葉子えんちょうせんせいの部屋

幼稚園はフィクションでいっぱい(2024年6月28日)

いよいよ、暑くなりプールあそびが始まりました。梅雨の合間をぬって、子供達と先生達の歓声が響き渡ります。園庭では、泥んこあそびに大はしゃぎ……そして、もうすぐ七夕。きれいな笹飾りを作りながら、お願い事を短冊に書いて、おりひめ様とひこぼし様が会える年に一度の日を祝う準備をしている子供達です。

水、土、砂、空を相手に毎日元気いっぱいこの夏を過ごしています。

「アリの世界」

毎日保育室を回ってみると、各クラスでの生き生きとした子供達の生活を垣間見る事ができます。「えんちょうせんせい!おはようございます!」と元気な声の挨拶や「あのね、こんなの作ったんだよ」「今から外で泥団子をつくるんだ~」と楽しい話をたくさん聞かせてくれます。そして、壁に展示している絵に目を向けると「ぼくのはこれ!」「わたしのはあっちに貼ってあるよ」と、絵の自慢話になったりもします。

年中組のクラスに、地下のアリの巣を想像した「アリの世界の絵」が一面に貼ってあります。これは、もともとは、子供達がアリに興味を持った事が始まりでした。園庭でアリ探しに夢中になっている様子を知った主任の美穂先生が「アリって甘い物が好きだから、ゼリーを置いてみたらどうかな?」と子供達を連れて、花壇の隅に小さなカップゼリーを置いておいたのです。子供達は、アリ探しを応援してもらえた事にわくわく感と喜びが倍増したはずです。その後時間をおいて、今度は担任の先生と一緒にアリが寄って来ているかどうかを見に行っていました。そして、「みほせんせい~い!アリが来てるよ~」と大きな声で報告をしていました。「ほんと~?!」と美穂先生も一緒に喜んでいました。

それからです、子供達の興味が更に、膨らんだのは……。アリを集めながら「アリは地面に巣を作ってるんだよ」「そこから、おいしいものを求めて、地面に出て来て見つけると、家(巣)に持って帰るんだよ」「アリの家はどんな感じなんだろうね」「?????」等と、クラスの中でも盛り上がっていたようでした。

そして、何日か後には、力作「アリの世界」の絵が出来上がっていました。

その絵を見ながらいろいろな子が説明してくれます。その話の中には、お父さんアリお母さんアリが登場し、ご飯支度をしているところ、寝る部屋、遊んでいるところ……と実にファンタジーなのです。どんどんその空想の世界が広がっていきます。担任の先生は、子供達のフィクション全てを受け止めてくれたのです。

「カメからのてがみ」

また、隣のクラスでは、カメの絵が展示してありました。担任の先生は、「みんな!みてみて!カメさんから手紙が来たよ!」等と、カメ語(?)の手紙(笑)を書いて子供達を驚かせました。その手紙には「ぼくの身体をおしゃれにしてほしいんだ」とか「ひとりじゃあ寂しいから、お友達を描いてくれないかな?」と書かれてあり、それを読んで、子供達はすっかりその気になっていろいろな思いをめぐらせながらその気になってとびっきりのカメを描きます。そのような手紙は、時にクジャクからも魚からも届く事があります。子供達は、ワクワクの世界で活動するのです。

「夢にいっぱいのウソ」

花や野菜、田んぼや畑に植え付けをしたら「大きくなあれ、ちちんぷいぷいのえーい」とおまじないをかけて、植物の生長を応援します。幼稚園に植えたキュウリが、花をつけ小さな野菜らしき姿にかわり、「昨日より大きくなってる!夜の間にダンゴムシが応援に集まったんじゃない?」「旗降っておおきくなあれ!って…」と話しがどんどん広がるのです。日ごとに大きくなっていく様をきっと、私達大人とは違う見方で感じ取っているのではないかと思います。こうしてフィクションの世界に浸って行きます。その中で想像力を膨らませ、自分がアリになったりカメになったり、ダンゴムシや植物にもなって、その中に身を置いてみるのです。それはそれは、大人は入り込めない不思議な子供達の世界になります。

