白髪せんせいのつぶやき
6月に田房葉子先生のお家の田んぼで、年長組の子供たちが田植えをさせてもらいましたが、秋の収穫の時になって、楽しみにしていた稲刈りが、急遽、中止になったのです。その理由は、台風が続けてきたことに加えて、オオスズメバチとコガタスズメバチかキイロスズメバチかが空中戦をしていて、「ハチが大騒ぎをしているから、気をつけてください。」と、近所の人から田房先生の家に連絡が入り、その上、その様子を見に行かれた田房のおじいちゃんも、実際、ハチに刺されてしまったのです。このことがあって、子供たちが楽しみにしていた稲刈りを中止せざるを得なくなったのです。そのため、おじいちゃんは、実った稲を子供たちに見せてやりたいと、鎌で稲を刈って、その稲穂を子供たちにことづけて下さったのです。
このようなハチの空中戦を、以前、私も見たことがあります。二十年位前のことですが、幼稚園の砂場近くの(今は子供の城保育園の園庭になっているところ)隣家の方が新しいお家を建てられたのですが、その軒下の戸袋になっているところに、小さな穴を開けて、その中にオオスズメバチが巣を作っていたのです。
ある日、砂場のところに行ってみると、なんと、ハチ同士が空中戦をやっているのです。そして、砂場を見ると、ハチの頭の部分と尾の部分がバラバラになって、何匹も、墜落してくるのです。なんと、コガタスズメバチの胴の一番細いところを、オオスズメバチが噛み切っているのです。
この空中戦は、おそらく、オオスズメバチが巣の近くに侵入して来たコガタスズメバチを追い払うために戦いを始めたものと思われます。こういう情景はめったに見ることもありませんので、私にとってはすごく良い経験をしたのです。
もうひとつ思い出しました。小学校6年生の時です。通学路に無人の神社があります。ある日、同級生の男の子と一緒に家に帰る途中、その神社の軒下にキイロスズメバチの大きな巣を見つけたのです。ワンパク盛りの二人は、すぐさま、小石を手に持ってその巣をめがけて投げつけたのです。すると、その巣からスズメバチが一斉に飛び出し、私たちをめがけて襲いかかってきたのです。二人は必死で走って逃げましたが、帯を描いたように追いかけています。足の速いことが自慢だった私は、もちろん、彼よりもずっと前を走っています。
突然、「ギャー!!」という叫び声が聞こえました。振り向いてみると、彼は両手で頭を抱えて座り込んでいます。ハチの集団に刺されているのです。彼を刺したハチは間なしに退散して行きました。彼のそばに行ってみると、なんと、頭の何か所にも刺されていて、見る見るうちに腫れ上がってきます。頭を抱え込んだ手も何か所か刺されています。彼は大きな泣き声を上げながら、私と一緒に、家まで帰って行ったのです。今考えてみると、とても危険なことだったのです。スズメバチに刺されてショック死をしたというニュースを耳にする度に、このことを思い出しているのです。反面、昔の子は強かったのではとも思ったりしています。
よくハチに刺される人がいます。スズメバチのような大きなハチではなくても、軒下や植木の中に小さな巣をしているアシナガバチに刺されるのです。なぜ刺されやすいかというと、ハチが自分のところに近づくと、大騒ぎしたり、手で追い払おうとしたりするからなのです。手を振るって追い払う行為は、ハチにとっては、攻撃姿勢なのです。攻撃されていると思うから刺しにくるのです。
もちろん、スズメバチにしても、巣の近くに危険が迫ったと感じたときは一斉に襲いに掛かりますから、ガサガサ音を立てたりしないように注意が必要です。ハチの巣は熊などの動物に襲われることが多いので、黒い髪には攻撃的で、白いものにはあまり襲ってはきませんが、基本的には、じっとしていたら襲ってはこないのです。
今月のつぶやきのテーマが、「スズメバチ」になったのは、実は、我が家の屋根裏にキイロスズメバチが大きな巣を作っていて、11月の終わりになってその巣を退治したからなのです。中庭側の軒下から出入りしているスズメバチを早くから見つけてはいたのですが、ハチが子供を育てている間は危険なので、寒くなって働きバチが死んでしまうのを待っていたからなのです。
働きバチは、何匹かの新しい女王バチを育てて死んでしまいますが、女王バチは、枯れた樹木の中に入って冬眠します。春になって、女王バチはキノコを逆さにしたような巣を作り、何匹かの働き蜂を生んで育てます。その働きバチが成長して、巣をだんだんと大きくしていきます。そこに、また、女王バチが卵を産みつけ、働き蜂を増やしていきます。巣が完成したら、新しい女王バチが育つよう巣の中の卵を数匹選んで蜜をたくさん与えると女王蜂が誕生するのです。写真は我が家に作ったキイロスズメバチの巣の外側と内側を撮ったものです。なんだか、まだまだワンパク気分が残っている私でした。
