白髪せんせいのつぶやき

ありがとう(平成12年度)10月

9月も半ばを過ぎた頃、園庭で遊んでいる子供たちが、私を見つけるなり近づいてきて、「園長先生、ありがとう」と言います。何のことかと思ったら、「トーマス号(森の機関車ウッディー)を買ってくれてありがとう」、「石のテーブルをありがとう」と言います。プールが完成した9月の初めにも、「園長先生、新しいプールをありがとう」と、子どもたちが言ってくれていました。

なぜ、「園長先生、ありがとう」と言うのでしょう。それは簡単なことで、新しい遊具が入ったりすると、先生たちが、ホールでの集会や、それぞれのクラスで、「園長先生が買ってくれちゃったんよ」と、話してくれているからなのです。誕生会のようなときのケーキやおやつにしても、「園長先生が買ってくれちゃったんよ」と言って配ってくれていますから、「園長先生ありがとう」と言ってくれるのです。

このことは何を意味するかというと、先生たちが、子供たちに感謝の気持ちを育んでくれているのです。それと同時に、「園長先生は私たちのことを思ってくれている」、「私たちの園長先生なのだ」と言う意識を持たせてくれているのです。私のような駄目園長であっても、先生たちが、「園長先生ありがとう」と言える子に育てることで、人を尊敬したり畏敬の念を持つことの基盤づくりになっているのです。

数年前にも園での講演で話したことがあるのですが、我が家の子育てで、一つだけ女房に感心したことがあります。それは、子供の下着や服1枚を買うにしても、「お父さんに買ってもらおうね」、「お父さんに買ってもらったのよ」と、必ず、お父さんをたててくれていたのです。女房が自分のものを自分で買ってきたときにも、「お父さんに買ってもらった」と報告します。

こうしてくれることで、仕事に忙しく、子どものことをかまってやれない亭主であっても、「お父さんに買ってもらったのよ」と、何か買うたびに言ってくれていると、子供はお父さんを尊敬しながら育ちます。

このことは、子供の育ちの中で大きな力となってきます。誰かに対して尊敬の念や畏敬の念を抱いて育つことは、他人に対してはもちろんのこと、自分自身も大切にできる人間にと成長させてくれるのです。

近年、共働き家庭が多くなっていますが、たとえ、お母さんの収入から買ってやったとしても、「お父さんに買ってもらった」と言って欲しいのです。それは、なんてたって、お母さんが生んで、お乳をやって、しかも、子供に対する細やかな愛情には亭主は勝てません。人間、怖いときや死に直面したとき、「おかあさん」と叫びます。それほど母親の愛情は深いのです。大抵の家庭では、子育てはお母さんが中心となります。お母さんのこまめで優しい愛情が乳幼児期や児童期の子供たちを心豊かに育んでくれます。それと同時に、このころの、父親の存在の有り様も大きく影響するのです。お母さんのように細やかではないが、おおらかな気持ちで見守ってくれている存在、何かあったときには頼りになる存在が父親としての役割となるのです。

このことは、子供が大きくなってくるほど要求されます。思春期を迎えたときや、人生のこと、将来のことについて悩んだりするときに、今までの父親としての存在の有り様が大きく影響するのです。人生のこと、将来のことについて相談相手として直接求めてくることもありましょうが、思春期のようなときには、ほとんどの子は親に相談しません。相談はしませんが、その子にとって、父親に対するイメージや存在の有り様が、自分自身で、悩みや問題を解決するときの、モデルや心の支えとなっているのです。

思春期は子供から大人に脱皮しようとして悩んでいるときです。非行に走るか、それを乗り越え希望に向かうかの分かれ道でもあるのです。その悩みの中で、子供自身の方向決定に、大きく関わるのです。離婚や死別でお父さんがいなくても、あるいは、新しいお父さんを迎えても、そのお父さんに対して、子供にいかによいイメージを持たすかが大切となってくるのです。

