お父さんって…お母さんって優しいね」と気付かせてやる事はお父さんやお母さんの愛情に気付く事になります。

また、逆に子供達からの「優しさ」にも、気が付いてやって欲しいと思います。「ありがとう。嬉しいよ。」「ありがとう。気持ちいいね。」と、どんな気持ちがしたかを伝えてやってほしいのです。自分がしてあげた行為で、相手がどんな気持ちになったのかを知る事で、喜びを感じさせてやってください。子供がしてくれる事は、ほんのささやかな事かもしれません。しかし、ちょっとした事でも人を嬉しくさせたり、楽しくさせたり、元気にさせたりするものなのだという事を小さな頃から実感させてやって欲しいと思います。それは、そのまま子供の世界でも、したりされたり…気付いたり気付かれたりのやりとりができるようになれば、集団の中でもみんなといい関係をつくっていける子供になってくれるような気がします。「ありがとう」の言葉や気持ちが飛び交うような世界ができるといいなと思います。

これは、子供と子供、親子の間の事だけではなく、夫婦の間でも言える事かも……ですね。

ドキッ!…それが、なかなか難しい…。