葉子先生の部屋

おてがみごっこ(平成24年度2月)平成25年2月

新しい年を迎え、はや1ヵ月が経ちました。幼稚園での一年も残すところあと2ヵ月となりました。この頃になるといつも卒園や入学・入園の事を思い、春が近づいて来る事が寂しかったり待ち遠しかったり…複雑な気持ちになります。この2ヵ月の時間を大切に過ごしたいと思います。

幼稚園では3学期になり、クラスで色々なあそびが流行っています。お正月にお家の人とカルタで遊んだのでしょうか?カルタ取りが前より上手になっていたり、たこ揚げをしたり、すごろくで遊んだりしています。先日の参観日にも“お正月あそび”をテーマに、各クラスでは、カルタとり大会や福笑いや文字あそびをしました。幼稚園でするそれらには、意味を持たせています。カルタをとりながら文字に興味を持ち、その文字を使えば気持ちを伝え合う事ができるという事を知ります。すごろくの数字を見てコマを進めながら数の概念を知ります。ここから、“学びたい!”という気持ちが沸き起こってくるのです。

もうひとつ、幼稚園で流行っているあそびがあります。“お手紙ごっこ”です。先生が用意したハガキに、送りたい人宛てに文字や絵を書いて送ります。クラスに設置したポストに投函(?)するのです。それを郵便屋さんに扮したお当番さんが宛先を見て配達に行きます。毎年この時期になると職員室にも「えんちょうせんせい!!ゆうびんで~す」「ようこせんせい!ハイどうぞ!」と得意気に配達に来ます。そのハガキには、それぞれに色んな事が書いてあります。『いつも、たくさんおはなししてくれてありがとう』『たうえのしかたをおしえてくれてありがとう』『このまえ、パンやさんであったよね』と自分の気持ちを伝えてくれます。私達は、その返事をまたハガキに書き、そっとその子のクラスのポストに入れておきます。このやり取りがとても嬉しそうです。

小学6年生を対象にした文部科学省の調査によると、近年ハガキを書けない…どの場所に何を書けばいいのかがよく分かっていない子が増えているという結果が出たらしく、自分の名前や相手の名前、郵便番号はどこへ、ということがわからないらしいのです。郵便番号を書く場所に枠をはずれて携帯番号を書いた子もいたようで、この話には驚きました。でも、よく考えると子供達がハガキを書く機会も習慣もなかなかなく、仕方ないのかもしれません。今や子供達でさえ、自分の気持ちを伝えたり相手の様子を知ったりする手段は、ハガキや手紙よりも、メールでのやり取りなのかもしれません。その方が早く情報交換ができるし、結論や解決も早いのです。それはそれで、スピードの世の中、便利で必要なものなのですが、手紙やハガキの良さや味わいを知らないで、メール等の便利な方法を知ってしまったら、“便利さ”すら特に感じることなく、それが当たり前になってしまうでしょう。手紙やハガキの方がメールよりもいい場合があるという事も知っていてほしいと思います。手紙はひと文字ひと文字書きます。少なくとも、その間は、相手の事だけを思い、(どんな顔でこの手紙を読んでくれるだろうか?)(喜んでもらえるかな?)(お返事くれるかな?)とウキウキしたりドキドキしたりしながら心を込めてじっくり考えながら書きます。その間を楽しむことができるのです。この『間』に、自分を振り返ったり、ゆっくりと相手の事を想ったりできるのです。これは、結果が出るまで少し時間がかかる事の良さや楽しみ方とも言えると思うのです。そして、しばらくして、相手から返事が届いたら、またウキウキドキドキしながらその手紙を読みます。やっと自分の気持ちを伝える事ができた!…その時の喜びはメールにはないものがあると思うのです。

実にアナログ的発想なのかもしれませんが、昔から伝わってきたカルタとりやすごろくでさえ、形を変えてゲームのソフトになっている時代です。一人で楽しめる時代…気持ちのやり取りや探り合いなど不必要になってきます。人と人との関わりの必要性を感じずに大人になってほしくないと思います。人と人とが関わるという事は、そんなに簡単なことではなく、気持ちを探ったり想いやったりして、心を通い合わせる事ができるようになるまでには、忍耐や心配りをするいい『間』が必要なのです。この『間』を手紙やハガキのやり取りで味わう事ができるような気がします。

「ようこせんせい!おへんじまだぁ~?」と返事を待ちきれない子供が聞きに来ます。「もう少し待っててね」と言うと「は~い!待ってる!」と、まだかまだかと待ってくれています。やきもきしながらポストの中を楽しみにしてくれています。届いた時には、「ようこせんせい、おへんじどうもありがとう」と返してくれます。この時間のかかるやりとりが、何となく素敵じゃありませんか?

