白髪せんせいのつぶやき

お寺(平成17年度11月)

10月1日に三次市西酒屋町にある浄土真宗本願寺派の源光寺で、《門信徒の集い・トーク&ライブ2005「一期一会」3》と言う集いがありました。私の家は禅宗の臨済宗ですので宗派は違いますが、その集いのトークショーで子育てについて何か話をして欲しいと言うご住職からの依頼がありました。今までの私のお寺へのイメージから言うと、宗派によっては呼び方が違いますが、住職さんや和尚さんが門信徒や檀家の人達に法話や説教をしてくださると言う思いが強くありましたので、講師の依頼があったとき、一瞬、戸惑いましたが、幼稚園の保護者でもあるし、私自身、2年前から東酒屋町に居を構えたこともあって、地域の方々へのご挨拶代わりと思い、快くお引き受けしました。そのトークの内容は、『お爺さん お婆さん そして貴方も出番ですよ! ~子育て・孫育てを語りましょう~』と言うテーマで、ご住職さんとの対談と言う形で、一部と二部とに分けて行われました。


そこでの話の内容についてはここでは触れませんが、本堂もいっぱいで廊下まで立って、多くのお爺さんお婆さんから若いお母さん達も聴いてくださいました。その対談のときに、住職さんから幼稚園を運営してきて、「一番嬉しいことはどんなときですか」と言う問いかけがありました。そこで私はいろいろあるけれど、「子供が夢中になってしっかり遊びこんでいる様子を見る時と、卒園児が大人になってからも訪ねて来てくれる時。」と言うようなことを、具体的な出来事を紹介しながら話をしました。


そして第一部が終わり、第二部のトークが始まる間は控え室で次の出番を待っていました。しばらくすると、住職さんのお子さんで、小学校2年生の卒園児の清道(せいどう)君と幼稚園年中児の清賀(さやか)ちゃんが挨拶にやってきてくれました。最初に清道君が正座して両手を着いて、「今日は大変お世話になります。」と丁寧に挨拶をしてくれます。それに続いて、清賀ちゃんが、ちょこんと座って、「お世話になります。」とペコンと頭を下げました。するとお兄ちゃんが、「ちゃんと座って、両手を着いて挨拶をしなさい。」と言って妹にやり直しをさせます。そうして改めて丁寧に挨拶をしてくれました。


さすがお寺のお子さんだとほほえましく思いながら感心していました。そう言えば、そのように正座をして挨拶してくれる子供には、最近、出会っていないことに気付きました。もっとも、畳のある家で子供達に出会っていないだけかもしれませんが、それでもやはり、正座して挨拶する子供はかなり少なくなっているだろうと言うことは想像に難しくはありません。お寺ですから、大抵、畳が敷いてあります。住職さんとその家族の大人の方は、お寺にお参りに来られた方やお客さんがいらっしゃると、いつも正座して両手を着いて挨拶をされているはずです。そのお子さん達は、そこでの日常の生活の中で毎日その姿を見ています。その子達のお父さんやお母さん、お爺ちゃんやお婆ちゃんや、周りの大人の姿を見て育っています。私のところに来て正座して両手を着いて挨拶をしてくれたのも、ごく自然にできるようになっているのだと思いました。あるいは、お婆ちゃんから言われてそうしたのかもしれません。そのどちらであっても、毎日の生活の中で獲得していくマナーは、突然に言われてもできません。周りの大人の姿を見ながら、ときには教えてもらいながら身に付いていくものなのです。家庭での躾(しつけ)は大人の生活の在り様でもあるのです。


そんなことを思っているところへ、今度は高校生が、「失礼します。」と言って入ってきました。卒園児の里佳ちゃんです。やはり正座をして挨拶します。彼女の家は南畑敷です。家からお寺まで距離があり、遠くから来ているので、「門信徒なの?」と訊くと、「門信徒ではないけど、小学生の頃から毎月このお寺で開催される『ルンビニ子ども会』に来ていて、毎年のサマースクールにも参加していました。今日はこのライブの準備の手伝いに来ました。」と言います。高校でのサークル活動で紙芝居を子供達に読んでやるため、保育園や幼稚園を回っていると言います。三次中央幼稚園にも私の留守の時、来てくれたと話してくれました。幼稚園の時は一番背の低かった里佳ちゃんですが、すっかり大きくなっています。「何年生になったの」と訊くと、高校3年生だと言います。「じゃあ、進路はどう考えているの」と続けて訊くと、「広島の短大を受験して幼児教育を専攻する予定です。」と言います。嬉しいではないですか。やはり、卒園児の成長を見ることはとても嬉しいものです。第二部が始まるまでの楽しい一時を過ごすことができました。それと同時に、このお寺で、地域の子供達が勉強したり山登りをしたりしながら、それらの活動を通じて、何か見えない偉大なもの(サムシング グレート)を信じる畏敬の念を培っておられることに大変ありがたく敬意を表したい気持ちです。