子供達がするごっこあそびも、実生活の模倣ですが、よく見てみると実生活にはありそうにないユニークなやりとりや設定がみられます。フィクションです。想像力をフル回転して楽しんでいます。そこには、“夢のウソ”が楽しく繰り広げられます。子供だけが持てる特権でしょう。まだほんの3年~5年分しか本当の世界を知らない子供達のフィクション物なのです。

子供達には夢を持って欲しいし、その夢を追いかけて欲しいと願います。夢はフィクションの中でこそ、なりたい自分を想像しながら持てるのだと思います。そうなれる自分が想像できるから思いが膨らみ、これからの夢や目標になっていくような気がします。しかし、子供達は、ずっとフィクションの世界にいるわけではありません。成長するにつれて、フィクションから徐々に本当(現実)の世界で生きていくようになります。夢と現実のギャップに向き合う事もあるでしょう。でも、幼児期の間に、そんなはずないけどもしかしたらそうかもしれない…できるはずないけどできる気がする…そんな世界で“追いたい夢”に出会えていたらフィクションをノンフィクションに変えるための道をさがしたり、努力できたりするかもしれません。夢あればこそ!なのです。

幼稚園は子供達がいろいろな発想でいろいろな自分になれる場所です。

そのためには、先生達は魔女にも神様の使いにもなるし、いろんな生き物や植物の言葉も書けたり喋れたりして理解できるスゴイ存在なのです(笑)

幼稚園はフィクションでいっぱいです。

「だいすき」がいっぱい(2024年5月31日)

こいのぼりが元気よく泳いだ青空の色が、だんだんと濃くなってきました。夏の始まりを思わせるような汗ばむ日もありますが、その前にもう間もなく訪れる「梅雨」……春から夏へ季節の移り変わりを感じる時期です。大人にとっては鬱陶しく思われるこの時期も、きっと子供達は、梅雨にしかできないあそびを見つけ楽しむ事でしょう。

先日、年長組の子供達が田植えを経験しました。その準備のために、田んぼに水を入れる水路や池を整備していると、3匹のサワガニをみつけました。幼稚園の子供達に見せてあげようと、バケツに入れ、翌日、「子供達に見せてあげて」とうめ組の先生に渡しました。魚肉ソーセージを小さく切って入れておくと、ちゃんとハサミで口に運んで食べるので面白く、「わぁ!サワガニ!食べてる食べてる!サワガニがいるって、水がきれいな所なんですね。」と、先生も興味を持ってくれて、全クラスの子供達に見せてくれたのでしょう。その日、何人もの子供達が「園長先生!サワガニを持ってきてくれてありがとう!」と言ってくれました。

そんな中、「園長先生!あのね、サワガニってね……」と、何度も何度も私に話してくれる年長組の男の子がいました。「右のハサミと左のハサミの大きさが違うのはオスなんだよ」「水の中にもいるけど、泥の中に住んでるサワガニもいるよ」と、サワガニについて自分の知っている事を一生懸命教えてくれるのです。周りで聞いていた子供達も「〇〇くんは、虫や生き物の事なら何でも知ってるんだよ」と、その男の子の事を尊敬しながら自慢していました。その男の子は、子供達も先生も認める虫博士なのです。

「子供は経験するほとんどの事が“はじめまして”」
子供達には、大好きな事がいっぱいあります。虫、動物、車や電車のおもちゃ、運動、食べる事、おままごと、絵を描く事、絵本を読む事……、子供達はまだこの世に生まれて数年しか経っておらず、物事との出会いのほとんどが“はじめまして”の感覚です。だからその都度、新鮮で刺激的だったり衝撃的だったりして心を動かされるのです。心動かされた中に「アッ!これ、おもしろい!」「もっとやってみたい!」と“だいすき”になります。それは、物事だけではなく、人との出会いもそうです。それまで、家庭という限られた人とだけの生活から、幼稚園という世界を知り、そこで“はじめまして”の先生や友達と出会うのです。「だいすき」と思える人がひとり…またひとりと増えていきます。

大好きなものと出会うと、それに夢中になってそれを深めようと研究したり繰り返しやってみようと努力をします。それが楽しいのです。
大好きな人ができると、いつでも一緒に遊びたいと思い、毎日が楽しみになります。
「だいすき」は子供達の毎日を楽しく嬉しくして幸福感を与えてくれます。
時には、心を支えてくれる大きな力にもなります。

