白髪せんせいのつぶやき

自ら学ぶ力(平成8年度)平成9年2月

1月29日は20センチ近い積雪です。子供たちは登園するなり園庭に出て雪あそびに興じています。かまくらや雪だるまを作ったり、ソリに乗って友達にひっぱってもらったり、雪合戦をしたりと、とても楽しそうです。中には、長いプラスチックの筒の先に雪を詰め、雪の吹き矢で遊んでいます。外階段では屋上の雪を運んできて踏み固め雪のボブスレーを作って上から滑って降ります。これはスリル満点で最高に楽しそうです。
園庭で子供たちが作った雪だるまの頭の部分を持ち上げるのを手伝っていると、後ろから園長めがけて雪を投げてくる数人の子がいます。振り向くと年少組の子供たちです。しかもその中に、今までは甘えて私の手をいつもひっぱってついて歩いていた子がいます。その子が、何回も何回も、園長をめがけて雪を投げてくるのです。嬉しくてジーンとしてしまいました。その姿に、しっかりしてきて、自立した様子が感じられるのです。


雪遊びが終わって、保育室に入った子どもたちを、カメラを持って追って見ました。年中組のクラスに入って見ると、机で作った二つのベットを並べ、その上に男の子が寝て、それぞれの腕や頭は紙の包帯で巻かれています。上からは、ヨーグルトのカップで作った点滴がぶら下がっていて、ピンクのタフロープがチューブになって腕に取り付けてあります。周りの男の子たちは、不織布や紙を使って作った白衣とマスクを付けて、ひもで作った聴診器や虫眼鏡を持って診察しています。「あなたの足は骨が折れていますね~。手術しますから入院してください」、「ハイ、注射をしますから痛くても我慢してください」。女の子は帽子を付け看護婦さんになって、カルテを持って書き込んでいます。「ハイ、今日はこれでいいですよ。次は来週の木曜日に来てください。お大事にね」と、その言葉かけやしぐさは実に堂に入っていて、本当のお医者さんや看護婦さんのようにテキパキと動いているのです。この遊びも、通院や入院の経験ある子たちが始めた遊びでクラス全体に広がっています。その周りには、段ボールでコーナーを作り、その中で何やらやっています。カップが一杯並べられ、ちぎった紙や砕いた発砲スチロールを入れて、こねまわしています。「ハイ、かぜ薬です。一日3回飲んでください。胃薬も入れときましたからね。ハイ、次の方!」。どうやらそこは薬局のようです。


年少組の部屋も、段ボールや空き箱などを使って、子供たちでいろいろなコーナーを作って、ままごとや粘土遊び、郵便ごっこや劇遊びをして楽しんでいます。年長組の子供たちも、小屋やドームやコーナーの囲いを作って、そこを生活の場として遊んでいます。どれもこれも子供たちで作って、ダイナミックな活動が展開しています。子供たちは自分たちの遊び(生活)をより楽しいものに、あるいは、自分のものとして獲得するために、試行錯誤しながら、創意工夫している姿がしっかりと見て取れます。その創意工夫の活動そのものが、自己の成長と変革を図り、創造的な人間の基礎作りとなるのです。


平成2年度から文部省の幼稚園教育要領が25年ぶりに改訂され、小学校の指導要領が平成3年、中学校が平成4年とそれぞれ10年ぶりに順次、改訂実施されました。その中に共通して出てくるのが「新しい学力観」です。これを「生きる力」という表現に置き換えています。
その内容は、これから生きていく人生の中で、様々な社会の変化に主体的に対応できる人間の育成を図る教育を中心に置くというものです。これらは、過去の教育のあり方が、知識の詰め込みを中心とした教育で、人間としての成長を歪め、思いやりの心に欠け、思春期の心の歪み、学力の低下、無気力、不登校、校内暴力、自殺、あるいは、社会に出てもマニュアルがないと、指示されないと、何もできないという指示待ち人間、等々、様々な問題が生じていること等の反省から、改訂されたものです。