大きな言い方をすれば、私達は自然の偉大なる宇宙の摂理の許(元)で生かされています。その自然の偉大なる宇宙の摂理に対して、信じる心と感謝する心を持ち合わすことができる人になれたら、どんなに心豊かな生活ができるでしょう。「もったいない」、「ありがたい」「おかげさまで」と言う日本の心の文化を伝えていきたいものです。


話は変わって、10月中旬に入って静岡県のある幼稚園の啓介先生(37歳)という男の先生が、1週間ほど、この三次中央幼稚園に研修に来られました。幼稚園の後継者の方が毎年3、4名ほど県外研修ということで、静岡県私立幼稚園協会から推薦を受けた幼稚園に派遣されているというのです。子供達は、久々の男先生とあって大喜びで、「啓介先生、啓介先生」と、瞬く間に仲良しになっていました。子供達が降園した後は、私はもちろんですが、園長や主任、先生達もいろいろと幼児教育の本質や在り方を、いっぱい、いっぱい伝えようと、気持ちよく関わって受け入れてくれました。彼が三次中央幼稚園の幼児教育に対する考えと教育方法をどこまで理解してどのように感じて帰られたかは、彼が将来、幼稚園の園長として、子供の育ちに対してどのような願いを持ち、どのような教育方法を実践されていくかによって表れてくるのではないかと思います。
「啓介先生、頑張れ!」と、三次からエールを送り続けます

老いと親(平成17年度10月)

9月23日、秋分の日の運動会は、開会して間なしの頃、10分くらいの間、雨が降りましたが、その後は好天に恵まれ、無事、終了することができました。子供達が楽しそうに活動している姿は、保護者の方はもちろんですが、おじいちゃんやおばあちゃん、ご近所の方々の心をずいぶんと癒してくれたのではないかと思っています。いつも、スピーカーの大きな音や声で迷惑をかけているはずのご近所の方々が観に来て下さることも嬉しいかぎりですが、ましてや、その人達が子供達から元気がもらえるとさえ言ってくださって、こんなにありがたいことはないと感謝しています。


幼稚園の子供達は、時々、老人ホームへ慰問にでかけますが、子供達のかわいい姿は、お年寄りの一番の喜びとなり、子供達から元気をもらうことができると、いつも心待ちにしていてくださいます。おじいちゃんおばあちゃんの顔が一度に明るくなり、嬉しくて涙を流しながら子供達の手を握って離さないおじいちゃんおばあちゃんの姿もあります。
私にも年老いた両親がいます。父が大正3年生まれの91歳、母が大正7年生まれの87歳です。それも、田舎での二人暮らしです。長男、長女は東京住まいで、私が三次です。ずっと寂しい思いをさせていることがいつも気がかりでいます。


三人とも親孝行をしたい気持ちはあるものの、それぞれの仕事や家庭の事情で両親だけの二人暮らしを余儀なくさせています。
一方、親は親で、子供達が一緒に住もうと声をかけても、長年過ごしたこの家が一番良いと言って腰を上げてくれません。
そういうことで、二人が元気でいる間は、それはそれで良いかと思いながら過ごしていましたが、4ヶ月前、父親が脳梗塞で倒れ、急遽、入院しました。おかげ様で元気にはなったものの、右手と右足が不自由になり、車椅子の生活となりました。子供達が自分達の家に来るように誘っても、子供達の家に行くと迷惑をかけるからと動こうとしません。自分達が若いときには祖父母や両親を一生懸命世話をしてきたのに、自分達が老いてきたら子供達に迷惑をかけまいと気遣っています。