全て、スピードの世の中になる事が少し怖いような気がします。時間をかけ心を込めて自分の気持ちや喜ぶ事を書いてあげたい!と思い、ひと文字ひと文字一生懸命書きます。そして、それを手にして読んだ時、その文字から感じるその人の優しさや思いやりに触れ、二人の関係がまた深まるのです。

“アナログカルタ”や“アナログすごろく”“アナログ通信”の楽しさが分かる子供でいてほしいと思います。人と人との関わりはこれから先も変わることなく“アナログ”だと思うからです。

先生と子供の間に育ったもの(平成24年度1月)平成25年1月

新年あけましておめでとうございます。

年をとってきてからでしょうか、ついこの前もこのご挨拶をしたような気がします。こうして毎日慌ただしく過ごしていると、大切な物や大切な事を見落としたり見過ごしたりやり残したりしいないかと、年末になるといつもその一年がどうだったかを思い返してみます。そして、新たな気持ちで新しい年を迎えるのです。惰性的に過ごしがちな毎日にふと立ち止まり自分を振り返ってみる──お正月は、そういう意味でも、大切なものであると思います。今年一年も、皆様にとって充実した年になりますように…。

さて、幼稚園では12月の中旬に、来年度の新入園児面接を行いました。まだまだ集団での生活を全く知らない小さなあどけない子供達ばかりです。現在幼稚園に通っている子供達も、かつてはみんなこんな感じだったなぁと懐かしく思い出しました。そんな子供達が、12月初めに行われた“フロアーコンサート”で見せてくれた姿は本当に素晴らしかったし、それまで積み上げられたものが目に見える技術の上達や姿勢だけではなく、見えない成長もある事を感じ感動させられました。

“フロアーコンサート”後も、保護者の方からたくさんの感想をいただきました。どの感想にも、一生懸命に頑張った子供達や先生の事を認め感動してくださった事が書いてありました。年少組のお遊戯は、我が子の可愛さを引き出してもらえたソーイング隊(子供達のステージ衣装を縫ってくださる有志の保護者)の方々への感謝の言葉も添えられていました。「たくさんのお客様の前で笑顔で踊れた事に感動しました。何年か後には、年中・年長組さんのような立派な演奏ができるようになるのかと思うと今から楽しみです。」と期待の言葉もいただきました。合奏に関しては、「全く楽譜も音符も読めない、楽器も見た事がない…そんな子供達にどうやって教えておられるんですか?」──これは、毎年必ず聞かれる質問です。これは、園長曰く『中央マジック』なのです。全てのタネあかしはできませんが、三次中央幼稚園の先生達がいつも大切にしているのは、“どんなクラスにしたいか。どんな子供になってほしいか。”“という思いや願いを持つことです。“子供像”を描く事です。そんな思いを持ちながら先生は選曲に力を入れます。それから、旋律をとり、合奏譜を作っていきます。この時が一番先生の力量を問われる所です。先生達は、クラスの子供達の顔や雰囲気を思い浮かべながら編曲していきます。どんな合奏に仕上げたいか、何をどのように表現したいかを考えながら…。それからの先生達のマジックについては、ここでは書ききれないので紹介できませんが、選曲からすでに先生の子供達に対する想いがあるので、その気持ちのまま指導していく……これが重要な事なのです。

しかし、順調にいく時ばかりではありません。出来ると思っていた事ができなかったり、クラスの全員が同じ方向を向いていなくてまとまらなかったりして、困惑したり一気一鬱しながら過ごします。技術を磨く事ばかりをしていくのではなく、ひとつの作品(目標)をみんなで作り上げていくこの事を介して、様々な意識を磨き合うのです。これが行事をする意味でもあります。子供達の意識の成長をねらうための手段の一つだとも言えるのです。“自分の力の凄さに気付く”“友達の存在を受け入れる”“協力する事の大切さ”“自己表現”“頑張る事の楽しさ”“一人じゃない事への喜び”“達成感”“満足感”“向上心”etc.…色々な事が期待できるのです。その過程の中で友達や先生との間に“信頼関係”が築かれます。この信頼関係は、様々な事に一緒に挑戦し、励まし合い、喜び合い、乗り越える…そんな生活を繰り返しながら築かれたものだからとても固いものです。