以前から、友達関係のような親子でありたいと願う親御さんがいらっしゃいます。友だちのような心を通わせる親子と言う意味では、たとえ、小さな子供であっても、一人の人間として大切にしていると言えるでしょう。それはそれで否定はしませんが、親に対する尊敬や畏敬の念を失うようでは、子供の育ちには悪影響となります。親子としてのけじめのある関わりが必要となります。

幼稚園児のような小さな子供に、「尊敬の念を持ちなさい」と言って育てても、意味がありません。子供にも理解できる、「ありがとう」と言う、感謝の念を植え付けることが基盤となるのです。それは日頃から、お母さんお父さん自身が、「ありがとう」と言う気持ちと言葉で実践することから始まります。そして、母親は、「お父さんのおかげで」と、父親は、「お母さんのおかげ」と、子供たちには意識して伝えるよう心がけて欲しく思います。

先日、年少児が舌を少しけがをしました。先生が病院に連れていったのですが、次の日、「園長先生、病院に連れてってくれてありがとう」と言います。きっと、お父さんかお母さんがそのように言うように教えられたのだと思います。すてきなことです。

めだか(平成12年度)9月

夏休みの間に、幼稚園の園庭に流れる小川の改修をしましたが、上流には小魚が住めるよう、小川の中間に堰(せき)を作りました。

それを知った20年ぐらい前のPTA副会長だったお母さんが、早速、倉敷にはいっぱいいるといって、彼女の友だちに連絡して、メダカや川エビを手に入れて、たくさん持ってきてくださいました。その日は、私は海に魚釣りに行って留守をしていたので、女房(子供の館保育園の園長)とそのお母さんが小川の中に入れてくれました。

ところが、そのお母さんが帰られてしばらくすると、たくさんのメダカが堰を越えて、子供たちが入って遊ぶ下流の方に移動しているのに気づいたのです。そのままだと溝に逃げてしまいます。大慌てで水の出口をふさぎ、目の細かい網を買ってきました。そして、メダカをすくおうと小川に入ったのです。ところが、メダカに近づくと、すぐに逃げてしまいます。なかなか網に入ってくれません。どうしたものかと途方に暮れて、小川に足を入れたまま、石の上にじっと座っていました。

そうしていると、しばらくすると、メダカの方から足下に近づいてきます。じっとしていると、メダカの方から近づいてくるのです。そして、近づいてきたメダカを一匹ずつすくい上げ、上流に戻すことができたのです。気がついたら夕方になっていて、半日がかりでメダカすくいをしていたのです。

ところが、「メダカすくいがとても楽しくて楽しくて」と、その時の様子を子供のように喜々として話してくれます。「子供の頃にこんな経験をいっぱいしておきたかった」というのです。彼女の生まれ育ったところが、工場地帯で川が汚れはじめた頃で、子供たちは川で遊ぶことを禁止されたのです。そのため、川に入って遊んだ経験がないといいます。

一方、私の場合は、山河に囲まれて育ったので、夏休みには朝から夕方まで川で泳いだり魚を捕ったりして遊んでいて、まさに「かっぱ」そのものでした。
私が小学生の頃にはどこにでもいたメダカですが、今は特別な場所でしか見つけることができません。幼稚園の小川が完成して水を入れると、シオカラトンボ(雄)とムギワラトンボ(雌)が早速やってきて、水にお尻をつけながら卵を生み込んでいます。環境が良くなると、昆虫や小動物の繁殖がよみがえってくることを目の当たりにしています。


この夏休みに子供たちはどのような体験をしましたでしょうか。お金をかけて遊ばなくても、ちょっと田舎の方に行くと、まだまだ自然が豊富で、子供たちの遊ぶところがいっぱい残っています。お父さんやお母さんが、ちょっとだけ意識して、小川に入って川遊びをしたり、昆虫を捕って遊ぶことを子供たちと共にしてくださると、子供たちは命をよみがえらせたかのように、目を輝かせて、喜々として遊びます。自然は子供たちに好奇心や冒険心を誘発させてくれます。その中での様々な経験が意欲や探求心や思いやりの気持ちの基を育ませてくれるのです。