それは、今までのような知識教育に重点を置くのではなく、学習意欲や理解力、思考力など「自ら学ぶ力」をつけるのが21世紀を生きる子供たちへのこれからの教育なのです。この幼稚園が、10年余り前から、園の研究主題として取り組んできた「子供主体の保育」は、子供たち一人ひとりが、周りの事象や環境に自ら興味や関心を持ち、自発的に関わり、自分で考え工夫し、試行錯誤しながら、友達と関わりながら、継続しながら、意欲を持って目的を達成していく子供主体の生活が、生きる力と小学校で基礎・基本を学ぶための基盤作りとなるのです。正に、「自ら学ぶ力」の能力開発であり、「真の知的教育」なのです。そういう子供たちの生活を通して文字や数、形への興味や知的好奇心も育まれ、本物の知識を獲得し、自ら工夫し新しいことにも意欲を持って創造的な生活を送る中で心豊かに育っていくのです。
ずっと先のことにも触れますが、わが子が受験する頃には、新しい学力観にたつ入試も増え、今までのような教えこむ教育では対応できなくなるのです。

日々坦々(ひびたんたん)(平成8年度)平成9年1月

12月8日の発表会の前日、プレイルームに行くと、先生が「ね、園長先生、明日、文化会館にサンタクロースがくるんだよね。」と、相槌を求めます。子供たちに本物のサンタクロースが来ることを信じさせようと話している最中だったのです。
「えっ、ほんとう。知らなかったなぁ」と言うと、すかさず、3歳の女の子が「園長先生、知らんかったん。じゃけぇ、教えてあげようおもっとったんよ!」と、得意そうに言います。
発表会当日、うめ組の舞台にサンタさんがやってきました。サンタはその子の頭をそっと撫でてやりましたが、真剣なまなざしで、サンタの顔を見つめていました。


20日は、幼稚園でのクリスマス会です。19日の餅つきが終って、自分たちの作ったお餅を入れたおしるこを、みんなで食べながら、やはり、本物のサンタさんがやって来ることを信じさせようと、先生たちは、いろいろな楽しい話を聞かせています。
当日は、先生たちの凝った演出のもとで、クリスマス会が催されましたが、3、4才児は信じきっています。5才児の多くの子供たちも信じていますが、何人かの子供たちは半信半疑です。園長先生がサンタになると言い切っていた子は、園長の姿を見て、「じゃ、運転手のおじちゃんだ」と振り向くと、運転手の姿を発見し、困った様子です。そこへ、演出たっぷりで、サンタの登場です。「ほら、本物のサンタさんでしょ。中央幼稚園には本物のサンタさんが来てくれるんだよ」と言うと、「うん」と、もう、すっかり信じています。


子供たちには夢があります。昔話を聞いたり絵本を読んでもらうと、その話の中に入り込んでいきます。言葉や絵からイメージを膨らませ、現実と空想との区別がなくなり、心の中で一体化してきます。
7年度の園だよりの「園長の絵本講座」でも書きましたが、サンタクロース(に限らず、魔法使い、妖精、鬼、龍、仙人等々)の存在を信じることは、そのこと自体が子供の心に働きかけて、信じるという能力を養い、成長につれていつかその子の心の外に出て行ってしまいますが、サンタクロースが占めていた空間は、新しい住人、つまり、目に見えない一番崇高なものを宿すかも知れない、サンタクロースの部屋、つまり、「心の箱」を育んでいるのです。目に見えないものを信じるという心の働きが人間の精神生活のあらゆる面で、とても重要なのです。


