白髪せんせいのつぶやき

およげないアヒル(平成11年度)6月

アヒルは水に浮いてすいすいと泳ぎます。病気やけがのない限り、当然のことながら泳げます。私たちはそう思っています。
先月のゴールデンウイークのときに、呉市の、ある幼稚園から、オスのアヒル2羽と、キンケイ鳥や孔雀をもらってきました。キンケイ鳥や孔雀は鳥小屋に入れて、アヒル2羽は池に入れ、以前から幼稚園にいるカモといっしょにしてやりました。

ところが次の朝、動物たちのところに行って見ると、アヒルが1羽、水に浮かんで死んでいるのです。原因がまったくわかりませんでした。そして、連休中も毎日、えさをやったり掃除をしていたのですが、残った1羽のアヒルが、いつも寝床の板の上にいて、水の中に入っているのを見たことがありません。最初は、体の調子でも悪いのかと思っていましたが、元気にえさも食べるし、病気の様子も感じられません。野菜を池の中に投げ入れてやると、カモはすぐに水の中に入って野菜を食べるのですが、アヒルは床の上から首を伸ばし、池の中にくちばしを入れて、近くの野菜だけを食べています。いっこうに、水の中に入って食べようとはしないのです。

そこで、池の中にある野菜を食べさせようと、木の棒で追いやると、水の中に逃げるように飛び込みました。ところが、びっくり! 首と胸を上げて、足をバタバタしておおあわての様子なのです。泳げない人がおぼれたとき、首を一生懸命上げて、手をバタバタしているときのような感じなのです。そして、なんとか寝床の板にたどり着き、やっとそのうえに上がりました。なんと、泳げないのです。

1羽のアヒルが死んだ原因がわかりました。最初の日に水の中に入ったアヒルが、恐らく夜なか中、バタバタとして、床に上がれなくて、疲れて溺れ死んだのです。私たちは、アヒルは泳げるものと、疑うことなく信じています。そう思い込んでいます。ところが、もらってきたアヒルは、2羽とも泳げなかったのです。思い込みの怖さを改めて感じました。

そこで、水の中に追いやって泳ぐ練習です。カモがいるので、そのしぐさを見ていて、カモが羽を広げてバタバタして体を洗うと、まねて、同じようにしています。カモが泳ぐのと同じように、胸まで水の中に浸けて、なんとか落ち着いて泳いでいます。

ところが、また、事件が起こりました。羊の毛がりをした次の日の朝早く、アヒルの池に行ってみると、カモがいないのです。探しましたがどこにもいません。羽根が散っている様子もありませんので、猫に襲われた風でもありません。飛んで逃げたのです。飛べないように、羽根を少し切ってあったのですが、いつのまにか生えそろっていたのです。そのカモはメスでしたので、もしかして、泳げないオスのアヒルに愛想を尽かして、出て行ったのかもしれません。

カモが出て行ってからも、アヒルを水の中に追いやると、なんと、泳ぎがぎこちなく、胸を上げておぼれるように、またバタバタとしているではありませんか。本能的に泳げるのかと思ったら、どうも、親や仲間の泳ぎを見て覚えるようです。

そのアヒルが、なぜ泳げなかったかというと、前の幼稚園で飼育されていたとき、泳ぐことの出来ない浅い池だったことと、泳いでいる仲間も見たことがなく、生まれたときから泳いだことがないのです。

このことで、子供たちの周りの環境や経験がいかに大事かを改めて感じました。子供たちは好奇心の塊ですが、その好奇心を引き出す環境と、そこでのいろいろな遊びを通しての経験が、さまざまな能力を獲得させ、生きる力となっていくのです。先日も、転入してきた、いつもは明るい元気な年長組の女の子が、しょんぼりしているので、「どうしたの?今日は元気がないじゃない」と声をかけて、他の子供たちと遊んでいたら、その女の子が後から追いかけてきて、「園長先生、見て!はだしになったの。わたしはじめてなの!」と嬉しそうです。「気持ちいいでしょう」というと、「うん」といって、以前の明るい元気な顔に戻って、友達のところに走っていきます。みんな、はだしで泥や水で遊んでいるのに、その子は、今まで、はだしになれなかったのです。
やはり、幼児期には幼児期の、その年齢に即した、経験すべきことを経験して育たないと、泳げないアヒルと同じことになるのです。