最近の子供は、ほとんどの子がといっても良いくらい、ファミコンなどのゲームで遊びます。そのゲームをみていると、多くのソフトは、相手を攻撃するものばかりです。ところが、以前から危惧していることなのですが、怖いのが、成長期の脳の神経細胞が、どうも、攻撃性の強い配線になってしまうのではないかということなのです。近年、「17才の少年」の事件が度々報道されます。今まで、日本人の犯罪の中では、あり得なかったような、信じられないような事件が続いています。もしかして、この子たちが育った時期が、ゲームに熱中していた、ブームとなった、時期と重なるのではないでしょうか。


お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんは、ほとんど海水と同じ成分だと言われる、羊水の中で育ちます。しかも、わずか妊娠10か月間の中で、海から生物が生まれ、何十億年とかかって人間になっていった過程をすべて通るともいわれています。幼児のや児童の育ちも同じようなことがいえます。経験すべきことを経験して育たないと人間としての望ましい発達をみることができないのです。「自然は偉大な教師」というように、自然との関わりは子供たちの様々な知恵や豊かな感性を育んでくれます。子供たちの「あそび」を再考してみていただきたく思います。


今年の夏休みも、卒園児が訪ねてきてくれました。24才になる千幸ちゃんという子で、幼稚園を卒園すると同時に、お父さんの転勤に伴って、広島市に引っ越しました。それっきり会うこともありませんでしたが、8月に入って間なしに、お母さんと、婚約者の彼を連れて、幼稚園を訪ねてきてくれたのです。彼との婚約が決まって、急に幼稚園を訪ねたくなったというのです。幼稚園のころをとても懐かしく想い出しながら、彼に楽しそうに話している姿はとてもほほえましく感じました。昨年も、人生の転機で悩んでいたとき、急に幼稚園に行ってみたくなったと、新幹線に乗って、東京から来てくれた子がいました。幼稚園は「心のふるさと」なのです。そういう幼稚園であることを嬉しく思います。

ほめる(平成12年度)8月

7月の園だよりでは、「叱る」ということで書きましたので、今回は「ほめる」ということに触れてみたいと思います。


大人になっても、ほめられるということは嬉しいものです。
ご主人から、「今日はきれいだね」とか、「愛してるよ」と言われれば、鼻歌まで出て、その日は一日中楽しくすごせるでしょう。あるいはまた、夕飯の時、「美味しい!」と言って食べてくれれば、料理をすることがとても楽しくなります。ところが、日本の旦那はそういう表現を苦手とします。今の若いご主人はだいぶ変わってきたようですが、欧米文化の中で育った人たちに比べれば、比較にならないほどへたなのです。


それはともかくとして、「ほめられる」ということは、人間の心情をとても心地よいものにしてくれます。その心地よさは、意欲や、やる気を起こさせてくれるのです。大人でもそうなのですから、子供にはもっと大きな効果を生み出します。

子供は母親や父親を中心に周りの大人に依存して生きています。衣食住はもちろんのことですが、子供が遊んでいるときでも、周りに依存できる大人がいてくれるから、安心して遊べるのです。何か困ったときや怖いことが起こりそうなとき、すぐに助けてくれる人がいてくれるという安心感です。子供は、周りの大人に絶対の信頼感を抱いているのです。

それだけではなく、まだまだ、自分のしていることに確信が持てませんから、新しいことには、かなりの不安を抱きます。そういうとき、周りの大人が、「いいよ」とか、「だいじょうぶよ」と言ってくれることで、安心して行為や行動を起こします。子供が服を汚してどろんこなって遊んでいるようなとき、「もしかして、叱られるのでは」と思いながらしていることでも、周りで見ている人が、うなずいてくれたりニコニコして見ていると、安心して遊べるのです。

このようなあそびは、周りから指示されてするあそびではありませんから、ほとんどが自分の好奇心や興味からはじめますので、自発的な行為なのです。自発的な行為を認めてもらえることの積み重ねが、先での自主的な子供に育つ基となるのです。