指揮をする先生とステージにいる子供達の間には、特別な空気が漂っています。子供達が絶対的な信頼を寄せ先生を見つめる目、また、先生も子供達を信頼し指揮を振るその様子は、それだけで感動です。たくさんのお客様を目の前に不安気な様子の子供には、“大丈夫だからね”と言わんばかりの優しい目、集中できていない子供には、“先生を見て!落ち着いて!がんばれ!”というまなざしを向けます。そのクラスの子供達には、先生がこのまなざしで僕らに何を言っているかが分かるのです。また子供達も“先生を見ていれば大丈夫だよね”と、熱く視線を向けます。どんな時も一緒にいた仲間で、共にひとつの事に向かって来た同士だからこそ生まれた信頼関係なのです。

本番の一日を観ただけでも、それを感じてくださった事と思います。本番のステージは目に見える結果ですが、その裏にはここに至るまでの過程の中で、目に見えないたくさんの結果を出してくれました。これは、これからの子供達が生涯生きる上での肥やしとなるはずです。

目に見える結果と見えない結果、そのどちらもがこれまでに築いてきた信頼関係なくしては期待できないものだったでしょう。私は、子供達と先生とのこの素晴らしい信頼関係にこそ拍手をたくさん贈りたいと思います。

3学期の始まりです。これから更に、先生と子供達の間には素敵な何かが育ちます。

続 心で叱る(平成24年度12月)

今、幼稚園では12月に控えているフロアーコンサート(音楽発表会)の練習でたくさんの曲と楽器の音色が、楽しそうに流れています。担任と子供達が新年度から温めてきた曲が、少しずつ合奏曲になったり可愛いお遊戯に仕上がったりしていくこの過程が子供達一人ひとりの成長につながっている事を実感します。そして、先生と子供達との信頼関係が確実に深まっていくのも分かります。

さて、先月の『葉子せんせいの部屋』では、“叱る”という事について書きました。綴りながら10年以上も前のある出来事を思い出したので、今回はそれを紐解いてみます。

それは、年長組を担任していた時の事。クラスの中には、とてもやんちゃなボス的存在の男の子S君がいました。ボス的な存在になっている事はその子の課題でもありました。良い所をみつけ他の子供達にもその子自身にもその子の良い所に気づかせてやりたいと思って関わった一年間でした。そんなある日、保育室で昼食後の片づけをしていた時です。一人の男の子K君が、何人かの男の子に何やら言っていました。言われている男の子達はしょんぼりしています。様子が変だったので、近くに言って耳を傾けていました。すると、「S君が、一番に外に出てサッカーするんだから、先に出たらダメだぞ!」と言っているのです。どうやら、K君はS君の言わば“命令”を受け、男の子達がS君より先に外にでるのを阻む役目になっていたようでした。私は、その状況を把握した時、とても悲しい気持ちになりました……いえ、違います。ショックでした。私は、これは見逃せないと思い、個人的にもクラスの問題としても話し合い厳しく叱りました。話を聞けば、K君は自分の気持ちに反して、言われたまま意地悪したようでした。意地悪な事を言ったりしたりした事自体よりも、悪い事と分かっていながら強い立場の子の指示に従ったというK君の行動が情けなかったのです。自分で善悪の判断をし、いけない事はいけない!と友達に言える子になって欲しかったのです。私は、こんな事がクラスの中で起こった事も考えれば考えるほどショックで、半泣きしながら二人を叱りました。S君とK君にはそれぞれに考えて欲しい事が違っていたので、別々にも叱りました。もしかしたら、次の日、K君は幼稚園に来ないかもしれないと思う程厳しく叱りました。自分の住む世界が大きくなるにつれて、このように自分で善悪を判断し行動しないとならない場面が増えてきます。いけない事と知りながら人の言いなりになる子にはなってほしくなかったのです。将来、自分の考えと責任で行動できる大人になって欲しい…という想いの一心で叱りました。

