葉子先生の部屋

見守る喜びをかみしめる(平成27年度6月)

幼稚園の花壇のアジサイが間もなくピンクや水色、紫に色づきます。夏の季節を迎えるまでのこの時季を春とは違う花が私達の目を楽しませてくれます。幼稚園では、来週からプールあそびが始まります。プールあそびをはじめ、心も身体も薄着になり幼稚園ならではの開放感をたっぷり味わえるあそびをたくさん経験させたいと思います。

さて、先週行った参観日では、お子さんの幼稚園での生活ぶりを楽しくご覧いただけたでしょうか?進級児のお家の方々は、昨年からの成長を感じてくださったり感心してくださったり新たな発見があったりして、関心深く観ていただけた事でしょう。また、新入児の保護者の方々は、お子さんよりもお家の方のほうが緊張しながらの参観だったかもしれませんね。お家では見られないお子さんの様子を微笑ましくご覧になっておられた姿が保育室全体をほのぼのとさせていました。

子供の成長をこの目でいつも確かめたいと思う親心は深い愛情のひとつです。これまで必死に育ててきた数年間の事を思い浮かべながら、成長を目の当たりにして喜びをかみしめるのです。どんな小さな成長も、親にとっては大きな喜びなのです。

先日、園長先生が「こんなラブレターをもらったのよ。」と私に一通の手紙を読ませてくださいました。それは、園長先生が、30年以上も前に担任をし、現在は三次市内の病院に看護師として勤める女の子からの手紙でした。そこに通院中の園長先生と再会し、しばらくして届いたものでした。園長先生は、まさかそこに勤務しているとは知らずの通院でしたが、その子は、園長先生に初診の日から気が付いていたようで、2度目の診察日に声をかけてくれたのだそうです。その時の事が手紙につづられていました。『初日に来院された時、私は、先生の書かれた問診票を見てすぐに先生だとわかりました。昔のまんまのかわいらしい文字にピンときました。昔いただいたお手紙やれんらく帳に書かれていた文字そのものでした。待合室を見渡して、先生を見つけ声をかけました。私の中の昔のままの先生で、懐かしく嬉しかったです。』……と。又『ずっと、会いたかった』…と。それから、その頃の思い出がたくさん書かれていました。先生の顔を一生懸命絵に描いた事や厳しく叱られ、友達に謝る事ができるまで先生に見守ってもらっていた事等、そして、結婚をして子供が生まれたという報告も…。その手紙に目を細めて何度も読み返す園長先生の横顔がとても幸せそうに見えました。そんな手紙をもらったことは勿論ですが、ずっと前に卒園した子が、こんなにも鮮明に自分の事…自分の文字まで覚えていてくれていた事や再会までの彼女の日々が幸せだった事を知り、大きな喜びを感じられたのだと思います。そして、実際に働く教え子の立派な姿に感動されたでしょう。

また先日、私の教え子が銀行の出張店舗窓口にいる事を知り、サプライズのつもりで働く姿を見に行きました。こっそりと様子をみると、お年寄りに笑顔で丁寧に通帳の説明をしている彼女のその姿はとても眩しいものでした。卒園児が、どこかで働いていると聞けば、行って見てみたいと思うし、結婚や出産のニュースを耳にすれば、「おめでとう」と声をかけたくなります。遠い所にいた子が三次に帰って来たと知れば「おかえり」と迎えてやりたいとも思います。悩んでいる、挫折を味わっていると知れば、助けてやりたい!できる事はないかと手段をさがします。卒園して見えていなかった空白の数年も、先生とその子達の間は、『思い出』で結ばれていると思っています。もはや、そこには、先生と園児との関係を超えて、お母さんの気持ちに近くなっているかもしれません。もちろん母親の気持ちとは到底同じもののはずはありませんが、子供の成長をいつまでも見守り、いつかは、この目でその成長ぶりを…幸せな姿を見たいという気持ちは教え子を思う親心です。何十年経っていても、私達は、会いたいと願っているし、祈っています。また、子供達も、先生を想い、再会をきっかけに幼稚園の頃を思い出して喜んでくれる事でその頃に育んだ愛情がその子の成長の一部分になってきたのだという事を感じると、ほんの少し誇らしくなるのです。そして、久しぶりに見る教え子の成長を喜ぶ私達の気持ち以上に、一年一年の…一日一日の…一瞬一瞬の子供の成長を一番近くで見守る事ができて、その時々に手をたたいて喜ぶ事ができる親の幸せははるかに大きいに違いありません。