だんご3兄弟(平成11年度)5月

入園説明会のときに少しだけ触れましたが、今年の1月にNHK教育テレビ「おかあさんといっしょ」の番組で放送されてから、またたく間に子供たちの心を捉え、ご存じのように、「だんご3兄弟」の歌が大ヒットしています。そのため、いままで4個や5個だった団子も3個にして売り出しています。同時に、さまざまな経済的波及効果を生んでいるようです。そして、3人の子供を産みたいという人も増えているといいます。それが本当なら、少子化の時代、思わぬ波及効果となってきます。


近年、人の価値観が多様化して、結婚や家庭生活に対しても、いろいろな考えを持つようになり、伝統的な家族制度から核家族へ、そして逆に大家族を望む人も増えてきたり、夫婦別姓問題が新たな課題として論議されたりしています。そんな中、少子化も社会問題にまで発展しつつありますが、その対策として、エンゼルプランなど国のさまざまな施策も、一向にその効果が見えてきません。国の施策が国民の価値観の多様化と変化についていけないのでしょう。あまり期待はできませんが、もしも、「だんご3兄弟」の歌で出生率が増えたとしたら、国の方は笑うにも笑えないということになりそうです。


これらのことは別として、今回は兄弟姉妹のことについて触れてみます。子供は一人だけでいいという方もいらっしゃいますが、逆に、少なくとも2人あるいは3人欲しいと思われている方もだいぶ多くなってきているように感じています。実際、幼稚園でも3人兄弟というのが増えてきているように実感しています。私自身、3人兄妹(きょうだい)で育ちましたが、わが子は娘2人だけです。気持ちとしては、貧乏してもいいから何人でも欲しいと思っていましたが、2人しか恵まれませんでした。それぞれの夫婦にはそれぞれの事情がありますから、「何人がいいから、もう一人、生んだほうがいいですよ」などとはいえません。


そこで、「だんご3兄弟」の大ヒットにあやかって、3人兄弟(姉妹)のことについて話してみます。3人兄弟の一番の特徴は、その関係が一対一の関係では終わらないことにあります。2人兄弟なら相対した関係ですから、仲良しするときもけんかするときも一対一であり関係は単調です。ところが、3人になると、3人仲良しのときもあれば、3人ともけんかしてばらばらになることもあります。また、2人だけ仲良くして、1人だけけんかのため遊びの仲間から追い出されることもあります。人間関係が複雑になるのが3人からということになります。


昔から、「兄弟はけんかをしながら育つ」といいますが、毎日一緒に生活していますから、さまざまな衝突があるのも当然のことです。男の兄弟なら、「取っ組み合いのけんかもしょっちゅうです」ということにもなります。なぐり合いやひっかいたりつねったりもします。そしていつのまにか仲良しになって遊んでいます。このような日常での兄弟同士の関わりの中で、自己抑制ができるようになっていくのです。なぐったりひっかいたりしたために相手が泣きます。泣かしてしまったことから、悪いことをしてしまったと心の痛みとなります。逆に、自分もやり返されて、体に痛みを感じます。そうすると、なぐると相手も痛いということが身にしみてわかってきますから、なぐったりつめったりするときも、力をコントロールするようになります。


3人兄弟の場合、仲裁する子もいれば、泣かされても、もう1人の兄弟と遊ぶこともできて、その子は救われます。なぐった方は遊んでもらえなくなって寂しい思いをすることになります。また、上の子は下の子をかわいがったり、下の子は上の子のすることに憧れの気持ちを抱いたりします。中の子は、両方の立場に挟まれてもっと葛藤します。このように、兄弟が多いほど、より複雑な関わり合いを持つことになるのです。


これらの経験を通して、がまんすることの心の葛藤や相手を思いやる気持ちがはぐくまれることで、社会性を身につけていきます。ちょうど、川の水の流れにさらされている石がだんだんと角が削られて丸くなってくるのと同じように、心のとげ(自己中心性)が削られていくのです。昔から、「子どものけんかに親は口を出すな」といわれていますが、子ども同士で問題解決能力をはぐくんでいくことを知っていたのですね.一人っ子でも、友達としっかり遊ぶことで、経験します。

成長の歓び(平成10年度)平成11年3月

3月を迎え、今更ながら、月日の経過する早さを感じていますが、本年度最後の月を迎えました。この時期になると、進級入学するという区切りの中で子供たちはそれぞれに、自分の成長の歓びを持ってくるようになります。


うめ組子供たちはもも組になれる歓び、もも組の子供たちは、あこがれのさくら組になれるという歓びをだんだと大きなものとしていきます。そして、さくら組の子供たちは、いよいよ、幼稚園を卒園して、小学校に入学します。小学校に入学する期待と歓びも大きなものがあると思います。