2004年12月1日 2:31 PM |
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昨年のことでしたが当時27歳の私のいとこの娘と女房が話している時に、「明日、地球が滅びるとしたら、最後に何を食べたいと思う?」と聞いていたことを思い出しました。
その子は、「ファーストフードのチキンナゲット」だと言います。女房は、「○○寿司屋さんのトロの握り」が食べたいと言います。今度は、私に訊きますので、「梅茶漬け」と返事をしたことを覚えています。その答えの中で一番びっくりしたのが、「チキンナゲット」と言う返事です。ファーストフード店の人が聞いたらすごく喜んでくれる話ですが、私にはとても心配な返事でした。その子の子供の時からの様子を知っていますが、かなり、ファーストフード中心の食生活をしている家庭だったのです。ちなみにと思って、東京にいるその女の子と同い年の、私の次女に電話をして同じ質問をしてみると、「茶漬けかうどん」と言って、最後は「うどん」を選びました。
私の家では和食中心で、既製品や惣菜を買うことも無く、ほとんど女房の手作りでした。昔からの質素な和食です。もちろん、インスタントラーメンやカップヌードルのような食品はほとんど口にしませんでしたので、娘二人も、ファーストフードでのチキンナゲットの味も余り知りません。
女房の「○○寿司屋さんのトロの握り」と言う返事は、最近、口にした一番美味しいものを、もう一度食べたいと思う、現実的な返事です。娘と私は、死ぬ前の心の整理だったのかとも思っています。
この、「最後の晩餐」の話を思い出したのは、放課後児童クラブに顔を出した時に、ちょうどおやつの時間だったのですが、テーブルの上におやつがずいぶんと残っているのです。どうして残しているのだろうと、首をかしげていると、児童クラブの先生が、「今日は豆菓子とおせんべいなのですが、最近の子は甘いものや硬いものを余り食べないのです。牛乳も嫌いな子が多く、ジュースやサイダー系だと喜んで飲むんです。」と言います。「じゃ、どんなおやつが好きなの」と訊くと、「スナック菓子やアイスクリームのようなものです。」と、返事が返ってきました。
放課後児童クラブの家庭は共働きですから、手作りのおやつなど、なかなか作ってやる時間が無いのだとは思いますが、スナック菓子の袋を片手に食べている姿を想像しただけで、なにか寂しいものを感じ、おやつだけではなく、食生活はどうなのだろうと気がかりになってきました。
昨年のことですが、幼稚園に2歳の女の子を連れてこられた方がいらしたとき、応接室でそのお母さんとお話をしていると、女房がプリンをカップから出して、お皿に盛って、その女の子に「どうぞ」と言って出してくれました。
ところが、その女の子はぐずり始め、このプリンはいやだと言うのです。嫌いなのかと思うと、そうではないようなのです。プリンには通常、茶色いカラメルソースが上からかけてあります。ところが、その子の場合、いつもカップに入ったままのプリンを食べていましたから、カラメルソースはカップの底に在るもので、その子にとっては、上からカラメルソースをかけてあるのはプリンではないのです。それだけではなく、その子は、カップに入ったままのプリンを食べ進んで、最後に甘いカラメルソースに行き着くのが楽しみだった様です。
このように、おやつをカップのままや袋に入ったままを与えていたのでは、余りにも味気ない子育てのように思えてなりません。
お店で買ったおやつも、袋のまま与えるのではなく、ちゃんとお皿に盛って出してやると、そこにもお母さんの温かさを感じてくれると思います。
ましてや、7月の「つぶやき」で書いた「買い食い」にもあったように、お小遣いを与えて、子供が勝手に好きなものを買って、道を歩きながら立ったままで食べている姿は、余りにも無責任な子育てだと思えてなりません。小学生、中学生に万引きする子が多いと言うのも、お小遣いを与えっぱなしにして、放任状態が大きな原因になっているのかもしれません。
一番望ましいのは家庭での手作りおやつです。時々はお母(父)さんの手作りのおやつを食べさせて欲しいと思います。子供たちはお母(父)さんが作ってくれたということに温かさと愛情を感じながら食べてくれますから、余計に素敵なおやつとなっているはずなのです。子供の感じる温かさと愛情は、自分が大人になって家庭を持つイメージとなっていくのです。