私達大人はその喜びをかみしめながら子供達を見つめて行きたいものです。そして、子供達もまた、近くで見守ってくれる人、遠くで祈ってくれる人、今の成長を喜ぶ家族、遠い先の成長を期待してくれる人にいつでもどこでも、愛情に包まれながら生きていくのです。その人たちに、ほめられたり一緒に喜んでもらったりする事で、子供は、その愛情をしっかり感じながら、安心して成長できるのです。

そういえば、私のすぐそばにも可愛い教え子達がいるのでした。まさか同僚になろうとは……。三次中央幼稚園の先生として、日々、一生懸命に頑張り、成長しているその子達の姿を頼もしく見守る日々です。

ドキドキを味わって(平成27年度5月)

新年度が始まって、1カ月が経とうとしています。色々な別れがあって、新しい出会いがある新年度。どこに行っても、新生活を始めた人々が初々しく頑張っている姿を目にします。年度の終わりや初めには、お父さんの転勤で引越しをする事になったご家族が挨拶に来てくださったり、小学校や中学校を卒業した報告や、入学・進学の報告に…と、たくさんの卒園児達が幼稚園を訪ねて来てくれたりしました。どの人達にも、幸せな新しい生活が待っていますようにと祈る気持ちでいっぱいです。

幼稚園でも、今、可愛い新入園児達が、お父さんやお母さんの手から離れ、初めての環境に慣れるために一生懸命頑張っています。「お母さんがいい!」「お家に、帰りたい!」と先生に抱かれたまま涙がいっぱい出ます。お部屋が分からなくなったり、靴箱が見つけられなかったりするだけでも、涙がじわじわあふれてきます。好きなだけ遊びたくて「まだ帰らない!!」「いやだ!」と先生との追いかけっこにもなります。みんなみんな不安でいっぱいなのです。なかなか、自分の居場所が見つからなくて落ち着かないのです。だけどこれは、当たり前の事で、また、こうした経験を重ねる事はとても大切な事なのです。

我が家にも、新生活を始めたばかりの大学生の娘がいます。

入学式を迎える一週間前頃、「入学式に提出する書類や持ち物や服装の準備はできているの?」と娘に確認をすると、「大丈夫!友達と確認したから。」と言うのです。「友達って?」……??…まだ入学もしてないのに、受験の時にでも友達をつくったのか?…そんな余裕がよくあったものだと思って聞くと、「違うよ!もうラインで同じ大学の同じ学部に入学する人と友達になっているの」と言ったのです。なんという世の中だ!!と驚きました。アナログ人間の私には、娘が言っている意味がピンときませんでした。まだ見た事も話した事もない人と、友達になれるなんて、世の中で問題になっている出会い系サイトと思わず結び付けてしまい(笑われるでしょうが…)、どうも納得いかず、娘に必死で食いついてあれこれと説教じみた事を言いました。よくよく聞いてみると、それとこれとは違うという事が少しわかりホッとしました。(娘には、呆れられました)色々な人に聞いてみると、どうやら、若い人達がそうして交友関係を築いて行く事はよくある事なのだそうです。

便利になった、効率的になったと言えば、そうなのかもしれませんし、未知の環境とは言え、友達が既にできている環境の中なら、かなり安心して飛び込んでいけるでしょう。しかし、長い人生、いつも喜びや楽しさで満たされてばかりとはいかないものです。必ず色々な場面で、“緊張”や“不安”、“孤独”や“迷い”と向き合わなければならない時があります。これらを克服したり乗り越えたりして得られる心の安定は自分を高める貴重な経験になるはずなのです。

そして、それを乗り越える途中で自分を支えてくれる人と出会い、少しずつでいいから…時間をかけてもいいから…自分で新しい世界の扉を開いて行くすべを学習するべきだと思うのです。扉を開く前に、トントンとノックする事から、経験して欲しいと思います。人間にはある程度の緊張感は必要ではないでしょうか?この緊張は、新しい事や初めての事に出会うための気合いにもなります。これを繰り返し上手に経験する事で、その緊張感を楽しめるようになります。ドキドキがワクワクに変わるのです。高い位置から落としたボールが低い位置から落としたボールより高く弾んで跳ぶように、喜びや感動は大きくなります。