田舎の昔の家ですから、そのままでは車椅子の生活はできません。止むを得ず、退院することを少し伸ばしてもらい、10月早々から改装することになりました。
ところが、大正時代に生まれ育った人達は、本来、一番多感で希望に満ちた青春時代を、大東亜(太平洋)戦争で出兵したり留守家族を必死で守ってきたり、また、広島、長崎への米軍による原子爆弾投下による被爆、敗戦を経験して、日本中、生活が困窮した凄惨(せいさん)な時代を過ごし、その後も必死で働き、今の日本を築き上げてきた世代なのです。そのうえ、大家族で両親や祖父母の世話をし、敗戦後、都会から親戚を頼ってきた人達をも受け入れ、子供を育て学校にやり、本当に人一倍の苦労を、身をもって体験してきた世代です。


そのため、ほんの少しの贅沢もできず、常に、「もったいない、もったいない」という生活をしています。そういうことで、いざ家を改装しようとすると、それを壊したらダメ、捨てたらダメとなかなか改装の話が進みません。しかも、自分達はもうすぐ死ぬのだから、もったいなくてお金をかけたくないとまで言います。少しでも子供達にお金を残してやりたいと思っているのです。もうすでに、還暦を迎えた子供達に対してなのです。「老いては子に従え」という言葉があるように、とにかく子供の言う通りに改装をするようにと説得を続けて、やっと、工事の依頼までこぎ着けることができました。


自分自身、なかなか親孝行ができないでいることを恥ずかしく思いながら過ごしていますが、「親思う心に勝る親心」と言うように、年老いてもまだ子供達のことを心配してくれています。
別な意味で親のことを一番心配してくれるのは、たいていの場合、孫たちです。親が子育てをしているときは責任もあり、精神的な余裕もなく必死ですし、子供に対して厳しく接しなければならないことも多くあります。ところが、孫がかわいくてしようがないおじいちゃんおばあちゃんは無条件でかわいがります。おじいちゃんおばあちゃんからの愛情を一身に受けて育った孫が大人に成長した頃は、自分をかわいがってくれたおじいちゃんおばあちゃんはすっかり年老いています。そのため、一番、お年寄りのことを心配しているのが孫なのです。


私の実家は、もう建て替えないかぎり、孫達が住むのにはほとんど満足を感じる建物ではないのです。両親が他界したら取り壊すしかないような建物です。私自身、誰も住む人がいなくなったら取り壊すしかないと思っていました。庭の松の木も剪定を怠ると一度に松葉が茂り、見るに絶えない姿になってしまいます。今年もそのままにはしておけないので、松の剪定をしてきましたが、庭木は常に管理していないと、すぐに荒れてしまいます。年老いた母も、私が松の木の剪定をしている姿を見て申し訳ないと思っているようで、母はその松の木を切り倒そうと考えていましたが、かわいがって育った孫で兄の息子である私の甥坊がしきりに反対します。子供の頃、夏休みや冬休みになるといつも泊まりに来ていた甥坊にとっては祖父母と過ごした日々のことや心を癒してくれた庭の樹木や古い家、周りの自然が、甥坊の心の中にしっかりと焼き付いているようです。その甥棒は、すでに社会人となり東京に住んでいますが、空き家になっても時々泊まりに来ると言っています。


いずれにしても、若い人達も、いずれ、年老いていきます。80歳、90歳と聞くと、若い人たちは、自分はまだまだ先と実感がありません。ところが年老いてみると、人生ってそんなに長いものではありません。すぐにやってきます。先日、田舎に帰ってきたとき、その集落の家のほとんどが世代交代していて、子供の頃のおじいさんおばあさんは誰一人いなくなっていて、友達もすっかりおじいちゃんおばあちゃんになっていました。一日一日を大切にしながら、しっかりと生きていきたいものです。

子供の育ち(平成17年度9月)

長い夏休みが終わりました。子供達の「夏の経験」はどのようなものだったのでしょう。きっと、田舎に泊まりに行ったり、海や山へ行ったりと夏の自然を満喫したのではないかと思います。
夏休みに入ってすぐの、年長組の三瓶山での合宿保育が終わった後、幼稚園の先生達の夏休み中の生活は、園内研修をしたり、あちこちで開催された研修会に積極的に参加したりして自己を高めてくれました。