話は変わって、10月22日に、年長組の子供たちが「おむすび」を握りました。そのお米は、この春、子供たちが田房葉子先生の家の田んぼで田植えをさせてもらってできた「ひとめぼれ」と言う銘柄です。
主任の先生とさくら組の先生がお米を炊いてくれました。子供たちは皆、手をきれいに洗って、手のひらに水をつけながら「おむすび作り」に挑戦します。水を多くつけすぎた子のおむすびはベチャベチャなおむすびです。水のつけ方の少ない子は、手のひら中、米粒だらけとなっています。それでも、2個、3個と握るうちにだんだんと要領を得て、上手になっていきます。梅干も上手に入れて握られるようになってきています。最初からずいぶんと上手な子供たちがいます。先生が「おむすびを握ったことのある人?」と訊くと、さすが、ほとんどの子が、握った経験があり、一回も握ったことの無い子は年長組62人のうち、15人だけでした。
7升ほど炊いたご飯も、瞬く間に、おむすびに出来上がりました。出来たおむすびを、他のクラスの先生や子供たち、子供の城保育園の先生たちにも配ってまわり、事務室や私のところまで持ってきてくれました。
子供たちは、自分たちの握ったおむすびですから、「おいしい、おいしい」と言いながら、2個も3個も口にほおばっています。いままで、梅干を食べることが出来なかった子までが、梅干を平気で食べています。
自分たちで田植えをして、それがお米になり、自分たちでおむすびを作ったことで、余計に美味しかったのだと思います。おむすびを食べながら、お米をお店で買うことしか知らなかった子も、「コシヒカリと言うのもあるよ」と、お米の話をしています。このように、自分たちで田植えをして、実った稲をお米にしてもらい、自分たちでおむすびにして食べることで、いろいろなことを感じ取ってくれたものと思います。きっと、これからは、お母(父)さんの作ってくれる食事にもかなりの興味を示してくるのではと思います。その子供の気持ちを裏切らないよう、惣菜やインスタントやファーストフードに頼らない食事や、袋のまま与えない、お皿に盛ってやるおやつを心がけて欲しいと思います。
2004年11月1日 2:09 PM |
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先日の運動会は、本当に運動会のためにだけに晴れてくれた感じがします。9月に入って毎日のように降り続く雨のため、練習も思うようにできませんでしたが、子供たちは本番に強いというのか、お家の人たちが見に来てくださっていることが励みになっていて、運動会当日が一番力を発揮してくれたように思います。私も歳をとってきたせいか、子供たちの、走ったり踊ったりしている姿を見ながら、胸にジーンとするものを感じ、涙をおさえて見ていました。先生たちの笑顔いっぱいで頑張っている様子もとても印象的でうれしく思いながら、本当に良い運動会ができたと思っています。
当日、今年の3月に、ある園児のご家族が長女の卒園を機会に、お父さんの実家のある徳島に帰っていかれましたが、わざわざ運動会を見に来てくださっていました。今は、徳島の公立の小学校と幼稚園にお子さんが通っています。1年ぶりに幼稚園の運動会を見て、改めて、この幼稚園のすばらしさに感激し、徳島に行ったことが、子供の幸せを奪ってしまったような気がすると話してくださいました。幼稚園の子供たちも、運動会が終わってお父さんやお母さん、おじいちゃんおばあちゃんからも良く頑張ったねと褒めてもらったことがとってもうれしかったようで、幼稚園に登園するなり、いろいろと話してくれました。子供たちの大きな自信となったようです。
話は変わって、9月28日の「中秋の名月」を楽しみに待っていましたが、あいにくの雨で、お月様は顔を出してくれませんでした。
それにしても、今年は、台風の度々の襲来で、台風21号は8個目の上陸となりました。梅雨の時期よりも、いっぱい いっぱい、雨が降り続きました。家の中は、あちこちにカビが湧き、一番凌ぎやすいはずの秋に、こんなにジメジメした毎日を経験したのは、
61年間生きてきた私にとっても初めての経験でした。とうとう、除湿機を買う羽目になってしまいましたが、その除湿機をセットすると、室内の湿度がすぐさま表示されます。なんと、湿度が88%です。空気中のほとんどが水のようなものです。その除湿機をセットして、1時間も経たないうちに、除湿機が自動的にストップします。除湿によって、その水がタンクいっぱいになるのです。ほかの人にその話をすると、皆同じ答えが返ってきました。ある人は、昔からの農家の家で木造の土壁なのに、押入れが結露して、布団がビショ濡れになったと言います。やはり、異常気象だと理解はするものの、その原因を作ったのは、人間の経済活動の中で、工場で使う化石燃料や車の排気ガス、その製品の廃棄物の処理による空気の汚染等、やはり、地球環境を破壊させているのです。