その翌日、K君がお母さんからの連絡ノートを持って来ました。私は厳しく怒った事へのお叱りを頂戴したかと思いながら開きました。すると、そこにはこう書かれていました。

『昨日は大変お世話になりました。迎えに行って車に乗り込むと、すぐ、「お母さん、今日、僕、すっごーく怒られたんよ!」と張り切って(?)話し始めました。何かワルサでもしたのかと思って聞いてみると、人に言われて意地悪をしたという事だったので、びっくりしました。私の想いを話すと「葉子先生もお母さんと全く同じ事を言ったよ。すっご~く怒ったよ。そのままの大人にならないで!!って言った。」との事でした。「僕、すご~くイヤだったんよ~。」と言うので、「何がイヤだったの?」と聞くと、「もちろん!人にイヤな事をしてしまった事。」という返事でした。「じゃあ、葉子先生に怒られた事は?」と聞くと「う~ん、けっこう嬉しかった」との事でした。先生が愛情いっぱいに叱って教えてくださったんだなぁと嬉しく思いました。ありがとうございました。』

私は、お母さんからのこの文章に、その時のK君の涙と後悔の気持ちを思い出し涙がでました。また、叱られた事をお母さんに全て話せる親子関係にも感心しました。私達は“人”を育てています。将来どんな場面でも、どうにかこうにかしながらでも強く正しく生きて行ける“人”に育ってほしいのです。そのためには私達も真剣に向き合います。世の中で許されない事があるという事を教えたいからです。大好きな先生が…大好きなお父さんが…優しいお母さんが、こんなに怖い顔で怒ってる…これは大変な事なんだと感じるはずです。叱る方も、“本気”にならないと子供の心には響きません。“叱らない子育て”にも賛成ですが、叱らなければならない部分から目をそらし、それを覆い隠すように良い所を褒めていくような“叱らない子育て”では成功するとは思えません。“叱る”は“諭す”事だと思います。生き方を見つけ出すための道標をあちらこちらに立ててやることだと思います。その道標を立てる時に、ある時は気付かれないようにそ~っと…ある時は優しく…またある時はガツン!と…と色々な方法で立てて行く事、その中に“叱る(諭す)”があるのです。

私は、その時にここまで考え、S君とK君を叱ったのではありません。ただ、“本気”だったのです。“叱る意味”に気付かせてくれたのは、お母さんからいただいたこの連絡ノートの文章とK君がお母さんにつぶやいた『(葉子先生に怒られて)けっこう嬉しかった…』という言葉でした。私は、『先生は、K君からこの言葉を聞けて、その100倍も嬉しいよ。わかってくれてありがとう。』と書きました。

心で叱る(平成24年度11月)

段々と秋の深まりを感じるようになって来ました。朝晩の寒さが、猛暑だった夏の記憶をすっかり塗り替えてしまうようです。これから深まる秋も子供達とたくさん楽しみたいと思います。

さて、先日、病院に行った時の事です。若いお母さんが二人、やっと歩き始めたばかりのような子供をそれぞれに連れて待合室で話をされていました。どうやら“ママ友”のようでした。一人のお母さんが、「最近、目が離せなくて大変!叱ってばかりで疲れてしまうわ。」するともう一人のお母さんが「あんまり、あれしちゃダメこれしちゃあダメ!って言わない方がいいみたいよ。だから私は、いけない事をしても、その中で褒めてあげられる所をみつけて褒めてあげてるよ。」と子育てについて語り合っていました。褒めて育てようとされている事がその会話からよくわかりました。私は、しばらくこの母子の様子を見ながら自分の順番を待っていました。すると、二人の子供が退屈してきたのか、ソファーによじ登り、棚に置いてある本や置物を一つずつ手に取っては落としていました。その様子にお母さんは「あらあら、力持ちだね。凄い凄い!」「こんなに高い所に上がれるようになったんだね。凄いじゃない!」とその子を褒めてあげていました。そのお母さんは、叱らないで子育てをしたいのですから…。待合室にいたのは、私だけではありませんでした。それが、まだ良し悪しの分別がつかない赤ちゃんだから他の患者さんは目をつぶってくださっているだけで、それは、見ていて決して心地良く思えるものではありませんでした。 

それから別の日、また病院に行くことがあり、今度はその時よりもっと小さな赤ちゃんを連れた若いご夫婦と待合室で順番を待っていた時の事です。その赤ちゃんはハイハイができて、畳の部屋の小さなスペースをゴソゴソ動き回っていました。いたずら盛りです。お母さんのバッグから、財布や鍵を出しては舐めたりポイポイ投げたりしています。そのお母さんは、その度に、優しく「コラコラ!これは、ママの大事大事。ちょうだいね。」と取り上げました。その度にその子はママの顔を見上げます。何度も何度も同じような事をしていました。すると、急に「危ない!!メッ!!よ。」というお母さんの声がして、赤ちゃんがその声に驚いてママの怖い顔をジッと見てその後泣き始めました。どうやらコンセントのプラグを舐めようとしたようでした。