私自身もお盆休み以外は、県内の公立保育所の中堅保育士研修会や公立、私立幼稚園の研修会等の講師として招かれ、あちこちで講演してきましたが、幼稚園にいるときはその原稿の作成で気忙しい夏休みでした。


そんな中、8月5日に放課後児童クラブの子供達52名(小学1~2年生)と児童クラブの先生達と一緒に吾妻山に登りました。実を言うと、昨年も一緒に吾妻山に行ったのですが、運動不足が続いていた私は、足のふくらはぎがすぐに痛くなり、登り口でリタイアしてしまいました。ところが、今年は、途中、休み休みでしたが、頂上まで登りきることができたのです。なぜ登りきることができたかと言うと、実は、昨年から犬を飼っていて、毎日、犬と一緒に40~50分ぐらい散歩をしていたからなのです。


吾妻山の登山道で、列の一番最後を皆から遅れながら一人歩いていましたら、その途中、登山をあきらめて下山を始めた子供達と出会いました。その子達が、私のお茶の入ったペットボトルを見つけるなり、「お茶をください!」と言って、争うように飲みます。登り始めるときは、水筒にいっぱいお茶を入れていたはずなのに、降りて来ている子供達全員の水筒が空っぽになっているのです。当日は、吾妻山も猛暑に襲われていたので、確かに暑かったのですが、登山を始めて下山するまでの、水筒のお茶の、量の配分ができていなくて、後の事も考えず、登る途中でお茶を飲み干していたのです。私のお茶を飲んだ後は、途中脱落しそうだった子供達も励まし合いながら、最後まで一緒に登りきることができたのです。


それでも、頂上に着いた多くの子供達が水を欲しがっています。登る途中、山水が染み出ていた水溜りを見つけていた私は、その事を子供達に話して、もう一度励ましながら、山水の出ているところまでたどり着きました。子供達にとって、そのときの山水のおいしさは格別だったようで、水を飲んだ後も、水筒に水をいっぱい入れて下山していきました。


今年の夏休みも、新潟県や福島県、鳥取県、岡山県、広島市等から幼稚園の理事長、園長、教諭の先生達60名くらいが、入れ替わり幼稚園の視察に来られました。その接待にも追われましたが、先生達も来園者の方々の応対をしっかりとこなしてくれました。9月、10月は県内の公立保育所の所長さんや保育士さん達がたくさん来園されます。


夏休みの間の幼稚園には、「プレイルーム」の子供達が毎日登園してきてくれていました。以前は、夏休みの園庭はとても静かでしたが、「プレイルーム」の建物ができた平成3年度からは、夏休みでも子供達の歓声を聞くことができるようになりました。
今では、子供の城保育園の子供達と放課後児童クラブの児童達も時間差で遊ぶので、朝から夕方まで子供達の声でにぎやかな園庭となっています。絵本を借りに来られたりプールを利用されたりと、親子で来られる姿も、毎日、見ることができました。


プレイルームの子供達を見ていると、年少児から年長児まで異年齢で一緒になり、しっかりと遊び込んでいます。虫捕り用の網を手に持ってセミを捕っている年少や年中の子達、網がなくても手のひらで捕れるようになった年長の子達。年長児に憧れたり、年少、年中児を思いやったりしている姿に、セミ捕りだけを見ていても、子供の育ちの確かさを見ることができます。そこには、まさに、子供集団(ワンパク集団)が息づいていました。


来園者からのお礼状にも、「伊達学園のすばらしい環境、園庭の動物達、何よりも子供達の生き生きとした姿に、改めて幼児教育の大切さを感じました。」とありました。来園者の共通の感想が、子供達が、「嬉々としている」、「輝いている」、「生き生きしている」と言うものでした。
この幼稚園の子供達の姿を、そのように感じていただけることは、とても嬉しく、子供達の育ちが正しく培われている証でもあると喜んでいます。


しかし、正直に申しますと、私は本来、子供は生き生きとしていて好奇心に目を輝かせているものと思っています。実際、そうでなければなりません。ところが、この幼稚園に視察に来られた方々の感想で、どなたも、「この幼稚園の子は生き生きしていて目が輝いている。」と言われます。
以前にも、福島県のある市から20名近くの理事長・園長先生達が視察に来られたことがありました。そのときも、「この幼稚園の子は目が輝いている。」と、同じような感想を言われたことがあります。
そこで私は、「え~、子供っていつも輝いているのではないのですか。」と訊き直すと、「いや、輝きが違う。」と言われます。


