落ち葉(平成8年度)11月

幼稚園の園庭は、今、“かえで”の紅葉した落ち葉でいっぱいです。
子供たちと園庭で遊んでいると、後から背中をポンポンと誰かがたたきます。振り向くと3歳の女の子が、真っ赤や黄色に紅葉した美しい落ち葉ばかりを集めて、手にしっかりと握り締めています。私の方にそれを見せながら、“にこっ”として何も言わずに去ろうとします。私もにっこりして、「きれい!」と言いましたが、何の言葉もいらないほどうれしそうな顔をしていました。


園庭には、落ち葉だけではなく、どんぐりもいっぱい落ちてきます。朝早いと、誰も拾っていませんから、どっさり落ちています。
一番に登園してきた、やはり、3歳の女の子が、牛乳パックに山盛りになるほど集めて、「こぼれちゃうよ」と、うれしそうな顔を見せてくれます。「いっぱい拾ったね」と、私も微笑みます。


どちらの子にも、一声はかけましたが、このようなとき余り言葉はいりません。子供のうれしい気持ちに、さりげなく共感してやることが大事なのです。子供の「美しいと感じた心」、「うれしいと感じた心」を大切にするためには、大げさな反応は、その余韻を壊してしまうからです。目と目が合って、うなずくだけでも、子供は、大人が自分の気持ちを受け止めてくれていることを感じとります。それは、自分が認められているという、心の安定感につながります。それが、「共鳴する」、「共感する」ということで、そうしてもらうことで、その感情を確かなものにしていくのです。子供の気持ちを汲みとるコツは、そのままの姿を受け入れることです。直ぐに何かを教えてやろうとすることではなくて、先ずは、子供のそのままの気持ちを受け入れるのです。私たちは、このことを「受容する」と言っています。「あるがままの姿を受容し、共感する」、これが幼児理解の出発点なのです。


ところが、我が子となると、そういう対応の仕方ができないことが多々あります。忙しくしていると、「もう、そんなもん拾ってばかりいないで」と、ついつい、言ってしまいがちです。忙しくても、心の余裕は持ちたいものです。「今、子供の感性が育まれているのだ!?」と思い直せば、少しは見守る心の余裕ができるかも知れません。


園庭で拾った落ち葉やどんぐりは、大切にロッカーにしまい込む子供もいれば、ままごとに使って遊んでいる子もいます。年長組になると、首飾りを作ったり、いろいろな製作の材料に使っています。
子供たちは、いろいろな「もの」や「こと」を何かに見立てて遊びます。花の汁やヨウシュヤマブドウの実の汁はジュースに、泥水はコーヒーに、葉っぱはおかずに、砂はごはんに、どんぐりの実は砂で作ったケーキのデコレーションにと、自分の生活経験の中から得た知識に連動させ、「みたて」て遊びます。


これらを遊びとして成立させるために、「つもり」になります。「つもり」というのは、お母さんの「つもり」、赤ちゃんの「つもり」になって遊ぶのです。あるいは、なった「ふり」をしてあそびます。「ごっこあそび」と言われるのがこれです。特に、3、4歳ぐらいの男の子がよくする、テレビ漫画の「オーレンジャー」とか、「カーレンジャー」とかになって、小山の石の上から飛び降りながら、「トアーッ」、「キック」とか言って、遊んでいるのは、まったくその「つもり」になっているのです。


それらの遊びを見ていますと、子供の生活経験から得た知識がそのまま出てきます。外食したら、その時の様子を再現しながら遊び、病院によく行っている子は看護婦さんになりきっています。かぜ薬を飲んだ次の日には、カップに砂を入れて葉っぱに移し替え、「くすり」に見立てて遊んでいます。お母さん役も、お母さんそのままの口ぶりです。
これらの「みたて」や「つもり」になったあそびをしっかり保証してやることで、心豊かに成長してくれるのです。
久しぶりに、ここ数日、本気で、子供たちとサッカーや野球をして遊びましたが、1学期とは見違えるほど上手になっていて、遊びの高まりや人間関係もずいぶんと深まり、子供たちの成長に手応えを感じています。