帰りたくなる家、帰れる場所(平成19年度5月)

新年度が始まり1ヶ月が経とうとしています。お子さんの近頃の様子はいかがですか?(進級・入園当初は、調子よく登園してくれていたのに、最近になって朝の仕度に気分が乗らないみたい。)あるいは、(初めは泣いていたのに、今では慣れたのか、楽しそうに登園できるようになった。)……子供達の気分はめまぐるしく変化します。(昨日は泣かなかったのに、今朝はお母さんから離れられなかった。)と、昨日と今日では全然違う、といった様子もよくある事です。子供達は、「3歩進んで2歩下がる」を繰り返しながらゆっくりゆっくりと成長していくもののようです。

初めての社会生活は、子供達にとって実に新鮮で興味深いものである反面、そこに身を置く緊張感や不安はかなり大きいと思います。意識していなくても、新しい環境に慣れようと必死なはずです。どうぞ、お家に帰ったお子さんを「お帰り!」と温かくしっかり受けとめてあげてください。その時に「疲れたでしょう。」とか「しんどかった?」なんて言わないでくださいね。疲れたりしんどかったりするのは、様子を見ればわかります。あえて、自覚させなくてもいいのです。「疲れた?」と聞かれたら「うん。とっても疲れたよ」と答えたくなってしまいます。それよりも優しく微笑みをもって「お帰りなさい。」の一言で迎えてあげればいいと思うのです。これは、疲れていても明日への意欲を持たせる私流のコツです。ホッとした気分にさせてあげればそれでいいのです。


大人だって一緒ではないでしょうか?仕事でクタクタに疲れて家に帰った時「お帰りなさい。」と笑顔で迎えてもらえたら、ホッとします。大げさな表現ですが、この社会を“戦場”に、また、社会で働いて疲れ果てている人を“傷を負った戦士”と例える人がいます。戦士は平和な空気を吸いたいのです。ホッとできる場所が誰にも必要なのです。


毎年のことですが、春休みにはたくさんの卒園児達が顔を見せに来てくれます。懐かしい教え子達が「せんせーい!」と走り寄って来てくれます。随分前の卒園児達は、すっかり私の身長を追い越しています。(私の身長くらいすぐに抜かせるでしょうが…)嬉しいニュースを持ってきてくれる子、今の生活ぶりを楽しそうに話してくれる子…。

だけど、そんな明るい気持ちで来る子ばかりではありません。道に迷い出口が見つけられず、苦しみながらやっとの思いで幼稚園に来る子や、友達とうまくいかなくて学校に行くことができなくなってしまった子もいます。その時は、全ての子供達が幸せになると信じて幼稚園から送り出したはずだったのに、私達の手から離れた所で苦しんでいた事を知らされると、胸が締め付けられるほど苦しく悲しく、その子の事が愛おしくなるのです。一人の子がその後こんな言葉をくれました。『幼稚園は、私にとって全ての始まりで、ここが私の原点なんだなぁって思いました。幼稚園に行って、すごく癒されました。また行きます。ありがとうございました。』──以前にも、“葉子せんせいの部屋”で、『私達の仕事には終わりはない』と書いたことがあります。まさしくこの事です。私達の手から離れ、たくさんの人達と関わりながらいろんな思いをして生活しています。傷を負った時、疲れた時、迷った時、どうしたらいいのかわからなくなった時に、この幼稚園を思い出して来てくれる事が嬉しいのです。私達ならこの子達に何かがしてやれそうな、うぬぼれに近い気持ちになるのです。勿論、その子達は、何かをしてもらいたくて訪ねて来るのではありません。ただ、そこにあの頃の自分をわかっていてくれる先生がいるから来るのです。


先日、『五体不満足』(講談社)の著者である乙武洋匡さんが、あるテレビ番組に出演されていた時の話です。この本を出版してからというもの、テレビ出演や取材、講演会講師の依頼が殺到し、その忙しさや生活ペースの乱れによる肉体的精神的ストレスを抱え、この本を書いた事を後悔される程で、各方面からの依頼は、ご本人だけでなく、ご両親にまで……。だけど、かたくなに断り続けるお母様に乙武さんはある日「どうして、こんなに依頼があるのに、応じないの?」と聞かれました。すると、お母様はこう答えられたそうです。「私達までそちらの世界に入ると、あなたが帰る場所がなくなってしまうでしょ。私達は、傷ついて帰るあなたの居場所になりたいの。」──。私はこのお母様の言葉に感銘を受けました。家族皆が、同じ方向を見て心ひとつに一生懸命になるのも大切な事ですが、必死になり過ぎて疲れてしまったり、八方塞がりになってしまうという事もあります。疲れきった気持ちを癒してくれる場所は必要です。傷ついたり、苦しんだりしているのがわかっていても、あえて、黙って何も聞かない触れないという優しさも必要な時があるのです。乙武さんのお母様の言葉に温もりを感じました。


苦しんでいる時ふっと幼稚園を思い出して、訪ねてきてくれる子供達を私達は両手を広げて温かく迎えてあげようと思っています。嬉しい事があった時はもちろんですが、辛い時こそ“帰りたい”“帰れる”そんな場所を用意していてやりたいと思っています。
家族や家は、もっとそんな場所でなくてはならないと思うのです。