お母さんお父さんにもしっかりと記憶にあると思いますが、わが子が生まれたときの感動から始まり、始めて寝返りしたときやハイハイをしたとき、始めて歩いたとき等々、その時その時のわが子の成長を大きな感動で受け止めてこられたことと思います。
私たち大人は、そのように、子供の成長ぶりを素直に歓びます。そして、子供たちは、お母さんやお父さん、周りの人たちが自分の成長を歓んでくれている心地良さを感じ、そのことが、その子の成長に大きな力を与えてくれます。わが子の成長ぶりを素直に歓び、その歓びをそのまま子供に伝えてやってください。


以前にもお話ししたと思いますが、他の子と比較してしまうと、素直に歓ぶことができなくなります。「誰々ちゃんはもうこんな事ができるのに、あなたはまだこれだけしかできない」と思ってしまうと、素直に歓ぶ事ができませんから、わが子の成長の歓ぶを感じている親の気持ちは、子供には伝わりません。子供自身の意欲も失われます。人間、一人ひとり皆違います。違うからこそすばらしいので、その子の個性であり特性なのです。特に、幼児期はその子の興味を示す対象や方向の違い、生まれ月の差が大きいのですから、発達の差は当然大きいのです。そのことが、その子の発達の遅れではないことを、しっかりと認識しておかなければなりません。その子自身の、一歩一歩の成長に対して、しっかりと歓びを感じることができるということができるということが大切なのです。


話が変わり、私自身のことで申し訳有りませんが、この3月23日に大学院を修了します。この2年間、保護者の皆様には深いご理解とご支援を賜りましたことを厚くお礼申し上げます。
大学院での研究は、「幼児の自発活動を促す動機づけに関する研究-造形的な遊びを中心として-」というテ-マで進めてまいりました。一口で言えば、学校教育の目的でもある、「生涯にわたる健全な発達や社会の変化に主体的に対応する能力の育成」のために、幼児の自発活動としての造形的な遊びを中心として、主体的生活基盤の構築を図る実践研究の追求を研究の目的として、論文にまとめました。


先日、論文審査と口述諮問、論文発表と全てが終わり、まもなく幼稚園に帰ります。
この歳になって、学生生活を送ることなど夢にも思っていませんでしたが、しっかりと勉強できた歓びを実感しながら、もう10年早く入学していればもっと良かったのにと思いながら過ごしていました。
そんな時、先日の新聞で、東大阪市の浮世絵師・歌川豊国さんとという人が、なんと96歳で近畿大学法学部法律学科に合格したということが報じられていました。卒業される時には、ちょうど100歳になられます。これから大学で4年間勉強して、博士号も取りたいというコメントも載っていました。しかも、平成8年4月に高校に入学して、この3月に卒業予定の、高校3年生だそうです。歌川さんは江戸時代後期に美人画で一世を風靡(ふうび)した歌川豊国の6代目の家元で、ご子息に7代目を譲ってからの勉強だそうです。


この記事を見た時、10年早ければと思っていたことが、一度に吹っ飛んでしまいました。私には、その歳になるまで、まだ40年も有るのではないかと思った途端、将来に何かの光を感じることができたのです。
何時までも将来に夢を持って過ごすことがいかに大切なことを、歌川国男さんの記事を見て、あらためて感じることができました。


この研究を通して、中央幼稚園の保育実践をあらためて見直し、今後の幼稚園の教育に生かして、子供たちの成長の礎にしたいと思っています。
園長の留守の間、PTA役員の方々を始め保護者の皆様方には、幼稚園の運営につきましていろいろな面で支えていただきましたことを心より感謝申し上げます。
特に、さくら組の子供たちは、間もなく卒園です。4月には小学校に入学です。
その歓びを共に味わいたいと思います。

だだをこねる(平成10年度)平成11年2月

先日の講演会の後、あるお母さんから「わが子と一緒に買い物に行くと、泣いてだだをこねて困る。しかも、ダメだと言うとそこに座り込んで泣き叫ぶのですがどうしたらよいか」と言う趣旨の質問がありました。今月はこのことに触れてみたいと思います。


「だだをこねる(駄々を捏ねる)」と言う意味は、
「子供があまえてわがままを言うこと すねること」(広辞苑)です。おそらく、駄賃を貰うため無理なことを言って困らせたことから出来た言葉だと思います。
お母さんお父さんは、子供たちが、自分の欲しいものや して欲しいことを要求して、だだをこねる場面に出会ったり、わが子にもだだをこねられたということもあるのではないかと思います。