そのとき視察に来られた幼稚園の先生達によくよく聞いてみると、その幼稚園では、ワークブックのような教材を使って、「お勉強(?)」を中心にしていると言われるのです。
子供達が疲れているのです。「子供は遊びが仕事」、「遊びの天才」と昔から言われていますが、心から遊び込むことのできる生活が保障されていないのだと思いました。


子供達が、自然と関わり、友達と関わったりしながら、好奇心いっぱいに嬉々として遊ぶ姿に子供の生き様を見ることができます。様々なことへの興味や関心、意欲や忍耐、悔しさからくる心の葛藤、達成感や満足感からくる幸せ感が、人間力となり、生きていく力となるのです

夏の経験(平成17年7月)

イタリアのミラノから帰ってきた娘と初孫の男の子と2ヶ月間一緒に過ごしました。その間、東京にいる次女も時々帰ってきてくれて、久しぶりに家族そろってのにぎやかな日々を過ごすことが出来ました。

この2ヶ月間、毎日の食事はほとんど私が作りましたが、娘二人が子供の時にお母さんから作ってもらって食べていたお雑煮とおでん、きんぴらゴボウやレンコンを炒めたものは「おふくろの味」として残っているようで、娘からのリクエストを受けて女房も作ってくれました。娘がリクエストするだけあって、私が食べてみてもすごく美味しいのです。私自身、料理は女房よりも上手と思っていても、やはり、自分で作るより作ってもらって食べるほうが美味しいのです。そう言えば、板前さんは家に帰ったら自分ではまったくといって良いくらい食事を作らないそうです。奥さんの料理について一切口出しすることなく食べると言います。仕事で料理ばかりしていて、家に帰ってまでという気持ちもありましょうが、料理人であっても、奥さんが作ってくれた料理が美味しいのです。本当はプロである板前さんのご主人が作ったものの方が美味しいに違いありません。でも、奥さんの作ったものを美味しく戴きます。きっと、そこには奥さんの愛情のこもった料理の家庭的な美味しさがあるのだと思います。


母乳で子供を育てている娘が帰ってきている間に、料理を作るうえで私が心がけていたことは、添加物の入った既製のものは一切使わないことと、できるだけ旬のものを使って作ることでした。タラの芽の天ぷら、ワラビ、タケノコ、フキノトウの料理から始まって、ニンジンや大根にチシャ、レタスにキャベツ、ナスやキュウリとほとんど野菜中心ですが、ワラビとタケノコ以外は、すべて、自分で栽培しているものです。タケノコは近所の人や子供の城保育園の先生から貰ったものでした。タケノコは朝採ったものは、時間を置かないで食べると、苦味となるアクも無く、湯がかなくても刺身にしても食べられるし、湯がいて調理する場合でも、アク抜きしなくても美味しく戴けます。ダシも昆布とカツオからとります。野菜も朝採りしたものをサラダにして食べると、野菜一つ一つの味がとってもよく分かり、美味しさも格別です。ドレッシングも自分で作ります。市販のものは使いません。因みに、私のドレッシングの定番のレシピは、「酢・大さじ3、砂糖・大さじ2、醤油・大さじ1、白ゴマ油(サラダ油、オリーブ由)・大さじ2、すりゴマ・大さじ2」です。一度、試してみてください。魚も、一度は下の娘と一緒に渓流にヤマメを釣りに行って来ました。釣った日に食べるヤマメもとても美味しかったのですが、そのことより、娘と魚釣りができたことも楽しい経験でした。孫とも楽しい生活ができましたが、娘と孫がまたイタリアに行ってしまって、再び二人きりの静かな生活に戻りました。女房がすっかり疲れています。「孫来て好し、帰って好し」と言ったところでしょうか。

明日から夏休みに入ります。年長組の子供達はさっそく三瓶山での合宿に出かけます。ほとんどの子供達は親や身内の人から離れて過ごすという経験は初めてで、それだけでも大きな経験です。そして、原っぱを駆け回ったりキャンプファイヤーをしたり、友達と一緒に風呂に入ったり枕を並べて寝たりすることも、とても大きな経験で子供の自立心を培う大きな要素となります。