「気移りは子供の特権」
本当に大好きな事が見つかるとそれを極めたくなるでしょう。それがいずれ大人になって仕事に繋がったり、生き方の道しるべの如く自分の人生の柱となればこの上なく幸せです。しかし、子供が、一つの事を長期的に「すき」でい続けられるかというと、そうでない事も少なくありません。熱しやすく冷めやすい、飽きっぽい、三日坊主、気移りしやすい、などなど……。

でも、幼児期の子供達に必要なのは、いろいろな事に出会い、知り、それに関わってみる事、経験を豊富にしてあげる事だと思います。たくさんの“だいすき”に出会えます。そして、その中から、心をときめかせてくれる最も好きな物を自分でチョイスします。幼い時期には、浅くても広~くたくさんの物に出会えた方が良いと思います。子供達は、気移りしながら、品定めをしているのです。一度冷めた事でも、その時々に熱した経験は、その子のどこかに残り、再び出会った時に前の経験を引っ張り出して再燃できたら良いと思うのです。

「共感は応援になる」
「だいすき」と思える事を子供達の中にたくさん作ってあげる事が大切で、そのためには、たくさんの事を経験したり、いろいろな人に出会える環境の中に身を置くこと、またそのきっかけをつくってあげる事が必要なのではないかと思います。

虫が大好きな子供達がたくさんいます。いつも、観察ケースを片手に観察したり、採集したりしています。ある日、年長組の保育室に行ってみると、観察コーナーらしき場所を先生に用意してもらい、新聞紙に採集して来た生き物を触ったりその身体を観察したりして、数人の子供達が「これが口で目はこれ、今からどんどんはっきりわかるようになるんだよ」と頭を突き合わせてうんちくを述べ合っていました。用意されたそのコーナーには、子供達が見つけた興味に先生が共感して応援している気持ちがうかがえます。その中で、子供達は安心して虫と関わります。

子供達が、心ときめかせて夢中になっている間は、大人の私達も共感して一緒に楽しむ事が子供達の「だいすき」を深める事に繋がっていきます。
その「だいすき」がいつか、子供達の人生を支える何かの力に繋がっていくでしょう。

思いをつなぐ(2024年4月30日)

「子供の笑顔のために」
前理事長は、体調を崩してからもギリギリまで、全ての保育室を回り子供達の笑顔に触れてくださっていました。子供達が過ごす環境を充実させる事に力を注いでおられたものです。特に、園庭には、しっかりその思いが込められています。水の中に住む生き物を捕まえて遊べる小川、足を踏ん張り登ったり降りたりできるわんぱくお山、春は可愛い花を咲かせ、夏は生い茂る深緑の葉で木陰をつくってくれる木々、そこには鳥や虫が集まり虫捕りに大賑わい、秋は紅葉した葉や木の実を集めて宝物……。子供達の歓声につられて、ヒツジやヤギやクジャクが鳴き、その動物に野菜を素手で食べさせてあげる楽しさ……。そんな園庭には、子供達が「たのしい!」「もっとあそびたい!」があちらこちらにいっぱいあります。「全ては子供達のためでもあり、ぼくの夢なんだよ。」と小さなショベルカーを自ら操作して、園庭に木を植えたり遊具を移動したりしておられました。子供達がそこで楽しそうに一生懸命に遊ぶ姿を想像しながら、前理事長自身もまた楽しそうに整備してくださっていました。

 「子供はあそびの天才」
その思いの原点は“自分を育んでくれたものは、農家に生まれ、仕事を手伝ったり、山河で走り回って遊んだりした”という様々な幼少期の経験だったようです。私達職員に、ご自身がどんな幼少期を過ごしていたかという話を何度も何度も聞かせてくださっていました。子供達の成長は、自らが主体的に関わって生活したり遊んだりできる場所にこそあるという事です。四季折々に様子を変える自然の姿は、子供達の目を輝かせてくれます。

既製の遊具は、興味を持っても、年齢が経つにつれて遊ばなくなったり、飽きてしまったりする事も少なくありません。それ以上でもそれ以下でもないものが多いのです。でも、自然は生きています。生きているものを相手にチャレンジしたり、試行錯誤を繰り返し工夫したり、楽しんだり痛い思いを味わったりする事で、生きる力とその術を獲得していきます。そこにある自然を相手に身体を使い、友達と遊びながらいろいろな力を身に着けていくのです。更には、時たまケンカをしたり仲直りをしたりして人との関わり方も学びます。「子供はあそびの天才」であり、「自然は偉大なる教師」なのです。 