ではどうしてそのようにだだをこねる子供になるのでしょう。それは、一口で言うと、親の子供に対する対応に一貫性がないからということになるのですが、そうは言っても、日常生活の中で一貫性を持って子育てをするということは、非常に困難なことなのです。親の方に忙しいこともあれば、疲れていてイライラしているときもあるからです。
一貫性がないということは、子供が同じことを要求しても、以前には「いいよ」と言って許されたのに、今回は「ダメ」と言われて拒否されたり、その逆の、前には「ダメ」と言われたのに、今度は「いいよ」ということなのです。このようなことは、日常生活の中で度々あることなのですが、子供にとっては、前には良かったのにどうした今はダメなのかが理解できません。理解できていませんから、泣いてでも要求します。


例えば、2歳前後の子供によく見かける光景ですが、歩けるようになった喜びも伴いますから、買い物に一緒に行くとき、最初は自分も歩いて行くことをとても喜んでどんどんお店に向かって行きます。ところが、買い物が済む頃には、子供は疲れてしまい、帰り道では、「だっこ」をして欲しいと要求します。その子が、1歳半か2歳ぐらいでしたら、お母さんも、もう歩くのが無理だと思って抱いてやります。ところが、同じことを3歳ぐらいの子が要求すると、「もう、お兄(姉)ちゃんなんだから、ちゃんと歩きなさい」と言われてしまいます。子供にとっては、この前までは、疲れてきて、「だっこして」と言うと、直ぐに抱いてくれていたのに、今日は「ちゃんと歩きなさい」と言われると、例え、お兄(姉)ちゃんになったからと言われても、自分ではすごく疲れていると感じているのにどうして抱いてくれないのか理解できません。そこでだだをこねるのです。


では、このような場合、どのような対応の仕方をしたらよいのかを考えてみましょう。まず、最初の1歳半か2歳ぐらいの事例の場合の対応にも問題点があります。それは、「だっこ」と要求したときに、ただ黙って抱いてやっている場合が多いのです。そのことで、「だっこ」と言えば何時でも抱いてもらえるのだと思ってしまいます。でも、実際には子供が小さいですから抱いてやらなければなりません。抱いてやるときにかける言葉が重要なポイントとなります。そういうとき、例えば、「そう、もう疲れたのね。でも、すごく頑張ったね。お母さんはあなたがいっぱい歩けるようになったので、すごく嬉しいの」と言って抱いてやると、子供の方も、自分が頑張って歩いた喜びを感じるし、お母さんも喜んでくれていると言うことも感じます。

そういう対応の仕方で育てていると、後の事例も対応の仕方が違ってきます。3歳の子が、「だっこ」と言ってきたとき、「もう、大きいんだから自分で歩きなさい」と言わないで、「ごめんね。お母さん両手に買い物袋を持っているでしょ。もう少し頑張って歩いてくれたらお母さんとっても助かるし、嬉しいんだけどね」と言うと、子供の方は、「そうか。ぼくがもうちょっと我慢して歩けばお母さんは嬉しいんだ。」と自分で判断して、最後まで歩いてくれます。


買い物をするときも同じです。前のときは、「これが欲しい」と言ったときには直ぐに買ってくれたのに、今日は、「ダメ」だと言われると、どうして今日はダメなのか理解できません。子供は、「どうしてお母さんばっかり買って、どうしてわたしのはダメなのよ」と言うことになります。子供が買って欲しいというとき、必ずしも、自分の欲しいものとは限りません。お母さんが楽しそうに買い物をしているから自分もそうしたいと思っていることが多いようです。


では、どのような対応の仕方があるのでしょう。買い物に行く前の会話がポイントとなります。「今からお店に行くんだけど、夕食のおかずを作るのに、ダイコンとキャベツとお魚とお肉がいるの。お母さんはお魚とお肉を買うから、○○ちゃんは、ダイコンとキャベツを買ってくれると、お母さんすごく助かるんだけどな」と言うように、前もって話し合っていると、「お母さんだ何時も楽しそうにしているお買い物が自分にも出来るんだ。」「私がお野菜を買って上げると、お母さんは嬉しいんだ。」と、子供は自分も買い物が出来る喜びで、だだをこねたりはしません。


このような子供との応答関係にあると、自分で考え、自分で判断する力が付いてきますから、むやみやたらに、自分だけの要求を求めないで、お母さんの気持ちも考えることが出来るようになります。こうして育った子供は、成長と共に、相手の気持ちも汲み取り、わがままを言わない、相手の立場になって考える子になってくれるのではないでしょうか。