こんなことを思いながら、29日の夜、台風21号が通り過ぎて雨が止んだので、愛犬の散歩に出かけました。すぐ目に付いたのがきれいなお月様です。満月の日より1日過ぎてはいるものの、まだ、まん丸の形を残しています。台風が過ぎ去った後の雲間をチラリと垣間見ることができたのです。空気がきれいで空は澄みわたっています。余計にお月様がきれいに見えます。
ちょうど、その29日は年長組のお茶の練習日で、お月見茶会がありました。
掛け軸の絵は萩の花が三枝伸びています。香合はウサギの形をした物を準備してありました。
お供え物は、秋の実りの恵まれもので、稲穂や葉っぱの付いた柿や栗、梨とブドウでした。それにサツマイモとお米を供え、キノコを杉の葉の上に乗せて、三宝にはお月見団子を供え、お酒の一升瓶も、のしをつけて飾ってありました。野生的に生けてあるススキはすばらしく、子供たちはお月見の団子を食べながら、楽しくお茶を戴きました。
子供たちは、先生からすでに「お月見茶会」と聞いていた様子で、香合がウサギの形であることや掛け軸が秋の花であることもすぐさま理解をしていたようです。
インターネットで「中秋の名月」を検索してみました。
「古来、日本人は月をめでて来ましたが、やはり満月が一番美しいものとされました。その中でも中秋のこの時期は空気が澄んでいて、最も美しい満月が見られるということで、平安時代初期に、この日、月を見ながら宴会をする風習ができたのです。これは観月宴とか月の宴と呼ばれ、当時は月を見ながら即興で和歌を読み、その出来をみんなで評価しあって酒を飲んで楽しみました。」とあります。
日本人ほど、自然と融合して生きている民族はそんなにいません。自然の事象や自然物に神の現われを見ることは、日本人の自然に対する信仰の意識、さらに信仰に基づく自然観を形作ってきていたのですが、今でも、アイヌや沖縄の人たちの文化の中に息づいているものの、戦後の宗教教育の否定と急速な経済発展でいつの間にか自然に対する感性や畏敬の念を失ってきています。
話がだんだん難しくなってきました。秋の実りを飾ってお茶を戴いた子供たちが、少しでも自然の心地よさを感じ取ってくれていれば、とてもうれしく思います。
幼稚園の行事の中で、七夕やお餅つき、節分、ひな祭り等々、このように昔からの伝統文化を経験できるよう心がけていますが、日常生活の中にはほとんどが失われてきています。青少年の痛ましい事件の報道に触れるたびに、子供たちの情操教育には欠かせない日本の文化、伝統行事を今一度、振り返って考えてみることも、とても大切なことではないかと思います。
2004年10月1日 1:58 PM |
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長い夏休みが終わり、今日から2学期の始まりです。この夏の酷暑には身の置き所がありませんでしたが、台風16号がやってきて、やっと涼しくなってきた感じがします。
夏休みの間に、幼稚園の園庭に隣接してあった畑を購入して、造成工事を始めましたが、その工事も無事に済み、新しく動物の飼育小屋を建て、動物園が移転しました。気のせいか、ヤギやヒツジ、ウサギやクジャクたちも気持ち良さそうで、気に入ってくれているのではないかと思っています。そして、クスノキやブランコやわんぱくトリデの遊具も移設しました。園庭が広々としてきました。子供たちも、きっと、喜んでくれると思います。工事は引き続き、園舎の建築に入っています。シンボルとなる時計塔には、からくり時計を設置します。楽しみにしていてください。
二学期が始まった今日、日焼けした子供たちが元気いっぱいで「おはようございます。」と、登園してきてくれました。幼稚園では、先生の方からも先に挨拶をして、子供たちが、ちゃんと挨拶が出来るように心がけていますから、みんな挨拶が出来るようになっています。今では、私と園庭で出会っても、保育室に入って行っても、「おはようございます。」と、元気な声で挨拶してくれます。
今、私の住んでいる地域の人たちが、期間を決めて、子供たちの通学路に立って、挨拶運動を実施していますが、今月の10日には、私の番が回ってきます。1学期もやりました。そのとき感じたのが、こちらから、「おはようございます。」と挨拶をするのですが、ちゃんと挨拶する子と、黙って通り過ぎる子がいることです。まさか、「誘拐など怖いことがあるから、知らないおじちゃんから声をかけられても返事をしてはいけません」と、言われているからではないのでしょうが、「変なおじさん」と言わんばかりに、知らん顔をして通り過ぎます。
