羊の死(平成9年度)6月

春になってずいぶんと温かくなってきましたので、5月2日に羊の毛刈りをしました。毛刈りをはじめて見る子供たちはその様子に釘付けになっていました。ふっくらとして大きく見えていた羊もスマートになりずいぶんと小さく見えます。以前には刈りとった毛を加工所に出して毛糸にしてもらっていましたが、今年はさっそく子供たちと石鹸で汚れをとり油抜きをしました。後日、みんなで毛をよりながら毛糸にするのです。

子供たちが世話をしている羊の毛を刈って、それをよりながら毛糸にしていくなんてどんなに楽しいことか、想像しただけでも気持ちがワクワクしてきます。 子供たちがいつも餌をやって親しんでいる羊ですが、毛を刈る様子を見て、今まで以上に羊に対しての興味を抱いた様子です。野菜くずなどの餌を持ってきて羊に食べさせている子がとても多くなりました。


そんな矢先、5月21日の早朝に羊が突然息を引き取りました。幼稚園に7歳できてから10年が経過して、あごヒゲもずいぶんと白くなり、ここ数年おとなしくなっていましたので、寿命かとも思います。その日の夕方、長い間、子供たちと仲良しでいてくれたことに感謝しながら、山に埋めてやりました。


羊が死んだことで、子供たちは様々な思いを抱いたようです。年少組の子供たちの中には、死んだことの意味が分からなくて、「起きて、起きて」といっている子もいれば、毎日のように、登園するなり、小屋まで急いで行って餌をやっていた子は、ショックも大きく、涙を浮かべ力を落としています。隣にいる山羊は寂しくていつまでも「メエーメエー」と泣き続け、子供たちのいない休日には、ずっと寝込んでいます。生きものとの関わりを深く持っている子ほどその死の悲しみが大きいのです。動物との関わりの中から優しさやいたわりの気持ちを育んでいるからです。その悲しみの中から、命の尊さを知り、生きていくことの大切さを学ぶのです。


その日は、それぞれのクラスで羊の死を知らせ、ともに悲しみながら、子供たちと死について話し合いました。子供たちは、「天国に行ったんよ、お祈りしよう」「ニュージランド村へ行っているかもしれんよ」「山羊さん 友達がいなくなってかわいそう」「毛を切ったから寒くて死んだんよ」「緑のビニール袋を葉っぱと間違えて食べておなかをこわしたんよ」「お葬式をしてあげんといけんね」「お墓ができたらお参りしてあげようね」等々、様々な意見が出てきました。子供なりに感じたことを話したり原因を探っています。そんな中、毎日、羊や山羊に餌をやっていた子が何一つ発言しないで、一点をみつめていたのが印象的でした。悲しみが人一倍大きいのです。


今は核家族の家庭がほとんどで、おじいさんおばあさんと、あるいは曾(ひい)おじいさん曾おばあさんと一緒に生活することも少なく、身近な人の死を目の前で体験することはほとんどありません。それどころか、ファミコンゲームで相手を簡単に殺してしまいます。「たまごっち」で育てていくはずなのに、殺す速さを争うと聞きます。このことがたんなるゲームで終わるのならともかくも、本当の死の悲しみを知らない子にとっては、簡単に殺せることへの快感が脳の中に感情移入されかねません。


幼稚園でいろいろな動物を飼育していますが、最初のうちは恐々としながらも興味を持って近寄ってきます。ときには、好奇心と怖さから石を投げます。これが、幼い子供たちの最初の関わり方です。その内、自分が安全であることが分かると、触ったり撫でたり抱いたりします。餌をやりたいという気持ちはその次に抱きます。かわいいから何かをしてあげたいという気持ちです。そうして動物との関わりを深めながら、愛情を深め、理解を深めていきます。年長組ぐらいになると餌をやるだけではなく、糞を処理したり掃除をしたりと身のまわりの世話をもするようになります。そのことを継続していくことには根気もいりますが、赤ちゃんの誕生の喜びや死の悲しみもあります。関わりが深ければ深いほど、その喜びや悲しみが大きいのです。

しかしながら、幼児が責任を持って動物の世話をし続けるにはまだまだ幼な過ぎます。そのことを援助してやり、支えてやるのが教師であったり親であったりするのです。教師や親が動物を嫌がったり怖がったりすると、その気持ちがそのまま子供に伝わります。


先日、お迎えに来られたお母さんが、「園長先生、ビニール袋を一枚下さい」と事務室に来られたので、「何に使われるのですか」と尋ねたら、「子供が捕まえたトカゲをどうしても家に持って帰るといってきかないんです」といわれるので、「お母さんへの素敵なお土産ですね」というと、「もう、最高のお土産!」といってニコニコして帰っていかれました。
このようにして、生きものとの関わりの中から、感受性を高め心豊かに成長していくのです。