皆さんは、お正月はいかがお過ごしでしたか。それぞれに心を新たにして輝かしい新年をお迎えになられたことと存じます。
子供たちにとっても楽しいお正月になりましたでしょうか。
私事ですが、年末に、杵と臼を使って家族で餅つきをしました。もちろん、機械でついたお餅よりも美味しいお餅ができるのですが、そのことよりも、餅米を蒸して、杵でつくことの時間の流れ、家族と共に過ごす時間の流れの心地良さを久しぶりに感じることができました。田舎で育った私は、高校を卒業するまで、お正月用に限らず、めでたいことがある度に餅つきの手伝いをしていましたが、その頃の、日々坦々と過ごしていた思い出と重なり、改めて昨今の慌ただしさの中に埋没しそうな自分に気付き、もっともっと心豊かに過ごすことに心がけなければと思いながら新年を迎えました。


日本には世界に誇ることのできる永い歴史と文化が有り、その中に様々な伝統行事が有ります。そのことが、その年その年の、あるいは、季節季節の節目であり、生きていることの節目となり、自然の摂理の中で活かされていることの感謝の念も抱きます。今年も元気に過ごせるようにと、昨日7日も「七草がゆ」を戴きました。
いろいろな行事が消えて行く中で、子供たちの伝承的な遊びの文化も無くなってきました。そんな中で、伝統的な行事や伝承遊びを少しでも経験させてやりながら、子供たちを心豊かに育んでいきたいと、職員一同、心新たにしているところです。
1、2学期と様々な経験をして過ごした子供たちは、物事に自発的に取組み、友達関係も深まって、幼稚園生活が楽しくて仕方がないという様子です。三学期は、今までの園生活の中で育まれたことを土台として、進級・進学を楽しみにしながら、一層、充実した日々を過ごさせてやりたいと思います。保護者の皆様のご支援をお願いいたします。

得手不得手(えてふえて)(平成8年度)12月

今年の市内のある小学校の運動会が終わった間なしの頃、幼稚園の頃から走ることが速かった卒園児が、弟を迎えに、お母さんと一緒に幼稚園に来ていたので、「リレーに出た?」と聞くと、「ううん」と首を横に振ります。そのお母さんの話によると、毎年、走るのが速い子ばかり出るから、遅い子も出れるようにと、今年は足の速い子からは選ばないことにしたそうなのです。それを聞いて以来、心の隅にずっとひっかかるものがありながらも時を過ごしていました。


みなさんは、このことをどのように感じられますか。確かに、「いつも5位か6位で徒競走が苦痛だった。」あるいは逆に、「足が速かったから走るのがすごく楽しかった。」といった思いを大人になっても覚えています。そういう思いからか、今年は、走るのが遅い子を選手にして走らせたというのです。一見、思いやりのある配慮のように感じます。しかし、足が遅いからと選ばれた子供の気持ちはどうでしょう。リレーの選手に選ばれたからと喜んだでしょうか。屈辱以外の何ものでもなかったのではないでしょうか。そもそもリレーはクラス対抗であれ、地区対抗であれ、紅白リレーであっても、速さを競うものです。全員出られればそれでいいし、人数に制限があり選手を選ぶなら、速い人を選んで、みんなの代表としての競走なのです。自分たちの代表だからこそ応援にも熱が入ります。


人間みな得手不得手が有ります。自分は勉強が苦手だけど、走るのだけは得意だという子もいます。運動は苦手だが本を読むのが大好き、虫が大好きだという子もいます。国語は苦手だが、算数が得意、いや、自分はサッカーが得意、泳ぐのが得意、野球が得意、木に登るのが得意という具合に苦手なものもあれば得意なものもあります。遅いけど最後まで頑張るという根性の持ち主もその子の良さなのです。苦手なことがあっても何か一つでも得意なことがあるからこそ自分に自信が持てるのです。別に勉強や運動でなくとも、優しさとか思いやりの気持ちは人一倍あるということも、その子の素晴らしさなのです。
その自分の得意なことや良さを発揮できるから、そのことを周りが認めてくれるからこそ、自分に自信が持て、生きていく力となるのです。


話は元に戻って、走るのが遅い子への配慮から、選手に選ばれなかった足の速い子の気持ちはどうでしょう。もしかしたら、走ることの遅い子は勉強が良くできていて、足の速い子は走ることだけには自信があったのに、それまでも奪われていたとしたらその子は立つ瀬が無くなってしまいます。
人は一人ひとり皆違います。その違いを認め合い、相手を認め合うからこそ生きていくのが楽しいのです。