ところが、この自発的行為は、「叱られる」ことと、「ほめられる」ことの両義性を備えています。先に話した「どろんこあそび」のように、服を汚したり家の周りを汚すと、大人から、「叱られる」かもしれない一面と、工夫をして遊んでいることや、生き生きとしている姿に感心して、「ほめられる」という一面もふくんでいます。

子供が家事の手伝いをすると、「ほめられる」ことでもあり、逆に結果として、散らかしたり壊したりして、「叱られる」ことにもなり得るのです。このような両義性を持つ行為は、「ほめられる」か、「叱られる」かになるわけですが、そのどちらになるかは、養育者や周りの大人の養育態度や価値観、あるいはその時の、大人の精神状態によっても違ってきます。


そうなると、ほめることは叱ることよりも難しいのかもしれません。食事が終って、子供が、食器を片付ける手伝いをしようと運んでいる途中で、おぼんごと落として壊してしまったようなとき、「手伝ってくれてありがとう。お母さんとっても助かっているよ。○○ちゃんのそういう優しいところが大好きよ。今日は落ちてしまったけど、また手伝ってね」と言うのと、「また壊して!、この前も気を付けなさいと言ったでしょ!」と言うのでは、子供の気持ちは180度違ってきます。

初めの方は、「壊れたけど、お母さんは私が手伝ったことをありがとうと言ってくれた。今度は壊さないようにしよう」と思うかもしれませんし、あとの方は、「もう、手伝いなんかイヤだ!」と思うことでしょう。


このような特別なことでなくても、ふだんの生活の中で、我が子をほめてやることはいっぱいあるはずです。特別に良いことをしたときにほめようと、その機会を待つのではなく、ちょっとしたこと、人に優しかったり、親切な行為をしたとき、あるいは、何かをして満足そうなとき、なにかが出来たと本人が感じているようなとき、「○○ちゃんの優しいところが素敵よ」、「よかったね」、「すごい、すごい」、「きれいに出来たね」、「よく遊んだね」、「自分で出来たんだ」と、言葉にして言ってやることが、子供のやる気と正義感を育てるのです。


ほめ上手になることは、育て上手にもつながってきます。大げさにほめるのではなく、ちょっとした行為にちょっとしたほめ言葉が有効なのです。「そうは言っても、いたずらばっかりしているのに、そんな優しい言葉なんか言ってはおれない」と思う気持ちを飲み込んで、その子の、一つでも良いところを見つけて、一日一回は、ほめてやってください。一日一回ほめることを意識してやっていると、その子の良いところがどんどん見つかってきて、ほめる回数も増えてきます。最初に言ったように、大人でも、「きれいだよ」とか、「愛しているよ」と言われたときの、心地よさをおもいだして、かわいい我が子にも、そのような気持ちをいっぱい与えてやってください。

叱る(平成12年度)7月

皆さんは、子供の頃、親や先生、あるいは近所の人から叱られた経験がどのくらいおありですか。すべては覚えていなくても、「このことだけははっきりと覚えている」と言うことが、一つや二つはおありではないでしょうか。

 
私も、叱られた直接の原因は思い出せないのですが、叱られているときの、その場の情景も一緒に思い出すことがいくつかあります。
一番小さいときの記憶では、雪の降る夜、母親に雪の中に放り出されて、泣くどころか、自分でわざと雪をかぶってまでして、反抗していたことをはっきりと覚えています。伯父の家に泊まりにいっていたときで、おそらく何かいたずらをして、その伯父に対して迷惑をかけたのではないかと思うのですが、母親から、「ごめんなさい、と言いなさい」と言われても、絶対言わないので、今までは叱ったことのない優しい母親が、縁側から私を雪の中に放り出したのです。

その伯父が亡くなったのが、私が4才の時ですから、4才の時に叱られているときの記憶です。小学校の低学年の時も、同じように何かのことで、「ごめんなさい」と言わないので、母親に、真っ暗な蔵に、「蛇がいる」と脅かされながら入れられようとして、本当に蛇がいると信じて、泣きながら、入り口の戸にしがみついて抵抗したのですが、許してもらえず、とうとう、「ごめんなさい」と言ってしまった一生の不覚があります。