「子供達を幸せにしたい」
春休みには、大きくなった姿を見せにたくさんの卒園児達が来てくれました。小学生から大学生、また、社会人になった立派な姿を見て、先生達は笑みがこぼれます。そんな卒園児達は皆、「この園庭、懐かしい!」と言って、見渡しながら思い出を語ってくれます。そして、「遊んでいい?」と気が済むまで遊ぶのです。「ここに来たら、素直な自分に戻れるような気がする」と言ってくれる子もいました。この自然いっぱいの園庭のある幼稚園が、子供達を包み込んでくれているのです。卒園しても、いつでも「おかえり」と迎えてくれます。

前理事長の願いが込められたこの環境が、何人の子供達を幸せにしてきたのだろうか?と思うと、ありがたくて仕方がありません。私達は、前理事長の温かくもあり情熱的でもあるこの思いを大切に受け継ぎ、もっともっとたくさんの子供達を幸せに導いていかなければ!と思っております。

お子さんの成長の場として、三次中央幼稚園を選んでくださった保護者の皆様には、是非、この幼稚園の園庭と全ての環境に、これまでもまたこれからも受け継がれていく子供の幸せを願う思いを知っていただき、また、感じていただけたら嬉しいです。子供達にも、みんなの事が大好きな優しい“おじいちゃん先生”(失礼…笑)が用意してくださったこの幼稚園で、た~くさん遊んで過ごそうね と伝えたいと思います。そして、幼稚園の事を大好きになって欲しいと思っています。


きっと、伊達正浩前理事長は、空から、「もっとあそべ、もっとあそべ」と子供達をこれからもずっと目を細めて見てくれているでしょう。

ありがとう(2024年2月29日)

三寒四温とはよく言ったものです。寒い日が続いたかと思えば、数日温かい日が続く───こうして寒さと温かさを行ったり来たりしながら、じわじわと春がやって来るのです。早い地域では、2月の中旬には早咲きの桜が話題になっていました。もう春です。春は、何だか寂しさと喜びの入り混じる季節……三寂四喜?──寂しさと喜びを行ったり来たりしながら着実に希望の春を迎えるのです。

「“ありがとう”は “有り難し” 」
 あるテレビ番組で“ありがとう”の語源について語っていました。その番組を本気で観ていたわけではなく、夕食の片づけをしながら耳にしただけでしたが、なんだか合点のいく話でした。「ありがとう」を漢字にすると「有難う」───“有る事が難しい”それは “貴重な事” その貴重な出来事に感謝する言葉になったという事でした。残念ながら、私には、ここで、語れる程の知識や語彙力がないので説得力がありませんが、「ありがとう」の言葉の大切さを考えさせられるワンシーンでした。「ありがとう」と言われて、気分を害する人はいないと思います。言った人も言われた人もとても嬉しい気持ちになります。優しい気持ちになります。当たり前の言葉だけれどこの言葉のチカラを思うと実に不思議で実に大切な言葉だとあらためて思うのです。

 「お弁当屋さん、ありがとう!」
 ある日の昼、職員室にいる私に事務所の先生から内線電話がかかってきました。デリバリーのお弁当屋さんが、食べ終えたお弁当箱を引き取りに来られた時、わざわざ事務所に寄って言われた事を伝えてくれました。
空のお弁当箱を滑車に乗せて運んでいるところに、子供達がやって来て「おじちゃん、お弁当ありがとう!美味しかった!」「私、前は、食べられなかった緑の豆が食べられるようになったんだよ!」「ありがとう」って言ってくれたという事でした。お弁当屋さんは、とても嬉しかったそうで、わざわざ帰りに事務所に寄ってその事を話してくださったという事でした。私は、それを聞いて、とても嬉しくなりました。事務所の先生も嬉しくなってすぐに教えてくれたのです。
 「ありがとう」と言った子供達は、“当たり前の事ではない貴重な事(いつも美味しいお弁当を届けてくださる事)”に感謝したい思いを言葉にしたのです。お仕事として当たり前にしている事に対して「ありがとう」と言ってもらったお弁当屋さんは、また美味しいお弁当を気持ちよく子供達に届けてくださるでしょう。お弁当屋さんと子供達の間に何かが生まれました。
 「“ありがとう”で生まれる事」
 園庭で遊んでいた子供のポケットから、ハンカチが落ちました。「○○ちゃん!落ちたよ~」と私が遠くから呼ぶと、近くにいた子がそのハンカチを拾って渡してあげました。ハンカチを落とした子が「あっ!ありがとう!」と言ってポケットに入れ直しました。何でもないような場面ですが、ふたりは目を合わせて笑っていました。その間には笑顔と良い関係性が生まれたのです。
 喜んでもらえた事で、自分がした行動が間違っていなかったと自信を持つ事ができます。自己肯定感が生まれます。