最近、各地の中学校や高等学校で、テストや体育大会の中止を求めての「自殺予告」の電話や手紙で、その対応に学校がほんろうさせれた事件が続きました。そのことで、中止や延期にした学校もあれば、予定通り実施した学校もあります。その中で、予定通り体育大会を実施した大阪・寝屋川市立第6中学校の出来事の一部を紹介します。
【体育大会を中止して下さい。無理なら集団演技だけにして下さい。してくれないと学校に行けません。いつもみんなに『おそい』といわれています。先生はおそい子の気持ちを考えたことがありますか?もう死にたいくらいです。お願いします。】
この体育大会の中止を求める手紙が届いた数日後、緊急の全校集会を開き、千人を超える生徒の前で校長先生は「自分の悩みを打ち明けてくれてうれしいと思う。いろんな悩みや考えをもった人が集まっているのが学校です。自分との違いをもった友達がいることを認めて欲しい。そして、いろんな悩みをもった友達の立場にたって一緒に考え、手を差し伸べて欲しい」と切々と語りかけ、その上で、「体育大会は予定通り実施したい。そのためには、一人ひとり先生と一緒に手紙の内容について考えて欲しい」と訴えました。


その日の午後、3年生の女子生徒が、「校長先生。もし、手紙を書いた人を知っていらっしゃるのなら、その子に渡して欲しい」と一通の手紙を差し出しました。それには、次のようにつづられていました。
【私も小学校のころ、走るのが苦手で毎年のようにある徒競走が嫌いでした。でも、小学校2年生の時、クラスで同じように走るのが苦手な子が「運動会にでたくない」といいだしました。そのため、クラス会を開き、みんなで意見を出し合いました。その時、私はとても驚きました。
なぜなら、「僕はオンチだから音楽の時間が嫌いだ」とか、私は字がキレイではないから、お習字の時間が嫌いだ」etc……
皆、ふだんは何でもできますというような顔をしているのに、その人たちでも「苦手な事があるのだなあ」と、とても安心したのを覚えています。だから、走るのが苦手なあなたでも他人に負けない何かがあると思います。私はそれを見つけることができたので、それほど走るのが嫌では無くなりました。(中略)
それから、私はあなたの意見に一つだけ反対したいことがあります。それは、あなたは「みんなから足が遅いといわれる」と書いていたそうですが、みんながみんな「遅い」というわけではないでしょう。きっとあなたを応援してくれる人だっているはずです。あなたがそれに気づいてくれるといいなと思います。(中略) 嫌な事から目をそらしていると、いつか楽しいことも見えなくなっちゃうよ。走るのが速くても遅くても一生懸命走れば、そのあなたの一生懸命がきっとクラスの人に伝わるはずだよ。だから頑張ってください。】
それを読み終えた校長先生は感動とうれしさの余り、「ありがとう」と生徒の手をギュッと握りしめ、その生徒の了解のもと、全校生徒に各担任が読んで聞かせました。もちろん、体育大会は感動の内に終わりました。


みなさん。いかがでしたか。最近、みんなと同じでないといけないと考える風潮が強くありませんか。みんな同じでないといけないから異質なものに対して「いじめ」が起こるのではないでしょうか。「個性を伸ばす。特性を伸ばす。」ということは、その子その子の得意なところや持ち味を生かす教育なのです。違いを作ることなのです。そのことが、自分自身の自信となり、人との違いを認め合い助け合い、環境の変化にも対応しながら、人間として生きていく力となるのです。違いを認め合うことができたら、「いじめ」も無くなるのではないでしょうか。