父親にも、叱られた記憶が一回だけあります。これも、何で叱られたかは記憶にはないのですが、やはり、「ごめんなさい」と言わないものですから、「謝るまで座っていなさい」と板の間に正座させらされ、1時間も2時間も意地を張って座っているものですから、今度は逆に、母親が泣きながら、「お父さんに早くごめん言いなさい」と、しきりに私に嘆願している状況は、今でもはっきりと覚えています。

いずれも、「ごめんなさい」と言わない、私の意地っ張りが原因しています。いたずらっ子だった私にとっては、悪いことをしているという意識がなかったからだと思います。
両親から叱られた経験の記憶はそのくらいで、逆に、「敷居(しきい)はお父さんの頭だから、敷居を踏んで通ってはいけない」と言うような、明治生まれの、すべてのことに対して厳しすぎる祖母から守ってくれていた優しさの方が記憶に残っています。


今のお母さん、お父さんの世代での、「叱る」ということが、どのような形でおこなわれているのでしょうか。一度、このことについて調べてみたら、おもしろい結果が出るのではないかと思っています。
一つだけ、私の気になっていることをお話しします。
たいていの場合、子育ては、お母さんが中心的な役割をしておられるご家庭が殆どだと思います。それはそれで、とても大切なことなのです。子育てを通して母性愛が育まれ、子供は、その優しくて細やかな愛情に包まれて安定した幼児期を過ごします。
子育ては毎日のことですから、お母さんが子供に対して叱ったりすることは、よくあることだと思います。毎日、ガミガミ言うのは感心しませんが、本当に叱らなければならない時には、しっかりと叱っても良いと思います。子供は、悪いことをして叱られることについては、何故、叱られているのか、何故、そんな風にお母さんが言うのか等、心の中で葛藤しながら、解決していきます。それは、自分の感情をコントロールする力にもなっていくのです。


気になっていることと言うのは、その時の父親との関係です。普通ですと、母親に叱られたときには、父親の、そのことに対してのおおらかな態度が子供の追いつめられている気持ちを救い、父親に叱られたときは、お母さんの優しさで救われるのです。


ところが、最近の例を話しますと、お母さんが子供を叱っても、子供が母親の言うことを聞いてくれないと、お母さんは、お父さんに事細かく訴えます。それを聞いたお父さんは、お母さんと一緒になって叱るのです。これは、子供には応えます。子供の心の中で解決していく度合いを超えてしまっているのです。通常は、叱られながら、心の中の葛藤を通して、子供自身で解決していくのに、心の傷として残るほど、子供の気持ちは追いつめられていきます。心の逃げ場所がないのです。


「ほめる」ことは以外と簡単に出来るのですが、叱ることはとても難しいことなのです。ほめすぎるのも、逆に、ほめられるためにしようと邪念を生みますが、「ほめられる」ことは、もともと気持ちの良いことですから、意欲につながります。 問題は、「叱る」ことの難しさです。よく聞く話で、電車の中で我が子が騒いでいたら、「怖いおじちゃんが見ているから静かにしなさい」と、人のせいにして叱るのではなく、我が子の、「騒いでいる」ことに対して、「人に迷惑をかけるから、電車の中では騒いではいけません」と、悪いことをしたそのことについて、その時点で、しっかりと叱ることです。「あなたは、いつもそうなんだから!」と、人格否定もいけません。

子供を台所に(平成12年度)6月

皆さんのご家庭での食生活はどのような感じなのでしょう。
他人の食生活は、親しい人の家以外では、「隣の晩ご飯」とかいうテレビ番組や、ドラマでしか見ることはほとんどないことに気付いてみると、もしかして、以前より大きく変化しているのではないかと気になり始めました。