幼稚園の新入園児達も、進級して新しい先生や友達と過ごし始めた子供達も……、もしかしたら、お父さんやお母さん達も、今は、きっとこの緊張や不安と密かに闘って(?)おられるのかもしれません。でも、世界を拡げるとは、こうしたものです。幼い頃から、こんな気持ちを味わう経験を繰り返しながら、人生の中で何度か出合うだろう『新たな環境』を上手に受け入れ生活をしていく方法を知って行くのです。幼いうちは、その経験を親子で一緒にする事を幸せだと感じてください。新しい環境に飛び込んで行くという事は、そんなに、容易な事ではないし、そこには、大なり小なりの葛藤も生じてきます。

会って話をするより前に…顔を見て声を聞くより前に友達になる……。これが当たり前になって欲しくないと思います。緊張や不安を避けるためのベストな方法だと思わないでほしいのです。幼い頃から、その年齢に合った『苦労』を味わわせていく事は、人間形成の上で、大切な学びのひとつでもあると思います。

 今、子供達は、毎日一生懸命です。初めての制服を着て、初めての先生、初めての友達、初めて過ごす幼稚園の時間etc.何もかもが“初めて”です。これまで、困ったらそのすぐ傍にお父さんやお母さんがいてくれました。(……いえいえ、困らないですむようにしてくれていた…)でも、そんな環境からほんの少し卒業しようと、今、頑張っているのです。先生達は、お家の人からバトンを受け取った気持ちで、そんな子供達を愛おしく思いながら、自立へと導いて行きます。ドキドキは、必ずワクワクに変わって来ます。
 ドキドキ緊張…これは、避けては通れない…避けて通ってはいけない貴重な経験なのです。

目標を持つ、夢を抱く(平成26年度3月)平成27年3月

今シーズンは、あちらこちらで豪雪や雪による被害のニュースが聞かれ、冬が少しばかり長かったような気がします。しかし、約束通り、春はやって来ます。新しい命が春の訪れを静かに待っているからです。梅の木には可愛い蕾が、川の土手にはつくしやふきのとうが顔をのぞかせているのをみつけました。「暖かい春は、もう少しですよ」と思わずそっとささやきたくなりました。

春は、何もかもを新しく塗り替えてくれるような気がします。色んな事があっても、ここでまた新たに希望を持ってスタートしよう!という気持ちになります。

先日、今年度最後の保育参観を行いました。この一年間を通して子供達は本当に色んな形で成長を見せてくれました。幼稚園では、一年間に5回ほどの参観日を設けています。今回の参観では、各クラスで劇を観ていただきました。つい、劇の出来栄えに目が行きがちですが、そういう所だけではなく、それを演じるクラス全体の雰囲気や子供同士の関係、子供達と先生の関係、一人ひとりの表情や言動の色んな所に成長を感じていただけたでしょうか?。今回は、先生と子供達とが、頑張って自分達の劇をお家の人達に観てもらおう!という一つの目標がありました。その目標を達成させるために、一生懸命話し合ったり練習をしたりしていました。その間の子供達は、生き生きとしていました。参観日後に寄せていただいた保護者の皆様からの感想にも、“家でも劇の話をよくしてくれていました。”とか“友達の役についても話してくれていました”等、書いてあり、子供達の気の入れ方もかなりのものだった事がうかがえました。学年毎に、目指すものは違いますが、それぞれに目標を掲げて取り組みました。

この『目標』というものが、生きて行く上でどんなに必要なものかという事を子供達と一緒にいるとよくわかります。子供達にとってのそれは、『自分開拓』──強い自分をつくって行くエネルギーになるのです。

先日園庭で遊んでいると、“わんぱくやま”の高い岩からジャンプして、地面に飛び降りようとしている子がいました。初めは、それだけを楽しんでいたようでしたが、私が「じゃあ、この線までそこ

から跳んで!」と、地面に線を描くと、高い所からその線を目指して一生懸命に跳ぼうと顔つきが変わりました。さっきまで、キャッキャキャッキャと騒がしかったのが、真剣な雰囲気になったのです。その線を目がけて跳ぶ子に、「惜しい!」「あと少し!」「跳べた!」「ヤッター!」等と声をかけていると、いつの間にか、岩の上に列ができていました。着地に失敗して手や膝にキズを負った子もいましたが、何回も挑戦していました。線に届いた子は、「もう少し遠くへ線を描いて!」と私に要求してくるほどでした。年中や年長の子供達は、縄跳びで跳べる回数の自己ベストを更新して行きます。保育室の中では、先生に教わる“指編みマフラー作り”で可愛いマフラーを仕上げようと粘り強く頑張ります。