落ち葉(平成8年度)11月

幼稚園の園庭は、今、“かえで”の紅葉した落ち葉でいっぱいです。
子供たちと園庭で遊んでいると、後から背中をポンポンと誰かがたたきます。振り向くと3歳の女の子が、真っ赤や黄色に紅葉した美しい落ち葉ばかりを集めて、手にしっかりと握り締めています。私の方にそれを見せながら、“にこっ”として何も言わずに去ろうとします。私もにっこりして、「きれい!」と言いましたが、何の言葉もいらないほどうれしそうな顔をしていました。


園庭には、落ち葉だけではなく、どんぐりもいっぱい落ちてきます。朝早いと、誰も拾っていませんから、どっさり落ちています。
一番に登園してきた、やはり、3歳の女の子が、牛乳パックに山盛りになるほど集めて、「こぼれちゃうよ」と、うれしそうな顔を見せてくれます。「いっぱい拾ったね」と、私も微笑みます。


どちらの子にも、一声はかけましたが、このようなとき余り言葉はいりません。子供のうれしい気持ちに、さりげなく共感してやることが大事なのです。子供の「美しいと感じた心」、「うれしいと感じた心」を大切にするためには、大げさな反応は、その余韻を壊してしまうからです。目と目が合って、うなずくだけでも、子供は、大人が自分の気持ちを受け止めてくれていることを感じとります。それは、自分が認められているという、心の安定感につながります。それが、「共鳴する」、「共感する」ということで、そうしてもらうことで、その感情を確かなものにしていくのです。子供の気持ちを汲みとるコツは、そのままの姿を受け入れることです。直ぐに何かを教えてやろうとすることではなくて、先ずは、子供のそのままの気持ちを受け入れるのです。私たちは、このことを「受容する」と言っています。「あるがままの姿を受容し、共感する」、これが幼児理解の出発点なのです。


ところが、我が子となると、そういう対応の仕方ができないことが多々あります。忙しくしていると、「もう、そんなもん拾ってばかりいないで」と、ついつい、言ってしまいがちです。忙しくても、心の余裕は持ちたいものです。「今、子供の感性が育まれているのだ!?」と思い直せば、少しは見守る心の余裕ができるかも知れません。


園庭で拾った落ち葉やどんぐりは、大切にロッカーにしまい込む子供もいれば、ままごとに使って遊んでいる子もいます。年長組になると、首飾りを作ったり、いろいろな製作の材料に使っています。
子供たちは、いろいろな「もの」や「こと」を何かに見立てて遊びます。花の汁やヨウシュヤマブドウの実の汁はジュースに、泥水はコーヒーに、葉っぱはおかずに、砂はごはんに、どんぐりの実は砂で作ったケーキのデコレーションにと、自分の生活経験の中から得た知識に連動させ、「みたて」て遊びます。


これらを遊びとして成立させるために、「つもり」になります。「つもり」というのは、お母さんの「つもり」、赤ちゃんの「つもり」になって遊ぶのです。あるいは、なった「ふり」をしてあそびます。「ごっこあそび」と言われるのがこれです。特に、3、4歳ぐらいの男の子がよくする、テレビ漫画の「オーレンジャー」とか、「カーレンジャー」とかになって、小山の石の上から飛び降りながら、「トアーッ」、「キック」とか言って、遊んでいるのは、まったくその「つもり」になっているのです。


それらの遊びを見ていますと、子供の生活経験から得た知識がそのまま出てきます。外食したら、その時の様子を再現しながら遊び、病院によく行っている子は看護婦さんになりきっています。かぜ薬を飲んだ次の日には、カップに砂を入れて葉っぱに移し替え、「くすり」に見立てて遊んでいます。お母さん役も、お母さんそのままの口ぶりです。
これらの「みたて」や「つもり」になったあそびをしっかり保証してやることで、心豊かに成長してくれるのです。
久しぶりに、ここ数日、本気で、子供たちとサッカーや野球をして遊びましたが、1学期とは見違えるほど上手になっていて、遊びの高まりや人間関係もずいぶんと深まり、子供たちの成長に手応えを感じています。