やる気(平成10年度)平成11年1月

人生80年と言われ出して久しくなりますが、子供達は、これからの長い人生を生きていかなければなりません。まさに、21世紀を生きていく子供達です。地球環境の崩壊や温暖化、世界人口の爆発からくる食糧危機や核の問題など様々な不安を伴いますが、とにかく、これからの時代を生きていくのに、まだ、スタートしたばかりです。その子供達が自分の人生を切り開いていくうえで、大きな役割をするのが“意欲”、つまり、“やる気”のある子に育つかどうかがカギとなります。


では、そのやる気というのはどこからくるのでしょう。その最初は、愛情を持って接してくれる人がいるかどうかから始まります。通常の場合、それは両親であり、特に母親がその大きな役割を果たします。20世紀の始め、アメリカやヨーロッパの、病院に入院している子供の中で、戦争などで孤児になった子供の死亡率の異常な高さが問題になったことがあります。医学的な適切な処置が施され、栄養や衛生にも改善がなされているのにもかかわらず、親のいる子より、孤児の死亡率が異常なほど高いのです。ところが、その孤児達の養子先を見つけ、新しいお父さんやお母さんがその子の看病を始めたり、家に引き取って育てたことで、その死亡率が、劇的に低下したといいます。このことは、自分のすべてを委ねることが出来る親がいるという絶対的な信頼感が、その子に安心感を与え、生きる意欲となったのです。


それは、子供にとって常に自分を見守ってくれて、何か怖いことや不安に感じるときに、すぐに助けてくれ、やさしく包んでくれるはずの親の存在が、情緒の安定につながり、その情緒の安定が意欲となるのです。つまり、周りの大人、特に親から愛されるということが、その子の“やる気”の根源となっているのです。愛されることによって得られる安心感が、未知のものに対する恐怖感から開放させ、そのことで好奇心を呼び起こし、未知の世界へと踏み出す勇気となるのです。

愛することと甘やかすこととは別です。私達大人が、小さな子どもに接するときのあのやさしい気持ちは、本能的といってもいいくらい、ごく自然に出てきます。なにも特別なことをするのではなく、ごく自然に出てくる子供への愛情で接することが、子供を正常に育てることが出来るのです。それを、何か特別なことをしようとする親の欲が、自然な愛情までも抑制して、子供の発達を歪めてしまうのです。私達が出来ることは、子供自ら育っていくことを援助することなのです。そのためには、今ある子供のありのままの姿を受け止め、それに対して、心に自然に湧き上がる愛情をもって接していくことがとても大切なのです。


このように、親としてのごく自然な愛情に包まれて育った子は、情緒の安定とともに、好奇心をはぐくみ、その好奇心が自ら何かに興味を抱き、あるいは、探索活動を通して外界に働きかける意欲となるのです。それはとりもなおさず、“やる気”人生のスタートなのです。


このようにして、幼児期にもなるとだんだんといろいろなことが出来るようになります。そして、その様子を見ていると、自分にとって少しだけ困難なことに挑戦していることが分かります。やさしすぎるのでもなく難しすぎるのでもない、ちょっとだけ困難なことに意欲を持つのです。例えば3才児が、幼稚園で、わんぱく山の岩の上から飛び降りている様子を見ていると、ちょっとだけ高すぎて、ちょっぴり怖いところから飛び降りるのです。そのことに一生懸命挑戦するのです。そして、それが出来るようになると、「見て、見て」と、先生や親を呼びます。困難を征服した達成感の喜びが、次の意欲を呼び起こし、新たなる挑戦を求めるのです。


また、人間がまわりの環境に働きかけ、それに対して効果的な変化を与えることが出来るという有能感も、“やる気”を起こす大きな役割をしています。子供が何かに興味を抱いたときに、それを操作したり、切ったり折り曲げたりして、それに変化を与えようとします。泥んこ遊びもそうですし、空き箱やダンボールを使って何かを作るのも、自分のイメージにそって操作し変化を与えることが出来たという有能感が、次なる意欲を呼び起こすのです。このような活動や遊びの中から、“やる気”のある人間の基盤を培っているのです。


いわゆる“教育ママ”といわれる人の陥りやすい失敗は、まだ、そのことに興味や関心を持っていないのに早く教えようとしたり、その子の能力以上の難しいことをやらせようとすることで、逆に意欲を奪ってしまうことなのです。知育もその子にとって知りたいと思っていること、覚えたいと思っていることを、“ちょっとだけ” “ちょっとだけ”と教えてやる方が、その子にとって、“解った”という喜びをもたらし、もっと学びたいという気持ちを起こさせるのです。