夏休みというと、保護者の皆さんも子供の頃の楽しい思い出がいっぱい有ることと思います。特に小学生時代の思い出が一番印象に残っているのではないかと思います。友達と山や川で遊んだことや海水浴に行ったこと、お爺ちゃんお婆ちゃんの家に泊まりに行ったこと、魚やセミを捕ったりカブトムシを飼っていたりしたこと等々、たくさんの経験をされてきたことと思います。楽しい思い出として残っている様々な経験というのは、実は自己形成の上で一番の役割をしてくれています。友達と楽しく過ごすことで人間関係の持ち方、自然と関わることで好奇心や意欲、探究心や科学する心と、直接経験することで思考能力を育み、子供時代を完成していったのです。残念なことに、今の子供達は自然と関って遊ぶことがずいぶんと少なくなってきました。実は、今の保護者の方が子供の頃にはすでにテレビゲームが出始め、子供達のあそびが大きく変化していった頃だったのではないかと思います。


先月、あるところで幼稚園の先生と保育士さんの合同の研修会があり講演をしてきました。そのとき、自然と関わって遊ぶことの大切さも話したのですが、最後に謝辞を戴いたときに、その中で、「今の若い先生たちが育った頃は、すでに自然の中で遊んだ経験が無いので、どのように遊んでいいのか分からない」という話がありました。
実際、今の保護者の方の中にも、どのように自然と関わって遊べばいいのか躊躇される方がかなりいらっしゃるのではないかと思います。「子供はあそびの天才」という言葉があります。子供は放っておいても周りにあるものを見つけて何かに見立てたり遊んだり利用したりして遊びます。あそびを発見し創造してくれます。1人でイメージして遊んでいたことも、その中に友達が関わってくると、友達のあそびのイメージに影響されたり模倣したりしてあそびを共有しながら、お互いに知恵を出し合い、もっと楽しく遊ぼうとします。時間と空間が整えば、その環境の中で子供自らあそびを創造します。大人は子供達の周りでその様子を見守っていると、子供のあそびの世界とどのように付き合うといいかも発見できると思います。子供から学ぶのです。小学生になると子供同士で外あそびができます。しかし、幼児には大きい子供や大人が付いてやっていないと危険すぎて野外で遊ばすことができません。しかも、子供は夏休みと言っても、保護者の方には仕事があります。少しでも休みが有る時は、できるだけ近くの自然を求めて遊び、お爺ちゃんお婆ちゃんのところに泊まりに行ったり、山や海で遊んでやったりしてください。子供達にとって、発見の多い「夏の経験」であって欲しいと思います

空梅雨(平成17年度7月)

今年の梅雨ほど雨の降らない年は私の記憶にはありません。26日の午後になって、久しぶりに10分足らず降りましたが、まさに焼け石に水でした。雨らしい雨が降ったのは、6月に入った間なしの一度きりです。そのため、幼稚園の園庭に昨年の秋に植えた樹木が気になり、時々、水をやっていたものの、少々の水やりでは表面が湿るだけで、地中深くには滲み込みません。トチの木とクルミの木がこの夏を持ちこたえることが出来るかどうかわからない状態になってきました。中門のところに2本ある「ハナミズキ」は10年前に植えたのにもかかわらず、一本が枯れてしまいました。
先生たちも子供たちと植えた芋畑の苗が心配で、暑い中を何度も水やりに行っています。幼稚園の「自然観察園」も昨年完成したばかりで、ほとんどの果樹や樹木、芝生は昨年の春と秋に植えたものなので、これも枯らしてはいけないと、出張で留守をした以外は、毎日水やりをしました。なんとか青い葉っぱを茂らせています。


その水やりを毎日した副産物が、野菜園のトマトです。雨がかかると病気になりやすいトマトの苗には根元だけに水やりをしますが、好天に恵まれ、2メートルくらいに伸び、トマトの実をいっぱい付けています。人の足よりも大きい見事な大根もたくさん収穫しました。
勢い余ったトマトの苗に押しやられたナスやキュウリの苗が、逆に、弱々しくさえ感じます。
子供たちの幼稚園でのあそびも、プールあそびだけではなく、園庭にある小川に入って水あそびをしたり、ホースを持ち出して、小山や園庭を水浸しにして、泥まみれになって遊んでいます。園庭中に子供たちの嬉々とした歓声が響き渡り、どの子も目を輝かせています。