昆虫採集(平成8年度)10月

先日、いも掘りをしました。子供たちは、いっぱい、いっぱい掘って大満足です。
いも掘りが終わる頃、ふと見ると、草むらにいる昆虫を採ることに夢中になっている子供たちがいます。バッタやこおろぎ、カマキリやへびも捕まえている子もいます。その時の子供は真剣そのものです。まさしく、中央幼稚園の子供たちです。カマキリは頭と釜を上に向けて抵抗しますが、子供たちはすばやく捕まえます。女の子が「これなあに」と茶色の幼虫を手に持ってきました。残念ながらその幼虫の名前を失念しましたが、多分、大きな蛾の幼虫だと思います。下半分を持って「右向け右」というと上半分(頭側)が動くやつです。お父さんお母さんの子供の頃もきっと遊ばれたことが有ると思います。「右向け右」と言うと動くので、その子はその幼虫をずっと持って「右向け右」と言いながらみんなに見せてまわっていました。そう言えば、こんな遊びもほとんど見られなくなりました。自然の中で遊ぶことの少なくなったことで、最近は事情がずいぶんと変ってきているのです。


先月、こんな新聞記事を見ました。《ある中学生が『どうしてこんなにいじめられなきゃならないのか』って、昆虫の専門家のところへ泣き付いてきました。この少年は夏休みにたくさんの昆虫を採集し、標本にし、自由研究として学校に提出しました。標本は満足のいく出来で、友達や先生にほめられることさえ予想をしていたのですが、結果はまったくの逆で『かわいそうだと思わないのか』『殺虫鬼』などと罵詈(ばり)雑音をあびせられたというのです。そこでこんな状況をなんとかしようと日本昆虫協会の専門家や愛好家、自然保護委員会委員長の川上洋一さんらが立ち上がったのです。


日本で自然や動物の生息環境の悪化が心配され始めたのは1960年代後半。以降、「自然保護礼賛」の考えが世間に広がると同時に「昆虫採集=自然破壊」のイメ-ジが大人から子供にまで定着してしまった。昆虫の繁殖力は採集量の比ではないので、実際、採集によって昆虫が減っているという事実はないのです。「採集は悪」という短絡的な考え方を解きほぐして理解を求め、「ムシ屋」が受け入れられる土壌を広げようと、初夏から秋にかけてはチョウやトンボをはじめ昆虫の採集・観察会や生息調査、飼育教室を開催しています。


採集や標本は研究目的や自然の産物の蓄積という意味も有りますが、「あらゆる種類の感情を味わえるのが最大の魅力」だといいます。「虫採りに挑む、どきどきした気持ちや手に届かないもどかしさ、人に先を越されたくやしさ、ねたましさ。やっと捕まえた喜びは格別。標本にしても、手を下して殺すときはやはり心が痛むし、それでも手に入れたいと複雑な思いが交差します」と自身の体験を追想しています。こうした感情の体験こそ、今の子供に必要で、豊かな人間性の育成に結び付くのです。
自然体験の乏しさと合わせ「虫にさわれない子供」が増えています。親や教師、とくに小さい子供にかかわる女性の昆虫観が影響して、「虫ぎらい」人口を増幅させているのだと案じています。


「小学校の生活科などで野外に出てきた子供たちによく出会うが、ほとんどが草花中心で虫採り網を持った集団は見たことがない。といって採集至上主義者ではない。直接触れなくても、自分なりの好きな方法で虫に関わればいい。ただ、その機会を保証してやりたい。」と話しています。》 

皆さんは、この記事を読まれてどのようなことを感じられましたか。自分の子供の頃にはセミやトンボ、バッタや蝶など夢中になって採っていませんでしたか。そして今、子供がセミやバッタを捕まえていると、「可愛いそうだから離してやりなさい」とすぐに言っていませんか。
子供は、好奇心を持つと、捕まえたいのです。採集したり飼って見たいのです。乱暴に扱ったり餌を忘れると直ぐに死んでしまいます。これらに関わる中での心の葛藤が大切なのです。子供たちが夢中になって遊べる環境と時間を保証してやりたいものです。