また、言う方も「ありがとう」の気持ちを言葉にする事で、相手に対して優しい気持ちになり、いつか自分もそんな場面に出くわしたら喜んでもらえる人になろうと考えます。
“ありがとう”の言葉には、人の心や行動に影響する大きな力があるのです。言う側にも言われる側にも、幸せな生き方の基盤のひとつが生まれます。

素直に「ありがとう」と自分から言える子供達を見ると、感謝に溢れた生活をしているのがわかります。「ありがとうは?」と子供達に言わせようとするのではなく、「ありがとう」の気持ちを持てる言葉をいつも投げかけてあげてください。「嬉しいね」「よかったね」「助かったね」……そして、感謝をいろいろな方法で相手に伝える姿を子供達に見せてあげてください。大人が、その事によって嬉しそうに…幸せそうにしている事で、それが“当たり前”ではなく“貴重な事”である事に子供も気づかされ、心から「ありがとう」と思える気持ちが生まれます。

「新しいステージに向かう子供達に……」
年度末を迎え、これまでの日々を振り返っています。3歳から5歳の子供達にとってのこの一年はとても大きな時間です。この幼稚園で仲間と出会い過ごしてきた事はある意味奇跡であって、貴重な時間である事に私達も感謝して次のステージに送り出したいと思っています。
今月には、年長組の子供達はここ…三次中央幼稚園から巣立ちます。入園して奇跡的に出会った友達や先生達と、この数年間でたくさんの経験をしながら、人との関係の築き方や自己の人間形成を培って来ました。その生活の中には、上手くいかない事や悩む事も経験しました。でも、そんな時の潤滑油やクッションまたは接着剤になってくれたもの、そして、気持ちを前向きにしてくれるチカラのもとになってくれたのは「ありがとう」という言葉(気持ち)だったような気がします。これから、また、新しい場所で新しい友達と新しい生活を送る子供達には、良い仲間に巡り合い、山あり谷ありの人生をも愉快に幸せに生きて行って欲しいと心から願っています。「ありがとう」────この言葉の持つチカラを味方に……。
今まで、この三次中央幼稚園でたくさんの笑顔を見せてくれて
───────ありがとう。

出会い(2024年1月31日)

今月中旬、私の地域の”とんど“に参加しました。太く長い竹数本を軸に、たくさんの枝木や細竹で高く組みお正月飾りを燃やしながら、五穀豊穣・家内安全・無病息災を願いました。日頃なかなか顔を合わす事のない人達とも、とんどの火を囲んで習字を燃やしたり、お餅を焼いて食べながら大人も子供も楽しく語り合います。皆さんの地域でも、行われたのでしょうか?

「あんな事やこんな事……もう時効(笑)」

先日、40数年ぶりに私が卒業した小学校の同窓会がありました。小さな小学校なので、6年間クラス替えもなくずっと小学校時代を共に過ごした仲間達です。高学年時代を担任してくださった先生もご高齢ながらも来てくださいました。顔を見たら当時の事が鮮明に思い出され、懐かしさと仲間や先生に再会できた喜びで胸が熱くなりました。美味しい料理を目の前に、食べるのも忘れて懐かしい話で盛り上がりました。やんちゃをして先生に叱られた事、先生や仲間とふざけ合って笑いあった事、ほめられた事、喧嘩したり仲良くしたりしながら過ごした事等を思い出し語り合いました。そんな話で盛り上がる度に担任の先生が目を細めて「もう、時効、時効」と言って、みんなで笑いました。当時は、心砕けたもめ事も、悲しみも、苦しさも、こうして何十年も経つと、それすら愛おしい過去の出来事になるものなのです。むしろ、そういう事があったからこそ、今の自分があって、当時の時間がとても濃いものだったと振り返る事ができます。