色々な挑戦の中には、それぞれに『目標』があるのです。目標を持った人は皆、それに対するモチベーションが上がります。その意気込みで物事に取り組む事が出来ます。その目標に向けて少しでも近づこうと努力したり工夫したりして、いつも以上に力をだそうとします。もう少し、もう少し…と、それに向かって行く自分の頑張りや力に気付き、自分をどんどん開拓していくのです。

今、“夢”を持てない、夢を見つけられない子供達が増えてきたと言われます。自分が将来何をしたいのか、人生の選択肢を持てないのだそうです。いつも、自分で目標を持つて生活をしていれば、生きて行く目標を…“夢”を抱く事に繋げていけるのではないかと思うのです。生きて行く焦点が定まらないと、道がぼんやりとしか見えず、どこをどのように進んで行けばいいのかわからないのです。ずっと不安で…不安で本気になれないのです。自分に目標ができると、そこに向かって行こう!と、どんな障害があってもはねのけ、乗り越え前を向いて力強く進んで行けます。

これから、幼稚園の子供達は、新しいスタートラインに立ちます。特に幼稚園を卒園していく年長組の子供達は、全く新しい環境を受け入れ受け入れられたりしながら一歩前に進みます。卒園を前に、それぞれに自分の夢を語ってくれています。その夢が人生の目標になって、生き生きと生きて行ける子供達になって欲しいと思います。

幼い子供達が抱く“夢”は、まだ現実味を帯びていないかもしれないけれど、その時その時に自分でやりたい事、憧れるものを見て、それを目標にできればいいと思います。そうしながら、もつと…もつと…と『目標』に近づこうと目を輝かせるでしょう。人生に迷い自分を見失ったりする事のないように、『目標』『夢』を持つ事の喜びや楽しさを知っている子供達になって欲しいと思います。どうか、未来ある子供達が未来に希望を持ちながら、どんな壁にも、立ち向かって行けるように…。そのエネルギー源は、誰かに与えてもらうものではなく、自分自身で作り生み出すものだという事を伝えてやってほしいと思います。

それこそが、『目標』『夢』である事を……。

なぜ? どうして? どういう事?(平成26年度2月)平成27年2月

新しい年を迎えて、もう1カ月が経ちました。ついこの前、壁にかけたカレンダーはまだ始まったばかりですが、幼稚園の年度カレンダーはあとわずかになりました。子供達が入園・進級したばかりの頃からこれまでの成長した軌跡を振り返ってみています。

今は、毎日笑顔で、登園してくるあの子…そう言えば、毎朝中門で「ママがいい~!」と泣いていたなぁ。たくさんの友達と遊んでいるあの子…そう言えば、担任の先生から片時も離れられなかったなぁ。園庭で、友達と集まって相談しながら遊んでいる…そう言えば、以前は自分の思うようにならなかったら、一人で拗ねていてなかなか仲良く遊べなかったなぁ──等と、子供達の様々な成長に心から喜びを感じています。残り2枚のこのカレンダーにたくさんの想いを込めてこれからの日々を過ごしたいと思います。

子供達の成長は、子供達がどんな事にどんな風に興味や関心を持ってその事に関わっていくかで、大きく違ってくると思います。新年度では、子供達もまだまだ落ち着かなくて周りを見回す余裕がありません。面白い事にも楽しい事にも気付かないで、先生が与えてくれる事を一緒にしながら、徐々に自分で興味ある物を見つける喜びを感じるようになります。そして、与えられる事より自分で見つけたり探ったりする事の方が楽しいという事にも気付いていきます。自分で見つけた事の結論や結果を出そうと、努力や苦労をする中でグーンと成長するのです。結果・結論が成長なのではなく、プロセスを踏んでいるその時間の中にこそ成長があるのです。