私はその時、以前見た、叱らないで子育てをしたい母子の事を思い出していました。勿論、子供は、叱られるより褒められる事に心地良さを覚え褒められる事で、自分に自信を持ちながら成長できるのは確かだと思います。しかし、この世の中には、良い事と悪い事が入り混じって存在しています。それを正しく分別つけながらその中で自分も正しく生きていかなくてはならないのです。お父さんやお母さんの顔つきや声色を窺いながら、(これは、どうやらいけないのかもしれないぞ)と赤ちゃんなりに感じるのです。だから、お母さんが「メッ!!」と怖い顔をするとキョトンとして固まったり泣いたりするのです。そうしながら、注意されたり叱られたりする事の意味を感じてくれるようになるのです。命に関わる危険な事や人の迷惑になるような事には、真剣に目を見て「いけない事なんだよ」と教えてあげる事は必要だと思うのです。何でもかんでも世の中に通じる許される事ばかりではない事もわかる子になると思います。

幼い子供達はまだ経験が豊富でなく、判断能力や自分をうまく制御する事が確実にはできないので、幾度となく“わがまま”や“喧嘩”“人に迷惑をかける言動”“危険行為”に出てしまいます。そんな時、本気で叱ってくれるのは、我が子に良い事と悪い事の判別が正しくできる子になって欲しい!と願っているお父さんやお母さんです。“褒めて育てる”…は“叱らないで育てる”…というのとは違います。“褒める(認める)”と“叱る(諭す)”のどちらも必要なのです。「しつけだと思ってやった。」と痛ましい虐待のニュースが時々報道されます。本当に胸が締め付けられる程辛いニュ-スです。その背景には様々な問題はあるのでしょうが、“叱る(諭す)”の根っこには、『愛』がなくてはいけないのです。「僕のために叱ってくれている。」「私の事を思ってくれている」という事が感じられる接し方で褒めたり叱ったりしてください。そうしながら、親子の絆や信頼関係が深まります。まだまだ、幼児期は可愛いものです。この子達が思春期を迎える頃には、今以上の心配事が必ず発生します。この幼児期に親子の信頼関係をガッチリ築いておかないと、褒めても叱っても心を開いて聞いてくれなくなります。大きくなって、どんな社会の中でもしっかりとした人としての生き方ができる子になって欲しい──そう思います。

幼稚園生活の中でも、子供達はいろいろな事を経験しています。子供達に聞いてみてください。どんな優しい楽しい先生でも、子供達の事を一度も叱った事のない先生はいないと思います。子供達は怒らない先生が好きなのではないのです。心で抱きしめて叱ってくれる、自分を正しく導いてくれる先生に心開くのです。勿論、そうなるには、共に築いてきた揺るぎない信頼関係があればこそです。

こんな事を書きながら、10年以上も前のある出来事を思い出しています。涙を流しながら一人の男の子を叱ったあの日の事……。

この事については、また次回綴りたいと思います

引き出しの思い出(平成24年度10月)

ある日の某新聞“くらし”のページに『幼稚園「同窓会」』という題でコラムが掲載されていました。家族で出かけた帰り道、大学を卒業するようになった年齢の息子とその兄弟が通った幼稚園に急に立ち寄ることになり、懐かしい先生やその先生が弾いて聴かせてくれる歌に久しぶりに触れ、大きな園児達の小さな同窓会を楽しんだ。…という内容のものでした。

私はこのコラムを見て、迎えた幼稚園の先生の立場に自分を置き換えて読み、胸が熱くなりました。私達の幼稚園にも、よく卒園児達が人生の節目節目に幼稚園を懐かしんで、訪ねて来てくれます。色々なきっかけで来てくれるので、その子達の年齢も置かれている状況も様々です。進学が決まった事…、就職や結婚を機に日本を離れるようになった事…、結婚をして赤ちゃんが生まれた事…、大学生活を終えてまた三次に帰って来た事…、それらの報告をしに来てくれる子もいれば、丁度幼稚園の前を通りがかって、寄ってみたくなったからと来てくれる子もいます。幸い(?)三次中央幼稚園の先生達は、長年勤めている先生が多く、その子達の事を知っていたり担任していた先生がいたりして、その歓迎ぶりは凄いのです。自分が通っていた頃の先生がまだ居てくれたという子供達の感動や、年月を経ても懐かしんで足を運んでくれたという先生達の感動とが一緒になり、それはそれは思い出話は尽きません。