先日、その小学校に、夏休みの間に草ぼうぼうとなった校庭の草取りや植木の剪定作業に行ってきました。少人数の学校なので、保護者と職員だけでは人数が足りず、とても大変なので、地域の人たちも参加して一緒に作業をするのです。5,6年生も手伝いに来ています。そこでも、ちゃんと挨拶する子としない子がいます。同じ学校の子なのに、挨拶を気持ちよく、はっきりする子と、横目で見て通り過ぎる子がいるのです。その子たちのお父さんお母さんも参加しています。お父さんお母さんの中にも、挨拶される方とされない方がいらっしゃいます。よく観察していると、挨拶をしない子供と、挨拶をされない親とがほぼ一致するのです。そうなのです。幼稚園や保育園の時には挨拶していた子までが挨拶をしなくなるのは、親自身が挨拶を、あまり、していないからなのです。
それで思い出したのが、幼稚園に来られるお母さんの中にも、挨拶をよくされる方と、こちらから挨拶しないとされない方がいらっしゃるということです。そんなことを考えている時に、やはり「さすが」ということに出会いました。お母さんがプレイルームに子供を迎えに行かれている間、車の助手席におばあちゃんが座って待っていらっしゃるのに気が付いて、私の方から会釈すると、そのおばあちゃんは、わざわざ車から降りて来られて、「いつも孫がお世話になっています。」と、丁寧にお辞儀して挨拶をしてくださいます。普段は、このおばあちゃんがお迎えにいらしているので、園庭で出会ったときも、丁寧に挨拶してくださることは知っていましたが、前日にも会って挨拶をしているのに、車の中からでは失礼になると思われたのでしょう。わざわざ降りてこられて挨拶をしてくださいます。同じように、その孫のお母さんも、丁寧に挨拶をされます。そのお子さんも元気に挨拶をしてくれます。近年は核家族の家庭がほとんどになってきましたが、さすが、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に生活されている家庭では、ちゃんと身内同士でも挨拶をされる習慣が根付いているのであろうと、うれしい気持ちになりました。
ところが、新聞か何かで読んだことがあるのですが、核家族で子供の数が少なくなった家庭では、挨拶だけにとどまらず、家の中で、お母さんと子供の会話をしない生活をしている家庭が増えているというのです。別に会話をしなくても、子供の数が少ないので、阿吽(あうん)の呼吸で気持ちや意思が通じるからなのだそうです。わざわざ、「おはよう」と言わなくても、起きてきたことはお互いに解っているからと言うのでしょう。その上、起きるなりテレビのアニメを見たりしていたら話すこともなくなってきます。これでは、言葉(語彙)が貧しくなるばかりではなく、自分の意志で他人に気持ちをちゃんと伝えることもできなくなるし、お母さんとの会話のやり取りの中で、相手の考えを受け止めたり、心が癒されたり、社会というものを知っていくのに、そういうものはほとんど育まれないことになります。
挨拶をちゃんとすることで、家庭にあっても、人との関係を心地良いものにしてくれます。良い人間関係を保つために、最初にするのが挨拶です。夫婦の間でも、朝、起きたら、お互いに「おはようございます。」から始まることを、忘れないで欲しいと思います。
2004年9月1日 1:45 PM |
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7月11日の日曜日に、ちゅうおうグループ(三次中央幼稚園・子供の館保育園・子供の城保育園・ちゅうおう児童クラブ・地域子育て支援センター「子育て憩いの森」)の全職員が一堂に集まって会席での食事マナーを学びました。小泉総理や文部科学省が「食育」の大切さを説いているときだけに、タイミングの良い研修会でした。講師に茶道の上田宗箇流の坂部由香子先生をお招きしての楽しい勉強会となりました。
和食ですので極端に礼儀や作法に反する人はいませんが、それでも茶事の作法から学ぶと、指摘されることが多々ありました。