先日、保育参観日の振替休日の日、プレイルーム(預かり保育)に、朝送って来られたある男の子のお母さんが、「葉子先生!うちの子に、“わびさび”について意味を教えてやってください。」とおっしゃったのです。どういう事かと聞いてみれば、どうやら、彼は歴史物にはまっているようで、NHKの番組を観ている時に番組で流れる歌の歌詞の中に“千利休”の事が歌われていて、そこで、“わびさび”という言葉が出るらしいのです。お母さんに「ねえ、“わびさび”ってどういう事?」と聞くのだけれど、お母さんはわかりやすく教えてやれないと言われました。私も、ほんの少しだけ日本の歴史上の人物や物の考え方を知る事が好きで、幼稚園でもお茶のお稽古を年長組の子供達と経験させてもらっている事もあり“わびさび”の言葉にある、日本の豊かな美意識や感性に誇りを感じていました。そこで、一緒に学ぶつもりで私なりに調べて、その子にその意味を伝えました。バシッとはまる言葉が見つからなくて、なかなかの難題でした。“わびさび”を説明しろといわれても、何となく…はわかるのですが言葉で上手く言い表せません。だけど、せっかく興味を持ったのだから、何かは教えてあげたくなりました。一生懸命説明していると、その子は、「ちょっと、待って!お話が長くてわからないから…」と言って私が持っていた紙とマジックを取って、説明をまとめ始めました。私の話に当たらずとも遠からずのまとめ方でした。「うん。わかった!」と、スッキリした表情で、その紙を折り畳みました。後日お母さんに聞くと、家に持って帰ったその紙を、彼は部屋の壁に貼っているそうです。

また、小川を何人かの男の子達がのぞき込んで何やら話をしていました。聞いてみると「ザリガニやエビやメダカがいない。前は、カエルもいたのに何もいない」と言うのです。いなくなった事情は色々だとは思いますが、その中の一人の男の子が、「寒い時には、あったかい所に隠れてるんよ。」「あったかい所ってどこ?」と聞くと、「今日は、けむり(多分、湯気の事だと思います)が出てないけど、小川がお湯になる時があるんよ。その時に出てくるんじゃない?」──すると、「お湯ぅぅ~!?そんなわけない!」と言う子「水のもっと下の土の中にもぐってるんじゃない?」「え~~ッ!エビがぁ~~!?どうやって?」と、色々な言葉が飛び交っていました。石を持ち上げてみたり、小川の端から端までを探してみたり、あったかい水の所はないかと手をつけてみたりしていました。その答えを見出し結論を出すために子供達の中で議論が交わされます。

こうした時間が子供達を成長させるのだと思います。話をしてくれる人、聞いてくれる人、一緒に考えてくれる人、一緒に行動してくれる人、共感してくれる人がいる事、そんな環境が子供達を成長させるのだと思います。『なぜ? どうして? どういう事?』と『?』にたくさん気付き“知りたい”と思う気持ちがその子をたくましく生き生きとさせてくれるのです。そのためには、感動のある生活をたくさん経験させる事が大切だと思います。まだまだ、子供達は、ほんの3~5年分しか、世の中を見ていないのですから、知識もわずかです。それだからこそ、『?』が溢れています。たくさんの経験ができる生活、心が揺す振られる生活があれば、子供達は『なぜ? どうして? どういう事?』と成長の種をまきます。「ホントだ!よく気が付いたね。どうしてだろうね。」と『?』を共有してくれる友達や上手に導いてくれる人がいたら、まいた種から小さな芽が出て、大きく育てる事ができると思います。今、ちょうど、『なぜ? どうして? どういう事?』と聞いてくる時期ではないですか?自分で気付いた疑問を自分で解決する道を探す事に面白さを感じる子供達になって欲しいと思います。わからない事がたくさんある程、これから世の中を生き抜く子供達にとっては面白いのです

乗らない自転車(平成26年度1月)平成27年1月

新年、明けましておめでとうございます。昨年の事を振り返りつつ、新たな希望や夢を抱いて新年を迎えられた事でしょう。今年も子供達とご家族の皆さんが笑顔で日々過ごせますように…。

さて、我が家には大学受験生がいます。頑張るのは本人ですが、受験生を抱える家族は、何かで協力してやりたいと、一生懸命に応援します…と言っても実際には何もできずに、ただただ気持ちが落ち着かないでいるものです。今や、正念場、年末からはクリスマスもお正月も返上で頑張る受験生です。本人も親も、目の前の事をやりこなすだけで精一杯です。そんな中、こんな事がありました。

我が家には、中学校の頃に買った娘達の自転車があります。塾や習い事をしていた頃に、二人がいつも乗っていた自転車です。中学校・高校と広島市内の学校に通い、朝早く学校に行き、夜は遅くなってから帰宅するという生活の中、その習い事の時間もとれなくなりやめてしまったため、ここ数年自転車にも乗る事がなく、置きっぱなしになっていました。私は、その自転車の事もすっかり忘れてしまっていたのですが、ある休日の夕方の事、珍しく家にいた娘が、庭にいたおじいちゃんの所に、『今晩は鍋をするから楽しみにしておいてね』と、話に行くと、おじいちゃんがその自転車のタイヤに空気を入れてくれていたそうです。しばらく、二人はそこで話し込んでいたようでした。それから、娘が家の中に入って来て、私に「あのね、おじいちゃんがね…」と二人の間で交わされた話を聞かせてくれました。