最後に先生が「卒業して48年……それぞれの話を聞いたり、顔を見たりすると、何とみんなそれぞれに立派なお父ちゃんお母ちゃんになったものだと思います。」と、昔と変わらない口調で言われました。その時、同級生の一人が「僕たちは、きっとみんな先生の教えを心に宿して、大人になったと思いますよ。」と言いました。みんな「そうそう」と大きくうなずいていました。先生との出会いは、私達同窓生にとって大切な出会いだったのです。そして、仲間達とも、人として成長し合えた大切な出会いでした。

「大人にしてくれたもの」

私も、これまでに出会った教え子達が大人になっている姿を見た時、同じような事を思います。「いろいろな子がいたけれど、みんな、ちゃんと大人になるもんだな。」と。彼らが大人になるまでには、皆それぞれにいろいろな出来事があったでしょうが、その時その時の苦労や喜びは、全て、その子達が大人になるために必要だった事なのです。それなくしては、今はなかったかもしれないと思うのです。また、歩んできた道のりには、その時その時の人との出会いもあったでしょう。私はいつも、人を人として成長させてくれるのは、数々の経験と人との出会いだと思っています。”立派な大人”になるのも“立派なお父ちゃんお母ちゃん”になるのも、人から学んで来たからです。行く道行く道で出会う人達から、いろいろな刺激をもらいます。物の考え方、価値観、知識、感覚etc……。時には、その人との出会いによって、それまで自分の中で信じていた事が、覆されたり翻弄させられたりして苦しむ事もあります。それでも、「そうかぁ、そういう考え方もあるし生き方もあるんだ」と考えさせられ、自分の中に新しい知識として得る事ができます。出会う経験が多ければそれだけ出会う人も多くなります。そうすれば学びも増え世界が広がるのです。小さな世界の中だけで自分を主張し過ぎたり、人を批判したりするのではなく、「それもありだし、これもあり」と受け入れられるようになると思うのです。いろいろな考えを持ったいろいろな人がいるから、学び合えるのだと思えて来ます。その中で、自分の気持ちがストンと落ちる道(考え方、生き方)をチョイスして生きていけばいいのではないでしょうか?

「どんな出会いも自分の思い次第」

長い人生、中には、「出会わなければ良かった」とか、「自分の意にそぐわずしんどい」と思える人との出会いもあるかもしれません。でも、それと向き合っていくためには、自分がしっかりした考えを持つ事が大切だという事をも学ぶでしょう。むしろそうした出会いこそ自分を大きく成長させてくれるのかもしれません。自分の生き方や考え方を振り返るきっかけとなり、それは、自分の生き方に、ある時は確信を、ある時は改革を与えてくれるでしょう。そうしながら、人は更に味わい深い人に成長させてもらえているような気がします。そう思うと、どんな出会いも〝良い出会い”になるのです。

「大人だって子供のおかげで成長している」

子供達は、大きくなるにつれて生きていく世界をどんどん広げます。その度に新しい出会いが待っています。そこで、たくさんの経験と人との出会いによって成長して行くのです。そして、成長するのは、子供だけではありません。子供達が広げる世界を通して、親もまたいろいろな人と出会い、楽しんだり、悩んだり、涙が流れるほど悲しんだり喜んだりしながら、世界が広がって行きます。この子がいるからこそ出会える人や場所、経験できる事があると感じるでしょう。そして、親として成長させてもらえます。子供が小さなうちは子育てに必死でなかなかそう思う余裕がないかもしれませんが、子供のおかげで、ますます彩り豊かで面白い人生になっているのではないでしょうか。私も、今までの子育てを振り返って、「子供のおかげで愉快に生きる事ができている」と思うのです。
人は一生涯、人と出会いながら成長し続けるのかもしれません。出会いは新たな自分にも出会わせてくれる〝目に見えぬ財産”です。そう思うと、新しい出会いがあるだろう春が、実に待ち遠しいではありませんか!
そんな春が、もう、すぐそこまで来ています──────。