例えば私の場合、お茶碗やお汁椀を手に取るとき、先にお箸の方を手に取り、それからお茶碗やお汁椀を取っていました。ところが、茶事での懐石料理の作法では、まずお茶碗を(左)手に取り、箸置きに置いてある箸の手元側の方を(右)手で上からつまみ、それを、茶碗を持っている(左)手の中指、薬指、小指を支えにして人差し指と中指との間に挟み、(右)手を箸の下から持ち直してから戴きます。こんな面倒なことと思っても、その動作を見ているととても美しくきれいなのです。先生もおっしゃっていましたが、礼儀作法の基本は相手に不快を与えず、お互い気持ちよく過ごすことですから、日常の生活や食事では、茶事でするようなきっちりとした形はとらないまでも、お行儀良く、マナーを心得て食べることはとても大切なことなのですから、そのことを改めて考えさせられ、とても勉強になる会席となりました。
考えてみれば、私の子供の頃は祖父母が明治時代の人ですから、とても厳しく育てられたという思いがあります。祖父は私が3歳の時に亡くなりましたから、厳しかった思い出は祖母に対してです。
まず、家族全員がそろわなければ食事が始まりませんし、家の主人(父親)が手を合わせて、「いただきます。」と言わなければ、私たちも、「いただきます。」と言って食べることが出来ませんでした。もちろん、食事の時は、全員、正座して黙って食べなければなりませんでした。今では、食事のときが家族団らんの場となっているご家庭がほとんどだと思います。それはそれで楽しい食事の時間となって、とても素敵なことだと思います。その時に、ただ楽しければいいと言うのではなく、お父さんお母さんが、「お行儀」のことを少しだけ意識して、子供たちに伝えていくことはとても大切なことだと思います。手を合わせて「いただきます。」、「ごちそうさま。」はもちろんのことですが、食事中、「ぺちゃくちゃ」と音を出して噛まない、体をくにゃくにゃしないで姿勢をきちんと正す、箸で茶碗をたたいたりしない、箸をなめない、割り箸のときにソギを取るため箸をすり合わせない等々、最低限のお行儀はきちんと付けておきたいものです。
ところで、最近、「孤食」が問題になっています。一人住まいで一人だけで食べる意味ではありません。家族と一緒に住んでいるのに一人で食べているのです。
以前、NHKのテレビ番組で、全国の子供たち2500人に食事の風景の絵を描いてもらうという番組がありました。それによると約3分の1の子供たちが一人で夕食を食べているのです。
家族がいるのに、自分の部屋に食事をもって行き、一人で食べています。またある子は、テレビを見ながら食べ、ある子はゲームやマンガを見ながら、たった一人で夕食を食べていました。
その上、献立の内容はと言うと、手の掛からないものがほとんどで、例えばラーメン、スパゲッティ、ピラフ、あるいはスープのみという子もいました。子供が作るのならそうなるのかもしれないと思っていたら、お母さんが作っているのです。このような食事ばかり摂っていると発育に必要なミネラル、ビタミンや良質のタンパク質が摂取されません。肉体的な発育はもちろんですが、精神の発達にも重要な食生活が普通にすらできていないのです。
このような家庭生活を続けていると、自分と違う他人を受け入れることの出来ない、他人と関わることの出来ない、他人と一緒にはやっていけない、社会性に欠ける自己中心的な人間に育ってしまいます。家族の存在とそこでの関わりの在り様が、人間として、社会人としての出発点となるのです。
もう一つの問題は、朝食を摂らない子供が増えていると言うのです。ある調査によると、児童生徒で朝食を欠食することのある割合は、約16%となっており、全く食べない者の割合は約4%となっているのです。朝食を摂らない子供は落ち着きがなく無気力となり、運動するにも勉強をするにも元気が出てきません。
子供が小さい時から親との大切な共有の時間を過ごせるのが食事時間です。楽しく食事をしながら家族の団らんを通して、子供と向き合い、社会や社会のルールを教えることも、その日の出来事、楽しかったことや嬉かったこと、困ったことや嫌だったことを聞いてやることも、家族で一緒にとる食事の時間を大切にすることで実現できるのです。
話は変わって、「自然観察園」に造った畑に、無農薬で化学肥料を使わないで作ったキュウリやナス、トマト等が実り、食卓をにぎわせてくれています。「なんと美味しいこと、美味しいこと」、こんなにも美味しかったのかと、農家で生まれ育った私もすっかり忘れていた味でした。女房もキュウリをまるかじりしています。形のそろったきれいなキュウリやナスではなく、自然のままに育ったいろいろな形です。なんだか急に贅沢な食卓になった感じがします。
2004年7月1日 6:09 PM |
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