以前よりというのは、私の育った戦争直後の物のない時までさかのぼらなくても、今の、お父さんお母さんの子供の頃、いや、高校時代の頃から比べてみても、ずいぶんと変化しているのではないかと思われるのです。その一つは、夕食の時の家族構成、もう一つは、食材の変化です。夕食時の家族構成で見ると、まだ皆さんが子供の頃は、家族全員がそろってから食事が始まるご家庭が多かったのではないかと思います。今でも、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らされているお家では、家族そろって食卓を囲んでの夕食がまだ多く見られても、核家族のお家では、家族全員で食事をするご家庭の割合がずいぶんと減っているのではないかと感じるのです。子供とお母さんだけが、先に夕食をするというご家庭や、子供だけが先に食べたり、それぞれが思うときに食べたりという話も聞きます。家族全員で食卓に座ることが少なくなっているのではないでしょうか。電子レンジで、簡単に、「チン」すると食べられますから、家族全員がそろわなくても、それぞれが食べるときに温かい物が食べられるので、一緒に食事をするということもいらなくなってきているのです。


食材の変化で見ると、「食の外部化時代」といわれるように、子供たちの食卓にも加工食品、調理食品が増え、お母さんの包丁の音が余り聞こえてこない夕食になりつつあるのではないかと思われます。
これらも、時代の流れなのかと思ってみても、手作り料理の減ってきていることは、子供の育ちの面から見ると、ずいぶんと寂しい感じをいだかずにはおれません。


「食」は、ただ栄養を補給するというだけにとどまるのではなく、食卓を囲んで食事をすることは、家族団らんの場であり、お互いのコミュニケーションのとれる時間でもあります。何よりも家族全員そろって食べられる楽しさが、子供たちの心を育ててくれるのです。
そして、お母さん(お父さん)が、愛情を込めて食事の準備をしている姿は、子供たちにも、親の愛情をしっかりと体感できる場面でもあるのです。


最近知ったのですが、キッズ・イン・ザ・キッチン(Kids in the
kitchen)という運動が盛んになってきていると聞きます。「子供を台所へ」という運動なのです。今、皆さんが子育ての中で感じられていると思いますが、お母さんが台所に立って食事の支度をしていると、子供がそばに来て、お母さんと同じようにしたがることが度々あると思います。子供は、大好きなお母さんがしていることを、自分もしたいのです。その時の子供の気持ちは、とてもほのぼのとした幸せな気分でいるのです。食事を作る手伝いや、箸やお茶碗を並べたり、料理を運んだりすることは、本人も家族の一員としての役割をしているという存在感でもあるのです。家族の中での存在感を味わって育つことは、将来、社会での役割とそこでの存在感を得るためのとても大切な準備をしているのです。


このようにして、家族の愛情を感じながら、家庭での役割と存在感を持って育った子供は、家族の絆をしっかりと持つことができて、心豊かに育つことができるのです。こうして育った子供は、決して非行には走りません。家族の温かい愛情と深い絆から生まれる信頼関係は、子供のしつけもしっかりとしてきて、正義感や生活行動の規範意識を高め、望ましい発達をより確かなものとするのです。


だんだんと難しい話になってきましたが、簡単にいえば、子育てを楽しんで欲しいのです。料理に関していえば、料理を楽しんで欲しいのです。「料理は愛情」とよくいいます。私も毎日料理をしていますから分かるのですが、料理をしているときの気持ちは、相手のことを一生懸命考えています。栄養のこともそうですが、「少しでもおいしいものを、いかにおいしいものを食べさせてやろうか」と苦心しながら作っています。その気持ちは愛情として相手にしっかりと通じます。

ところが、仕方なしにしている料理は、下準備もおろそかになり、味も極端に落ちます。嫌々している気持ちは相手にもすぐ分かります。皆さんも経験がおありと思いますが、夫婦喧嘩をした後、食事を作る腹立たしさは、そのまま料理の味となってあらわれます。子供は何もいわないかもしれませんが、愛情がこもっているかいないかはしっかりと感じているのです。食事は毎日のことですから大変です。でも、家族での幸せを感じながら作ることは、その大変さも、楽しみに変わってくるはずです。
幼児は、「未来」のことを考えては生活していません。「今」を生きているのです。「今」を大切にしてやることが、子供の未来を豊かなものとするのです。