こちらではほとんど雨が降らないのに、鹿児島県や東北・北陸地方では集中豪雨に見舞われています。幸いなことに、大きな災害にはつながっていませんが、こういう異常気象の時はどこでどんな災害に遭うかわかりません。
昔から、「災害は忘れた頃にやってくる」と言われていますが、こんなにも雨が降らないでいると、ある日突然、集中豪雨に見舞われそうな感じがしないでもありません。
現在の保護者の方がお生まれになった年の前後頃になると思いまが、幼稚園も33年前の昭和47年7月12日に大洪水に見舞われています。
その前日、子供たちが登園した間なしの頃から、集中豪雨に見舞われ、見る間に川は増水してきました。そのため、午前中で保育を取りやめ、急遽、帰宅させました。
当時、幼稚園の前身となった女学校の最後の学年の生徒がいました。一緒に寮生活をしていましたが、洪水で帰宅できなくなった幼稚園の先生と女学校の先生も寮に泊りこみとなりました。馬洗川に行ってみると、すごい勢いの濁流で、今にも水が堤防を越しそうになっています。すぐさま幼稚園に帰り、その女学校の寮生と先生、泊りこみとなった幼稚園の先生とで重要書類や貴重品を二階に運んでいました。食材の仕入れにも行かせました。プロパンガスの元栓も締めました。水もバケツからタライにいたるまで確保しておいたのです。万が一にと思って、ゴムボートにも空気を入れ二階に運んでおきました。
ところが、2時頃には雨は止み、澄み渡った夏空となりました。みんな必死で荷物を運んでいたので、しばらく休憩にして、もう一度、川の様子を見に行きました。あの、今にも堤防を越えそうだった濁流は、うそのように水が引き、河川敷にあった自動車教習所は浸水した後で、すでに、片付けや清掃をしていました。もう大丈夫だと、再び幼稚園に帰り、作業の中止を指示しました。


しかし、これが大きな見込み違いとなったのです。それでも、気掛かりなので、万が一のことを思って、私だけは玄関に布団を敷いてそこで寝ることにしたのです。玄関が床より低いため、一番早く水が来るからです。夜中の2時頃でしたか、バケツで水をかけるような勢いで再び雨が降り始めました。そして、玄関に水が押し寄せてきました。すぐさま、寮生や先生たちを起こして、残りの荷物を二階に上げようとしましたが、みんな怖がるので中止にして、全員、二階に避難しました。
突然、寮の裏の方から「シュー」という音がし始めました。プロパンガスの大きなボンベが浮き上がり、ホースが切れて、ガスが噴出しているのです。いったん閉めていたガスの元栓を、夕食を作るとき、開けて使用し、元栓がそのままになっていたのです。すぐさま泥水の中に飛び込み、泳いで行って元栓を締め、一本のボンベを部屋に持ち帰りました。
夜明けになり、薄明かりの中、外を見ると市街地一面、二階近くまで浸水しています。ゴムボートを中二階から水に浮かべ、市役所の建物の中に避難している人たちの様子も見てきました。ガスボンベを部屋に持ち込むことが出来たのと、食材と水は前日に確保していたので、全員の朝食や昼食は困ることなく、みんな揃って摂ることが出来たのです。後でわかったのですが、十日市町側の堤防が2箇所、決壊していたのです。


ここまで書いていたら、雨(28日)が降り始めました。ニュースを見ると、中越地方が洪水に見舞われています。人事とは思えません。
幼稚園が洪水に見舞われた昭和47年は、幼稚園を開園して2年目の年なのです。園舎もピアノも教材も全て新しいものばかりでした。園バスも完全に浸水しました。もう一度、施設設備のやり直しです。水害から33年が過ぎ、そのときの建物も全て建て替わりました。
実は私は、昭和20年にも水害にあっています。当時、2歳でしたから記憶にはありませんが、女学校の校庭に牛が流れてきたことや、寮生が使うカマスに入った塩がみな溶けてなくなっていたことなどの話を聞いていました。聞いていたことが、昭和47年の水害の時の食料や水を確保するなど、避難の時の知恵となっていたように思います。
空梅雨が、逆に、集中豪雨とならないようにと願うばかりです。