色々な懐かしい子供達が訪ねて来てくれますが、ある事がきっかけとなり、今なお、頻繁に幼稚園に来る男の子がいます。男の子と言っても、もうあの頃の面影も無いほどの22歳の身体の大きな子です。彼が年中組の時に担任しました。その子が幼稚園に足を運んでくれた始まりは、高校受験に悩み、人生が面白くなくなっていた頃の事です。お母さんと一緒にいた彼にばったり会い、「幼稚園に遊びにおいで」と声をかけた時からでした。照れくささからか、「来たよ」と一言言ってふてくされたような風貌で職員室に来ました。それでも、彼を知る先生達は大歓迎でした。理事長も園長も皆大切な可愛い卒園児として迎え入れてくれました。今の彼がどんな境遇にありどんな様子であっても、彼自身の中に宿り育った物はあの頃のまま彼の中にあるという事を認めてくれる先生達ばかりだからです。彼は今、自分に合う仕事を見つけ一生懸命働いていて、仕事が休みの日に時々顔を見せに来ます。2学期が始まったばかりのある日、突然「今から行く」とメールが届きました。同じ卒園児の友達を連れて来てくれたのです。その子も年中組の時私が担任した男の子で、東京の大学に行っています。2人は、幼稚園の子供達とも遊んでくれたり、降園前に満3歳児クラスで子供達に絵本を読んでくれたりして人気者になっていました。「遊んでばかりいないで、園庭にホースで水まきしてよ。」と頼むと、2人してブツブツ言いながらも2本のホースで園庭を湿らせてくれました。しばらく様子を見ていると段々と幼いあの頃に戻ったように、水の掛け合いを始めていました。「やめろや!!」「お前が先にかけたんだろう!!」と大きな身体の2人が無邪気に言い合ったり大声で笑い合ったりしているのです。大人になって、遠い土地で、私達の知らない悲しみや喜びを経験していたり、社会の厳しさに一喜一憂しながら頑張っているこの子達が、あの頃のように無邪気な笑顔でこの幼稚園の庭で遊んでいる姿に感慨深いものがありました。

その後、「園長先生から花壇に植えてって頼まれた。」と言って2つの花を持って来ました。鳥谷芽似先生も2人に加わっていました。実を言うと、芽似先生も年中の時彼らと同じクラスで私の可愛い教え子です。彼らは、芽似先生に会える事も楽しみにしているのです。

3人が花壇に肩寄せ合って植えかえているその様子を見て、時が逆戻りしたような気持ちになり、何やらこみ上げてくるものがありました。

以前「これ見て。」と何冊かまとめられたあの頃の“れんらく帳”を持って来ました。お家の方と私との一年間の連絡の記録です。良い事も悪い事も連絡し合い、ひたすら彼の成長を願う気持ちがたくさん綴られていました。彼はこのノートを大切にしまっていると言いました。幼稚園での色々な思い出や経験、友達や先生との他愛もない小さなやりとりが、彼らの心の隅っこの引き出しにしまわれていて、時々引っ張り出して自分をその頃に置いてみたくなるのでしょう。新聞のコラムに書かれていたのと同じように、彼も殆んどの友達の個人マークやその頃歌った歌や演奏した曲、遊んだ事、手遊びや参観日によく見せてやっていた手品等など…そんな事?と思うような事まで覚えているのです。

しばし幼稚園で時間を過ごした後は、いつもぶっきらぼうに「じゃあね」と言って帰って行きます。その大きな背中は、来た時と何か違って見えるのです。子供達にとって、幼稚園での可愛い思い出は自分が守られていた時の温もりを思い出させるものなのでしょう。そして、その温もりに触れる事で、また頑張ろう!と背筋を伸ばして自分の今の世界に戻って行けるのだろうと思います。

今の園児達にも一つでも多く、大きくなっても浸りたくなる思い出をつくってやりたいと思います。さあ!2学期は、子供達の心に残る経験をたくさんします。ずっと、覚えていてくれるかな?そして何年後かに、嬉しい事があっても悲しい事があっても「先生!来たよ!」と訪ねて来てくれる…、そんな幼稚園でありたいと思うのです。その頃は、すっかりおばあちゃんだな。