「おじいちゃん、空気を入れてくれてるの?もう最近乗ってないのに……」と娘が言うと、「そうじゃね。でも、おじいさんは、時々、こうして空気を入れてるんよ。里奈子ちゃんか夕奈ちゃんが、大学を卒業して…就職をして、“おじいちゃん、今日は天気がいいから自転車で行くね”ゆうて、この自転車に乗る日が来ればいいと思うてね。最近の事じゃけぇ、遠くの大学に行くのは仕方ないんかもしれんけど、おじいさんは…寂しいよ。」と、涙声で一生懸命に笑顔をつくって話してくれたそうです。そして、おじいちゃんは自分の服の裾で、自転車のホコリを拭いてくれたそうです。

おじいちゃんは、私達の子育てについて、決して自分の意見を押し付けたり反対したりする人ではなく、いつも影でどんな結果になっても見守ってひたすら孫の事を祈ってくれる人です。きっと、娘が二人共…と言えば無理かもしれないけど、どちらか一人でも、三次に戻って来てくれたらいいなぁと思っているのでしょう。しかし、直接その思いを孫に話すと、余計なプレッシャーや孫の意欲や意志を邪魔する事になるから、そう一人で願いながら時々自転車に空気を入れて願ってくれていたのだろうと思います。

長女は、2年前に家を離れ、この春には次女も家を離れる事になりそうです。おじいちゃんは、これまで、できる孫の世話を一生懸命にしてくれていたので、娘達もおじいちゃんの事は大好きです。長女に続き次女までが、家からいなくなる事が、おじいちゃんにとっては大変寂しい事なのでしょう。いつか、戻って来てくれたら…と願うおじいちゃんの気持ちが、本当にありがたくその気持ちに私は胸が熱くなりながら聞いていました。古い考えなのかもしれませんが、85歳のおじいちゃんにとって、家族がみんな近くにいてくれる事が何よりの幸せなのだと思います。困った事があったり辛い事があったりしても、そばにいれば何か力になってやれるし守ってやれる…そう思ってくれているのです。こういう愛情表現もあるんだなぁと思いました。“見守る”とはこういう事なのかもしれません。今まで、おじいちゃんがそんな事をしてくれていたなんて、一緒に住んでいても知りませんでした。娘にとって、おじいちゃんと久しぶりに話したこの短い時間は、どんなに心に響いたでしょうか。大切に…大切に思ってもらえている事に大きな幸せと、おじいちゃんを悲しませないように自分達も幸せにならなければ…という気持ちになったのではないでしょうか?今の時代ですから、娘達が必ずそうするとは限らないでしょうが、“帰っておいで”と願うおじいちゃんの胸の奥にある想いを十分に理解し、感謝して欲しいと思いました。それが、生涯、自分自身を大切に思いながら過ごしてくれる事に繋がるのでしょう。

受験勉強を頑張っている娘におじいちゃんが、「何かおやつを買ってあげよう。要る物はないか?」と聞くと「おじいちゃん、私…今、要る物は何もないの。ただ、学力が欲しいだけ…」とジョーク混じりに娘が答えたそうで、その事を愛おしく思って苦しかったと、おじいちゃんが私に話してくれた事があります。家族は皆、辛い想いや苦しい想いをしている我が子から、どうにかしてそれを取り除いてやりたいと思います。でも、その苦しみがその子のためであり、自分で乗り越えないとならない事であれば、じっと見守るしかありません。静かに見守る事が最高の応援なのかもしれません。これは、幼児期でも一緒だと思います。直接手を差し伸べるのではなく、その子の意地や頑張りが最大限に発揮できるよう、2歩も3歩も後ろで見ていてやる事は、子供達自身が自分の持っている力に気づき、自尊心を高める事に繋がっていくような気がします。そうして得た力は生涯のエネルギーとなるはずです。

我が家の“乗らない自転車”がいつもきれいだったのは、おじいちゃんの静かで大きな愛によるものだったのです。きっと離れていても、娘とおじいちゃんの間には、いつでも春のように穏やかで温かい風が吹き続けるでしょう。